一よさく華 -幕開け-

いつしろ十蘿

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第四章 擾瀾の影

弐.女心と男の苦労

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「おかえりなさい」

 柚月がやしきに着くと、玄関で鏡子が出迎えた。

「ああ、はい」

 柚月はまた、あいまいな返事だ。
 いつものことだが、いつもと様子が違う、ということに、鏡子は気づいている。
 先に帰ってきた椿の様子もおかしかった。

 いつものように、「ただいま帰りました」とは言ったが、顔を伏せ、鏡子の横をすり抜けると、さっさと部屋にこもってしまった。

 多分、泣いていた。

 柚月は、風呂の用意ができている、と言われ、言われるまま風呂に入り、離れに戻って廊下に座ると、ぼんやりと空を見上げた。

 やはり、分からない。
 椿は、何を怒っていたのか。
 しかも。

 ――泣いてた…。

 椿の顔が浮かぶ。
 赤く染まった頬。
 涙がいっぱいにたまった目。
 何かが胸にずしっと重くのしかかり、柚月は胸をさすった。

 涙でいっぱいの目で、睨むように見つめてきた。
 あの時、椿は何を言おうとしていたのだろう。

 分からない。
 でも、あの涙は、自分のせいなのだろういう、ということはなんとなく分かる。
 分かるだけに、罪悪感だけが胸にある。

「うーーん…」

 柚月はうなだれて、ポリポリと頭を掻いた。
 夕飯は鏡子と二人きりだった。
 椿は知らせが来て、雪原の元に行ったという。
 柚月は、どこかほっとした。

 だが、一晩寝ても、答えは出ない。
 忘れられもしない。
 得体のしれない罪悪感が気持ち悪い。

 ――義孝よしたかなら…。

 うまく乗り切るんだろうな。
 ふとそう浮かんで、かき消した。

 井戸端では、洗濯をしていた鏡子が井戸から水をくもうと、井戸に落としてある桶、鶴瓶つるべの綱を引いていた。

 滑車がついているとはいえ、水が入った桶を引き上げるのは力がいる。
 ぐっと力をいれると、急に軽くなった。

 驚いて振り向くと、柚月が綱を握り、桶を引き上げるのを助けている。
 そればかりか、桶の水を盥に入れると、今度は「何か手伝いましょうか」と言う。
 鏡子は驚いた。

「何でもしますよ。洗濯でも。掃除でも」

 鏡子はさらに驚いた。
 この国、特に武家社会では、男子は台所に入るな、とさえ言われる。
 家事は女の仕事、というわけだ。

 柚月は男子、しかも武士だ。その立場で、家事を手伝おうかなどという人間は珍しい。
 いや、まずいない。

「そんな。旦那様に叱られます。お気持ちだけ」

 鏡子はやんわり断った。
 だが、柚月は縁側に座り、動かない。
 うつむいたまま、足をプラプラさせている。
 鏡子は洗濯をしながら、やはり何かあったのだな、と思った。

「椿なら、戻っていますよ」

 試しに言ってみると、柚月はビクリと肩を震わせた。

「…はい」

 そう言ったきり、人差し指と親指を擦り合わせ、それをじっと見ている。
 鏡子は横目でその様子をちらりと見たが、洗濯の手は止めない。

「ケンカでもなさったのですか」
「うーん、ケンカというか…うん」

 はっきりしない。

「なんていうか。…なんで、怒ったんですかね?」
「知りませんよ」

 鏡子は思わず、くすりと笑いが混じっててしまった。
 柚月はよほどそのことで頭がいっぱいらしい。
 鏡子に話しかけているようで、ずっと椿のことを考えている様子だ。
 困ったようにポリポリと頭を掻き、どこかしょんぼりしている。

 その姿が、鏡子には微笑ましい。
 だが、これだから男は、とも思う。

「花がいいですよ」
「え?」

 柚月が顔を上げると、鏡子は手を止め、仕方がないなという顔を柚月に向けた。

「花をあげると、女はたいてい喜びます」

 柚月の困り顔が、みるみる晴れていく。
 言葉もなくコクコク頷き、頷きながらもう半分立ち上がっている。

「ありがとうございます!」

 そう言うと、嬉しそうに飛び出していった。
 同じ頃、雪原は自室で書簡に目を通しながら、椿の背中を気にしていた。

 朝、別宅に戻って以来、なんだか椿の様子がおかしい。
 もしかしたら、その前からおかしかったのかもしれない。
 が、気づかなかった。
 最初は気のせいかとも思ったが、やはり、そうではないらしい。

 椿は続きの間で、机に向かっている。
 ふすまを開け放しているので、背中が見える。

 いつものことだ。
 だが、その背中が、いつもと違う。
 と、思う。

 怒っているのか? と思うが、椿が怒っている姿などあまり見たことが無い。
 確証が持てない。

 だが、こんな様子の女に声をかけると、ろくなことが無い。
 ということを、雪原は経験から知っている。

 書簡と椿の背中とを交互にちらちら見ていたが、らちが明かない。
 雪原も、鏡子を頼ることにした。

「今日はいい天気ですね、洗濯日和だ」

 言わなくてもいい独り言を言い、さりげなく立ち上がると、井戸端に向かった。
 別に何か悪いことをしたわけでもないのに、自然と忍び足になっている。
 途中、嬉しそうに走ってくる柚月とすれ違った。

「柚月、どうかしたのですか?」

 縁側に来た雪原は、鏡子に聞いた。

「どうしたのでしょうね。」
 鏡子は洗濯する手を止めない。
 が、その顔は笑っている。

 雪原は、縁側に腰を下ろした。
 鏡子は洗濯板で、ごしごし何かをこすっている。
 しばらく座っていたが、鏡子は振り向きもしない。

 なぜ、雪原が来たのか。
 鏡子にはだいたい想像できている。

「椿ですがね」

 やはり、思った通りのことを言い出す。
 鏡子は手を止め、あきれたような顔で振り向いた。

「椿にお聞きになればよろしいでしょう」

 そう言うと、再びごしごし手を動かし始めた。
 これだから男は、と思っている。

 男が頼りなげに女の顔色を気にするのは、たいてい、不用意に女の機嫌を損ねたからだ。
 その原因は、男が女心を分かっていないことにある。
 そして、女の怒りの理由が分からないだけに、どこに埋まっているとも知れない地雷を恐れるように、ひやひやする。

 だが、恐れるばかりで、直接聞きもしない。
 話し合おうともしない。
 お門違いなところで、一人右往左往するばかりだ。

 まあ、聞いたところで、女の方も素直に答えないことが多いのも事実だろう。
 それどころか、さらに怒り出すということも、ままある。
 男の行動も、ある種当然と言えば当然のことだ。

 今回は少し事情が違うが、鏡子は何があったのか知らない。
 どうせ柚月が何かやらかしたのだろう、と思っている。

 だが何にしても、柚月は椿と話し合えばいいし、雪原は椿に聞けばいい。
 鏡子にしてみれば、二人して何をしているのだ、という話なのだ。

「うーん」

 雪原は頼りをなくし、困り顔で頬を掻いた。

 分かり合えないのは、仕方がない。
 男と女は別物なのだから。
 女も男心など分からない。
 だが、分かりあおうとすることは、重要である。
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