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第5章 因縁 medaillon(メダイヨン)皮剥男
47: 気の進まない仕事
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斉藤が壁際に直立不動の姿勢で立っている。
部屋の中にいたその他の組員達が人払いで退室させられたことを考えると、この男、よほど会長に信用があるのだろう。
「尚澄、あれをこの探偵さんに見せてやってくれ。」
赤い袈裟を着せれば、太った達磨にしか見えない銭高会長が、分厚い唇だけを動かせて斉藤に指示を出した。
これだけ太ってしまえば、ちょっと動くのも大儀だろう。
とにかくこれで、斉藤の下の名が尚澄だという事が判った。
それと、その尚澄という呼びかけ方が、妙に生暖かかったのが気になった。
ややあって斉藤が戻ってきて、古びた大学ノートを四冊、俺と会長の間にある応接テーブルの上に扇状に並べた。
腕を伸ばした斉藤のスーツの袖が上がり、代わりに白いドレスシャツの袖口が見えた。
この野郎、高級そうなカフスをしてやがる。
俺のカフスボタンなんて、何処へいっちまったままだ。
そう思った時に、会長の声がした。
「どれか一冊、読んでみたまえ。」
俺は右端に置かれたノートを手に取った。
几帳面で、気が回る斉藤の事だ。
きっと書かれた時期の古い順番にノートを並べて置いてある筈だった。
ノートを開いた途端、俺は悪い予感を感じた。
まるでタイプで打ったような、細かで正確無比な文字が、びっしりとノートに埋まっていた。
きっとプリンターでプリントアウトしたものの方が人間味があるに違いない。
それにパソコンなんかを使わないのは、いざという時に燃やせるからだろう。
こいつは神経を病んでいる頭の良い人間の書いたものだ。
俺には匂いで判った。
内容を読み進めていく内に動悸が激しくなった。
化学の専門用語が山のように出てきて内容は皆目、分からなかったが、「書いてある事」は直ぐに読みとれた。
世の中には簡単な言葉で、深い内容を相手に伝える事の出来る賢人がいるが、どんなに複雑に言葉の意匠を懲らしても、その人間の下劣な品性が透けてしまう書き手もいるものだ。
一言で言えば、それは「破壊と苦痛を喜ぶ凶人の書」だった。
俺は途中で読むのを放棄して、ノートをテーブルの上に置いた。
依頼概要を先に聞いておくべきだと判断したのだ。
銭高会長の依頼が、このノートと関係があるなら、早い目に依頼のアウトラインを聞いておくべきだった。
もちろん、それは断りの理由を探す為だ。
やりかたによっては、相手に協力をするふりをして、やんわりと依頼に断りを入れられる可能性だってある。
他に適切な専門家を紹介してやるとか、、、まあそれは、微々たる可能性だが。
どちらにしてもこの場で、ノートを読み進めば進むほど、深入りをしてしまうのは確かだった。
後戻りするなら、今が残されたぎりぎりのチャンスだろう。
「どうしたね。その一冊の半分も読んどらんだろう。儂ならかまわんよ。いつまでも待っておる。」
「用件を先におっしゃってもらえませんか?もし会長の用向きが、このノートと関係があるなら、正直言って私はこれ以上深入りしたくない。」
誰が、ナチの変態科学者にかぶれた凶人と関わりたいなどと思うものか、、。
俺は確かにオカルト探偵と呼ばれるが、人間の皮膚で造ったランプシェードや、脂肪で造った石鹸に興味はない。
いやそれどころか、俺から言わせれば、オカルトとは人の生や死に必要以上の意味や意義を見いだす行為とその産物であって、人の皮膚を動物の毛皮のように扱って平気でおられる現実主義とはまったく異なるものだ。
「、、多くはいわんでいい。それにあんたは、仕事を選べる立場にはない。あんたが、誰と口をきいているかを思い出せば済むことだ。」
その口調には、己の権勢を侮った相手への怒りさえもなかった。
この老人の力は、あまりにも絶対的だったのだ。
「そのノートに書かれてある事は、本当に実現可能かね?」
銭高組は地方の一ヤクザではない。
西日本を代表する程の勢力を持った組織で、国政にも裏で関与する事があると言われている。
そして当然、俺は銭高に意見を述べられる立場にはなかった。
俺は一瞬でも後戻り出来ると考えた己の未熟さを恥じた。
「俺は専門家じゃないですから断言は出来ませんがね、、金と設備と技術があれば、充分可能なのではありませんか。発想やこれに近い行為は、ナチが既にやっていて、科学技術の方も、あれから数段進んでいますからね。要は道徳観の問題だ。」
銭高会長の瞼が閉じられ、懊悩の表情を浮かべた。
強い眼光にシャッターを下ろしたその顔は、年相応の老人のものになっていた。
「聞き方が悪かった。儂がいいたいのは、こんな事をする人間が、あり得るかという事だ。あんた、この手の事件を沢山手がけてきたのだろう?その経験に照らし合わせて、聞いておるのだ。」
「この手の事件」か、、俺は、いよいよ逃げられない事を覚悟した。
思えば神戸にリョウを伴ったのも、この予感が働いたからなのかも知れない。
俺一人では手に負えない、倒錯した欲望がとぐろを巻く猟奇な事件、、。
俺は今までリョウに、彼の機転と、口に出すのは恥ずかしいが彼の「勇気」によって何度も助けられて来たのだ。
リョウは、俺の事を無責任な男で、何でも厄介ごとを自分に押しつけてくる奴だと思っているようだがそれは違う。
俺は無責任なのではなく、本当に「弱い」人間なのだ。
「、、ありえるでしょうね。外から見ると、とんでもなく猟奇的に見えるが、本人はしごく当たり前のようにこれらのことをやってのける筈だ。特別な事ではありませんよ。戦時中などでは、いくらでも常軌を逸した人間に対する残虐行為が普通に行われて来た。戦時下では愛国心や正義の名の下にそれらが当たり前になりますからね。人の価値観とは、その程度のものだ。特に、このノートを書いた人間なら、実行に至るまでの障害は、金銭面などの物理的なものだけの筈だ。」
「、、そいつは儂の孫だ。金の面倒は儂が見てやった、、。」
会見が終わった後、俺は図書館に立ち寄り、銭高組会長の孫「零」が、あの忌むべき妄執に取り付かれ始めた時期から現在までの、若い女性の失踪や死亡事件を検索してみた。
(零と書いてレイと読む。ゼロと読まさないのは、まだましだった。銭高零。ゼニタカゼロ、どんな神経の持ち主が、そんなふざけた名を付けたのだろうか。命名者といえば、通常は父親だろうが、我が子への配慮が足りないのか、それとも何かへの当てつけだったのだろうか、、。)
絞り込みの条件として、近畿一円に地域を限定した。
気が遠くなるようなヒット数になると予想していたが、それ程でもなかった。
晩飯を約束したリョウの待つホテルに帰るまでの残った時間を潰せば、何とかなる量だ。
第一、この作業を通じて、零の犯して来た犯罪を、ほじくり返そうというわけではないのだ。
それは警察の仕事だった。
しかし俺は、この洗い出しを続けながら、自分は探偵として何か大切な忘れ物をしているのではないかという気持ちに取り憑かれ始めていた。
そう、俺は昔から、新たな依頼を受ける度に、「何かの重大な調査依頼を既に受けているのにそれを忘れ去っている」という、探偵としてはあるまじき強い妄想を抱いて生きて来たのだ。
その強迫観念は、俺の意識の奥底で「若い女性のレイプ事件」の形を取って具現化していた、、。
被害者は、年の頃ならリョウと同じ高校生だった筈だ。
その依頼者は、彼女の父親で確か、、駄目だ、思い出せない。
その毎度お馴染みの強迫観念に、付きまとわれ始め、俺は妙に落ち着きのない気分になっていた。
それはもしかすると、俺がどうしても「思い出せない依頼」に登場するレイプ犯が、この「零」ではないかという気持ちから来るものだった。
・・・・・・・・・
その夜、俺とリョウは遅い夕食のあと港内の岸壁を当てもなく歩いた。
行楽スポットの近くの岸壁は、それなりにムードがあり沢山の恋人達がいたし、そこから外れた暗闇には、即席の愛を紡ぐに絶好の闇の濃厚な匂いが漂っていた。
対岸に見える夜空に、幻のように浮かび上がった大観覧車のイルミネーションが程良い媚薬代わりになるだろう。
俺は、ふと闇に舞うヤマツツジの松明から弾け飛ぶ火の粉を思い出した。
「鞍馬の火祭」の幻影には土の匂いがするが、此処にはそれがない。
「ここは京都と感じが違うね。」
大観覧車を眺めるリョウの白い横顔は、初めてリョウと連れだって火祭りを見に行った時と同じだ。
あの時リョウは、たいまつを担いだ氏子達の「サイレイ、ヤー、サイリョウ」の勇壮なかけ声に頬を紅潮させていたっけ。
「お前、男同士でこんなとこ歩いていて楽しいか?」
俺は、リョウの感想には取り合わず、いつもは感じていても口にしない事を言った。
銭高組でのやりとりが俺の心をざらつかせていたのだ。
俺は今、世の中のあらゆる倒錯的なゆがみを許せない気分だった。
あの大学ノートの手記内容はそれ程、陰惨だった。
それにますます酷くなる例の脅迫観念が、俺にあの忘却の彼方にある幻の依頼を「早く完了させろ」とせき立てて来る。
「僕には自分の事、男だっていう実感がないんだよ。女の子が嫌いってわけでもないんだけど。女の子を好きになる気持ちと男の人を好きになる気持ちとでは差があるんだ。」
俺には応えようがなかった。
「、、今日、依頼を受けた。又、腐りきった変態野郎の面倒をみる羽目になっちまった。それにどうやらそいつは大勢殺しているらしい。、、、俺はもうこんな仕事が嫌になっちまった。だけど逃げられないんだよ、、。例によってな、、。」
俺の側を歩いていたリョウの手が俺の手にそっと触れてきた。
だが俺はそれを振り払った。
闇を通してでもリョウが凍り付く雰囲気が伝わってきた。
俺を慰め元気づけようとしてくれたのに。
「、すまん。そういうつもりじゃない、、。」
「わかってるって、所長疲れてるんだよ。いつもならさ。いつもなら、所長は用意周到って感じで、僕に仕事手伝わせるだろう?今度はそれやってないじゃない。疲れてんだよ、きっと。ね。明日、南京町に行こうよ。僕、いっぱい南京町の観光情報仕入れといたんだから、、ねぇ、もう依頼受けちゃったから、自分のペースで仕事出来るんだろう?たまには息抜きしなくちゃ、ね。」
声は最後まで明るいままだった。
俺の言い草は、リョウを二重に傷つけるだけで「女ならとくの昔に泣きじゃくってて良いはず」だったのに、、。
俺はリョウの明日の誘いを断れなかった。
そして同時に、俺がこの依頼を片づける為に、一番目に訪れなければならない場所が、リョウのいう「南京町」である事も口に出せずにいた。
俺は気が弱い上に、優柔不断な男だった、、。
部屋の中にいたその他の組員達が人払いで退室させられたことを考えると、この男、よほど会長に信用があるのだろう。
「尚澄、あれをこの探偵さんに見せてやってくれ。」
赤い袈裟を着せれば、太った達磨にしか見えない銭高会長が、分厚い唇だけを動かせて斉藤に指示を出した。
これだけ太ってしまえば、ちょっと動くのも大儀だろう。
とにかくこれで、斉藤の下の名が尚澄だという事が判った。
それと、その尚澄という呼びかけ方が、妙に生暖かかったのが気になった。
ややあって斉藤が戻ってきて、古びた大学ノートを四冊、俺と会長の間にある応接テーブルの上に扇状に並べた。
腕を伸ばした斉藤のスーツの袖が上がり、代わりに白いドレスシャツの袖口が見えた。
この野郎、高級そうなカフスをしてやがる。
俺のカフスボタンなんて、何処へいっちまったままだ。
そう思った時に、会長の声がした。
「どれか一冊、読んでみたまえ。」
俺は右端に置かれたノートを手に取った。
几帳面で、気が回る斉藤の事だ。
きっと書かれた時期の古い順番にノートを並べて置いてある筈だった。
ノートを開いた途端、俺は悪い予感を感じた。
まるでタイプで打ったような、細かで正確無比な文字が、びっしりとノートに埋まっていた。
きっとプリンターでプリントアウトしたものの方が人間味があるに違いない。
それにパソコンなんかを使わないのは、いざという時に燃やせるからだろう。
こいつは神経を病んでいる頭の良い人間の書いたものだ。
俺には匂いで判った。
内容を読み進めていく内に動悸が激しくなった。
化学の専門用語が山のように出てきて内容は皆目、分からなかったが、「書いてある事」は直ぐに読みとれた。
世の中には簡単な言葉で、深い内容を相手に伝える事の出来る賢人がいるが、どんなに複雑に言葉の意匠を懲らしても、その人間の下劣な品性が透けてしまう書き手もいるものだ。
一言で言えば、それは「破壊と苦痛を喜ぶ凶人の書」だった。
俺は途中で読むのを放棄して、ノートをテーブルの上に置いた。
依頼概要を先に聞いておくべきだと判断したのだ。
銭高会長の依頼が、このノートと関係があるなら、早い目に依頼のアウトラインを聞いておくべきだった。
もちろん、それは断りの理由を探す為だ。
やりかたによっては、相手に協力をするふりをして、やんわりと依頼に断りを入れられる可能性だってある。
他に適切な専門家を紹介してやるとか、、、まあそれは、微々たる可能性だが。
どちらにしてもこの場で、ノートを読み進めば進むほど、深入りをしてしまうのは確かだった。
後戻りするなら、今が残されたぎりぎりのチャンスだろう。
「どうしたね。その一冊の半分も読んどらんだろう。儂ならかまわんよ。いつまでも待っておる。」
「用件を先におっしゃってもらえませんか?もし会長の用向きが、このノートと関係があるなら、正直言って私はこれ以上深入りしたくない。」
誰が、ナチの変態科学者にかぶれた凶人と関わりたいなどと思うものか、、。
俺は確かにオカルト探偵と呼ばれるが、人間の皮膚で造ったランプシェードや、脂肪で造った石鹸に興味はない。
いやそれどころか、俺から言わせれば、オカルトとは人の生や死に必要以上の意味や意義を見いだす行為とその産物であって、人の皮膚を動物の毛皮のように扱って平気でおられる現実主義とはまったく異なるものだ。
「、、多くはいわんでいい。それにあんたは、仕事を選べる立場にはない。あんたが、誰と口をきいているかを思い出せば済むことだ。」
その口調には、己の権勢を侮った相手への怒りさえもなかった。
この老人の力は、あまりにも絶対的だったのだ。
「そのノートに書かれてある事は、本当に実現可能かね?」
銭高組は地方の一ヤクザではない。
西日本を代表する程の勢力を持った組織で、国政にも裏で関与する事があると言われている。
そして当然、俺は銭高に意見を述べられる立場にはなかった。
俺は一瞬でも後戻り出来ると考えた己の未熟さを恥じた。
「俺は専門家じゃないですから断言は出来ませんがね、、金と設備と技術があれば、充分可能なのではありませんか。発想やこれに近い行為は、ナチが既にやっていて、科学技術の方も、あれから数段進んでいますからね。要は道徳観の問題だ。」
銭高会長の瞼が閉じられ、懊悩の表情を浮かべた。
強い眼光にシャッターを下ろしたその顔は、年相応の老人のものになっていた。
「聞き方が悪かった。儂がいいたいのは、こんな事をする人間が、あり得るかという事だ。あんた、この手の事件を沢山手がけてきたのだろう?その経験に照らし合わせて、聞いておるのだ。」
「この手の事件」か、、俺は、いよいよ逃げられない事を覚悟した。
思えば神戸にリョウを伴ったのも、この予感が働いたからなのかも知れない。
俺一人では手に負えない、倒錯した欲望がとぐろを巻く猟奇な事件、、。
俺は今までリョウに、彼の機転と、口に出すのは恥ずかしいが彼の「勇気」によって何度も助けられて来たのだ。
リョウは、俺の事を無責任な男で、何でも厄介ごとを自分に押しつけてくる奴だと思っているようだがそれは違う。
俺は無責任なのではなく、本当に「弱い」人間なのだ。
「、、ありえるでしょうね。外から見ると、とんでもなく猟奇的に見えるが、本人はしごく当たり前のようにこれらのことをやってのける筈だ。特別な事ではありませんよ。戦時中などでは、いくらでも常軌を逸した人間に対する残虐行為が普通に行われて来た。戦時下では愛国心や正義の名の下にそれらが当たり前になりますからね。人の価値観とは、その程度のものだ。特に、このノートを書いた人間なら、実行に至るまでの障害は、金銭面などの物理的なものだけの筈だ。」
「、、そいつは儂の孫だ。金の面倒は儂が見てやった、、。」
会見が終わった後、俺は図書館に立ち寄り、銭高組会長の孫「零」が、あの忌むべき妄執に取り付かれ始めた時期から現在までの、若い女性の失踪や死亡事件を検索してみた。
(零と書いてレイと読む。ゼロと読まさないのは、まだましだった。銭高零。ゼニタカゼロ、どんな神経の持ち主が、そんなふざけた名を付けたのだろうか。命名者といえば、通常は父親だろうが、我が子への配慮が足りないのか、それとも何かへの当てつけだったのだろうか、、。)
絞り込みの条件として、近畿一円に地域を限定した。
気が遠くなるようなヒット数になると予想していたが、それ程でもなかった。
晩飯を約束したリョウの待つホテルに帰るまでの残った時間を潰せば、何とかなる量だ。
第一、この作業を通じて、零の犯して来た犯罪を、ほじくり返そうというわけではないのだ。
それは警察の仕事だった。
しかし俺は、この洗い出しを続けながら、自分は探偵として何か大切な忘れ物をしているのではないかという気持ちに取り憑かれ始めていた。
そう、俺は昔から、新たな依頼を受ける度に、「何かの重大な調査依頼を既に受けているのにそれを忘れ去っている」という、探偵としてはあるまじき強い妄想を抱いて生きて来たのだ。
その強迫観念は、俺の意識の奥底で「若い女性のレイプ事件」の形を取って具現化していた、、。
被害者は、年の頃ならリョウと同じ高校生だった筈だ。
その依頼者は、彼女の父親で確か、、駄目だ、思い出せない。
その毎度お馴染みの強迫観念に、付きまとわれ始め、俺は妙に落ち着きのない気分になっていた。
それはもしかすると、俺がどうしても「思い出せない依頼」に登場するレイプ犯が、この「零」ではないかという気持ちから来るものだった。
・・・・・・・・・
その夜、俺とリョウは遅い夕食のあと港内の岸壁を当てもなく歩いた。
行楽スポットの近くの岸壁は、それなりにムードがあり沢山の恋人達がいたし、そこから外れた暗闇には、即席の愛を紡ぐに絶好の闇の濃厚な匂いが漂っていた。
対岸に見える夜空に、幻のように浮かび上がった大観覧車のイルミネーションが程良い媚薬代わりになるだろう。
俺は、ふと闇に舞うヤマツツジの松明から弾け飛ぶ火の粉を思い出した。
「鞍馬の火祭」の幻影には土の匂いがするが、此処にはそれがない。
「ここは京都と感じが違うね。」
大観覧車を眺めるリョウの白い横顔は、初めてリョウと連れだって火祭りを見に行った時と同じだ。
あの時リョウは、たいまつを担いだ氏子達の「サイレイ、ヤー、サイリョウ」の勇壮なかけ声に頬を紅潮させていたっけ。
「お前、男同士でこんなとこ歩いていて楽しいか?」
俺は、リョウの感想には取り合わず、いつもは感じていても口にしない事を言った。
銭高組でのやりとりが俺の心をざらつかせていたのだ。
俺は今、世の中のあらゆる倒錯的なゆがみを許せない気分だった。
あの大学ノートの手記内容はそれ程、陰惨だった。
それにますます酷くなる例の脅迫観念が、俺にあの忘却の彼方にある幻の依頼を「早く完了させろ」とせき立てて来る。
「僕には自分の事、男だっていう実感がないんだよ。女の子が嫌いってわけでもないんだけど。女の子を好きになる気持ちと男の人を好きになる気持ちとでは差があるんだ。」
俺には応えようがなかった。
「、、今日、依頼を受けた。又、腐りきった変態野郎の面倒をみる羽目になっちまった。それにどうやらそいつは大勢殺しているらしい。、、、俺はもうこんな仕事が嫌になっちまった。だけど逃げられないんだよ、、。例によってな、、。」
俺の側を歩いていたリョウの手が俺の手にそっと触れてきた。
だが俺はそれを振り払った。
闇を通してでもリョウが凍り付く雰囲気が伝わってきた。
俺を慰め元気づけようとしてくれたのに。
「、すまん。そういうつもりじゃない、、。」
「わかってるって、所長疲れてるんだよ。いつもならさ。いつもなら、所長は用意周到って感じで、僕に仕事手伝わせるだろう?今度はそれやってないじゃない。疲れてんだよ、きっと。ね。明日、南京町に行こうよ。僕、いっぱい南京町の観光情報仕入れといたんだから、、ねぇ、もう依頼受けちゃったから、自分のペースで仕事出来るんだろう?たまには息抜きしなくちゃ、ね。」
声は最後まで明るいままだった。
俺の言い草は、リョウを二重に傷つけるだけで「女ならとくの昔に泣きじゃくってて良いはず」だったのに、、。
俺はリョウの明日の誘いを断れなかった。
そして同時に、俺がこの依頼を片づける為に、一番目に訪れなければならない場所が、リョウのいう「南京町」である事も口に出せずにいた。
俺は気が弱い上に、優柔不断な男だった、、。
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