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53.突然の別れとミカルのお告げ(2)
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「す、すみません。ちょっと昨日のお酒が残ってるせいか、言ってることがわからないんだけども――」
サーシャは聞き間違いかと思って尋ね返した。しかしイデオンの答えは厳しいものだった。
「サーシャ。お前の実家は借金をしているとマリアーノから聞いた。その返済のためには俺とつがいになって子どもを授かる必要があったようだが、つがいになることはできなかったし身籠ることもできなかった。そして我がグエルブ王国はクレムス王国との同盟を断念することとなった」
「え! そんな……」
(クレムスとの同盟をやめちゃうってこと? え、それってまずいんでないの?)
「だから人間のお前がこの国で人質花嫁になる必要は無くなった。実家の借金を返したくば、お前はヴァレンティ男爵と結婚するしかないのだ」
(ちがう。今はもう、単なるお金目当てでここにいるわけじゃないのに――!)
「そんなの嫌です! だってせっかくイデオン様と仲良くなれたところだったじゃないですか」
「サーシャ、これはもう決まったことなんだ」
「したって結婚式で誓いの言葉を言ったの忘れたんですか? そったら勝手なこと許されないべさ。僕ヴァレンティ男爵のところへなんて行きたくないです。イデオン様お願い。昨日寝ちゃったのは謝るからもう一度チャンスを下さい。必ず身籠ってみせますし、うなじだってずっと噛んでと言っても噛んでくれなかったのはイデオン様の方だべさ」
(――僕がたった一回約束をすっぽかして寝ちゃったからって、すぐに見捨てるなんて酷いんでないか)
サーシャが必死で言い募っているのを見たマリアーノが口を挟む。
「サーシャごめんね。実は君が寝てる間に僕たち二人がこういう関係になっちゃったんだ」
そう言ってマリアーノがうなじに手を掛け、襟足の髪を避けた。うつむいたマリアーノのうなじが朝の光に照らされる。そしてその皮膚の表面に傷痕が見えてサーシャはハッと息を呑んだ。
「マリアーノ……それって……」
「うん。そうなんだ。これ、イデオン様に噛んでもらった」
「うそ……嘘だ。なんで? こんなの嘘だべさ、イデオン様?」
嘘だと言ってほしくてイデオンを見上げると彼は眉間にシワを寄せて答えた。
「すまないサーシャ」
(嘘……僕がなんぼ言っても噛んでくれなくて、昨夜ようやくつがいにしてもらえるって思ったのに……なんで? なんでマリアーノとこんなことするの……?)
愕然としたサーシャの元へマリアーノが歩み寄ってくる。そして肩に手を乗せてサーシャの顔を覗き込んできた。
「ごめんねサーシャ。また君の大切な人を奪ってしまって」
「――え……?」
――ごめんねサーシャ。君の大切な人を奪って――……。
(なんだっけこれ? どこかで聞いたことがある。前にも聞いたことある、この言葉……!)
「マリアーノ……思い出した。そうだ、あのときも君が――」
ショックのあまりサーシャは抜け落ちていたこの世界でのある記憶を思い出した。
(学生の頃、僕にはアルファの恋人がいた……)
その恋人とは将来を約束し合っていた。しかしサーシャを巡ってアルファ同士が争い、最後は決闘になってしまった。しかし当日恋人は決闘をすっぽかして別のオメガと駆け落ちしてしまったのだ。
(その相手こそがマリアーノだったじゃないか! こんなことも忘れていただなんて――)
「君が……また僕の大切な人を奪ったんだ」
サーシャが思わずつぶやくとマリアーノが気の毒そうにこちらを見た。
「ごめんね。せっかく前回のことを許してくれたのに。さ、迎えが来ているから馬車に乗って、サーシャ」
「い、嫌だ……嫌だよ。イデオン様お願い、ここにいさせてよ。したって昨日はあんなに真面目な顔して僕のこと大切にするって言ってくれたべさ!」
最後の希望を込めてイデオンに訴えたが彼は静かに首を振った。
(そんな……)
使用人が数名やってきてサーシャを部屋から連れ出した。
◇
サーシャは玄関ホールで防寒具を着せられる。厚手のウールのコートに、耳あて付きの帽子。足元は毛皮のブーツだ。
昨夜は突然大雪が降ったようで、扉の外は見渡す限り真っ白だ。朝の光が雪原に反射し、サーシャの心情とは正反対にキラキラと輝いて見えた。
しっかりと防寒具に包まれたサーシャは使用人に背中を押されて外へ出た。
久々の雪景色を見てサーシャは思わず深呼吸する。肺の中が冷たさを越えてヒリヒリと痛み、鼻の中が凍って一瞬くっつく。
「しばれる……」
吐いた息は真っ白くなって穏やかな風に溶けていった。前世で見たのと変わらぬ雪国の情景にサーシャは懐かしさを覚えた。本当ならばこの地であの雪豹獣人の王と末永く暮らせるはずだったのに――。
「なして僕がヴァレンティ男爵のとこなんて行かないばなんないんだよ。イデオン様のわからずや!」
(あー、なまら腹立ってきた。僕とヴァレンティ男爵との赤ちゃんがめちゃくちゃかわいくっても知らないからね!?)
「後悔すればいいべさ!」
サーシャは毛皮のブーツで降り積もった雪をザクザクと踏みつけた。
「はぁ……」
(ウソ――ほんとは行きたくない……ヴァレンティ男爵との子どもなんて欲しくないよ)
後ろを振り返って数ヶ月を過ごした王宮を眺める。石造りの立派な建物だが、サーシャがもうここを訪れることはないのだろうか。
「サーシャ様、もうそろそろ出発のお時間です」
御者に声を掛けられて仕方なく馬車に乗り込む。使用人がドアを閉めようとしたとき、ものすごい勢いで城の玄関から飛び出して来るものが見えた。サーシャは咄嗟に使用人を止めた。
「ちょっと待って! 閉めないで」
まだ開いていたドアから飛び込んで来た小さな影は、幼い雪豹獣人ミカルだった。
―――――――――
【しばれる】→凍てつくほど寒いこと
サーシャは聞き間違いかと思って尋ね返した。しかしイデオンの答えは厳しいものだった。
「サーシャ。お前の実家は借金をしているとマリアーノから聞いた。その返済のためには俺とつがいになって子どもを授かる必要があったようだが、つがいになることはできなかったし身籠ることもできなかった。そして我がグエルブ王国はクレムス王国との同盟を断念することとなった」
「え! そんな……」
(クレムスとの同盟をやめちゃうってこと? え、それってまずいんでないの?)
「だから人間のお前がこの国で人質花嫁になる必要は無くなった。実家の借金を返したくば、お前はヴァレンティ男爵と結婚するしかないのだ」
(ちがう。今はもう、単なるお金目当てでここにいるわけじゃないのに――!)
「そんなの嫌です! だってせっかくイデオン様と仲良くなれたところだったじゃないですか」
「サーシャ、これはもう決まったことなんだ」
「したって結婚式で誓いの言葉を言ったの忘れたんですか? そったら勝手なこと許されないべさ。僕ヴァレンティ男爵のところへなんて行きたくないです。イデオン様お願い。昨日寝ちゃったのは謝るからもう一度チャンスを下さい。必ず身籠ってみせますし、うなじだってずっと噛んでと言っても噛んでくれなかったのはイデオン様の方だべさ」
(――僕がたった一回約束をすっぽかして寝ちゃったからって、すぐに見捨てるなんて酷いんでないか)
サーシャが必死で言い募っているのを見たマリアーノが口を挟む。
「サーシャごめんね。実は君が寝てる間に僕たち二人がこういう関係になっちゃったんだ」
そう言ってマリアーノがうなじに手を掛け、襟足の髪を避けた。うつむいたマリアーノのうなじが朝の光に照らされる。そしてその皮膚の表面に傷痕が見えてサーシャはハッと息を呑んだ。
「マリアーノ……それって……」
「うん。そうなんだ。これ、イデオン様に噛んでもらった」
「うそ……嘘だ。なんで? こんなの嘘だべさ、イデオン様?」
嘘だと言ってほしくてイデオンを見上げると彼は眉間にシワを寄せて答えた。
「すまないサーシャ」
(嘘……僕がなんぼ言っても噛んでくれなくて、昨夜ようやくつがいにしてもらえるって思ったのに……なんで? なんでマリアーノとこんなことするの……?)
愕然としたサーシャの元へマリアーノが歩み寄ってくる。そして肩に手を乗せてサーシャの顔を覗き込んできた。
「ごめんねサーシャ。また君の大切な人を奪ってしまって」
「――え……?」
――ごめんねサーシャ。君の大切な人を奪って――……。
(なんだっけこれ? どこかで聞いたことがある。前にも聞いたことある、この言葉……!)
「マリアーノ……思い出した。そうだ、あのときも君が――」
ショックのあまりサーシャは抜け落ちていたこの世界でのある記憶を思い出した。
(学生の頃、僕にはアルファの恋人がいた……)
その恋人とは将来を約束し合っていた。しかしサーシャを巡ってアルファ同士が争い、最後は決闘になってしまった。しかし当日恋人は決闘をすっぽかして別のオメガと駆け落ちしてしまったのだ。
(その相手こそがマリアーノだったじゃないか! こんなことも忘れていただなんて――)
「君が……また僕の大切な人を奪ったんだ」
サーシャが思わずつぶやくとマリアーノが気の毒そうにこちらを見た。
「ごめんね。せっかく前回のことを許してくれたのに。さ、迎えが来ているから馬車に乗って、サーシャ」
「い、嫌だ……嫌だよ。イデオン様お願い、ここにいさせてよ。したって昨日はあんなに真面目な顔して僕のこと大切にするって言ってくれたべさ!」
最後の希望を込めてイデオンに訴えたが彼は静かに首を振った。
(そんな……)
使用人が数名やってきてサーシャを部屋から連れ出した。
◇
サーシャは玄関ホールで防寒具を着せられる。厚手のウールのコートに、耳あて付きの帽子。足元は毛皮のブーツだ。
昨夜は突然大雪が降ったようで、扉の外は見渡す限り真っ白だ。朝の光が雪原に反射し、サーシャの心情とは正反対にキラキラと輝いて見えた。
しっかりと防寒具に包まれたサーシャは使用人に背中を押されて外へ出た。
久々の雪景色を見てサーシャは思わず深呼吸する。肺の中が冷たさを越えてヒリヒリと痛み、鼻の中が凍って一瞬くっつく。
「しばれる……」
吐いた息は真っ白くなって穏やかな風に溶けていった。前世で見たのと変わらぬ雪国の情景にサーシャは懐かしさを覚えた。本当ならばこの地であの雪豹獣人の王と末永く暮らせるはずだったのに――。
「なして僕がヴァレンティ男爵のとこなんて行かないばなんないんだよ。イデオン様のわからずや!」
(あー、なまら腹立ってきた。僕とヴァレンティ男爵との赤ちゃんがめちゃくちゃかわいくっても知らないからね!?)
「後悔すればいいべさ!」
サーシャは毛皮のブーツで降り積もった雪をザクザクと踏みつけた。
「はぁ……」
(ウソ――ほんとは行きたくない……ヴァレンティ男爵との子どもなんて欲しくないよ)
後ろを振り返って数ヶ月を過ごした王宮を眺める。石造りの立派な建物だが、サーシャがもうここを訪れることはないのだろうか。
「サーシャ様、もうそろそろ出発のお時間です」
御者に声を掛けられて仕方なく馬車に乗り込む。使用人がドアを閉めようとしたとき、ものすごい勢いで城の玄関から飛び出して来るものが見えた。サーシャは咄嗟に使用人を止めた。
「ちょっと待って! 閉めないで」
まだ開いていたドアから飛び込んで来た小さな影は、幼い雪豹獣人ミカルだった。
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【しばれる】→凍てつくほど寒いこと
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