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6匹目:クッキーを踏んだのはだれ?
しおりを挟む3週間ほど前のあの日、アンジェリカはリリアンがエリオットに手作りクッキーを渡そうとしているという知らせを聞いて、慌てて駆け付けていた。
リリアンの所属している治癒術科の1年生のクラスは、アンジェリカの通う特進科からは校舎ごと違い、少し離れている。その距離がとてももどかしく、思い切り走ることができない自分に少し嫌気がさした。
初めにリリアンに注意をしたのは、同じクラスの伯爵令嬢シェリーだった。しかし、
『エリオットが食べたいって言ったんだもの!』
の一言で急いでアンジェリカが呼ばれたのだった。
王弟の子息の不興を買ってまで止めてくれるような友人は、リリアンにはいなかったらしい。シェリーも白花会として黙って見過ごすわけにはいかないというだけで、本当にリリアンの身を案じたわけではなかった。
むしろ怒りに震えていたが、礼儀正しくアンジェリカに頭を下げ、簡潔に事情を説明するだけの理性は十分残っていた。アンジェリカはほっと息を吐いてシェリーに微笑んだ。
一息吐いてリリアンに向き直る。
「ランズベリー嬢、エリオットはわたくしの婚約者の前に大公家の子息なの。例えエリオットが欲しいと言ったって、ただの男爵令嬢の手作りの食品なんて渡してはいけないわ」
「どうしてそんな意地悪なことを仰るのですか? そもそもあなたがクッキーくらいも作ってあげないから、エリオットが悲しんでいるのではありませんか!」
「……え? どうしてわたくしがクッキーなんて作らなければいけないの?」
「ひどいわ! 婚約者なのだからそのくらいしてあげるべきです!」
アンジェリカにはまったくリリアンの主張が理解できなかった。
クッキーを手作りする=エリオットが喜ぶという方式が成立していないのだから仕方がない。
リリアンはぽろぽろと涙を流しながら憤慨していたが、アンジェリカは返答に困っていた。
なぜと説明するにしても、アンジェリカにとっては高位貴族に手作りスイーツを贈ることが無礼だということはもはや一般常識である。茶会や食事会に招いて振舞うのならばともかく、ましてや他人の婚約者にプレゼントするなんて非常識にもほどがあるのだ。
話を聞く耳すら持っていない相手に常識を解くことほど難しいことはない。
「リリアンに盗られそうになって焦ってるのかしら」
「そんなことする前に可愛くなろうとする努力をすればいいのに」
くすくすと嘲笑うような笑い声が聞こえて、アンジェリカは絶句した。
泣いているリリアンの肩を抱いて慰める者や、野次馬の中からアンジェリカを睨みつける者までいる。リリアンの真似をする平民や下位貴族令嬢が増えているとは聞いていたが、ここまで酷いとは思っていなかった。
思わず頭が白くなって立ち尽くしていると、アンジェリカの後ろから金髪の女子生徒が勢いよく踏み出してきた。
シェリーはアンジェリカを庇うように半歩前に立つと、その勢いのまま鋭い声を上げる。
「あなたたち、いい加減になさいな! どんな理由があれば他人の婚約者に親し気に贈り物をすることが許されると言うの? アンジェリカ様を責め立てる前に、自分たちがどれだけ非常識なことをしているかご自覚されてはいかが?」
「ひどい! どうしてそんなひどいことを言えるの!? アンジェリカ様のせいでエリオットは悲しんでいるのに!」
「あなたには関係がないし、それがあなたの行動を正当化する理由にはならないわ。それにアンジェリカ様がランズベリー嬢と呼んでいるのに、どうしてあなたはアンジェリカ様と呼んでいるの。あなた何様のつもりなの?」
「だってエリオットが可哀想じゃないの! 私がエリオットと仲良くしているからアンジェリカ様が意地悪して名前で呼んでくれないんじゃないの……! どうして私ばっかり責められなきゃいけないの!」
「お黙りなさい! あなたにアンジェリカ様を責め立てる権利はないわ! そんなに不満があるならレッドグレーヴ大公令息が、ご自分でアンジェリカ様と話合えば済む話でしょう。家族でも仲人でもない第三者が首を突っ込むことではないわ」
「な……! どうしてそんなひどいことが言えるの!? あなたには人の心がないの!? それならあなたにも関係ないじゃない! あなたこそ黙っていてよ!」
「わたくしは白花会の一員として、酷い非常識なマナー違反と無礼な行為を注意しているのよ。わたくしだって伯爵家のものでしてよ。一方的に公爵令嬢を罵り、伯爵令嬢を怒鳴りつけているあなた方は一体どれだけ偉いのかしら」
「そうやって実家の爵位を振りかざして楽しい!? あなただってたまたま伯爵家に生まれただけじゃない!」
「……あなた、自分が何を言っているのかわかっているの!?」
「シェリー様、落ち着いて。ありがとう。大丈夫よ」
ハッと我に返り、アンジェリカは慌てて伯爵令嬢を止めた。
きちんと微笑んだつもりだったが失敗したらしい。シェリーは何か言いたげな顔で振り返ったが、アンジェリカを見上げて悲しそうに口を噤んだ。
リリアンはぐすぐすと顔を覆い、リリアン側の女子生徒たちは今でもきゃんきゃんとわめきたてている。
アンジェリカはため息を零しそうになった。白くなるまで手を握り締めて戦慄くシェリーの背をそっと撫でることで、アンジェリカ自身も気持ちを落ち着かせた。
しかし、そんなアンジェリカの努力も虚しく、リリアンは周囲に乗せられてさらにヒートアップする。
「私だけが悪いみたいな言い方しないで! シェリーが先に突っかかってっ」
「お黙りなさい、泥棒猫! わたくしあの方と名前を呼び捨てにしあうような仲ではありませんわ!」
「大丈夫よ、シェリー。わかっているわ。落ち着いて」
もうカオスである。シェリーまでも目に涙をため始めてしまった。
アンジェリカだって混乱していて泣きたい気分だというのに、主張がまったく理解できない相手に何を言ったら良いのか。とりあえず双方に落ち着くように声をかけながら、必死で思考を巡らせる。
しかし、リリアンを慰める令嬢の1人が、エリオットが待っていると言ってリリアンを連れ出そうとする。
2人の令嬢が脇を固めるようにして、アンジェリカを警戒しているのが丸わかりだ。しかも周囲の生徒たちが協力して、アンジェリカやシェリーたちを押しのけて行こうとする。
それは学園の外でやれば親も処分を受けてもおかしくないほどの無礼な態度であると気付いていないのだろうか。その生徒たちの中に、ランプリング公爵家派閥の子まで混ざっていることが情けなく悲しい。
けれど、白花会代表として、エリオットの婚約者として、エリオットに危険なものを渡らせるわけにはいかない。
「お待ちなさい。だから手作りのスイーツは――」
「やだ! 私のクッキー!!」
リリアンの悲痛な叫びに、辺りがしんと静まった。アンジェリカも思わず言葉を切ってしまう。
一瞬遅れてぐしゃっと何かが潰れる音がして、みなが吸い寄せられるようにアンジェリカの足元を見た。けれどそこには何もない。
落ちて踏まれたらしいクッキーの包みは、リリアンたちの足元にあった。
「ひどいわ! エリオットに渡されたくないからって踏みつけるなんて!!」
「……はい?」
けれどリリアン側の生徒たちは次々とアンジェリカを罵り始める。
アンジェリカは1歩も動いていない。シェリーもアンジェリカの半歩後ろにいる。けれどアンジェリカが踏んだことになっているらしい。
混乱しすぎて、1周回って落ち着いてきた。思わずため息を吐くと、さらに罵倒は酷くなる。
シェリーを始め、リリアンの側に立っていない生徒たちが怯え出すほどの勢いに、アンジェリカはげんなりとした。
清々しいほどの擦り付けだ。アンジェリカは再びため息を吐く。
「……わたくし、ここから1歩も動いていないのだけれど?」
「嘘よ! じゃあ誰が踏んだっていうの!?」
「…………あなたの周りにいる誰かでしょう」
「なんてひどいことを言うの!! 私たちのせいにしないで!!」
「……そう」
あまりにも理解ができなくて、アンジェリカはうっかり諦めてしまった。
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