本命は君♡

ラティ

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 ピンポーン
 室内に鳴り響くインターホンの音に、重たい瞼を開ける。季節は冬に傾きかけていて、そのせいか窓からの光は少し弱い。ゆっくりと上体を起こし、頭のうえにある目覚ましに触れた。

 眠気に抗いながら時刻を確認した私は、ぽかんと口を開ける。

「……しちじはん」

 表示されているのは7:30という数字。普段なら家を出るじかん。そして月という漢字。つまりは月曜日。一限から大学の授業がある日だ。

「やばいやばいやばいやばい」

 完全に目が覚めた私は、着ていたパジャマをはぎ取り、服を着ながら洗面所に向かった。顔に水をかけ歯を磨いて、わけも分からぬままバッグを片手に玄関を開ける。

「ご、ごめっ……ごめん!」

 目の前に立っている男。私の幼なじみである小野おの駿太しゅんたは、私の姿を見るなり苦笑した。
 黒髪センター分けのパーマに、柴犬みたいな丸いつり目。大学生になって大人っぽさは出てきたけれど、笑う時の表情は未だに可愛い。

「さては今起きたな! すげー髪ボサボサだぞ」
「えっ、あ、い、急いでたから」

 駿太は、手をのばし寝癖を直そうとしてくる。縮まった距離に、私の心臓はドクンと高鳴った。
 小さい頃からずっと一緒で、優しくて頼りになる。そんな駿太を、気づけば好きになっていた。
 ロングが好みだと言っていたから、茶色い髪を伸ばしているのも、綺麗な人がタイプだと言っていたから、趣味じゃない大人な服を着ているのも、鈍感な幼なじみは知らない。
 生まれた時から持っている、童顔や、百五十センチの身長はどうしようもできないから諦めた。
 少しでも一緒にいたくて、大学も同じにした。

「夜更かしでもした?」
「うん。この前勧めてくれたゲームあったでしょ? あれやってたら楽しくなっちゃって、寝るの遅くなっちゃったんだよね」
「え、まじ? 今度やろーぜ」
「うん」

  ずっとこのままでいたい。
 本音をいうと恋人になりたい。でも過去に、私が彼女になったらどう思う? というような質問をしたら、「考えたことねーわ! 家族みたいなもんだし」と言われた。
 駿太は私のことをそういう目で見ていない。だから私は今の関係性を壊さないようにしている。
 振られた後、幼なじみという立場には戻れないだろうから。

 ……辛いな。
 はぁと漏れるため息。すると駿太が、寒い? と尋ねてきた。

「ううん、まだちょっと眠いだけ」
「おぉ。……あ、そいえば、サークルの集まりあるから、今日は琴葉ことは先帰ってて」
「サークル?」
「そ、みんなの予定合わなくて一日ずれたんだよ」

 あくびをする駿太の横顔はいつも通り。私がどういうこと? と返すと、こちらを向いてぽかんとした。
 
「何が?」
「サークル入ってるの。私知らなかった」
「え、俺言ったけどなー、あれじゃね、琴葉課題に追われてたから、聞こえてなかったとか。活動日もちょうど帰る時間バラバラな日だったし」

 そっかと返事をする。言われてみれば確かに、一年生で、生活に慣れてないというのもあり、前期はスケジュールがパンパンに詰まっていた。いきるのが精一杯という感じで、他を気にする余裕などなかった。後期に入った今は、落ち着いてきたけれど。
 もごもごと口を動かし、数秒してから話しかける。

「女の人とか、結構いるの?」
「あー……まぁ何人かいる。全員とあったことないから分かんないけど。くるこないとか自由だし、てかなんで?」
「いや、ちょっと、気になって」
 
 苦笑いをして誤魔化す。駿太はふーんと頷き、数秒してから、くる? と聞いてきた。

「え」
「いや、入りたいのかと思って、見学というか、体験とかもできるし」

 提案に、入りたい! と大きな声を出してしまった。
 駿太はビクリと体をはねさせ、「おー、わかった」と小さく笑った。

「あれ、そういえばなんのサークルなの?」
「ん? あ~、カラオケ。次にみんなであつまる日いつにするか今日決めるんだって、とりあえず先輩に琴葉がくること伝えとくわ」

 ポケットからスマホを取り出し、触る駿太に、うん、と答える。先輩って、女の人なのかな……。

 それからは特に変わったことはなく、いつも通り電車に乗って大学に向かった。一、二限は駿太と授業が被っているが、その後は放課後までべつの授業なので、またあとで、と言って別れた。
 三限は空きコマ。四、五限は、本当は駿太と一緒の授業を受けたかったけれど、人気すぎて取れなかった。

 そんなこんなでいつの間にか放課後になっていた。
 駿太と合流し、いつも活動しているという部屋に向かう。
 着いた場所は、目立たない、建物のすみっこの教室だった。

「ここなの?」
「そー」
「……駿太がカラオケって、印象あんまなかったな」
「あ~、なんかこの大学サークルの種類少ないだろ、あんまいいのなくて迷ってたら、授業で仲良くなった先輩に勧められてさ」

 朝言っていたと同じ人だろうか。扉を開ける駿太に続いて、私も足を進めた。

「こんにちはー、伝えてた入りたいって子で、俺の幼なじみなんですけど、連れてきました」

 恐る恐る前を見る。

「女の子じゃん。かわい」

 パイプ椅子に座り、足を組んでいる男。
 金髪メッシュのツーブロックに、ピアスにネックレス、ブカブカの黒いTシャツには、謎のロゴがついている。
 ヤンキーみたいな格好。とてつもなく怖い。
 でも、高い鼻と細いタレ目、引き締まった輪郭。バランスが良く、かっこいい顔をしていた。

 視線を動かすと、ヤンキーみたいな人の他にも、複数の男女が立っていた。全員サークルのメンバーだろうか。というか、ほんとに安全な集まりなのだろうか。

 放心状態の私の肩に、ポンと重みがのっかる、驚いて上を見たら、駿太が私を引き寄せてきた。

「あんまりビビらせないでくださいよ、雅空がく先輩、初対面だと怖いんですから。あ、琴葉、この人が俺が仲良くしてる先輩」
「え~。でも、オレ優しいよ。……女の子にはとくに」

 ガタンと音をたてて、ヤンキーの人――雅空先輩だと思われる人が立ち上がり、近づいてきた。
 百八十センチの駿太よりも背が高くて、多分百九十センチくらいある。
 上を向いたら首が痛かった。

「はじめましてー。みんな下の名前の雅空がくに先輩ってつけて呼んでくるけど、呼び捨てでもいーよ、君は?」
「えっと、い、今井いまい琴葉ことはです」

 駿太を間にはさみながら名乗る。

「琴葉ちゃんね、なんか困ったことあったら聞いてね。個人的な質問も大歓迎~……いてっ」

 近くにいた男の人が雅空先輩の頭を叩いた。

 「ごめんね、こいつ女の子大好きな変態だから気にしないで。食い荒らしまくっては捨てて、泣かせてるクズでもあるから、あんまり近づかない方がいいよ」

 私は黙って頷いた。「え~、ひどいなぁ。この前の子は、束縛しないでね、って言ったのに約束破ったから、ちょっと強く言っただけだけど」という声が耳に入ってきたが、聞こえないフリをした。

 駿太がフォローのつもりか、「悪い人じゃないから」と伝えてくる。同意はできなくて、ははと、愛想笑いをした。
 でも、ほっと胸を撫で下ろす。先輩が男の人で良かったと思った。

 それから、どんな活動をするんだろうと思っていた私は、衝撃を受けた。
 最初の数分は、みんなで話し合いをして、来月末にカラオケに行く、という予定をたてていたのに、一段落すると、それぞれで雑談をし始め、一部ではゲームもやりだして、動物園状態になっていた。
 
 駿太は近くの人達と喋っているので、私は目立たない場所で大人しくすることにした。やることもなく、辺りを見ていたら、綺麗な女の人二人と、雅空先輩が、イチャイチャしているのが目に入った。

 そこだけ空気が怪しい。視線をそらそうとしたら、雅空先輩がこちらを見た。慌てて顔を背ける。何も起こりませんようにと願っていたが、足音がやってきて、私の前で止まった。

「こーとはちゃん」

 語尾にハートがつきそうな勢いで名前を呼ばれる。緊張で動けずにいると、雅空先輩がしゃがみこんできた。

「どうしたの。暇? オレと遊ぶ?」

 にっこりと不敵な笑みを浮かべている。
 否定も肯定もできなくて、唇を噛み締めた。

「……オレ怖い? 酷いこととかしないよ」

 手が伸びてきて、思わず目をつぶる。けれど、予想してた感触はなくて、ちらりと確認した。

「俺の幼なじみいじめないでくださいよ、琴葉大丈夫か? そろそろ帰るか」

 駿太が、いつの間にかそばに立っていた。安堵が体を襲う。

「う、うん。帰る」

 引っ張られて立ち上がった。足が少しだけ震えていた。

「駿太にめっちゃ懐いてるじゃん」
「そんなんじゃないですよ、小さい頃から一緒にいるってだけで、家族みたいなものなんで」

 な! と振り向いた駿太に、「そ、そうだね」と無理やり同意した。
 帰るために、駿太と教室を出る。頭を下げてから立ち去った。

 帰り道、駿太が「やっぱ入るのやめる? サークルっていっても、遊んでるだけだし」と言ってきた。

「だ、大丈夫」

 確かに、空気感は合わない。けれど、女の人もたくさんいたし、知らない場所で駿太が誰かといるのは嫌だ。私は首を横に振った。駿太は複雑そうな表情をしていたけれど、わかった、と納得してくれた。

 次の日から私は、駿太と一緒にサークルに顔を出すようになった。最初はガチガチに緊張していたが、何回も行ってると、少しずつ慣れてきて、他の人と会話もできるようになった。
 ただ、雅空先輩に喋りかけられると、上手く喋れない。
 違う人種という感じがして、落ち着かない。まごついてしまう。そのせいか、最近は話しかけられることはなくなってきた。多分私に飽きたのだろう。
 気が楽なので、個人的には助かる。

 そして、一ヶ月ほど経った。活動部屋に移動するため、駿太を待っていたら、教授に課題の質問したいから先行ってて! 、というメッセージが送られてきた。了解のスタンプを押し、歩きだす。

 数分もしないうちに目的地につき、扉を開けた。ガランとしている。重要な集まりがある時は賑わっているが、普段は人がいない。一応活動日があるから来てはいるけれど、別にこなくてもいいのではと思う。

 窓辺の机に、パソコンを置き、そばにあるパイプ椅子に座った。レポート提出が明日までなのに、全然進んでいなかったのだ。
 カタカタと、入力音が響く。上手く文章が作れなくて、全然進まない。
 ふー、と息を吐き、のびをした。
 その瞬間、ガチャリとドアが開けられ、誰かがやってきた。
 駿太だと思って、声をかけようとした私は、口を塞いだ。

「……あれ~、琴葉ちゃんじゃん。てか、全然人いないね」

 入ってきたのは雅空先輩だった。緩慢かんまんな動きで、そばにくる。
 私は、あ、とか、え、とかいう単語しか口に出せずに先輩を見つめた。

「何やってたの?」

 首を傾げて問われる。
 私は、逡巡したあと、「れ、レポートやってました」と答えた。

「なるほどね、課題か。あ、手伝ってあげよーか?」

 見下ろされる。喉に言葉が張り付いて出てこない。黙っている私に、雅空先輩は、突然「駿太くるの?」と尋ねてきた。へ?、と間抜けな声が漏れる。

「ひとりでここいるのめずらしーからさ」
「……あ、えと、はい。あとできます」
「そっか」

 雅空先輩は、畳まれて壁に置かれたパイプ椅子を組み立て、私のそばにドカリと座った。
 え、なんで、という疑問に、気づいているのかいないのかは分からないが、雅空先輩は続ける。

「駿太ってコミ力高くていいやつだよね」

 予想外の内容に、目を見開く。
 そう思わない? と聞かれたので、私は、「はい」と返事をした。

「……私も、そう思います」
「だよねー」
「や、優しいし、困ってる人がいたらすぐ助けるんですよ。こ、この前も歩いてたら、おばあちゃんが荷物重そうにしてて、そしたら駿太が話しかけて、荷物持ってあげたりして。昔からずっと変わらなくて、強そうに見えるけど、案外怖いの苦手だったりして、私が――」

 はっと、我に返る。駿太のことについて、喋れる相手がいなかったから、調子に乗ってしまった。引かれてたらどうしようと、雅空先輩を見たが、真顔だった。
 シーンと沈黙が流れる。拳を握り、下を向いたら、「へー、相当好きなんだね」と言われた。

「えっ……あ……す、好きって……」

 ぶわりと体温が上がる。違うと否定しようとしたら、舌をかんだ。

「え~、それで好きじゃないって無理があるでしょ。めっちゃ楽しそうに喋ってたけど」

 図星をつかれて言葉につまる。
 どうにかこの人の記憶を消す方法はないかと思案していたら、雅空先輩が口を開いた。

「協力してあげるよ。まぁ、協力っていっても大したことはできないけど、それとなく二人になれるようにしたりとか、なんかあったら手伝ってあげる」
「いや、あの、でも……駿太は私のことなんとも思ってないですし……」
「琴葉ちゃんを家族って言ってるくらいだし、大切なことにはかわりないでしょ、大丈夫大丈夫、なんとかなるって。多分」

 ずいぶん適当だなと思ったが、駿太のことを褒めたり、協力しようとしてくれたり、実はいい人なのかもしれない。第一印象最悪だったけれど。

「その……なんで協力してくれるんですか」
「えー……ん~、琴葉ちゃんオレのこと嫌いでしょ?」

 ぎくりと、体が強ばる。関係のない話題に疑問をいだきつつも、そんなことないです、と絞り出して発した。そうしたら、「ほんとに?」と再度聞かれた。

「あっ……ち、ちょっとだけ苦手だなって、思ってました」

 圧に耐えきれなくて白状すると、雅空先輩はくくくと笑った。

「あんま変わんないじゃん。てか、素直にいっちゃうんだ、うける」

 ツボにハマったのか、雅空先輩がお腹をかかえ声をあげた。面白いことなんて何も言ってないんだけど、と、私は若干引いた。

「えーと、で、なんで協力するかだっけ? 別に大した理由じゃないけど、オレ女の子には好かれたいからさ。優しくするよーにしてるの。だってそっちの方が都合いいし」

 目元を拭いながら雅空先輩が答える。
 本当に大した理由じゃないときってあるんだと、心の中でツッコんだ。
 初めてあった時に、他の先輩が、雅空先輩はクズで、女の子を泣かせる、と言っていたのを思い出し、質問した。

「あの……でも、前に、女の人泣かせたクズだ、とか、言われてませんでしたか……? 言ってることと、ちょっと、違うような気がするんですけど……」

 雅空先輩はキョトンとした顔をして、次にニンマリと口角をあげた。

「好かれたいより、めんどいから切りたいの気持ちのが強くなったってだけ。例外だよ例外~。オレ彼女とか作りたくないんだよねー、だって女の子みんな好きだし、ひとりとかに決められなくない? 束縛されるのもいやだし。でも泣いた子は、なんかキャンキャンうるさかったから、優しくするのやめたんだよね」

 クズの模範解答みたいな返事に、絶句する。聞かなきゃ良かった。やっぱり悪い人だった。
 相槌をうつきにもなれず、軽蔑の目で見てしまう。

「あ、協力のお返しは、可愛い女の子紹介してくれればいいよ」

 飛んできた言葉に、肩を落とした。目当てはそっちか。

 ガチャリ
 扉があいた。見れば、駿太がいた。
 うおっ、と驚いて、数歩後ろに下がっている。

「びっくりした、雅空先輩もいたんですね」
「え~そんな驚く? 結構距離あったけど」
「いや、なんか、オーラ? というか圧というかがあるんですよ。めっちゃ体から出てます」
「何それ、体臭とか言わないよね。嫌なんだけど」

 二人の会話を傍観する。突然こちらを向いた雅空先輩は、わざとらしく、あ!、と叫んだ。

「オレこの後デートの約束あるから、ばいばーい。ごゆっくり~」

 気を使ってくれたのか、それとも本当に予定があるのかは分からないけれど、ニヤニヤとした顔で去っていったので、少しムカついた。

 駿太は意味が分からないといった表情で、「あ、はい」と返した。

 結局、サークルメンバーは来ないし、やることもなかったので、軽く雑談をしてから私達は帰宅した。

 翌日から、駿太といる時に雅空先輩に遭遇すると、謎のお節介をしてくるようになった。
 無理やりくっつけてきたり、駿太に際どい質問をしたり。協力どころか、むしろ邪魔をしてきてるようにも感じる。てっきり、駿太に私を意識するようにさりげなく助けてくれるのかと思っていたが、これじゃあバレバレだ。
 私が片思いしてることに気づかれてしまう。
 意識されてない状態で、私が好きだと伝えたら、きっと振られる。

 辞めさせるにも、タイミングがない。

 モンモンとしたまま時が過ぎ、いつの間にか、サークルメンバーでカラオケに行く日がやってきた。
 
 大人数で来たことなんてなかったから、落ち着かない。個室に入り、どこに座るか考えていたら、後ろにいた雅空先輩が、「じゃあ、奥が駿太で、次が琴葉ちゃんね」と言って、押してきた。もう一方の隣には、他の一年生が座ってきて、向かい側に雅空先輩達が並んだ。

 みんなすぐにメニューを見たり、曲を入れている。展開の速さについていけない。黙っていたら、駿太が、「雅空先輩になんかされた?」と耳打ちしてきた。

「な、なんもされてないけど、どうして?」
「いや、だって最近、会う度よくわかんない感じで絡まれるだろ」
「……そうかな。気のせいじゃないかな。いつもそんな感じだし」

 絶対私のせいだと、冷や汗をかく。
 誤魔化したおかげで、それもそーか、と思い直してくれたが、やっぱり違和感を与えていた。雅空先輩に指摘しておかないと、と顔を向ける。
 先輩は、何人かと、グラスを片手に喋っていた。

「え、雅空飲まねーの?」
「今、酒の気分じゃないからパス」
「はぁ! いつもめっちゃ飲んでんじゃん、ノリ悪くね」

 会話内容が聞こえてくる。飲み物を断る雅空先輩は、なんだかいつもよりテンションが低い。

「麦茶あるし。別に飲まなくてもいいでしょ」
「シラフんときの雅空つまんねーんだよ!」

 酷い言いようだなと眺めていると、雅空先輩と目が合った。

「おい、雅空どこ見て……、あ! 今井さんも、こいつつまんねーっておもうよね!」

 急に話を振られて、体が震える。
 えっと、と言葉を詰まらせると、雅空先輩に対する愚痴を、さらに投げられた。そこまで言うほどか、と思ってしまう。
 雅空先輩は、何も言わずに机をぼーっと眺めている。やっぱり様子が変だ。
 私は意を決して、「お、思いません!」と返した。
 
 私に同意を求めてきた男の人は、「は?」と、眉間に皺を寄せた。
 ここで、はいそうですねなんて言えるわけないし、そんな性格の悪い人にはなりたくなかった。
 でも、この場に居続ける勇気もなくて、立ち上がった。タイミングも良かったので、雅空先輩にちょっといいですかと声をかけて連れ出す。
 雅空先輩だって、ここにいたくはないだろう。

 通路を歩いていると、無言だった雅空先輩が、「どうしたの、急に」と話しかけてきた。

「え、あ……すみません」
「いや、別にいいけど」
「なんか、嫌な空気だったので」
「あ~、まぁ、よくあるよ」

 スタスタと、横を通り過ぎていく。私はその背中に、「あの、大丈夫ですか?」と尋ねた。

「……何が?」
「いや、なんか……もしかして体調悪いんじゃないですか? もしあれだったら、帰ったって、私言いますけど」

 しりすぼみになりながらも伝えると、振り返った雅空先輩は目を見開いた。

「よく分かったね」
「え、あ、やっぱり……。だって、今日全然笑ってなかったので。普段は怖いくらいにやにやしてるのに」
「なんかディスられてる気がするんだけど」

 口をとがらせ不満そうだ。
 私は否定した。先輩に近づき、「悪口だと思って言ったわけじゃないです。あと、雅空先輩は別に、つまらなくはないと思います」と発した。
 
 先輩は私のセリフに苦笑した。

「え~なに、オレが傷ついてると思って言ってくれたの? やさしーね。オレのこと好きなの?」

 腰をまげ、顔を近づけてくる。声のトーンはいつもと同じなのに、表情がやけに真剣だった。

「……違います」
「だよね~、駿太のこと大好きなんだもんね。ずっと気にしてるっぽいし」
「そ、そんな盲目的じゃありません!」
「うん。まぁ……確かに。オレのことも気にしてくれてたもんね」

 その言葉を聞いて私は思い出した。雅空先輩を気にしていたのは、協力という名のお節介を、やめて欲しかったからだ。

「あの、もう、駿太とくっつけようとしてくれるのとか。協力とか、しなくていいです」
「え、なんで? 好きじゃなくなった?」
「ち、違いますけど、その、駿太も変だなって思ってたみたいなので」
「ふーん、まぁいいけど」

 微妙な返事の後、私の腕を掴んできた。驚いて顔を上げれば、じゃあ戻ろっかと、口角をあげ楽しそうな雅空先輩がいた。
 困惑して、抵抗もできないままズルズルと引っ張られる。体調は大丈夫なのかと心配したら、「琴葉ちゃんと喋ってたら、なんか治った」と、意味のわからないことを言った。

 戻ってから、駿太の隣に行こうとしたら、琴葉ちゃんはこっちねと、雅空先輩のそばに座らせられた。

「な、なんでですか」
「オレの隣嫌なの? え~傷つくー」

 話をすり替えられた。
 何度か異を唱えたが、全然相手にしてもらえなかった。
 残り時間はずっと雅空先輩に付きまとわれて終わった。

 ***

 三週間が経った。カラオケに行った日から、雅空先輩とすれちがうとよく話しかけられる。
 苦手意識はもうなくなったが、距離感がバグっているのが気になる。
 放課後、サークル部屋で駿太と数人で喋っていると、たまにしか顔を出さない雅空先輩がやってきた。

「お~、今日結構いるね」と声をかけてきた先輩に、言葉を失う。真っ赤に腫れている頬に、血が滲んでいる唇。明らかに修羅場をくぐり抜けてきたであろう姿に、部屋にいた全員が口をあけた。

「おい、雅空どうしたの? めっちゃ怪我してるけど」

 メンバーのひとりが指さすと、「あ、これ? いやぁ、なんか女の子とトラブっちゃって、めっちゃ怒ってるから、逃げてきちゃった」とケラケラ笑いだした。

 大丈夫ですか、と駿太が言うと、「大丈夫大丈夫」と言い、手を振りながら部屋の隅の椅子に座った。
 他の人は、しばらく雅空先輩を見ていたが、すぐになんでもなかったかのように会話を再開した。
 私は気になって仕方がなかった。みんな冷たくないか。普段の行いのせいだろうか。

 元からみんなの会話にうまく入れてなかった私は、その場からそっと離れた。ポケットからハンカチを取りだし、雅空先輩の元へ向かう。

「……あの、使いますか?」

 先輩は一瞬表情を消してから、破顔した。

「うん。ありがとー」

 踵を返し戻ろうとしたら、背後から腕を掴まれた。

「え?」
「ねぇ、琴葉ちゃんが拭いてよ」
「な、なんでですか」
「え~、いいでしょ、痛くて自分じゃ触れないからさぁ」

 ね? と、上目遣いでお願いしてくる。断りきれなくて、私はハンカチを持ち、少し乱暴に口元を拭った。
 いてっ、と小さく呻いているが、知らない。

「ねー琴葉ちゃん」

 名前を呼ばれたので、なんですかと返事をする。

「ぎゅってしていい?」

「は」と思わずこぼしてしまう。

「無理です、嫌です。もう拭き終わったので……」
「……別にいいじゃん。行かないでよ、オレ嬉しかったのに、琴葉ちゃんから喋りかけてくることないからさ」

 ブツブツと何かを言っている雅空先輩を気にせず、私は駿太たちの場所に向かった。
 やっぱり距離感がおかしい。
 あんまり関わらないようにしよう。
 そう思った。

 けれど、次のサークル活動の時、また雅空先輩がやってきた。しかも傷を作って。
 にんまりと、犬が獲物を飼い主に持ってきた時のような顔をして、私の前に立ち、「また怪我しちゃったから手当して」と、嬉しそうに言ってくる。
 怪我の具合がまぁまぁ酷いので、無視もできずに絆創膏を渡した。
 偶然だろうと思っていたこの出来事は、毎回起こることになる。
 サークルの日は欠かさず来て、怪我を私にみせ、手当してとねだってくるのだ。意味がわからない。
 なんでですかと聞けば、「サークルくれば、琴葉ちゃんと喋れるでしょ、優しくもしてくれるし」とこれまた意味のわからない答えが返ってきた。
 最初は変に思っていた私も、次第に慣れ始めた。そして、ある時いつものようにサークルの部屋に向かうため、駿太を待っていたら、少し遅れて駿太と雅空先輩がやってきた。

「ごめん、またせた」と手をあげる駿太の鼻からは、少量ではあるが血が出ている。

「な、え、ど、どうしたの」
「ここにくるまでにさ、雅空先輩がなんか女の人とトラブってて乱闘してたから間入ったら、こう、グーパンチされて、鼻に」

 言われて隣を見ると、雅空先輩も顔に怪我をしていた。
 私は慌てて駿太の手をつかみ、サークル部屋に連れていった。中では、二、三人が談笑していたが、構わず駿太を近くの椅子に座らせた。

「は、鼻血は、し、下向いたら良いって聞いたから、動かないでね。……大丈夫、痛い?」

 ティッシュを取り出して、垂れた血を拭う。

「対して痛くもないから大丈夫、琴葉、俺より動揺してんじゃん!」

 そんな泣きそうな顔すんなよと、私の頭を撫でてくる。
 元気な駿太に安堵した。
 
 聞きなれた声が、耳に入ってきて、振り返った。見れば、雅空先輩がいた。

「……ねぇ、オレのことも手当して」

 ボソリと頼んでくる。私は、首を横に振って、「すみません」と謝罪した。

「今日はもう、駿太と帰るので、他の人にお願いしてください」
「え、帰んの! こんくらい問題ねーけど」
「ダメだよ。血出てるし」

 大袈裟だと駿太に指摘されたが、私は譲らなかった。血がある程度止まってから、「先に失礼します」と残し、帰った。

 ***
 
 あくる日、お昼ご飯を食堂でたべていたら、頭上に影が落ちた。

「琴葉ちゃん」

 ガタリと音をたて、隣に誰かが座る。

「あ、雅空先輩」
「いつもここで食べてんの?」
「えっと、まぁたまに」

 口の中の白米を飲み込み、答える。
 雅空先輩は、頬杖をつきながら、私をじっと見てきた。

「あの、なんですか」
「いや、別に」
「……そうですか」

 あんまりこっちを見ないで欲しい。
 定食を平らげ、食器を戻そうとしたら、先輩が喋りかけてきた。

「ねぇ、あんな鈍感くんよりオレにしてよ」
「はい?」
「オレのこと好きになりなよ」
「え、なんですか急に」
「なんか急にそう思ったんだよね~。オレもよくわかんないけど」

 会って話をする度に、雅空先輩と意思疎通ができなくなってる気がする。
 私はトレーを持ち、返却口に向かった。当たり前のように先輩はついてくる。

「じゃあさ、デートしようよデート」
「しません」
「えー……あ、じゃあ好きなタイプ教えてよ」
「タイプ……?」
「そう。タイプくらいあるでしょ」

 ないです。と言おうとしたら、頭に駿太の姿が思い浮かんだ。無意識に、「パーマの黒髪で、つり目で、笑うと可愛い人」と言っていた。

「……何それ、全部駿太じゃん。オレ好きな人言えっていってないんだけど」

 突然機嫌が悪くなった雅空先輩が、はぁと、ため息をつく。態度の変わりようが怖い。

「えっと……すみません」
「あー……、いや、うん。オレも言い過ぎちゃった。ごめんもう行くね」

 先輩は頭をかきながら、去っていった。残された私は、状況が理解できず、しばらく突っ立ったままだった。

 雅空先輩は、それから私にデートをしないかと誘ってくるようになった。駿太といても言うので、誤解されないようにするのが大変だった。
 サークル以外のお昼休みにも、私の隣にやってきて、ペラペラと喋りかけてくる。

 今日も、お弁当を食べていたら「ふたりでどっかいこーよ」と提案された。無理ですと断ろうとした時、駿太がそろそろ誕生日なことを思い出した。

「あの……雅空先輩って駿太と結構仲良いですよね」
「え、何。……まぁ多少はいいんじゃない」

 それよりさ、と話題を変えようとした先輩に、「一緒に選んで欲しいものがあるので、日曜日小物屋さんに行きませんか」と誘った。

「え、ふたりで?」
「はい。すぐ終わると思うので」
「もちろん行く。え、どうする? 映画とか見る?」
「見ません」
「そう。ま、いいや、何着てこう。琴葉ちゃんもオシャレしてきてね。せっかくのデートなんだし。普段のでも可愛いから別にいいけどさ」
「デートじゃないですけど……」
 
 訂正するが、全然話を聞いてない先輩は、あそこに行って、ここに行って、と一人でスケジュールを組み始めた。
 もういいやと、早々に諦める。
 先輩と連絡先を交換してから、その日は別れた。

 ***

 当日、待ち合わせ場所には、先に雅空先輩がいた。
 普段よりも派手な装飾がついた服を着ている。

「すみません、お待たせしました」
「ぜーんぜん待ってないよ」

 頭を下げ、行きましょうと声をかける。右手が暖かくなって、見れば、先輩が手を繋ごうとしてきた。

「あの、なんですか」
「だってデートだし、手繋ぎたいじゃん」
「デートじゃないです」
「冷たいなぁ」

 腕を引っ込めて、少し早足で歩く。後ろからはブーブー文句を言われた。
 数分後に、淡い色合いのお店についた。中に入って、商品を見て回る。
 たくさんあるなぁと思っていたら、雅空先輩が、謎の置物を持ってきた。

「これとかどー?」
「なんですか、それ」
「よくわかんない生き物」
「……いらないです」
「てか、何探してるの?」

 首を傾げる先輩に、「言ってませんでしたっけ」と説明する。

「駿太の誕生日がそろそろなので、プレゼント一緒に選んで欲しくって。仲良いって言ってたので、今欲しいものとかわかるかなって」

 伝えると、何それ、という低い声が返ってきた。

「そのためにきたの? 駿太駿太って、ずっとそればっかじゃん。いい加減離れたら? オレだってそんなことのために時間作るほど暇じゃないんだけど」

 ヒュっと口から息が漏れる。鋭い視線を感じる。
 最近の先輩は、駿太の話をすると、機嫌が悪くなる。気のせいかと思っていたが、そうではないみたいだ。
 いつものヘラヘラとしたテンションから、急に変わるので、余計に怖い。私は俯いて、謝った。

「……す、すみません。あの、やっぱりひとりで選ぶので、もう帰って大丈夫です」

 もう一度すみませんと口にする。
 ガッと、肩を掴まれた。

「待って、いや、それはないでしょ。別に帰りたい訳じゃないんだけど……あのさ、……今日さ、オレ、他の女の子からの誘い全部けってきたんだよ。だからさ、うん……。いや、ごめん、オレが悪かった。やめよ。今のもさっきのも忘れて。なんか楽しいことしよ。ゲーセンとか行く? どこ行く? 琴葉ちゃんが行きたいとこでいーからさ」

 わざとらしく、先輩が空気を変えた。私は「……えっと、はい」という言葉以上は何もいえずに黙った。
 腕を引かれ、外に連れ出される。
 駿太のプレゼントは買えないまま、喫茶店に行くことになった。
 
 店に入り、案内されたソファ席に座ると、何故か先輩が隣にきた。

「あの、なんで隣なんですか」
「え、あー……なんか逃げそうだから……って、まぁそれより、なんか頼もう。女の子って甘いもの好きでしょ、ここの美味しいし。せっかくのお出かけだから楽しも。オレが払うからさ」
「はぁ、まぁ普通ですけど。来たことあるんですね」
「あ、違うよ? 全然大した関係の子じゃないし、たまたまね。どうでもいい子だし、本当になんとも思ってないし」

 必死に弁解をしてくるが、こちらとしてはどうでもいい。
 そんなに詳しく説明しなくていいですよ、と伝えれば、先輩は変な顔をした。
 すぐに頼んだスイーツがやってきて、食べましょうと声をかける。
 うん、と答えた先輩は、なかなか手を動かさないので、先に口をつけることにした。
 もぐもぐと咀嚼していたら、雅空先輩から視線を注がれていることに気づいた。

「あの、食べにくいんですけど」
「……気にしないで」

 いや気になるわ、という不満を、ぐっと心にとどめる。

「なんかいい匂いするね」
「シロップとかじゃないですか」
「いや、琴葉ちゃんからする。香水つけてる?」
「え、使ってないですけど、シャンプーですかね」
「へーなんのやつ?」

 市販のシャンプーの名前を答えると、「ふーん」という曖昧な返事をされた。
 今更だけれど、さっきより距離が近い。
 離れても、先輩がすぐに寄ってくる。何がしたいのか全然分からない。

 早く帰りたいなと思い、食べ終わって会計を済ませたあと、用事があるのでと嘘をついて逃げた。

 ***

 月曜日、お昼どき、目立たない場所にいたのに、雅空先輩はやってきた。
 今度はいったい何をされるんだろうと身構えていたら、「ねぇねぇなんか気づかない?」と問われた。

「えっ……機嫌がいい、とかですか?」
「オレいっつも機嫌いいつもりだけど。そうじゃなくて~、いい匂いしない? シャンプー、変えたんだ。琴葉ちゃんと同じやつに」

 衝撃の事実に、持っていたスマホを落としそうになる。

「ど、どういうことですか」
「え、だから、シャンプー同じのにしたの。あ、石鹸とか持ち物とかもどこで買ったかおしえてよ」
「なんで……」
「琴葉ちゃんと同じにしたいから。お揃いってテンション上がらない?」

 気持ち悪いということを自覚してないのか、いつも通りの雅空先輩。

「あの、ちょっと、流石に怖いです」
「なんで?」
「いや、だって、き、急に女の人から、シャンプーと使ってるもの全部一緒にしたいって言われたらどう思いますか、教えます?」
「え、無理だけど、キモイじゃん」

 それがわかってるのに、なんで聞いてきたんだろう。

「あれ、オレ同じことしてた?」
「……はい」
「あー……えー……」

 何故か先輩も困りだして、沈黙が流れる。

「いやぁうん。冗談。ごめん、ふざけちゃった」

 ちょっとからかっただけだよと、ほっぺをつついてくる。
 心の平穏の為にも、そういうことにしようと思った。

「ねぇ、あのさ、オレと付き合ってよ」

 あまりの温度差に咳き込む。

「なんですか急に……。というか、そうやって、女の人口説くの、やめた方がいいと思いますよ」
「本気で口説いてんだけど」
「先輩は別に、私のこと好きなわけじゃないですよね」

 雅空先輩はうーんと悩んでから、「好きとか、わかんないんだよね」と言った。

「好きな人できたことないしさー、でも、琴葉ちゃんとは付き合いたいなって思ってるけど」

 なんでこんなに粘着されているのか分からない。きっと他の人にも言ってるんだろうと、 相手にしないことにした。

 ***

「先輩と仲良いよな」

 また別の日、一緒に歩いていた駿太が言ってきた。

「そんなことないと思うけど……なんでそう思ったの」
「だって最近、先輩が喋んの全部琴葉のことだから」

 ふざけてるんだよ、と伝えれば、そーかな、と微妙な反応だ。

「ねぇ駿太、それよりもさ、明後日とか、どっか行かない……? サークル休んで。そろそろ誕生日でしょ? 何が欲しいか分からなかったから、一緒に選びに行きたいんだけど」

 どうせなら遊びにも行きたいなと期待したが、駿太の答えに、全身の体温が下がった。

「あ、ごめん、その日サークルの先輩と遊び行くからさ、別の時にしよ。まじごめんな」
「そう……なんだ。えっと、誰?」
「カラオケ行った日に仲良くなった人、あー、なんて言ったらいいんだ、綺麗な女の人なんだけど、琴葉は喋ったことないと思う。見たことはあると思うけど」
「あ……うん」

 綺麗な女の人、というセリフが、頭の中で繰り返される。全然知らなかった。リュックの持ち手を、強く握る。行かないでほしい。でも、言えるわけがない。

「た、楽しんできてね」

 思ってもない言葉を、口角をあげて伝えた。

 駿太が出かける日はすぐにやってきた。家に帰ったらずっと考えこんでしまう気がして、だからといって、やることもなかった私は、サークルに顔を出した。

 中には、雅空先輩と、二人のメンバーがいて、それぞれ好きなことをやっていた。

「あれ~、琴葉ちゃんなんか元気ない?」

 スマホをいじっていた雅空先輩が、私に話しかけてきた。いえ別にと誤魔化したが、「嘘でしょ」と見破られた。

「何があったの」
「いや、あの、なんでもないです」
「もしかして駿太のこと?」

 言い当てられ、違いますと声を荒らげた。

「そう。ねぇやっぱりさ……あいつより、オレにしなよ」

 私の様子を気にせず、距離を詰めてくる。
 
「……しません」

 体の向きを変え、はなれた。
 雅空先輩は構わずついてきた。
 椅子に座り、やらなきゃいけないプリントを取り出す。一人で黙々とすすめ、しばらくしてから、目の前に座り、黙っている雅空先輩に質問した。

「……駿太が仲良い女の人って……誰か知ってますか」

 ちらりと視線を向ける。
 雅空先輩は何も言わず、表情も変えず、一分ほど固まっていた。撤回しようとしたら、「うん」と頷かれた。

「知ってる。というか、駿太その人と付き合いだしたよ、恥ずかしいから内緒にしてって言ってたけど」
「え」

 手の力が抜ける。
 先輩がまだ何かを話していたが、耳に入ってこなかった。嘘だ嫌だと、脳が拒否している。
 机を何も考えず見つめていたら、腕を触られた。

「駿太なんかやめて、オレにして。オレだったら琴葉ちゃんのこと優先するよ、女の子との連絡先も消すからさ」

 力強く握られる。全てがどうでも良くて下を向いたままでいた。
 
「ねぇ」

 周りの温度が少しさがった。顔をあげれば、先輩が唇を噛み、なにかに耐えるような表情をしていた。

「もういいじゃん、あいつのことは。お試しでもいいからさ、オレと付き合ってよ」

 お願い、と言われ引き寄せられる。
 
 私は小さく頷いた。

 ***

 雅空先輩とお試しで付き合い出してからも、大きく変わったことはなかった。違うとすれば、先輩からのボディタッチが増えたというくらい。
 
 駿太が女の人と話しているのを見るのが辛くて避けていたら、必然的に雅空先輩といる時間が増えた。
 先輩は思っていたより優しくて、尽くしてくれた。もうこのまま駿太のことは忘れようと思った。
 
 朝も、駿太より早く家を出るようになった。
 けれどある日、玄関扉を開けたら、眉間に眉を寄せた駿太が立っていた。びっくりして閉めようとしたら、ガッと、足を挟まれ、こじ開けられた。

「な、なんで」
「こっちのセリフだよ、なんで最近俺のこと避けるんだよ」

 口をへの字に曲げ、見下ろしてくる。
 それは、と言い淀むと、俺なんかした? と問われた。

「ちがっ……してない」
「じゃあなんで」
「それは……」

 もじもじと指先をいじる。続く言葉は、喉で止まった。

「急に無視されて、流石に傷つくんだけど。なんかしたなら謝るし」

 黙りこくる私に痺れを切らしたのか、駿太が琴葉、と名前を呼んできた。瞬間、目から涙が溢れた。

「だっ……だっで……」
「え、おい、な、なんで泣いて」
「わ、わだしのほうがずっとまえがら、じゅんだのごとすぎだったのにっ……、が、かのじょとか、知らないし、ずっと、ずっとまえがら。わだしど、つぎあっでほじがったのに……。お、女のひどと、喋っでるのみたぐながっだの! だ、だがら無視したの……!」

 手で顔を拭いながら訴える。耐えていた思いは、一度口にしたら止まらなかった。駿太はあたふたとしながら、悪いと謝って、私の背中を撫でてくる。
 ひっぐと、声はもれたままだが、ある程度私が落ち着くと、駿太はあのさ、と話しかけてきた。

「俺、彼女とかいないけど」
「う……え?」
「いや、だから俺、別に付き合ってる人とかいないし」
 
 瞬きを繰り返す。クリアになった視界に映ったのは、気まずそうな駿太の顔だった。

「そ、そうなの?」
「うん」

 溜まっていた心のモヤがぱっと消える。涙もピタリとおさまった。

「てか、琴葉俺のこと好きだったんだ」
「いや……あの……えっと」
「全然琴葉のことそういうふうに見てなかったわ」

 彼女がいないことに安心したが、次の問題があった。やっぱり振られるんだと、気分が沈む。

「これから意識するからさ、それでもいいなら付き合う? なんか、すごい俺のこと好きでいてくれたみたいだし」

 照れくさそうに駿太が言った。信じられなくて、本当に? と確認する。嘘なんていわねーよ! と駿太が笑ったので、また涙が出てきた。

「う、うん……つ、づきあいだい……」
「なんでまた泣いてんだよ!」
「っ……うれじくで」

 苦笑しながらも、袖で顔を拭ってくれた。

 
 勘違いした事件のあと、授業を受け、駿太とサークル部屋に向かった。あとから雅空先輩がやってきて、私に話しかけてきたので、外に連れ出した。

「どうしたの、急に」

 先輩がいつもの様子で尋ねてきた。どさくさに紛れて手を繋いでこようとしたので、叩く。

「あの、私駿太と付き合うことにしたので」
「は、何、待って、どゆこと」

 両肩を掴まれる。無理やり引き離し、一歩後ろに下がった。

「嘘つきましたよね。駿太に彼女がいるって」
「……いや……それはさ」
「ふざけるにしても、やっていいことと悪いことがあります。もう話しかけないでください」

 キッと睨みつける。目を見開いた雅空先輩は、通路を塞いできた。

「いや、違う、別にふざけてたわけじゃない」
「じゃあなんなんですか」

 問いただすと、先輩は俯いた。

「だって、そうでもしないとずっと駿太のことばっかで、全然オレの話聞かないじゃん。今までのだって、全部本気だったのに」

 返事をしないで、横を通り過ぎようとした。
 けれど先輩が強い力で腕を掴んできた。

「待って、行かないで。絶対あいつより、オレの方が琴葉ちゃんのこと大切にできる。多分、好きなんだと思う。今までこういう気持ち持ったことなかったから、これが好きなのかとか、わかんないけどさ、でも、最近、琴葉ちゃん以外の女の子と喋ってないんだよ。出かけた時だって、あ、これ琴葉ちゃんに似合いそうだな~とか思ったりして、ずっと考えてんの。駿太の話ばっかしてる時とか、すごいムカつくし、あいつのこと、ぶん殴ってやろうかと思ったりする。付き合うとかやめてよ。オレと付き合おーよ。束縛してもいいよ、スマホも預けるから」
 
 私は息を吐いた。

「無理です。もうサークルも辞めるので、雅空先輩とも関わらないようにします。私以外の人と付き合ってください」

 先輩は顔を引きつらせた。手の力が緩んだので、腕を引き、足を進める。二、三歩と歩いたところで、かばりと、背後から抱きしめられた。
 耳に吐息があたる。

「……い、嫌だ。無理。無理だから……そんなこと言わないで……。嫌だ。会えなくなるのとか無理。……分かった、邪魔とか話しかけたりとかしないから、いなくなるとかやめて。別れさせようとかしないから……そばにいさせて」

 最後の方は震えていた。振り返り、雅空先輩の顔を見れば、水滴が頬をつたっていた。
 
 ***
 
 私はピチピチの大学一年生。
 生活にも慣れてきたから、サークルに入ろうと思う。ここの大学には、カラオケサークルがあるとかで、青春できそう! という理由から、見に行くことにした。
 活動している、という部屋に向かい、ドアを開けた。

「あのーすみません、ここってカラオケサークルであってますか?」
「え、あ、一年生? そうだよ」

 近くいた男の人が、頷いてくれる。
 私は、視線を巡らせた。
 数人の男女が思い思いに楽しんでいる。その中で、一人パイプ椅子の背もたれに腕をのせ、座っている男の人がいた。黒髪パーマのセンター分けに、灰色のTシャツ。詳しくは分からないが、多分身長も高い。細いタレ目と、綺麗な鼻。横顔だけど、かっこいいのがすぐ分かった。一人だけオーラが違う。

「すみません、あの人って誰ですか?」
「え、あ~、四年の雅空だよ」
「……かっこいいですね」

 見惚れていると、説明してくれた男の人が、やめた方がいいよ、と言った。

「え?」
「多分君じゃ相手にしてもらえない」

 失礼だなと、顔をしかめると、慌てた様子で、「あっ、違うよ」と否定された。

「見た目が悪いとかそういう事じゃなくて、茶色い長い髪で、童顔で、身長低い子じゃないと雅空はまず相手にすらしないから。まぁ、条件揃ってたとしても、三日くらいで捨てられるけど」
「なんでそんな限定的なんですか……」

 質問すると、「雅空の視線の先見て」と言って指をさした。私はそれをたどる。
 雅空さんがじっと見ていたのは、小柄な女の人だった。女の人の隣には、雅空さんと似た見た目の男の人。

「なんかある時から、雅空はあの、琴葉ちゃんって子ばっか見ててさ、でも話しかけないの。ただじっと見てるだけ。で、琴葉ちゃんと同じ見た目の子と付き合っては、一週間もせずに別れてるの。見た目もね、なんか急に、琴葉ちゃんの彼氏の……ほら、隣にいる駿太くんっていう子によせはじめてさ」

 理由はわかんないんだけどね、と説明される。
 え、何、どういうこと? 
 怖い。
 恐ろしくなって、自分を抱きしめた。鳥肌がたつ。

「あ、ごめん、関係ない話しちゃったね、で、サークルはいりたいんだっけ?」
 
 私は左右に首を振った。
 
「いえ……やっぱり大丈夫です」
 
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