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第二章 聖教の黒炎、ドミニクの狂信
第24話:一縷の光と絶望への序曲
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深夜の王都ボルドーは、まるで死んだように静まり返っていた。厚い雲が月を覆い隠し、街路には人影一つなく、ただ時折、夜警の兵士の靴音と、どこかの家から漏れ聞こえる寝息だけがその不気味な静寂を破るのみだった。
異端審問所の周辺は、特に念入りに聖堂騎士団の兵士たちが巡回しているはずだったが、その夜に限っては彼らの姿もまばらで、警備が手薄だった。
アルマン・ド・モンフォール卿は、闇に紛れて行動する盗賊のように、自ら選抜した屈強な家臣数名と共に、異端審問所の重苦しい石壁に沿って音もなく進んでいた。しかしその胸の内には、英雄気取りの興奮を秘め、彼の心臓は期待で高鳴っていた。今宵彼は、愛するイザボー嬢のために、そして自らの輝かしい未来のために、一世一代の大勝負に打って出るのだ。
「…手筈通りだな?」
アルマン卿は、先導する家臣の一人に、声を潜めて確認した。
「はっ、モンフォール様。聖教の牢番、ジャン・バティストは、我らが差し出した金貨の袋を、実に嬉しそうに受け取りましてございます。彼奴の手引きで、地下牢への秘密の通路へは、容易に侵入できるはず。警備の聖堂騎士も、今宵は『特別任務』とかで、ほとんどが出払っております。まさに、天佑我《てんゆうわれ》にあり、でございますな」
家臣のその言葉に、アルマン卿は満足げに頷いた。彼は、この作戦のあまりの手際の良さに、自らの才覚と幸運を確信していた。
牢番ジャン・バティストの手引きで、アルマン卿たちは、異端審問所の薄暗く湿っぽい地下牢へと、いとも簡単に潜入することができた。そこは、無実の人々の絶望と苦痛の匂いが染み付いた、まさにこの世の地獄のような場所だった。
一番奥の、最も不潔で光の届かぬ独房。そこに、ジャン=ピエール・マルシャンは、打ち捨てられた獣のように、鎖で壁に繋がれていた。彼の体は度重なる拷問によって骨と皮ばかりに痩せこけ、その顔には無数の痣と血の痕が生々しく残り、もはや生きているのが不思議なほど衰弱しきっていた。
「マルシャン殿! お迎えに上がりましたぞ!」
アルマン卿は牢の扉を開けると、マルシャンの前に進み出て芝居がかった声で言った。
「イザボー嬢の命により、このアルマン・ド・モンフォールが、あなた様をこの地獄からお救いいたします! さあ、我が手をお取りください!」
マルシャンは、その声に、虚ろだった瞳を僅かに見開き、アルマン卿の顔を認識したようだった。その唇が、微かに動いた。
「モ…モンフォール卿…まことに…まことに、かたじけない…イザボーお嬢様は…ご無事で…いらっしゃるのですか…?」
その声は弱々しく、途切れ途切れだったが、そこにはイザボーへの深い気遣いの念が込められていた。
アルマン卿は、マルシャンのその言葉に胸の内で勝利の凱歌を上げた。彼はマルシャンに肩を貸すと、まるで凱旋将軍のように、手際よく地下牢から脱出した。その手際の良さは、彼自身でさえも、熟練の騎士のようだと自画自賛するほどだったが、実際には、その全てがレジナルドとギルバートによって周到にお膳立てされた、滑稽な茶番劇に過ぎなかった。
道中、数名の聖堂騎士と遭遇したが、彼らもまた、ギルバートが手配した内通者であり、形ばかりの剣戟を交わした後、アルマン卿たちの「武勇」に恐れをなしたかのように、あっさりと道を開けた。
*
アルマン卿に「救出」されたジャン=ピエール・マルシャンは、闇に紛れてヴァロワ家の屋敷の、人目につかない秘密の地下室へと運び込まれた。そこには、息を詰めて一縷の望みを胸に待ち続けていたイザボーと、忠実な侍女のマリーアンヌがいた。
イザボーは、松明の薄暗い光の中に現れた、拷問によって変わり果てたマルシャンの姿を見て、思わず言葉を失い、その美しい瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出た。その姿は、かつての温厚で慈悲深かった大商人の面影など、どこにも残ってはいなかった。
「マルシャン殿…! なんという…なんというお姿に…!」
イザボーは、マルシャンの傍らに駆け寄り、その痩せこけた手を自らの両手で包み込むように握りしめた。
「申し訳ございません…!あなた様をこのような、取り返しのつかない目に…!」
マルシャンは、イザボーのその涙と、温かい手の温もりに、僅かに意識を取り戻したようだった。その虚ろな瞳が、ゆっくりとイザボーの顔を捉えた。
「い、いえ…お嬢様…こ、このマルシャン、お嬢様のそのお美しいお顔を、再び拝見できただけで…も、もはや、思い残すことは…ございませぬ…アルマン卿には…何と、お礼を申し上げてよいものか…」
その声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。
イザボーは、マリーアンヌと共に、マルシャンの痛々しい傷の手当てを懸命に行った。綺麗な布で血を拭い、薬草を塗った。その間、マルシャンは、途切れ途切れではあったが、ドミニク審問官による非道な尋問の様子や、その背後で摂政レジナルド公爵の名が何度もちらつかされたことを、イザボーに語った。
イザボーは、マルシャンのその言葉を聞き、レジナルドへの燃えるような憎悪を、その胸の内にさらに深く刻みつけるた。同時に、彼をこの地獄から救い出せたことに、ほんの僅かな安堵を感じていた。そして、ヴァロワ家再興への、消えかけた蝋燭の炎のような希望の光が、彼女の心にかすかに灯ったような気がした。
そして、この危険な任務を、見事に「成功」させてくれたアルマン卿に対して、彼を利用しているという深い罪悪感と同時に、ある種の感謝の念も抱かざるを得なかった。彼がいなければ、マルシャン殿は、今頃…。
*
翌日の午後、アルマン・ド・モンフォール卿が、まるで凱旋将軍のように意気揚々と、イザボーの私室を訪れた。彼は、昨夜の「大手柄」を、まるで吟遊詩人が英雄譚を語るかのように、自らの武勇伝として詳細に、そしていささか誇張を交えながら、イザボーに語って聞かせた。
「イザボー嬢、ご覧の通りこのアルマン、あなた様との大切な約束、我が命に代えまして見事に果たしてまいりましたぞ! マルシャン殿は、今やヴァロワ家の屋敷の安全な場所に匿われ、いずれは追っ手の目が届かぬ遠い地へと、王都を脱出できるよう、手筈を整えております。これで、あなた様のそのお美しいお顔から、悲しみの影も少しは薄らいだことと、このアルマン、心よりお喜び申し上げる次第でございます!」
イザボーは、アルマン卿のその得意満面の顔を見ながら、内心では彼のその底知れぬ愚かさと、そして彼を騙し利用していることへの罪悪感に苛まれていた。だが、彼女はそんな内なる葛藤を、覆い隠し、顔には心からの感謝と、そして彼への賞賛の表情を豊かに浮かべた。
「まあ、アルマン様…! なんと素晴らしいご活躍でございましょう! このイザボー、感謝の言葉もございませんわ! あなた様こそ、真の騎士…ヴァロワ家の、そしてこの私の、救いの英雄そのものでございます!」
彼女は、そう言うと、アルマン卿のその武骨な手を、自らの白く細い両手で優しく握りしめた。その仕草と、熱のこもった潤んだ瞳は、アルマン卿を有頂天にさせるには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「つきましては、アルマン様…」
イザボーは、そこで一度言葉を切り、僅かに頬を染め、上目遣いでアルマン卿を見つめた。
「今宵、ささやかながら、あなた様のその大いなるご武勇と、そしてこのイザボーへの深いお慈悲への感謝の宴を、私のこの私室で、設けさせていただきたいと存じますの。二人きりで…ゆっくりと、この胸に溢れる感謝の気持ちを、お伝えしとうございますわ…」
アルマン・ド・モンフォール卿は、そのあまりにも甘美な誘いに、もはや天にも昇る心地だった。彼は、二つ返事でその申し出を承諾した。今宵こそ、このヴァロワ家の美しい薔薇を完全に自分のものにすることができるのだと。彼は愚かにも、そして何の疑いもなく信じ込んでいた。彼の頭の中は、イザボーとの愛に満ちた、輝かしい未来の妄想で完全に占められていた。
*
その頃、王都ボルドーのアキテーヌ王宮、摂政レジナルド公爵の執務室。
ギルバート男爵が、アルマン卿によるジャン=ピエール・マルシャン救出作戦の「成功」について、詳細に、そして満足げな表情で報告していた。
「…というわけで、アルマンのあの単純な馬鹿は、まんまと我らの描いた筋書き通りに踊ってくれましてございます。今宵、ヴァロワのあの小娘と二人きりで、祝杯を挙げる手筈となっております。場所は、ヴァロワ家の屋敷の、人目につきにくい離れの一室。まさに、反逆者どもが、国王陛下への恐るべき密議を凝らすには、うってつけの場所かと存じます」
レジナルドは、その報告を満足そうに聞き、深く頷いた。
「見事だ、ギルバート。全ては計画通りだな。あのヴァロワの小娘も、マルシャンを救い出せたことで、一時的に安堵し、そしてアルマンの馬鹿に、ほんの少しの感謝の念でも抱いていることだろう。だが、それも今宵限りよ。その一縷の希望の光が、最も輝きを増した瞬間に、それを無慈悲に踏み潰し、底なしの絶望の闇へと突き落としてやるのが、何よりも愉快ではないか」
レジナルドの唇に、笑みが浮かんだ。
「ドミニク審問官には、既に『国王陛下暗殺の密議が、今宵、ヴァロワ家の離れで行われる。その首謀者は、ヴァロワの娘イザボーと、それに与するアルマン・ド・モンフォールである』という、極めて『信頼できる筋からの情報』を、それとなく流してある。あの狂信的な若造は、今頃、聖堂騎士団の精鋭を引き連れ、その『聖なる浄化』の瞬間を、今か今かと待ち構えておることだろう」
彼は、そこで一度言葉を切り、窓の外の、不吉なほどに静まり返った王都の夜景を見つめた。
「そして、国王陛下には…『ヴァロワの残党が、陛下のご慈悲を仇で返すような、恐るべき反逆を企てている。その決定的な証拠を、今宵、陛下ご自身のその目で、お確かめいただきたい』とでも伝えておけ。あの臆病者の王も、自分の命が狙われていると知れば、恐怖のあまり、否応なく我らのこの血塗られた芝居の、最も重要な観客となるであろう」
レジナルドの瞳には、全てを掌の上で操る絶対的な支配者の、冷酷非情な愉悦の色が、深く、そして不気味に浮かんでいた。ヴァロワ家を完全に殲滅するための、最後の罠は今まさに、その血に飢えた口を大きく開こうとしていた。
*
深夜、ヴァロワ家の屋敷の、イザボーの離れの私室。
イザボーは、アルマン・ド・モンフォール卿と二人きりで、テーブルに並べられた上質な葡萄酒の杯を、静かに傾けていた。部屋には彼女が特別に焚かせた、男心を惑わすような、甘く妖艶な香油の香りが濃密に漂っている。
アルマン卿は、イザボーのその吐息がかかるほどの間近な距離と、彼女の白い肌を大胆に露出させた、シルクの挑発的なドレス姿に、もはや完全に理性を失いかけていた。彼の目は欲望に濁り、その手はイザボーの肩に、そして腰へと、ためらいもなく伸ばされようとしていた。
「イザボー…ああ、我が愛しのイザボーよ…このアルマン、生涯あなた様にお仕えし、あなた様をお守りすることを、この剣に誓いますぞ…!」
イザボーは、内心の深い嫌悪感を必死に押し殺し、アルマン卿に媚態を演じ、その言葉に甘く応じていた。
「まあ、アルマン様…あなた様のその熱いお言葉…このイザボー、嬉しゅうございますわ…」
しかし、その美しい顔には隠しきれない緊張と、何かが決定的に間違っているという、不吉な予感の色が、濃く浮かんでいた。彼女の胸の奥底では言いようのない不安がじわじわと広がり始めていた。
そして、そのヴァロワ家の屋敷の周囲を、異端審問官ドミニク・ギルフォード率いる聖堂騎士団の精鋭と、ギルバート男爵指揮下の黒狼兵団が、確実に包囲しつつあった。
彼らは、摂政レジナルド公爵の描いた、血塗られた筋書きの、最後の幕が上がるのを、息を殺して、ただ静かに待ち構えていた。
異端審問所の周辺は、特に念入りに聖堂騎士団の兵士たちが巡回しているはずだったが、その夜に限っては彼らの姿もまばらで、警備が手薄だった。
アルマン・ド・モンフォール卿は、闇に紛れて行動する盗賊のように、自ら選抜した屈強な家臣数名と共に、異端審問所の重苦しい石壁に沿って音もなく進んでいた。しかしその胸の内には、英雄気取りの興奮を秘め、彼の心臓は期待で高鳴っていた。今宵彼は、愛するイザボー嬢のために、そして自らの輝かしい未来のために、一世一代の大勝負に打って出るのだ。
「…手筈通りだな?」
アルマン卿は、先導する家臣の一人に、声を潜めて確認した。
「はっ、モンフォール様。聖教の牢番、ジャン・バティストは、我らが差し出した金貨の袋を、実に嬉しそうに受け取りましてございます。彼奴の手引きで、地下牢への秘密の通路へは、容易に侵入できるはず。警備の聖堂騎士も、今宵は『特別任務』とかで、ほとんどが出払っております。まさに、天佑我《てんゆうわれ》にあり、でございますな」
家臣のその言葉に、アルマン卿は満足げに頷いた。彼は、この作戦のあまりの手際の良さに、自らの才覚と幸運を確信していた。
牢番ジャン・バティストの手引きで、アルマン卿たちは、異端審問所の薄暗く湿っぽい地下牢へと、いとも簡単に潜入することができた。そこは、無実の人々の絶望と苦痛の匂いが染み付いた、まさにこの世の地獄のような場所だった。
一番奥の、最も不潔で光の届かぬ独房。そこに、ジャン=ピエール・マルシャンは、打ち捨てられた獣のように、鎖で壁に繋がれていた。彼の体は度重なる拷問によって骨と皮ばかりに痩せこけ、その顔には無数の痣と血の痕が生々しく残り、もはや生きているのが不思議なほど衰弱しきっていた。
「マルシャン殿! お迎えに上がりましたぞ!」
アルマン卿は牢の扉を開けると、マルシャンの前に進み出て芝居がかった声で言った。
「イザボー嬢の命により、このアルマン・ド・モンフォールが、あなた様をこの地獄からお救いいたします! さあ、我が手をお取りください!」
マルシャンは、その声に、虚ろだった瞳を僅かに見開き、アルマン卿の顔を認識したようだった。その唇が、微かに動いた。
「モ…モンフォール卿…まことに…まことに、かたじけない…イザボーお嬢様は…ご無事で…いらっしゃるのですか…?」
その声は弱々しく、途切れ途切れだったが、そこにはイザボーへの深い気遣いの念が込められていた。
アルマン卿は、マルシャンのその言葉に胸の内で勝利の凱歌を上げた。彼はマルシャンに肩を貸すと、まるで凱旋将軍のように、手際よく地下牢から脱出した。その手際の良さは、彼自身でさえも、熟練の騎士のようだと自画自賛するほどだったが、実際には、その全てがレジナルドとギルバートによって周到にお膳立てされた、滑稽な茶番劇に過ぎなかった。
道中、数名の聖堂騎士と遭遇したが、彼らもまた、ギルバートが手配した内通者であり、形ばかりの剣戟を交わした後、アルマン卿たちの「武勇」に恐れをなしたかのように、あっさりと道を開けた。
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アルマン卿に「救出」されたジャン=ピエール・マルシャンは、闇に紛れてヴァロワ家の屋敷の、人目につかない秘密の地下室へと運び込まれた。そこには、息を詰めて一縷の望みを胸に待ち続けていたイザボーと、忠実な侍女のマリーアンヌがいた。
イザボーは、松明の薄暗い光の中に現れた、拷問によって変わり果てたマルシャンの姿を見て、思わず言葉を失い、その美しい瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出た。その姿は、かつての温厚で慈悲深かった大商人の面影など、どこにも残ってはいなかった。
「マルシャン殿…! なんという…なんというお姿に…!」
イザボーは、マルシャンの傍らに駆け寄り、その痩せこけた手を自らの両手で包み込むように握りしめた。
「申し訳ございません…!あなた様をこのような、取り返しのつかない目に…!」
マルシャンは、イザボーのその涙と、温かい手の温もりに、僅かに意識を取り戻したようだった。その虚ろな瞳が、ゆっくりとイザボーの顔を捉えた。
「い、いえ…お嬢様…こ、このマルシャン、お嬢様のそのお美しいお顔を、再び拝見できただけで…も、もはや、思い残すことは…ございませぬ…アルマン卿には…何と、お礼を申し上げてよいものか…」
その声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。
イザボーは、マリーアンヌと共に、マルシャンの痛々しい傷の手当てを懸命に行った。綺麗な布で血を拭い、薬草を塗った。その間、マルシャンは、途切れ途切れではあったが、ドミニク審問官による非道な尋問の様子や、その背後で摂政レジナルド公爵の名が何度もちらつかされたことを、イザボーに語った。
イザボーは、マルシャンのその言葉を聞き、レジナルドへの燃えるような憎悪を、その胸の内にさらに深く刻みつけるた。同時に、彼をこの地獄から救い出せたことに、ほんの僅かな安堵を感じていた。そして、ヴァロワ家再興への、消えかけた蝋燭の炎のような希望の光が、彼女の心にかすかに灯ったような気がした。
そして、この危険な任務を、見事に「成功」させてくれたアルマン卿に対して、彼を利用しているという深い罪悪感と同時に、ある種の感謝の念も抱かざるを得なかった。彼がいなければ、マルシャン殿は、今頃…。
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翌日の午後、アルマン・ド・モンフォール卿が、まるで凱旋将軍のように意気揚々と、イザボーの私室を訪れた。彼は、昨夜の「大手柄」を、まるで吟遊詩人が英雄譚を語るかのように、自らの武勇伝として詳細に、そしていささか誇張を交えながら、イザボーに語って聞かせた。
「イザボー嬢、ご覧の通りこのアルマン、あなた様との大切な約束、我が命に代えまして見事に果たしてまいりましたぞ! マルシャン殿は、今やヴァロワ家の屋敷の安全な場所に匿われ、いずれは追っ手の目が届かぬ遠い地へと、王都を脱出できるよう、手筈を整えております。これで、あなた様のそのお美しいお顔から、悲しみの影も少しは薄らいだことと、このアルマン、心よりお喜び申し上げる次第でございます!」
イザボーは、アルマン卿のその得意満面の顔を見ながら、内心では彼のその底知れぬ愚かさと、そして彼を騙し利用していることへの罪悪感に苛まれていた。だが、彼女はそんな内なる葛藤を、覆い隠し、顔には心からの感謝と、そして彼への賞賛の表情を豊かに浮かべた。
「まあ、アルマン様…! なんと素晴らしいご活躍でございましょう! このイザボー、感謝の言葉もございませんわ! あなた様こそ、真の騎士…ヴァロワ家の、そしてこの私の、救いの英雄そのものでございます!」
彼女は、そう言うと、アルマン卿のその武骨な手を、自らの白く細い両手で優しく握りしめた。その仕草と、熱のこもった潤んだ瞳は、アルマン卿を有頂天にさせるには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「つきましては、アルマン様…」
イザボーは、そこで一度言葉を切り、僅かに頬を染め、上目遣いでアルマン卿を見つめた。
「今宵、ささやかながら、あなた様のその大いなるご武勇と、そしてこのイザボーへの深いお慈悲への感謝の宴を、私のこの私室で、設けさせていただきたいと存じますの。二人きりで…ゆっくりと、この胸に溢れる感謝の気持ちを、お伝えしとうございますわ…」
アルマン・ド・モンフォール卿は、そのあまりにも甘美な誘いに、もはや天にも昇る心地だった。彼は、二つ返事でその申し出を承諾した。今宵こそ、このヴァロワ家の美しい薔薇を完全に自分のものにすることができるのだと。彼は愚かにも、そして何の疑いもなく信じ込んでいた。彼の頭の中は、イザボーとの愛に満ちた、輝かしい未来の妄想で完全に占められていた。
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その頃、王都ボルドーのアキテーヌ王宮、摂政レジナルド公爵の執務室。
ギルバート男爵が、アルマン卿によるジャン=ピエール・マルシャン救出作戦の「成功」について、詳細に、そして満足げな表情で報告していた。
「…というわけで、アルマンのあの単純な馬鹿は、まんまと我らの描いた筋書き通りに踊ってくれましてございます。今宵、ヴァロワのあの小娘と二人きりで、祝杯を挙げる手筈となっております。場所は、ヴァロワ家の屋敷の、人目につきにくい離れの一室。まさに、反逆者どもが、国王陛下への恐るべき密議を凝らすには、うってつけの場所かと存じます」
レジナルドは、その報告を満足そうに聞き、深く頷いた。
「見事だ、ギルバート。全ては計画通りだな。あのヴァロワの小娘も、マルシャンを救い出せたことで、一時的に安堵し、そしてアルマンの馬鹿に、ほんの少しの感謝の念でも抱いていることだろう。だが、それも今宵限りよ。その一縷の希望の光が、最も輝きを増した瞬間に、それを無慈悲に踏み潰し、底なしの絶望の闇へと突き落としてやるのが、何よりも愉快ではないか」
レジナルドの唇に、笑みが浮かんだ。
「ドミニク審問官には、既に『国王陛下暗殺の密議が、今宵、ヴァロワ家の離れで行われる。その首謀者は、ヴァロワの娘イザボーと、それに与するアルマン・ド・モンフォールである』という、極めて『信頼できる筋からの情報』を、それとなく流してある。あの狂信的な若造は、今頃、聖堂騎士団の精鋭を引き連れ、その『聖なる浄化』の瞬間を、今か今かと待ち構えておることだろう」
彼は、そこで一度言葉を切り、窓の外の、不吉なほどに静まり返った王都の夜景を見つめた。
「そして、国王陛下には…『ヴァロワの残党が、陛下のご慈悲を仇で返すような、恐るべき反逆を企てている。その決定的な証拠を、今宵、陛下ご自身のその目で、お確かめいただきたい』とでも伝えておけ。あの臆病者の王も、自分の命が狙われていると知れば、恐怖のあまり、否応なく我らのこの血塗られた芝居の、最も重要な観客となるであろう」
レジナルドの瞳には、全てを掌の上で操る絶対的な支配者の、冷酷非情な愉悦の色が、深く、そして不気味に浮かんでいた。ヴァロワ家を完全に殲滅するための、最後の罠は今まさに、その血に飢えた口を大きく開こうとしていた。
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深夜、ヴァロワ家の屋敷の、イザボーの離れの私室。
イザボーは、アルマン・ド・モンフォール卿と二人きりで、テーブルに並べられた上質な葡萄酒の杯を、静かに傾けていた。部屋には彼女が特別に焚かせた、男心を惑わすような、甘く妖艶な香油の香りが濃密に漂っている。
アルマン卿は、イザボーのその吐息がかかるほどの間近な距離と、彼女の白い肌を大胆に露出させた、シルクの挑発的なドレス姿に、もはや完全に理性を失いかけていた。彼の目は欲望に濁り、その手はイザボーの肩に、そして腰へと、ためらいもなく伸ばされようとしていた。
「イザボー…ああ、我が愛しのイザボーよ…このアルマン、生涯あなた様にお仕えし、あなた様をお守りすることを、この剣に誓いますぞ…!」
イザボーは、内心の深い嫌悪感を必死に押し殺し、アルマン卿に媚態を演じ、その言葉に甘く応じていた。
「まあ、アルマン様…あなた様のその熱いお言葉…このイザボー、嬉しゅうございますわ…」
しかし、その美しい顔には隠しきれない緊張と、何かが決定的に間違っているという、不吉な予感の色が、濃く浮かんでいた。彼女の胸の奥底では言いようのない不安がじわじわと広がり始めていた。
そして、そのヴァロワ家の屋敷の周囲を、異端審問官ドミニク・ギルフォード率いる聖堂騎士団の精鋭と、ギルバート男爵指揮下の黒狼兵団が、確実に包囲しつつあった。
彼らは、摂政レジナルド公爵の描いた、血塗られた筋書きの、最後の幕が上がるのを、息を殺して、ただ静かに待ち構えていた。
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