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第三編:王都の蜘蛛の巣、偽りの庇護と運命の奔流
第33話:エルミートの最後の教え、セドリックの報せと旅立ちの決意
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エルミートの庵の周辺の黒森は、もはやかつての静謐さを失い、不気味なまでの沈黙と、そして時折響き渡る、得体の知れない獣の咆哮のような音に支配されていた。
カイルが彼の特異な感受性で感じ取っていた不穏な「気」は、日増しにその濃度を増し、森全体がまるで巨大な生き物のように、何かに怯え、そして苦しんでいるかのようだった。小動物たちは完全に姿を消し、鳥のさえずりも途絶え、ただ風が木々を揺らす音だけが不吉な予感を孕んで庵の周囲に響き渡っていた。
そして、その森の異変と呼応するかのように、賢者エルミートの体調は、急速に、そして絶望的に悪化の一途を辿っていた。彼の咳はもはや止まることなく続き、その痩せこけた胸を激しく震わせた。食事もほとんど喉を通らず、その顔は蝋のように青白く、かつて鋭い叡智の光を宿していた瞳も、今はどこか虚ろで、力なく濁っている。
リアナが不眠不休で薬草を調合し、懸命に看病を続けていたが、彼の命の灯火が、まさに風前の灯火のように、弱々しく揺らめき、消えかかっていることは、カイルとリアナの目にも、痛いほど明らかだった。
「…カイルよ、リアナよ…どうやら、この老いぼれの役目も、もう…もう、本当に終わりが近いようじゃな…」
エルミートは、荒い息の下から、途切れ途切れに言った。その声には残された者たちへの深い憂いが込められていた。
「この黒森の、ただならぬ気配…世界の歪みが、もはや…もはや隠しきれぬほどに、大きく、そして深く、なりつつあるのを感じるのじゃ…」
*
そんなある日の午後、エルミートの庵の古びた木の扉を、切羽詰まったように叩く音が響いた。リアナが警戒しながら扉を開けると、そこには、旅の汚れと極度の疲労でボロボロになった、一人の若い男が息を切らせて立っていた。その顔には、恐怖と焦りの色が濃く浮かんでいる。
「こ、こちらは…賢者エルミート様のお住まいで…ございますか…!? わ、私は、老学者セドリック様の弟子、トマと申します! エルミート様に一刻も早く、お伝えせねばならぬことが…!」
トマと名乗るその若者は、エルミートがかつてアキテーヌ王宮にいた頃の旧友であり、今はアキテーヌの各地を放浪しながら、世界の真実と、失われた古の知識を追い求めているという、変わり者の老学者セドリックの最も信頼する弟子の一人だった。
エルミートは、トマのただならぬ様子を見て、全てを察したかのように、静かに彼を庵の中へと招き入れた。
「エルミート様! 大変なことになっております!」
トマは、リアナが差し出した水を一気に飲み干すと、堰を切ったように語り始めた。その声は、恐怖と絶望で震えていた。
「王都ボルドーでは、先日、貧民街で大規模な暴動が発生いたしました! 摂政レジナルド公爵配下の黒狼兵団によって、その鎮圧は行われましたが…そのやり方は、あまりにも残虐非道…多くの民が、女子供の区別なく虐殺されました…。 王都は今、恐怖と絶望、そして密告の嵐に包まれ、異端審問官ドミニク・ギルフォードによる『異端狩り』も、ますますその狂気を増しております…!」
カイルとリアナは、トマのその言葉に息を呑んだ。王都の惨状は彼らが想像していた以上に、遥かに深刻で、そして絶望的だったのだ。
「そして…セドリック様からは、これを必ずやエルミート様に、何があってもお渡しするようにと固く申し付かっております…!」
トマは、懐から、蝋で厳重に封印された一通の密書を取り出し、震える手でエルミートに手渡した。
エルミートはその密書を受け取ると、カイルとリアナに目配せし、その場で封を切った。羊皮紙に記されたセドリックの文字は、彼のいつもの飄々とした筆致とは異なり、焦りと危機感で乱れていた。
そこには、アキテーヌ王国の悲惨な現状に加え、ユーロディア大陸の各地で、原因不明の疫病や、大規模な凶作、そして正体不明の、まるで獣のような、しかし明らかに人間ではない「何か」による、村々への襲撃事件が頻発し、世界全体が、急速に不穏な、そして破滅的な空気に包まれているという、衝撃的な情報が詳細に記されていた。
そして、密書の最後は、こう結ばれていた。
「我が友、エルミートよ。古の伝承に語られし災厄の影が、再びこのユーロディアの地を覆わんとしておることは、もはや疑いの余地はない。奴らは、人心の荒廃と、社会の混乱を糧とし、その力を増大させる。そして、今のアキテーヌは、まさに奴らにとって、これ以上ないほど格好の餌食と化しておる。エルミートよ、もし、そなたが長年探し求め、そして密かに育ててきたという『最後の希望の光』が、本当に存在するのならば…もはや、一刻の猶予もない。その光を、世界の闇が完全に飲み込む前に、解き放つ時が来たのだ…!」
*
セドリックからの密書を読み終えたエルミートの顔からは、完全に血の気が失せていた。彼は、自らの死期が、もはや目前に迫っていることを、そして世界の終わりが、想像を遥かに超える速さで近づいていることを、痛いほど悟った。
彼は、最後の力を振り絞るように、カイルとリアナを、自らの病床の枕元へと呼び寄せた。その瞳には、深い絶望と、しかしそれ以上に、彼ら二人への、最後の希望を託すかのような、力強い光が宿っていた。
「カイルよ、リアナよ…二人とも、よく聞きなさい。わしの命は、もう、本当に幾ばくもない。じゃが、お前たちには、この世界の運命を左右するやもしれぬ、重大な真実を伝えねばならぬことがある…」
エルミートの声は弱々しかったが、その一言一句には彼の魂そのものが込められているかのようだった。
「カイル、お前のその背中にある『獅子の傷痕』…」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルの目を真っ直ぐに見据えた。
「以前にも話したが、それはただの印ではない。それは、かつてこのアキテーヌを公正と慈悲で統べた、真の王の血筋…アルベリク・レグルス陛下の、唯一生き残った直系の子孫であることの、紛れもない証なのじゃ。そして、今こそ、お前の真の名を告げよう。お前こそが、アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌ…獅子の王家の、最後の正統なる後継者なのだ」
カイルは、エルミートのその言葉に改めて全身を貫かれるような衝撃を受けた。以前、シルヴァン村でエルミートからその可能性を示唆された時も、彼の心は大きく揺さぶられた。だが、今、この世界の終焉を予感させるような危機的状況の中で、師の最後の言葉として、自らの本名と、そして「最後の正統なる後継者」という、あまりにも重い宿命を改めて突きつけられ、彼は言葉を失った。
それは、もはや漠然とした可能性などではなく、逃れることのできない過酷な現実だったのだ。背中の「獅子の傷痕」が、まるでその運命の重さに呼応するかのように、ズキズキと激しく疼いた。
自分が、アキテーヌの王家の血を引く…? あの圧政を敷くレジナルド公爵に滅ぼされたという、「獅子の王家」の末裔…? あまりにも突飛で重すぎる真実だった。
リアナもまた、息を呑み、カイルの横顔を彼への深い同情を込めた眼差しで見つめていた。
「そして、アレクシオスよ」
エルミートは、カイルの真の名を、初めてその口にした。
「その聖なる獅子の血には、古の時代より、あの忌まわしきヘルマーチャーと戦うことを宿命づけられた、計り知れぬ使命が課せられておるやもしれぬ…。それは、力ではなく、お前のその清らかな魂と、民を思う慈悲の心、そして何よりも、絶望の中でも決して希望を捨てぬ強い意志によって、果たされるべきものなのじゃろう」
エルミートは、そこで一度激しく咳き込むと、庵の書斎の最も奥まった場所にある、あの重々しい「禁断の扉」を、弱々しい指で指し示した。
「あの扉の奥にはな…獅子の王家が、代々、その命に代えても守り伝えてきた、ヘルマーチャーに関する恐るべき真実と、そして…それに対抗するための、唯一の希望となる知識が、厳重に封印されておる。わしは、かつて若気の至りから、その禁断の知識の一部に触れようとし、取り返しのつかない大きな過ちを犯してしまった…。じゃが、アレクシオスよ、お前ならば…その清らかな魂と、お前の背負う聖痕の導きをもってすれば、その知識を正しく用い、この絶望に覆われた世界を、救うことができるやもしれん…」
エルミートの瞳には、カイルへの絶対的な信頼と、そして世界の未来を託す者の、悲壮なまでの覚悟が浮かんでいた。
「そのためには、まず、王都ボルドーにいる、わしの旧友セドリックを訪ねるのじゃ。彼ならば、お前たちの必ずや助けとなり、そして、あの禁断の扉を開くための、さらなる重要な手がかりを与えてくれるやもしれぬ…」
*
エルミートから告げられた、自らの本名「アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌ」と、「獅子の血脈」というあまりにも重い真実。そして、セドリックからもたらされた世界の危機的状況。それらは、カイルとリアナの心に、消えることのない衝撃と、深い混乱をもたらした。
エルミートは、それ以上多くを語らず、ただ静かに二人の決意が固まるのを待っているかのようだった。しかし、彼の命の灯火が、刻一刻と弱まっているのは、誰の目にも明らかであった。
数日間、カイルは言葉少なになり、一人で森の中を彷徨い、あるいは庵の隅で膝を抱えて深く思い悩んだ。自分が王家の末裔…?世界の闇と戦う宿命…? あまりにも現実離れしたその事実に、彼の心は千々に乱れた。リアナは、そんなカイルの苦悩を痛いほど感じ取りながらも、ただ黙って彼のそばに寄り添い、彼の心が自ら答えを見つけ出すのを、信じて待ち続けた。彼女自身もまた、これから自分たちが歩むであろう道の過酷さと、エルミートとの避けられない別れを予感し、深い悲しみを抱えていた。
そして、数日が過ぎた朝。カイルは、夜明けの薄明かりの中、リアナと共にエルミートの枕元へと進み出た。その顔には、まだ苦悩の色は残っていたが、瞳の奥には、吹っ切れたような、そして悲壮なまでの覚悟の光が宿っていた。
「エルミート様…数日間、考えました。そして、リアナとも…たくさん話しました。僕は…アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌは、逃げるわけにはいかないのだと…そう、思いました。僕たちは王都へ向かいます。そして、セドリック様を訪ね、僕に一体何ができるのか。この『獅子の血脈』が、この『獅子の傷痕』が、一体何を意味するのか、その答えを必ずや見つけ出します!」
彼はそこで一度言葉を切り、エルミートの冷たくなった手を、自らの両手で強く握りしめた。
「そして、いつか必ず、あの禁断の扉を開き、この世界を覆う忌まわしき闇に、この僕の全てを賭けて立ち向かってみせます…! それが、エルミート様と、そしてシルヴァン村で、リアナと共に交わした、僕の、決して違えることのない誓いですから…!」
リアナもまた、涙を浮かべながらも、力強く頷いた。
「エルミート様、どうかご無理なさらずに…! 私たち、必ず、必ずエルミート様の元へ、良い報せを持って戻ってまいります! だから、それまで…!」
*
カイルとリアナが、エルミートの言葉に従い、王都ボルドーへの、そして自らの過酷な運命への旅立ちの準備を、悲しみを押し殺し、急いで始めた、まさにその時だった。
エルミートの庵の周囲の、不気味なまでに静まり返っていた黒森が、にわかに騒がしくなった。複数の松明の赤い光と、武装した男たちの獣のような荒々しい怒声が、徐々にしかし確実に庵へと近づいてくるのが感じられた。
それは、ついに摂政レジナルド公爵の執拗な追っ手が、エルミートのこの最後の聖域の場所を特定し、襲撃してきたことを明確に示唆していた。
エルミートは、病床から最後の力を振り絞るように半身を起こすと、カイルとリアナに向かって、その老いた顔を苦痛に歪ませながらも、鋭く、そして力強く叫んだ。
「行けっ、アレクシオス! リアナ! もう一刻の猶予もないぞ! わしのことは構うでない! お前たちは生き延び、そしてアキテーヌの…いや、この世界の、最後の未来を、その若い清らかな手で必ずや掴み取るのじゃ!」
師との、あまりにも突然で、悲劇的な別れの時が容赦なく、そして無慈悲に訪れようとしていた。
カイルが彼の特異な感受性で感じ取っていた不穏な「気」は、日増しにその濃度を増し、森全体がまるで巨大な生き物のように、何かに怯え、そして苦しんでいるかのようだった。小動物たちは完全に姿を消し、鳥のさえずりも途絶え、ただ風が木々を揺らす音だけが不吉な予感を孕んで庵の周囲に響き渡っていた。
そして、その森の異変と呼応するかのように、賢者エルミートの体調は、急速に、そして絶望的に悪化の一途を辿っていた。彼の咳はもはや止まることなく続き、その痩せこけた胸を激しく震わせた。食事もほとんど喉を通らず、その顔は蝋のように青白く、かつて鋭い叡智の光を宿していた瞳も、今はどこか虚ろで、力なく濁っている。
リアナが不眠不休で薬草を調合し、懸命に看病を続けていたが、彼の命の灯火が、まさに風前の灯火のように、弱々しく揺らめき、消えかかっていることは、カイルとリアナの目にも、痛いほど明らかだった。
「…カイルよ、リアナよ…どうやら、この老いぼれの役目も、もう…もう、本当に終わりが近いようじゃな…」
エルミートは、荒い息の下から、途切れ途切れに言った。その声には残された者たちへの深い憂いが込められていた。
「この黒森の、ただならぬ気配…世界の歪みが、もはや…もはや隠しきれぬほどに、大きく、そして深く、なりつつあるのを感じるのじゃ…」
*
そんなある日の午後、エルミートの庵の古びた木の扉を、切羽詰まったように叩く音が響いた。リアナが警戒しながら扉を開けると、そこには、旅の汚れと極度の疲労でボロボロになった、一人の若い男が息を切らせて立っていた。その顔には、恐怖と焦りの色が濃く浮かんでいる。
「こ、こちらは…賢者エルミート様のお住まいで…ございますか…!? わ、私は、老学者セドリック様の弟子、トマと申します! エルミート様に一刻も早く、お伝えせねばならぬことが…!」
トマと名乗るその若者は、エルミートがかつてアキテーヌ王宮にいた頃の旧友であり、今はアキテーヌの各地を放浪しながら、世界の真実と、失われた古の知識を追い求めているという、変わり者の老学者セドリックの最も信頼する弟子の一人だった。
エルミートは、トマのただならぬ様子を見て、全てを察したかのように、静かに彼を庵の中へと招き入れた。
「エルミート様! 大変なことになっております!」
トマは、リアナが差し出した水を一気に飲み干すと、堰を切ったように語り始めた。その声は、恐怖と絶望で震えていた。
「王都ボルドーでは、先日、貧民街で大規模な暴動が発生いたしました! 摂政レジナルド公爵配下の黒狼兵団によって、その鎮圧は行われましたが…そのやり方は、あまりにも残虐非道…多くの民が、女子供の区別なく虐殺されました…。 王都は今、恐怖と絶望、そして密告の嵐に包まれ、異端審問官ドミニク・ギルフォードによる『異端狩り』も、ますますその狂気を増しております…!」
カイルとリアナは、トマのその言葉に息を呑んだ。王都の惨状は彼らが想像していた以上に、遥かに深刻で、そして絶望的だったのだ。
「そして…セドリック様からは、これを必ずやエルミート様に、何があってもお渡しするようにと固く申し付かっております…!」
トマは、懐から、蝋で厳重に封印された一通の密書を取り出し、震える手でエルミートに手渡した。
エルミートはその密書を受け取ると、カイルとリアナに目配せし、その場で封を切った。羊皮紙に記されたセドリックの文字は、彼のいつもの飄々とした筆致とは異なり、焦りと危機感で乱れていた。
そこには、アキテーヌ王国の悲惨な現状に加え、ユーロディア大陸の各地で、原因不明の疫病や、大規模な凶作、そして正体不明の、まるで獣のような、しかし明らかに人間ではない「何か」による、村々への襲撃事件が頻発し、世界全体が、急速に不穏な、そして破滅的な空気に包まれているという、衝撃的な情報が詳細に記されていた。
そして、密書の最後は、こう結ばれていた。
「我が友、エルミートよ。古の伝承に語られし災厄の影が、再びこのユーロディアの地を覆わんとしておることは、もはや疑いの余地はない。奴らは、人心の荒廃と、社会の混乱を糧とし、その力を増大させる。そして、今のアキテーヌは、まさに奴らにとって、これ以上ないほど格好の餌食と化しておる。エルミートよ、もし、そなたが長年探し求め、そして密かに育ててきたという『最後の希望の光』が、本当に存在するのならば…もはや、一刻の猶予もない。その光を、世界の闇が完全に飲み込む前に、解き放つ時が来たのだ…!」
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彼は、最後の力を振り絞るように、カイルとリアナを、自らの病床の枕元へと呼び寄せた。その瞳には、深い絶望と、しかしそれ以上に、彼ら二人への、最後の希望を託すかのような、力強い光が宿っていた。
「カイルよ、リアナよ…二人とも、よく聞きなさい。わしの命は、もう、本当に幾ばくもない。じゃが、お前たちには、この世界の運命を左右するやもしれぬ、重大な真実を伝えねばならぬことがある…」
エルミートの声は弱々しかったが、その一言一句には彼の魂そのものが込められているかのようだった。
「カイル、お前のその背中にある『獅子の傷痕』…」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルの目を真っ直ぐに見据えた。
「以前にも話したが、それはただの印ではない。それは、かつてこのアキテーヌを公正と慈悲で統べた、真の王の血筋…アルベリク・レグルス陛下の、唯一生き残った直系の子孫であることの、紛れもない証なのじゃ。そして、今こそ、お前の真の名を告げよう。お前こそが、アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌ…獅子の王家の、最後の正統なる後継者なのだ」
カイルは、エルミートのその言葉に改めて全身を貫かれるような衝撃を受けた。以前、シルヴァン村でエルミートからその可能性を示唆された時も、彼の心は大きく揺さぶられた。だが、今、この世界の終焉を予感させるような危機的状況の中で、師の最後の言葉として、自らの本名と、そして「最後の正統なる後継者」という、あまりにも重い宿命を改めて突きつけられ、彼は言葉を失った。
それは、もはや漠然とした可能性などではなく、逃れることのできない過酷な現実だったのだ。背中の「獅子の傷痕」が、まるでその運命の重さに呼応するかのように、ズキズキと激しく疼いた。
自分が、アキテーヌの王家の血を引く…? あの圧政を敷くレジナルド公爵に滅ぼされたという、「獅子の王家」の末裔…? あまりにも突飛で重すぎる真実だった。
リアナもまた、息を呑み、カイルの横顔を彼への深い同情を込めた眼差しで見つめていた。
「そして、アレクシオスよ」
エルミートは、カイルの真の名を、初めてその口にした。
「その聖なる獅子の血には、古の時代より、あの忌まわしきヘルマーチャーと戦うことを宿命づけられた、計り知れぬ使命が課せられておるやもしれぬ…。それは、力ではなく、お前のその清らかな魂と、民を思う慈悲の心、そして何よりも、絶望の中でも決して希望を捨てぬ強い意志によって、果たされるべきものなのじゃろう」
エルミートは、そこで一度激しく咳き込むと、庵の書斎の最も奥まった場所にある、あの重々しい「禁断の扉」を、弱々しい指で指し示した。
「あの扉の奥にはな…獅子の王家が、代々、その命に代えても守り伝えてきた、ヘルマーチャーに関する恐るべき真実と、そして…それに対抗するための、唯一の希望となる知識が、厳重に封印されておる。わしは、かつて若気の至りから、その禁断の知識の一部に触れようとし、取り返しのつかない大きな過ちを犯してしまった…。じゃが、アレクシオスよ、お前ならば…その清らかな魂と、お前の背負う聖痕の導きをもってすれば、その知識を正しく用い、この絶望に覆われた世界を、救うことができるやもしれん…」
エルミートの瞳には、カイルへの絶対的な信頼と、そして世界の未来を託す者の、悲壮なまでの覚悟が浮かんでいた。
「そのためには、まず、王都ボルドーにいる、わしの旧友セドリックを訪ねるのじゃ。彼ならば、お前たちの必ずや助けとなり、そして、あの禁断の扉を開くための、さらなる重要な手がかりを与えてくれるやもしれぬ…」
*
エルミートから告げられた、自らの本名「アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌ」と、「獅子の血脈」というあまりにも重い真実。そして、セドリックからもたらされた世界の危機的状況。それらは、カイルとリアナの心に、消えることのない衝撃と、深い混乱をもたらした。
エルミートは、それ以上多くを語らず、ただ静かに二人の決意が固まるのを待っているかのようだった。しかし、彼の命の灯火が、刻一刻と弱まっているのは、誰の目にも明らかであった。
数日間、カイルは言葉少なになり、一人で森の中を彷徨い、あるいは庵の隅で膝を抱えて深く思い悩んだ。自分が王家の末裔…?世界の闇と戦う宿命…? あまりにも現実離れしたその事実に、彼の心は千々に乱れた。リアナは、そんなカイルの苦悩を痛いほど感じ取りながらも、ただ黙って彼のそばに寄り添い、彼の心が自ら答えを見つけ出すのを、信じて待ち続けた。彼女自身もまた、これから自分たちが歩むであろう道の過酷さと、エルミートとの避けられない別れを予感し、深い悲しみを抱えていた。
そして、数日が過ぎた朝。カイルは、夜明けの薄明かりの中、リアナと共にエルミートの枕元へと進み出た。その顔には、まだ苦悩の色は残っていたが、瞳の奥には、吹っ切れたような、そして悲壮なまでの覚悟の光が宿っていた。
「エルミート様…数日間、考えました。そして、リアナとも…たくさん話しました。僕は…アレクシオス・レオン・ド・アキテーヌは、逃げるわけにはいかないのだと…そう、思いました。僕たちは王都へ向かいます。そして、セドリック様を訪ね、僕に一体何ができるのか。この『獅子の血脈』が、この『獅子の傷痕』が、一体何を意味するのか、その答えを必ずや見つけ出します!」
彼はそこで一度言葉を切り、エルミートの冷たくなった手を、自らの両手で強く握りしめた。
「そして、いつか必ず、あの禁断の扉を開き、この世界を覆う忌まわしき闇に、この僕の全てを賭けて立ち向かってみせます…! それが、エルミート様と、そしてシルヴァン村で、リアナと共に交わした、僕の、決して違えることのない誓いですから…!」
リアナもまた、涙を浮かべながらも、力強く頷いた。
「エルミート様、どうかご無理なさらずに…! 私たち、必ず、必ずエルミート様の元へ、良い報せを持って戻ってまいります! だから、それまで…!」
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「行けっ、アレクシオス! リアナ! もう一刻の猶予もないぞ! わしのことは構うでない! お前たちは生き延び、そしてアキテーヌの…いや、この世界の、最後の未来を、その若い清らかな手で必ずや掴み取るのじゃ!」
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