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第二編 第一章 レジナルドの鉄腕
第15話:アンリ公の直訴とギヨーム王の涙
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ヴァロワ家の壮麗な屋敷に、アキテーヌ東部の重鎮であり、アンリ公爵にとってかけがえのない盟友であったマルコム卿が、国家反逆罪という汚名を着せられ、不当に逮捕されたという衝撃的な報せが舞い込んだのは、冷たい秋雨が王都ボルドーの石畳を濡らし始めていた、陰鬱な午後のことだった。
使者の震える声からその事実を聞いた瞬間、ヴァロワ家当主アンリ公爵は、長年培ってきた貴族としての冷静さを失い、その顔をみるみるうちに怒りと絶望で歪ませた。手にしていた葡萄酒の杯が、床に滑り落ち、赤い染みとなって大理石の上に広がった。まるで、これから流されるであろう無実の血を暗示しているかのように。
「マルコムが…あの忠義一徹のマルコムが、反逆罪だと!? 馬鹿な! ありえん! 断じてありえんことだ! これは、レジナルドの奴めが仕組んだ、見え透いた罠に決まっておるわ!」
アンリ公爵の怒声は、静まり返った屋敷の広間に雷鳴のように響き渡り、そこにいた侍従たちを恐怖で震え上がらせた。
「父上、どうかお気を確かになさってください! 今、感情的になられては、あの男…レジナルド公爵の思う壺でございます! まずは冷静に、ことの真相を確かめねば…」
傍らにいた娘のイザボーが、父の激昂を必死に諫めようとした。彼女の美しい紫色の瞳には、父への深い気遣いと、そして事態のあまりの深刻さへの鋭い認識が浮かんでいた。
「冷静でなどいられるか、イザボー!」
アンリ公爵は、娘の言葉を遮るように叫んだ。
「マルコムは、我らヴァロワ家にとって、ただの盟友ではない! 共にこのアキテーヌの未来を憂い、レジナルドのあの忌まわしき暴政に立ち向かおうと、固く誓い合った、かけがえのない同志だったのだぞ! このままでは、我らも奴の毒牙にかかるのは時間の問題だ! …いや、黙って食い殺されるのを待つくらいなら、この老骨、刺し違えてでも、あの成り上がり者の摂政に一矢報いてくれるわ!」
アンリ公爵の瞳には、もはや自らの命をも顧みない、悲壮なまでの決意が燃え盛っていた。
「イザボー、すぐに支度をしろ! 王宮へ参内し、ギヨーム陛下に直接、レジナルドのこの非道を訴え出るのだ! 陛下とて、アキテーヌの王たるもの、この不正を、この国の正義が踏みにじられるのを、黙って見過ごされるはずがない!」
*
その頃、黒森の庵では、エルミートがカイルとリアナに、アキテーヌ王国の複雑な貴族社会の成り立ちと、かつて栄華を誇った『獅子の王家』、アルベリク・レグルス陛下の治世がなぜ滅びの道を辿ったのか、その歴史の教訓について語り聞かせていた。
「真の王とは、ただ血筋の良さだけではない、カイル。民を深く思い、国を正しく導くための揺るぎない知恵と、いかなる困難にも屈せぬ勇気、そして何よりも、自らを律する清廉な心を持たねばならぬのだ…」
その言葉は、遠い王都ボルドーで繰り広げられる、権力闘争の醜悪さとは、あまりにもかけ離れていた。しかしカイルの幼い心に深く刻まれた。
*
アンリ公爵とイザボーは、最小限の供だけを連れ、ヴァロワ家の紋章が誇らしげに刻まれた豪奢な馬車に乗り込み、王宮へと向かった。馬車の窓から見える王都の街並みは、いつもと変わらぬように見えたが、イザボーの目には、その家々の窓の一つ一つに、レジナルドの密偵の目が光っているかのような、不気味な緊張感が漂っているように感じられた。
彼女は、父の隣に座りながら、そのあまりにも無謀とも思える行動に、深い不安を感じずにはいられなかった。
(父上は、ご自分の命さえも顧みず、正義を貫こうとしておられる…。そのお気持ちは、痛いほど分かる。けれど、今の王宮は、もはや父上が知る古き良きアキテーヌの王宮ではない。そこは、レジナルドの息のかかった者たちで固められ、陰謀と裏切りが渦巻く魔窟。ギヨーム陛下が、本当に父上の訴えを真摯に聞き入れてくださるだろうか…? いや、それ以前に、私たちは無事に陛下の御前に辿り着けるかどうかさえ…レジナルドは、きっと父上がこのような行動に出ることを、既に見越しているに違いない…そして、それを待っているのかもしれない…)
イザボーの頭脳は、起こりうる最悪の事態をも冷静に予測していた。しかし、同時に、彼女は、そんな父の揺るぎない気骨と、ヴァロワ家当主としての誇りに、娘として、そして一人の人間として、深い敬愛の念を抱いていた。この父にして、この娘あり。彼女の心の中にもまた、レジナルドへの静かな、しかし消えることのない怒りの炎が、確かに燃え始めていたのだ。このままでは終わらせない。終わらせてなるものか、と。
*
王宮の謁見の間。その広大な空間は、大理石の床に響く足音さえも憚られるような、不気味なほどの静寂に包まれていた。磨き上げられた窓からは、冷たい秋の光が差し込み、壁に掛けられた歴代アキテーヌ王の肖像画をぼんやりと照らし出している。その中には、もちろん、先王アルベリク・レグルスの、悲しげな表情もあった。
玉座に力なく座る国王ギヨームは、アンリ・ド・ヴァロワ公爵の突然の参内を知らされ、明らかに狼狽し、その青白い顔からは血の気が失せていた。その細い指は、玉座の肘掛けを神経質に叩いている。
その隣には、まるで玉座の守護者のように、摂政レジナルド公爵が、いつものように鉄仮面のような無表情で控えている。
アンリ公は、ギヨーム王の前に進み出て、アキテーヌの古式に則り、深々と頭を下げた。その動作には、長年王家に仕えてきた者の、揺るぎない忠誠と品格が感じられた。そして、その場に集まった他の貴族たちの、好奇と恐怖の入り混じった視線も意に介さず、凛とした力強い声で訴え始めた。
「ギヨーム陛下! このアンリ・ド・ヴァロワ、陛下の御代の安寧を脅かす、断じて許されざる由々しき事態を、陛下にご報告申し上げるために参上いたしました! アキテーヌの長年にわたる忠臣、マルコム・ド・サン=ジェルマン卿が、何の罪もなく、国家反逆罪という、あまりにも卑劣な汚名を着せられ、不当に逮捕されました! これは、摂政レジナルド公爵による、明らかな権力の濫用であり、アキテーヌの法と秩序を踏みにじる暴挙! そして、このヴァロワ家に対する、許しがたい攻撃に他なりませぬ!」
アンリ公のその言葉は、静まり返った謁見の間に、雷鳴のように響き渡った。その場にいた他の貴族たちは、息を呑み、恐怖と興奮の入り混じった目で、アンリ公とレジナルド公爵の顔を交互に見つめている。レジナルド公爵を、これほどまでに公然と、しかも国王の御前で非難するなど、今の王宮では、自ら死刑台に登るようなものだ。
ギヨーム王は、アンリ公のその魂の叫びのような訴えに、ただ青ざめた顔で俯き、何も答えることができない。その細い肩は、微かに震えている。彼の視線は、まるで助けを求める迷子の子供のように、隣に立つレジナルド公爵の顔色を恐る恐る窺っている。
レジナルドは、アンリ公の言葉を最後まで黙って聞いていたが、やがて、その彫刻のような冷酷な顔に、氷のような冷たい嘲笑を浮かべた。
「アンリ・ド・ヴァロワ公爵、そのお言葉、あまりにも度が過ぎるのではないかな? ご自分の立場を、お忘れか?」
レジナルドの声は、低い不気味な威圧感を孕んでいた。
「マルコム卿の逮捕は、確固たる証拠に基づき、国王ギヨーム陛下の厳正なる御名において執行された、正当なる国事である。それを『権力の濫用』だの『卑劣な攻撃』だのと申されるは、陛下に対する不敬の極みと申し上げる以外にない。それとも、アンリ公、あなたは、そのマルコム卿の反逆に、一枚噛んでおられたとでも、この場で自ら白状なさるおつもりかな? それならば、話は早いが」
レジナルドのその言葉は、巧妙に仕組まれた罠だった。アンリ公がこれ以上レジナルドを非難すれば、それは即座に国王への反逆と見なされ、彼自身もまた逮捕される絶好の口実を与えかねない。
アンリ公は、レジナルドのその卑劣な挑発的な言葉に、怒りで全身を震わせた。もはや、自らの身の危険など、彼の頭にはなかった。アキテーヌの正義が、そしてヴァロワ家の名誉が、この成り上がり者の手によって汚されることだけは、断じて許せなかった。彼は、ギヨーム王の方へと向き直り、最後の望みを託すように、魂の底からの声を絞り出した。
「陛下! ギヨーム陛下! どうか、ご自身のその聖なる目と耳で、真実をお確かめくださいませ! レジナルドの甘言に、これ以上惑わされてはなりませぬ! あの男は、アキテーヌを、そして陛下ご自身をも、その邪悪な野望の生贄として喰らい尽くそうとしているのですぞ! このままでは、アキテーヌは、真に滅びてしまいます! どうか、先王アルベリク陛下の、あの民を愛された高潔なる御魂に誓って、この国の王として、正義をお示しください!」
しかし、ギヨーム王は、ただ弱々しく首を横に振るばかりだった。その虚ろな瞳には、大粒の涙がみるみるうちに溢れ出し、青白い頬を伝って流れ落ちた。それは、恐怖の涙か、それとも自らのあまりの無力さへの絶望の涙か。
「…アンリ公…そなたの…そなたの忠誠心は、この胸に、痛いほど、分かっておる…じゃが…私には…この哀れな私には、もう、何も…何もできぬのだ…許してくれ…アンリ…許してくれ…!」
彼の声は、途中で途切れ、しゃくりあげるような嗚咽に変わった。一国の王が、臣下の前で、これほどまでに惨めな、そして情けない姿を晒すとは。謁見の間にいた貴族たちは、その光景を、あるいは憐憫の目で、あるいは軽蔑の目で、あるいはただ無感動に眺めているだけだった。
アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、そのギヨーム王の涙と、その背後で満足げに冷笑を浮かべるレジナルド公爵の姿を見て、全てを悟った。この王には、もはやアキテーヌを導く力も、正義を貫く意志も、そして何よりも、王としての誇りさえも、何一つ残されてはいないのだと。ヴァロワ家が、アキテーヌ王家に対して長年捧げてきた、揺るぎない忠誠心は、その瞬間、まるでガラス細工のように、音を立てて無残に砕け散った。
レジナルド公爵は、その哀れな王と、絶望に打ちひしがれる老貴族の姿を、まるで舞台の上の役者を眺めるかのように、満足げな、そして凍るような侮蔑に満ちた目で見下ろしていた。彼の計画は、また一つ美しく成功したのだ。
*
アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、もはや言葉もなく、深い絶望と、今はただ胸の奥底に押し込めるしかない怒りを秘め、謁見の間を後にした。その背中は、アキテーヌの古き良き時代の、そして高潔なる騎士道精神の、まさに終焉を象徴しているかのようだった。
イザボーは、父の打ちひしがれた背中を、唇を固く噛み締めながら見つめていた。彼女の心の中では、父への深い同情と、レジナルドへの激しい憎悪、そして何よりも、自らの無力さへの歯痒さが、嵐のように渦巻いていた。
その時、レジナルド公爵が、まるで何事もなかったかのように、イザボーの傍らを通り過ぎる際に、彼女にだけ聞こえるような低い声で、明確な意志を込めて囁いた。
「…美しいお嬢さん。イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワ嬢。賢明なるご判断を、このレジナルド、心より期待しておりますぞ。ヴァロワ家の、そしてあなたの輝かしい未来は、あなたのその美しい双肩に、今まさに、かかっているやもしれませぬな」
その言葉は、イザボーの心に深く、そして不気味な余韻を残した。それは、脅迫であり、誘惑であり、そして何よりも彼女に対する、レジナルドからの挑戦状でもあった。
使者の震える声からその事実を聞いた瞬間、ヴァロワ家当主アンリ公爵は、長年培ってきた貴族としての冷静さを失い、その顔をみるみるうちに怒りと絶望で歪ませた。手にしていた葡萄酒の杯が、床に滑り落ち、赤い染みとなって大理石の上に広がった。まるで、これから流されるであろう無実の血を暗示しているかのように。
「マルコムが…あの忠義一徹のマルコムが、反逆罪だと!? 馬鹿な! ありえん! 断じてありえんことだ! これは、レジナルドの奴めが仕組んだ、見え透いた罠に決まっておるわ!」
アンリ公爵の怒声は、静まり返った屋敷の広間に雷鳴のように響き渡り、そこにいた侍従たちを恐怖で震え上がらせた。
「父上、どうかお気を確かになさってください! 今、感情的になられては、あの男…レジナルド公爵の思う壺でございます! まずは冷静に、ことの真相を確かめねば…」
傍らにいた娘のイザボーが、父の激昂を必死に諫めようとした。彼女の美しい紫色の瞳には、父への深い気遣いと、そして事態のあまりの深刻さへの鋭い認識が浮かんでいた。
「冷静でなどいられるか、イザボー!」
アンリ公爵は、娘の言葉を遮るように叫んだ。
「マルコムは、我らヴァロワ家にとって、ただの盟友ではない! 共にこのアキテーヌの未来を憂い、レジナルドのあの忌まわしき暴政に立ち向かおうと、固く誓い合った、かけがえのない同志だったのだぞ! このままでは、我らも奴の毒牙にかかるのは時間の問題だ! …いや、黙って食い殺されるのを待つくらいなら、この老骨、刺し違えてでも、あの成り上がり者の摂政に一矢報いてくれるわ!」
アンリ公爵の瞳には、もはや自らの命をも顧みない、悲壮なまでの決意が燃え盛っていた。
「イザボー、すぐに支度をしろ! 王宮へ参内し、ギヨーム陛下に直接、レジナルドのこの非道を訴え出るのだ! 陛下とて、アキテーヌの王たるもの、この不正を、この国の正義が踏みにじられるのを、黙って見過ごされるはずがない!」
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その頃、黒森の庵では、エルミートがカイルとリアナに、アキテーヌ王国の複雑な貴族社会の成り立ちと、かつて栄華を誇った『獅子の王家』、アルベリク・レグルス陛下の治世がなぜ滅びの道を辿ったのか、その歴史の教訓について語り聞かせていた。
「真の王とは、ただ血筋の良さだけではない、カイル。民を深く思い、国を正しく導くための揺るぎない知恵と、いかなる困難にも屈せぬ勇気、そして何よりも、自らを律する清廉な心を持たねばならぬのだ…」
その言葉は、遠い王都ボルドーで繰り広げられる、権力闘争の醜悪さとは、あまりにもかけ離れていた。しかしカイルの幼い心に深く刻まれた。
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アンリ公爵とイザボーは、最小限の供だけを連れ、ヴァロワ家の紋章が誇らしげに刻まれた豪奢な馬車に乗り込み、王宮へと向かった。馬車の窓から見える王都の街並みは、いつもと変わらぬように見えたが、イザボーの目には、その家々の窓の一つ一つに、レジナルドの密偵の目が光っているかのような、不気味な緊張感が漂っているように感じられた。
彼女は、父の隣に座りながら、そのあまりにも無謀とも思える行動に、深い不安を感じずにはいられなかった。
(父上は、ご自分の命さえも顧みず、正義を貫こうとしておられる…。そのお気持ちは、痛いほど分かる。けれど、今の王宮は、もはや父上が知る古き良きアキテーヌの王宮ではない。そこは、レジナルドの息のかかった者たちで固められ、陰謀と裏切りが渦巻く魔窟。ギヨーム陛下が、本当に父上の訴えを真摯に聞き入れてくださるだろうか…? いや、それ以前に、私たちは無事に陛下の御前に辿り着けるかどうかさえ…レジナルドは、きっと父上がこのような行動に出ることを、既に見越しているに違いない…そして、それを待っているのかもしれない…)
イザボーの頭脳は、起こりうる最悪の事態をも冷静に予測していた。しかし、同時に、彼女は、そんな父の揺るぎない気骨と、ヴァロワ家当主としての誇りに、娘として、そして一人の人間として、深い敬愛の念を抱いていた。この父にして、この娘あり。彼女の心の中にもまた、レジナルドへの静かな、しかし消えることのない怒りの炎が、確かに燃え始めていたのだ。このままでは終わらせない。終わらせてなるものか、と。
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王宮の謁見の間。その広大な空間は、大理石の床に響く足音さえも憚られるような、不気味なほどの静寂に包まれていた。磨き上げられた窓からは、冷たい秋の光が差し込み、壁に掛けられた歴代アキテーヌ王の肖像画をぼんやりと照らし出している。その中には、もちろん、先王アルベリク・レグルスの、悲しげな表情もあった。
玉座に力なく座る国王ギヨームは、アンリ・ド・ヴァロワ公爵の突然の参内を知らされ、明らかに狼狽し、その青白い顔からは血の気が失せていた。その細い指は、玉座の肘掛けを神経質に叩いている。
その隣には、まるで玉座の守護者のように、摂政レジナルド公爵が、いつものように鉄仮面のような無表情で控えている。
アンリ公は、ギヨーム王の前に進み出て、アキテーヌの古式に則り、深々と頭を下げた。その動作には、長年王家に仕えてきた者の、揺るぎない忠誠と品格が感じられた。そして、その場に集まった他の貴族たちの、好奇と恐怖の入り混じった視線も意に介さず、凛とした力強い声で訴え始めた。
「ギヨーム陛下! このアンリ・ド・ヴァロワ、陛下の御代の安寧を脅かす、断じて許されざる由々しき事態を、陛下にご報告申し上げるために参上いたしました! アキテーヌの長年にわたる忠臣、マルコム・ド・サン=ジェルマン卿が、何の罪もなく、国家反逆罪という、あまりにも卑劣な汚名を着せられ、不当に逮捕されました! これは、摂政レジナルド公爵による、明らかな権力の濫用であり、アキテーヌの法と秩序を踏みにじる暴挙! そして、このヴァロワ家に対する、許しがたい攻撃に他なりませぬ!」
アンリ公のその言葉は、静まり返った謁見の間に、雷鳴のように響き渡った。その場にいた他の貴族たちは、息を呑み、恐怖と興奮の入り混じった目で、アンリ公とレジナルド公爵の顔を交互に見つめている。レジナルド公爵を、これほどまでに公然と、しかも国王の御前で非難するなど、今の王宮では、自ら死刑台に登るようなものだ。
ギヨーム王は、アンリ公のその魂の叫びのような訴えに、ただ青ざめた顔で俯き、何も答えることができない。その細い肩は、微かに震えている。彼の視線は、まるで助けを求める迷子の子供のように、隣に立つレジナルド公爵の顔色を恐る恐る窺っている。
レジナルドは、アンリ公の言葉を最後まで黙って聞いていたが、やがて、その彫刻のような冷酷な顔に、氷のような冷たい嘲笑を浮かべた。
「アンリ・ド・ヴァロワ公爵、そのお言葉、あまりにも度が過ぎるのではないかな? ご自分の立場を、お忘れか?」
レジナルドの声は、低い不気味な威圧感を孕んでいた。
「マルコム卿の逮捕は、確固たる証拠に基づき、国王ギヨーム陛下の厳正なる御名において執行された、正当なる国事である。それを『権力の濫用』だの『卑劣な攻撃』だのと申されるは、陛下に対する不敬の極みと申し上げる以外にない。それとも、アンリ公、あなたは、そのマルコム卿の反逆に、一枚噛んでおられたとでも、この場で自ら白状なさるおつもりかな? それならば、話は早いが」
レジナルドのその言葉は、巧妙に仕組まれた罠だった。アンリ公がこれ以上レジナルドを非難すれば、それは即座に国王への反逆と見なされ、彼自身もまた逮捕される絶好の口実を与えかねない。
アンリ公は、レジナルドのその卑劣な挑発的な言葉に、怒りで全身を震わせた。もはや、自らの身の危険など、彼の頭にはなかった。アキテーヌの正義が、そしてヴァロワ家の名誉が、この成り上がり者の手によって汚されることだけは、断じて許せなかった。彼は、ギヨーム王の方へと向き直り、最後の望みを託すように、魂の底からの声を絞り出した。
「陛下! ギヨーム陛下! どうか、ご自身のその聖なる目と耳で、真実をお確かめくださいませ! レジナルドの甘言に、これ以上惑わされてはなりませぬ! あの男は、アキテーヌを、そして陛下ご自身をも、その邪悪な野望の生贄として喰らい尽くそうとしているのですぞ! このままでは、アキテーヌは、真に滅びてしまいます! どうか、先王アルベリク陛下の、あの民を愛された高潔なる御魂に誓って、この国の王として、正義をお示しください!」
しかし、ギヨーム王は、ただ弱々しく首を横に振るばかりだった。その虚ろな瞳には、大粒の涙がみるみるうちに溢れ出し、青白い頬を伝って流れ落ちた。それは、恐怖の涙か、それとも自らのあまりの無力さへの絶望の涙か。
「…アンリ公…そなたの…そなたの忠誠心は、この胸に、痛いほど、分かっておる…じゃが…私には…この哀れな私には、もう、何も…何もできぬのだ…許してくれ…アンリ…許してくれ…!」
彼の声は、途中で途切れ、しゃくりあげるような嗚咽に変わった。一国の王が、臣下の前で、これほどまでに惨めな、そして情けない姿を晒すとは。謁見の間にいた貴族たちは、その光景を、あるいは憐憫の目で、あるいは軽蔑の目で、あるいはただ無感動に眺めているだけだった。
アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、そのギヨーム王の涙と、その背後で満足げに冷笑を浮かべるレジナルド公爵の姿を見て、全てを悟った。この王には、もはやアキテーヌを導く力も、正義を貫く意志も、そして何よりも、王としての誇りさえも、何一つ残されてはいないのだと。ヴァロワ家が、アキテーヌ王家に対して長年捧げてきた、揺るぎない忠誠心は、その瞬間、まるでガラス細工のように、音を立てて無残に砕け散った。
レジナルド公爵は、その哀れな王と、絶望に打ちひしがれる老貴族の姿を、まるで舞台の上の役者を眺めるかのように、満足げな、そして凍るような侮蔑に満ちた目で見下ろしていた。彼の計画は、また一つ美しく成功したのだ。
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アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、もはや言葉もなく、深い絶望と、今はただ胸の奥底に押し込めるしかない怒りを秘め、謁見の間を後にした。その背中は、アキテーヌの古き良き時代の、そして高潔なる騎士道精神の、まさに終焉を象徴しているかのようだった。
イザボーは、父の打ちひしがれた背中を、唇を固く噛み締めながら見つめていた。彼女の心の中では、父への深い同情と、レジナルドへの激しい憎悪、そして何よりも、自らの無力さへの歯痒さが、嵐のように渦巻いていた。
その時、レジナルド公爵が、まるで何事もなかったかのように、イザボーの傍らを通り過ぎる際に、彼女にだけ聞こえるような低い声で、明確な意志を込めて囁いた。
「…美しいお嬢さん。イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワ嬢。賢明なるご判断を、このレジナルド、心より期待しておりますぞ。ヴァロワ家の、そしてあなたの輝かしい未来は、あなたのその美しい双肩に、今まさに、かかっているやもしれませぬな」
その言葉は、イザボーの心に深く、そして不気味な余韻を残した。それは、脅迫であり、誘惑であり、そして何よりも彼女に対する、レジナルドからの挑戦状でもあった。
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