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第二編 第一章 レジナルドの鉄腕
第14話:黒狼の囁き、マルコム卿への罠
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王都ボルドー、摂政レジナルド公爵の執務室。窓の外は、まだ夜の帳が下りきらぬ、深い藍色の空が広がっていた。そんな密室めいた空間で、アキテーヌ王国の運命を左右する、冷酷な密議が交わされていた。
「ピエール・ド・ブロワからの情報は、確かだろうな、ギルバート?」
レジナルドは、黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、低い声で問いかけた。その声は、まるで凍てつく冬の風のように、感情の起伏を感じさせない。
ギルバート男爵は、主人の前に恭しく立ち、その瞳に、僅かな興奮の色を浮かべて答えた。
「はっ、公爵閣下。間違いございません。ヴァロワ家の会計帳簿の写し、そしてアンリ公が例のマルコム卿と交わしたとされる書簡の数々…いずれも、我らにとって極めて『興味深い』、そして『利用価値のある』内容でございます。あの男、ピエール・ド・ブロワは、金と恐怖の前には実に従順な犬でございますな」
「ふん、ヴァロワのアンリめ。あの老いぼれも、見かけによらず、裏では色々と画策しておるようだな」
レジナルドは、鼻で笑うように言った。
「だが、その全てが我らの手の内にあると思えば、実に滑稽なことよ。して、肝心のマルコム卿を陥れるための『証拠』とやらは、どうだ? あの頑固な老いぼれを、反逆者として葬り去るに足るだけの、説得力のある代物なのだろうな?」
ギルバート男爵は、待ってましたとばかりに、懐から数枚の羊皮紙を取り出し、レジナルドの前に恭しく広げた。それは、一見すると、マルコム卿の署名とヴァロワ家の紋章が記された、ごく普通の書簡のように見えた。
「こちらに。これらは、マルコム卿の筆跡を、寸分違わず完璧に模倣し、ヴァロワ家の紋章までも精巧に偽造したものでございます。内容は、マルコム卿が王都への納税を意図的に遅延させ、ヴァロワ家と共謀して、いずれ来るべき『正義の蜂起』、すなわち反乱を企てている、というもの。これさえあれば、あのギヨーム陛下はもちろんのこと、他の貴族どもも、マルコムの反逆を疑う余地はありますまい」
レジナルドは、その偽造文書を一枚一枚手に取り、蝋燭の灯りにかざしながら、満足げに眺めた。
「見事な出来栄えだ、ギルバート。お前のその手にかかれば、真実など、いくらでも捻じ曲げられるというわけだ。まさに、我が意を得たり、だな」
彼は、偽造文書をギルバートに返すと、冷たい笑みを浮かべて指示を下した。
「良いか、ギルバート。この『証拠』を、マルコムの屋敷の、然るべき場所に『偶然発見された』かのように、巧妙に仕掛けろ。そして、黒狼兵団の一部を、マルコムの領地近くの森に潜ませ、いつでも動けるように手筈を整えておけ。あの老いぼれには、盛大な『送別の宴』を用意してやらねばなるまいからな」
その声には、獲物を前にした捕食者のような、冷たい愉悦と、絶対的な権力者の傲慢さが滲んでいた。
*
その頃、黒森の奥深く、エルミートの庵では、カイルが初めて木剣ではなく、エルミートから与えられた真剣――それは古びてはいたが、丹念に手入れの行き届いた、美しい刃文を持つ片刃の長剣だった――を手にし、そのずっしりとした重さと、吸い込まれるような鋭さに戸惑いながらも、新たな型の修練に励んでいた。
リアナは、カイルの集中を妨げないよう、少し離れた場所で薬草の乾燥作業を行いながら、彼の真剣な横顔を、一抹の不安と、しかしそれ以上の期待を込めた眼差しで見つめていた。彼らはまだ、遠く離れた王都で、一人の忠義な老貴族の運命が、冷酷非情な陰謀によって、無残に弄ばれようとしていることなど、知る由もなかった。
*
王都ボルドーの場末にある、薄汚れた酒場の一室。ピエール・ド・ブロワは、ギルバート男爵と向かい合って座り、震える手で葡萄酒の杯を呷っていた。彼の顔は、ここ数日の心労で蒼白くやつれ、目の下には深い隈が刻まれている。良心の呵責と、未来への恐怖が、彼の心を容赦なく苛んでいた。
「だ、男爵様…」
ピエールは、か細い声で切り出した。
「マルコム卿は…この後、どうなってしまわれるのでございましょうか…? あの御方は、ヴァロワ家にとって、そしてこのアキテーヌにとっても、長年にわたり忠義を尽くしてこられた、尊敬すべきお方…そのような方を、偽りの罪で…そ、それは、あまりにも…」
ギルバートは、ピエールのその言葉を、まるで虫けらでも見るかのような冷たい目で一瞥すると、鼻で笑い飛ばした。
「ピエール殿、何を今更、感傷に浸っておられるのですかな? あなたは、既に我らが摂政レジナルド公爵閣下に『協力』することを、その口で誓われたはず。そして、その見返りとして、あなたの抱える莫大な借金は帳消しとなり、さらには、将来ヴァロワ家が没落した後には、それ相応の地位と富が約束されている。マルコム卿がどうなろうと、あなたには何の関係もないこと。それとも…」
ギルバートの目が、細められた。その瞳の奥には、底知れぬ冷酷さが宿っている。
「…今になって、ヴァロワ家への、あの老いぼれアンリ公への忠誠心が、むくむくと蘇ってきたとでも、仰せられるおつもりかな?」
その言葉は、紛れもない脅迫だった。ピエールは、ギルバートのその視線に射竦められ、全身が凍りつくような恐怖を感じた。彼は、愛する妻と、まだ幼い子供たちの顔を思い浮かべた。もし、自分がここでしくじれば、彼らはどうなるのか。レジナルド公爵の怒りを買えば、一家揃って路頭に迷うどころか、命さえ危うくなるかもしれない。
「い、いえ!滅相もございません、男爵様!」
ピエールは、慌てて首を横に振った。
「わ、私は、ただ…ただ、少しばかり心が痛んだだけでございます…マルコム卿には、若い頃、何かとお世話になったこともありましたので…」
「心が痛む、ですと?」
ギルバートは、嘲るように言った。
「ピエール殿、よくお聞きなさい。一度泥水にその両足を踏み入れた以上、もう後戻りはできぬのですぞ。綺麗な水に戻りたいなどと、甘いことを考えてはなりませぬ。もし、あなたが我らを裏切るような素振りを少しでも見せれば…あなたの抱える借金のことはもちろん、あなたの愛するご家族のことが、どうなるか…賢明なあなたなら、お分かりのはずですな?」
ピエールの顔から、さっと血の気が引いた。彼は、もはや悪魔に魂を売り渡してしまったのだ。後悔しても、もう遅い。彼は、力なく項垂れ、絞り出すような声で答えるしかなかった。
「…はっ…承知…承知つかまつっております…男爵様のご命令通りに…なんなりと…」
その声は、まるで死人のように、何の感情も宿っていなかった。
*
アキテーヌ東部の穀倉地帯。そこは、マルコム卿が長年にわたり治めてきた、豊かで穏やかな土地だった。黄金色に輝く麦畑が地平線まで広がり、収穫期を迎えた畑では、農民たちが楽しげに歌いながら、額に汗して作業に勤しんでいる。領主であるマルコム卿は、白髪を風になびかせた、温和な顔立ちの老人だったが、その瞳には、領民一人一人への深い愛情と、不正を断じて許さぬ、アキテーヌの古き良き騎士としての気骨が宿っていた。
彼は、レジナルド公爵の強権的な圧政と、王都ボルドーで日増しに強まる不穏な空気を、深く憂いていた。そして、旧知の仲であるアンリ・ド・ヴァロワ公爵と密かに連絡を取り合いながら、このアキテーヌの未来のために、自分に何ができるのかを、静かに、しかし真剣に模索していた。
「今年も見事な豊作じゃな」
マルコム卿は、自ら馬に乗り、領地を見回りながら、傍らに控える腹心の家臣、老執事のジャンに、満足げに語りかけた。
「これで、領民たちも、厳しい冬を前に少しは安心して暮らせるじゃろう。…しかし、ジャンよ、王都の情勢が気がかりでならぬ。アンリ公からの知らせでは、レジナルドの動きがますます露骨になり、王宮の空気も一変してしまったという。我らも、いつまでもこの平和が続くとは思わぬ方がよかろうな…」
ジャンは、主人のその言葉に、深く頷いた。
「おっしゃる通りでございます、旦那様。この豊かな土地と、ここに暮らす民の笑顔を守るためにも、我々は常に備えを怠ってはなりませぬ」
その時だった。
マルコム卿の視界の端に、領地の境界線近くの森の中から、数騎の黒い影が、まるで不吉な予兆のように姿を現すのが見えた。それは、見慣れぬ、黒狼の紋章を掲げた、重武装の兵士たちの一団だった。
マルコム卿の胸に、言いようのない、冷たい胸騒ぎが込み上げてきた。あの兵士たちは、一体何者なのか。そして、何のために、この平和な領地にやって来たというのか。
*
ギルバート男爵の周到な指示通り、マルコム卿がヴァロワ家と共謀し、王都への納税を意図的に遅らせ、さらには国王ギヨーム陛下に対する反乱を企てているとする、数々の偽造文書が、マルコム卿の屋敷の書斎から「偶然発見された」という衝撃的な報せが、国王ギヨームの元へと届けられた。もちろん、その「発見者」とは、ギルバート男爵が巧みに送り込んだ密偵であり、その「証拠」とは、レジナルドの執務室で練り上げられた、悪意に満ちた捏造品に他ならなかった。
ギヨーム王は、その報告に驚愕し、そして恐怖した。マルコム卿ほどの名門の老貴族が、そのような大それた反逆を企てるなど、にわかには信じがたい。しかし、レジナルド公爵は、その偽りの証拠を突きつけ、「これは断じて許されざる、アキテーヌ王国に対する重大な反逆行為! 直ちにマルコムを逮捕し、その罪を問い、厳罰に処さねばなりませぬ! さもなくば、陛下の権威は失墜し、国は乱れましょうぞ!」と、半ば脅すように、王に決断を迫った。
哀れなギヨーム王には、もはやレジナルドのその言葉に抗う力も、真実を見抜く眼力も残されてはいなかった。彼は、ただ震える手で、マルコム卿逮捕の勅命書に、王の印璽を押すしかなかった。
レジナルドは、その勅命書を手にすると、国王ギヨームの名において、黒狼兵団の精鋭部隊にマルコム卿逮捕の出動を命じた。そして、その部隊の指揮官には、この陰謀の立役者である、ギルバート男爵自身が任命されたのだった。
*
マルコム卿の壮麗な屋敷は、突如として現れた黒狼兵団の兵士たちによって、瞬く間に完全に包囲された。屋敷の者たちは、何が起こったのかも分からぬまま、ただ恐怖に震えるしかなかった。
ギルバート男爵は、馬上で傲然と胸を張り、屋敷の扉の前に進み出ると、マルコム卿に対し、国王陛下の名において、国家反逆罪の容疑で逮捕すると、高らかに宣言した。
「マルコム・ド・サン=ジェルマン卿! 国王ギヨーム陛下の厳命である! あなたを、アキテーヌ王国に対する国家反逆罪の容疑で逮捕する! 大人しくお縄につかれるがよい。抵抗は一切無駄であると知れ! あなたの罪は、既に明白なのだからな!」
屋敷の中から、マルコム卿が、数名の家臣に付き添われ、毅然とした態度で姿を現した。その顔には、驚きの色こそ浮かんでいたが、少しも臆した様子はない。
「ギルバート男爵殿、これは一体何の茶番ですかな? 私が国家反逆罪? 馬鹿なことを申されるな! 私は、このマルコム・ド・サン=ジェルマンは、生涯アキテーヌ王国と王家に忠誠を誓ってきた! 断じて、国に弓引くような真似はしておらぬわ! これは、卑劣極まりない罠だ!」
しかし、マルコム卿のその悲痛な叫びは、ギルバート男爵と、彼が率いる冷酷な黒狼兵団の兵士たちの、嘲るような笑い声にかき消された。
「罠、ですと? ほう、それは面白い言い訳ですな、マルコム卿。では、あなたの書斎から発見された、これらの『証拠』については、どうご説明なさるおつもりかな?」
ギルバートは、懐から例の偽造文書を取り出し、マルコム卿の目の前に突きつけた。
マルコム卿は、その文書を一瞥し、全身の血の気が引くのを感じた。それは、確かに自分の筆跡に酷似していた。そして、そこには、自分がヴァロワ家と共謀し、反乱を企てているかのような、おぞましい内容が記されていた。
「こ、これは…偽物だ! 断じて私のものではない!」
マルコム卿は叫んだが、もはや誰の耳にも届かなかった。
「ピエール・ド・ブロワからの情報は、確かだろうな、ギルバート?」
レジナルドは、黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、低い声で問いかけた。その声は、まるで凍てつく冬の風のように、感情の起伏を感じさせない。
ギルバート男爵は、主人の前に恭しく立ち、その瞳に、僅かな興奮の色を浮かべて答えた。
「はっ、公爵閣下。間違いございません。ヴァロワ家の会計帳簿の写し、そしてアンリ公が例のマルコム卿と交わしたとされる書簡の数々…いずれも、我らにとって極めて『興味深い』、そして『利用価値のある』内容でございます。あの男、ピエール・ド・ブロワは、金と恐怖の前には実に従順な犬でございますな」
「ふん、ヴァロワのアンリめ。あの老いぼれも、見かけによらず、裏では色々と画策しておるようだな」
レジナルドは、鼻で笑うように言った。
「だが、その全てが我らの手の内にあると思えば、実に滑稽なことよ。して、肝心のマルコム卿を陥れるための『証拠』とやらは、どうだ? あの頑固な老いぼれを、反逆者として葬り去るに足るだけの、説得力のある代物なのだろうな?」
ギルバート男爵は、待ってましたとばかりに、懐から数枚の羊皮紙を取り出し、レジナルドの前に恭しく広げた。それは、一見すると、マルコム卿の署名とヴァロワ家の紋章が記された、ごく普通の書簡のように見えた。
「こちらに。これらは、マルコム卿の筆跡を、寸分違わず完璧に模倣し、ヴァロワ家の紋章までも精巧に偽造したものでございます。内容は、マルコム卿が王都への納税を意図的に遅延させ、ヴァロワ家と共謀して、いずれ来るべき『正義の蜂起』、すなわち反乱を企てている、というもの。これさえあれば、あのギヨーム陛下はもちろんのこと、他の貴族どもも、マルコムの反逆を疑う余地はありますまい」
レジナルドは、その偽造文書を一枚一枚手に取り、蝋燭の灯りにかざしながら、満足げに眺めた。
「見事な出来栄えだ、ギルバート。お前のその手にかかれば、真実など、いくらでも捻じ曲げられるというわけだ。まさに、我が意を得たり、だな」
彼は、偽造文書をギルバートに返すと、冷たい笑みを浮かべて指示を下した。
「良いか、ギルバート。この『証拠』を、マルコムの屋敷の、然るべき場所に『偶然発見された』かのように、巧妙に仕掛けろ。そして、黒狼兵団の一部を、マルコムの領地近くの森に潜ませ、いつでも動けるように手筈を整えておけ。あの老いぼれには、盛大な『送別の宴』を用意してやらねばなるまいからな」
その声には、獲物を前にした捕食者のような、冷たい愉悦と、絶対的な権力者の傲慢さが滲んでいた。
*
その頃、黒森の奥深く、エルミートの庵では、カイルが初めて木剣ではなく、エルミートから与えられた真剣――それは古びてはいたが、丹念に手入れの行き届いた、美しい刃文を持つ片刃の長剣だった――を手にし、そのずっしりとした重さと、吸い込まれるような鋭さに戸惑いながらも、新たな型の修練に励んでいた。
リアナは、カイルの集中を妨げないよう、少し離れた場所で薬草の乾燥作業を行いながら、彼の真剣な横顔を、一抹の不安と、しかしそれ以上の期待を込めた眼差しで見つめていた。彼らはまだ、遠く離れた王都で、一人の忠義な老貴族の運命が、冷酷非情な陰謀によって、無残に弄ばれようとしていることなど、知る由もなかった。
*
王都ボルドーの場末にある、薄汚れた酒場の一室。ピエール・ド・ブロワは、ギルバート男爵と向かい合って座り、震える手で葡萄酒の杯を呷っていた。彼の顔は、ここ数日の心労で蒼白くやつれ、目の下には深い隈が刻まれている。良心の呵責と、未来への恐怖が、彼の心を容赦なく苛んでいた。
「だ、男爵様…」
ピエールは、か細い声で切り出した。
「マルコム卿は…この後、どうなってしまわれるのでございましょうか…? あの御方は、ヴァロワ家にとって、そしてこのアキテーヌにとっても、長年にわたり忠義を尽くしてこられた、尊敬すべきお方…そのような方を、偽りの罪で…そ、それは、あまりにも…」
ギルバートは、ピエールのその言葉を、まるで虫けらでも見るかのような冷たい目で一瞥すると、鼻で笑い飛ばした。
「ピエール殿、何を今更、感傷に浸っておられるのですかな? あなたは、既に我らが摂政レジナルド公爵閣下に『協力』することを、その口で誓われたはず。そして、その見返りとして、あなたの抱える莫大な借金は帳消しとなり、さらには、将来ヴァロワ家が没落した後には、それ相応の地位と富が約束されている。マルコム卿がどうなろうと、あなたには何の関係もないこと。それとも…」
ギルバートの目が、細められた。その瞳の奥には、底知れぬ冷酷さが宿っている。
「…今になって、ヴァロワ家への、あの老いぼれアンリ公への忠誠心が、むくむくと蘇ってきたとでも、仰せられるおつもりかな?」
その言葉は、紛れもない脅迫だった。ピエールは、ギルバートのその視線に射竦められ、全身が凍りつくような恐怖を感じた。彼は、愛する妻と、まだ幼い子供たちの顔を思い浮かべた。もし、自分がここでしくじれば、彼らはどうなるのか。レジナルド公爵の怒りを買えば、一家揃って路頭に迷うどころか、命さえ危うくなるかもしれない。
「い、いえ!滅相もございません、男爵様!」
ピエールは、慌てて首を横に振った。
「わ、私は、ただ…ただ、少しばかり心が痛んだだけでございます…マルコム卿には、若い頃、何かとお世話になったこともありましたので…」
「心が痛む、ですと?」
ギルバートは、嘲るように言った。
「ピエール殿、よくお聞きなさい。一度泥水にその両足を踏み入れた以上、もう後戻りはできぬのですぞ。綺麗な水に戻りたいなどと、甘いことを考えてはなりませぬ。もし、あなたが我らを裏切るような素振りを少しでも見せれば…あなたの抱える借金のことはもちろん、あなたの愛するご家族のことが、どうなるか…賢明なあなたなら、お分かりのはずですな?」
ピエールの顔から、さっと血の気が引いた。彼は、もはや悪魔に魂を売り渡してしまったのだ。後悔しても、もう遅い。彼は、力なく項垂れ、絞り出すような声で答えるしかなかった。
「…はっ…承知…承知つかまつっております…男爵様のご命令通りに…なんなりと…」
その声は、まるで死人のように、何の感情も宿っていなかった。
*
アキテーヌ東部の穀倉地帯。そこは、マルコム卿が長年にわたり治めてきた、豊かで穏やかな土地だった。黄金色に輝く麦畑が地平線まで広がり、収穫期を迎えた畑では、農民たちが楽しげに歌いながら、額に汗して作業に勤しんでいる。領主であるマルコム卿は、白髪を風になびかせた、温和な顔立ちの老人だったが、その瞳には、領民一人一人への深い愛情と、不正を断じて許さぬ、アキテーヌの古き良き騎士としての気骨が宿っていた。
彼は、レジナルド公爵の強権的な圧政と、王都ボルドーで日増しに強まる不穏な空気を、深く憂いていた。そして、旧知の仲であるアンリ・ド・ヴァロワ公爵と密かに連絡を取り合いながら、このアキテーヌの未来のために、自分に何ができるのかを、静かに、しかし真剣に模索していた。
「今年も見事な豊作じゃな」
マルコム卿は、自ら馬に乗り、領地を見回りながら、傍らに控える腹心の家臣、老執事のジャンに、満足げに語りかけた。
「これで、領民たちも、厳しい冬を前に少しは安心して暮らせるじゃろう。…しかし、ジャンよ、王都の情勢が気がかりでならぬ。アンリ公からの知らせでは、レジナルドの動きがますます露骨になり、王宮の空気も一変してしまったという。我らも、いつまでもこの平和が続くとは思わぬ方がよかろうな…」
ジャンは、主人のその言葉に、深く頷いた。
「おっしゃる通りでございます、旦那様。この豊かな土地と、ここに暮らす民の笑顔を守るためにも、我々は常に備えを怠ってはなりませぬ」
その時だった。
マルコム卿の視界の端に、領地の境界線近くの森の中から、数騎の黒い影が、まるで不吉な予兆のように姿を現すのが見えた。それは、見慣れぬ、黒狼の紋章を掲げた、重武装の兵士たちの一団だった。
マルコム卿の胸に、言いようのない、冷たい胸騒ぎが込み上げてきた。あの兵士たちは、一体何者なのか。そして、何のために、この平和な領地にやって来たというのか。
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ギルバート男爵の周到な指示通り、マルコム卿がヴァロワ家と共謀し、王都への納税を意図的に遅らせ、さらには国王ギヨーム陛下に対する反乱を企てているとする、数々の偽造文書が、マルコム卿の屋敷の書斎から「偶然発見された」という衝撃的な報せが、国王ギヨームの元へと届けられた。もちろん、その「発見者」とは、ギルバート男爵が巧みに送り込んだ密偵であり、その「証拠」とは、レジナルドの執務室で練り上げられた、悪意に満ちた捏造品に他ならなかった。
ギヨーム王は、その報告に驚愕し、そして恐怖した。マルコム卿ほどの名門の老貴族が、そのような大それた反逆を企てるなど、にわかには信じがたい。しかし、レジナルド公爵は、その偽りの証拠を突きつけ、「これは断じて許されざる、アキテーヌ王国に対する重大な反逆行為! 直ちにマルコムを逮捕し、その罪を問い、厳罰に処さねばなりませぬ! さもなくば、陛下の権威は失墜し、国は乱れましょうぞ!」と、半ば脅すように、王に決断を迫った。
哀れなギヨーム王には、もはやレジナルドのその言葉に抗う力も、真実を見抜く眼力も残されてはいなかった。彼は、ただ震える手で、マルコム卿逮捕の勅命書に、王の印璽を押すしかなかった。
レジナルドは、その勅命書を手にすると、国王ギヨームの名において、黒狼兵団の精鋭部隊にマルコム卿逮捕の出動を命じた。そして、その部隊の指揮官には、この陰謀の立役者である、ギルバート男爵自身が任命されたのだった。
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マルコム卿の壮麗な屋敷は、突如として現れた黒狼兵団の兵士たちによって、瞬く間に完全に包囲された。屋敷の者たちは、何が起こったのかも分からぬまま、ただ恐怖に震えるしかなかった。
ギルバート男爵は、馬上で傲然と胸を張り、屋敷の扉の前に進み出ると、マルコム卿に対し、国王陛下の名において、国家反逆罪の容疑で逮捕すると、高らかに宣言した。
「マルコム・ド・サン=ジェルマン卿! 国王ギヨーム陛下の厳命である! あなたを、アキテーヌ王国に対する国家反逆罪の容疑で逮捕する! 大人しくお縄につかれるがよい。抵抗は一切無駄であると知れ! あなたの罪は、既に明白なのだからな!」
屋敷の中から、マルコム卿が、数名の家臣に付き添われ、毅然とした態度で姿を現した。その顔には、驚きの色こそ浮かんでいたが、少しも臆した様子はない。
「ギルバート男爵殿、これは一体何の茶番ですかな? 私が国家反逆罪? 馬鹿なことを申されるな! 私は、このマルコム・ド・サン=ジェルマンは、生涯アキテーヌ王国と王家に忠誠を誓ってきた! 断じて、国に弓引くような真似はしておらぬわ! これは、卑劣極まりない罠だ!」
しかし、マルコム卿のその悲痛な叫びは、ギルバート男爵と、彼が率いる冷酷な黒狼兵団の兵士たちの、嘲るような笑い声にかき消された。
「罠、ですと? ほう、それは面白い言い訳ですな、マルコム卿。では、あなたの書斎から発見された、これらの『証拠』については、どうご説明なさるおつもりかな?」
ギルバートは、懐から例の偽造文書を取り出し、マルコム卿の目の前に突きつけた。
マルコム卿は、その文書を一瞥し、全身の血の気が引くのを感じた。それは、確かに自分の筆跡に酷似していた。そして、そこには、自分がヴァロワ家と共謀し、反乱を企てているかのような、おぞましい内容が記されていた。
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