The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第二編 第一章 レジナルドの鉄腕

第16話:絶望の淵

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王宮から戻ったアンリ・ド・ヴァロワ公爵は、まるで魂が抜け落ちた抜け殻のようだった。かつてアキテーヌ随一の名門貴族としての誇りに満ち、その双肩にはヴァロワ家の栄光とアキテーヌの正義を担っていたはずのその姿は、今は見る影もない。書斎の重厚な革張りの椅子に深く沈み込んだまま、彼は焦点の定まらぬ虚ろな目で、ただ一点を見つめているだけだった。

「…もはや、これまでか…」

 アンリ公爵の唇から、か細い、しかし絶望の色に染まった呟きが漏れた。

「ヴァロワの栄光も、このアンリの代で、ついに潰えるということか…レジナルドめ…あの男は、人の心を持たぬ、悪魔だ…! そして、ギヨーム陛下も…あまりにおいたわしい…あの涙は、真実だったろうに…」

 その呟きは、誰に言うともなく、ただ夕暮れの薄暗い書斎の虚空へと、力なく消えていった。
 イザボーは、そんな父の姿を、胸を締め付けられるような痛切な思いで見つめていた。彼女にとって、父は常に誇り高く、揺るぎない正義の象徴であり、ヴァロワ家の不屈の精神そのものだった。その父が、これほどまでに打ちひしがれ、生きる気力さえも失いかけている。

 その事実は、イザボーにとって、何よりも辛く、そして受け入れ難いものだった。マルコム卿の逮捕、そして国王のあの絶望的なまでの無力さ。それは、ヴァロワ家にとって、まさに死刑宣告にも等しい出来事だったのだ。

 ヴァロワ家の壮麗な屋敷には、重苦しい沈黙が支配し、まるで一族の黄昏を告げるかのように、西の窓から差し込む夕陽が、部屋の壁に掛けられた歴代当主たちの勇ましい肖像画を、まるで血のように赤く染め上げていた。

 *

 イザボーは、自室に戻り、一人窓辺に佇んでいた。絹のカーテンの隙間から見える王都の夜景は、まるで無数の宝石を散りばめたように美しかったが、今の彼女の目には、その輝きもまた、虚ろで冷たいものにしか映らなかった。

 彼女の脳裏には、謁見の間でのレジナルド公爵の、あの不気味な囁きが、まるで呪いのように繰り返し蘇っていた。

「…ヴァロワ家の、そしてあなたの輝かしい未来は、あなたのその美しい双肩に、今まさに、かかっているやもしれませぬな…」

 あの言葉は、一体何を意味するのか。それは、単なる脅迫なのか、あの男は何を語っていたというのか。

 イザボーは、レジナルド・ド・ヴァランスという男の底知れぬ狡猾さと、その目的のためには手段を選ばぬ非情さを、今日の出来事を通じて、改めて肌で感じていた。父のように、真正面から正義を訴え、王家への忠誠を尽くそうとしても、あの男には決して通用しない。むしろ、それは格好の餌食となるだけだ。ならば、どうすればいいというのか。このまま、ヴァロワ家が、父が、そして自分自身が、レジナルドの張り巡らせた蜘蛛の巣に絡め取られ、無残に滅びゆくのを、ただ黙って見ているしかないというのだろうか。

 彼女の美しい顔には、深い苦悩の色が浮かんでいた。唇を噛み締め、その白い指先は、窓枠を強く握りしめている。しかし、その瞳の奥には、まだ消えぬ、一筋の強い、光が宿っていた。それは、ヴァロワ家の血を引く者としての誇り、そして、この不条理極まりない運命に、何としてでも抗おうとする、静かだが燃えるような、激しい意志の光だった。

 (父上は、もはや戦う気力を失っておられる…無理もないわ。あれほどの絶望を目の当たりにすれば…)

 イザボーは、胸の中で呟いた。

 (けれど、私は諦めない。ヴァロワの血は、まだ枯れてはいない。この私が、このイザボー・エレオノール・ド・ヴァロワが、必ずやこの家を守り抜いてみせる。たとえ、どのような手段を用いようとも…!)

 *

 イザボーは、部屋の中央に置かれた大きな銀縁の姿見の前に立った。そこに映っていたのは、絹のドレスを纏った、ただ美しいだけの、世間知らずな深窓の姫君ではなかった。それは、類稀なる知性と、そして目的のためなら自らの純潔さえも武器とすることを厭わない、冷徹な覚悟を秘めた、一人の戦略家の顔だった。その瞳は、まるで夜の闇に咲く毒花のように、妖しい光を放っていた。

 (父上は、あまりにも高潔すぎたわ…。今のこの腐りきったアキテーヌでは、正義だけでは何も守れない。あのレジナルドという、人の皮を被った化け物に対抗するには、こちらもまた、化け物になるしかない…いいえ、化け物になるのではない。彼よりもさらに狡猾に、さらに冷徹に、この盤上のゲームを支配するのよ…!)

 彼女は、自分が持つ最大の武器に気づいた。それは、神が与え給うた、この類稀なる美貌。そして、それを最大限に活かすことのできる、鋭敏な知性と、貴族社会の虚々実々の駆け引きを、幼い頃からその肌で感じ、見聞きしてきた経験だった。男たちは、美しい女の前では、いとも簡単にその警戒心を解き、愚かにも自らの弱みを見せるものだ。

 (レジナルドは、私を利用しようとしている。あの男の目は、そう語っていたわ。ならば、その期待に、あえて乗ってみるのも一興かもしれない…彼の懐に、無垢な小羊を装って、その実、毒牙を隠し持った蛇のようにするりと飛び込み、その内側から、ヴァロワ家を救う道を切り開く…それは、あまりにも危険で、そして汚れた道かもしれないけれど…でも、他に道はない…! このイザボー、ヴァロワ家のためならば、地獄の業火に身を焼かれる覚悟はできているわ…!)

 イザボーの瞳に、夜の闇よりも深い、しかし確かな決意の光が宿った。彼女は、もはや父の背中に隠れて庇護されるだけの、無力な娘ではない。ヴァロワ家を守るため、そしていつか必ず、父の、そしてマルコム卿の無念を晴らし、あの傲慢な摂政レジナルドに鉄槌を下すために、自らの全てを賭けて戦うことを、静かに、その胸に誓ったのだった。

 *

 その頃、ヴァロワ家の会計係ピエール・ド・ブロワは、再びギルバート男爵と、人気のない裏通りの酒場で密会していた。彼は、マルコム卿失脚の「功績」により、ギルバートから約束されていた褒賞の一部が入った重い革袋を受け取り、卑屈な笑みを浮かべていた。

「ピエール殿、ご苦労だったな。マルコムは、見事に我らの筋書き通りに潰れてくれたわ」

 ギルバートは、薄汚れた杯の葡萄酒を呷りながら、満足げに言った。

「これで、アンリ公も少しは大人しくなるかと思いきや、あの老いぼれ、まだ諦めておらぬようだな。国王陛下に直訴とは、全くもって笑止千万よ」

 ギルバートは、冷たく言い放った。

「だが、我らの仕事はまだ終わってはいない。次なる標的は、ヴァロワ家の最も重要な経済的支柱…あの強欲で、そして信心深いと評判の大商人、ジャン=ピエール・マルシャンだ。奴の財産を差し押さえ、ヴァロワ家を完全に干上がらせる。何か、奴を『異端者』として聖教の手に引き渡すような、面白いネタはないものかね? 聖教の、あの狂信的な若造…ドミニク審問官を使えば、ことはより簡単に、そして『神聖に』運ぶやもしれん。我らの手を汚す必要もない」

 ピエールは、ジャン=ピエール・マルシャンの名を聞いて、僅かに顔を曇らせた。マルシャンは、ヴァロワ家にとって最大の支援者であると同時に、ピエール個人にとっても、若い頃に世話になった恩人の一人だったからだ。彼の温厚な笑顔と、困っている者には手を差し伸べる慈悲深さを、ピエールはよく覚えていた。

 しかし、彼の心に残っていた僅かな良心の呵責も、レジナルドとギルバートの権勢への恐怖、そして約束されたさらなる報酬への卑しい期待の前には、あまりにも無力だった。悪へと堕ちる坂道を、彼はもう止まることなく転がり続けていたのだ。

「…だ、男爵様…」

 ピエールは、どもりながらも、悪魔に魂を売り渡す言葉を紡ぎ始めた。

「実は、ジャン=ピエール・マルシャン殿につきましては…一つ、かねてより気になる噂が…彼が、その莫大な富を使い、人知れず、禁じられた古文書…それも、聖教が厳しく禁じている、異教の神々や、あるいは…エルフの魔法に関する記述があるようなものを、密かに収集しているとか…。彼の屋敷の地下には、秘密の礼拝堂があり、そこで怪しげな儀式を行っているという話も…」

 ピエールは、口ごもりながらも、マルシャンを破滅へと導く、恐ろしい情報を、まるで悪魔の囁きに乗せるように、ギルバートの耳へと注ぎ込んだのだった。

 *

 ヴァロワ家の屋敷。

 イザボー・ド・ヴァロワは、やつれ果て、生きる気力さえ失いかけている父アンリ公爵の寝室を訪れた。彼女は、父の冷たくなった手を優しく握りながら、静かに、しかしその声には鋼のような揺るぎない意志を込めて告げた。



「父上、どうかご安心くださいまし。このイザボーが、必ずや、このヴァロワ家をお守りいたします。どのような手段を用いようとも…たとえ、この身がどれほど汚れることになろうとも。父上が守り抜こうとされた、ヴァロワの誇りと、アキテーヌの正義を、この私が必ずや取り戻してご覧にいれます」

 アンリ公は、娘のその言葉と、今まで見たこともないほどの冷たく、そして強い覚悟の光に驚き、そして言いようのない不安と同時に、ほんの僅かな希望の光を感じた。もしかしたら、この娘ならば…。

 その頃、レジナルド公爵の執務室では、ギルバート男爵が、ピエールからもたらされたジャン=ピエール・マルシャンに関する「異端の疑惑」を報告していた。

「公爵閣下、これでヴァロワの息の根を止める、絶好の口実が手に入りましたぞ。信心深いと評判のマルシャンが、実は禁断の知識を求め、異端の儀式に手を染めていたとなれば、聖教のあの狂信的な若造、ドミニク審問官を上手く使い、我らの手を汚すことなく、実に面白い見世物を飢えた民衆に提供できるやもしれませぬな…。ヴァロワ家は、民衆からも、そして聖教からも見放されることになりましょう」

 レジナルドは、その報告に満足げに頷いた。
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