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第5章 因縁 medaillon(メダイヨン)皮剥男

51: シズル 熱した鉄板

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 神戸は京都と同じように、色々なものが濃縮された、箱庭的な地形の配置を持つ土地だ。
 神戸の場合は、海と山がせめぎ合った捩れの部分に、人が住んでいる。

 シズルは、やや山側に近く、坂道がまだ急な傾斜を持たない中規模道路に囲まれたビル群の一角にあった。
 このビル群は、元町駅近くの飲屋街ほどの猥雑さはないものの、結構数多くの飲食店と服飾店があり、全体的に洒落た感じのする歓楽街を形成しつつあるようだった。

 途中で本格的な台湾料理を出しそうな店を見つけて、ちらりとガラスドアから中を見てみたが、内装も東南アジア風で、いかにも神戸にある店という感じだった。
 台湾料理は日本人の口に合う。
 この一帯も、そのうち、神戸の第二・第三の観光スポットとして観光雑誌等に紹介されるのだろうが、今は地元の人間だけが知っている穴場のような場所だった。

「地べたの値段が高そうな場所だな?」
「そうでもありませんよ。これから高くはなりますがね。観光で成り立っている街は、自分で観光スポットを増殖して行きます。そうしないと、お客に飽きられますからね。次はどの場所があたるか、次はどこに金が集まるか。シマ商売をしてる、うちらも無関心ごとではない話だ。」

「シズルは、銭高組と関係があるのか?」
「あるどころか、、、シズルのオーナーは組長ですよ。」
「馬鹿な!そんな店に、遁走してしまった零の相棒がいるってのか?」

「いえ、正確にはシズルは零さんのものなんです。」
「、、ややこしそうだな。」
 またかと、俺は思った。

「まあね。かい摘んで言えば、シズルって店は、零の父親が自分の息子に送った人生の慰謝料なんですよ。これには、零の母親も関係している。だから銭高は、今日まであの店で起こる事は全て黙認してきたんだ。」

 斉藤が零や銭高の事を呼び捨てにした。
 そして斉藤の説明は、奇妙にはしょられていたが、俺は内容を詳しく聞き返す気にはなれなかった。
 その事を喋り終えた斉藤の表情が、何かをこらえているような気がしたからだ。
 この世界の「やぶ蛇」は、猛毒を持っている。

 シズル、、。
 熱い鉄板に水滴を落とした時の音の事だ。
 父親が自分の息子に「人生の慰謝料」として与えた店、、シズル。
 俺達はそのシズルに辿り着いた。


    ・・・・・・・・・


 ヒヨコは恐ろしくクールなパンク野郎だった。
 俺は、幾ら流行になろうとも、あるいは日本人の体格が西洋諸国のそれと肩を並べようとも、日本人には絶対似合わない外国のファッションやライフスタイルがあると考えている。
 その代表例がパンクだ。

 だがヒヨコはおそろしくパンクが似合っていた。
 彼の体つき自体が、胴が短く手足が長くて、日本人離れしていたし、更にその肉体は大型肉食獣特有のどう猛さとしなやかさを兼ね備えていた。
 ギリシャ彫刻の闘士像のような身体を、全身、黒づくめのレザースーツが覆っていた。

 そしてヒヨコはアクセサリーとして、首から大きな円盤形の革製のように見えるペンダントをかけ、顔には黒いサングラスをかけていた。
 そのペンダントだけは、おおよそ彼のファッションからは浮き出た代物だったが、何か彼なりの特別な思い入れでもあるのだろう。
 所々に欠けた部分のある、妙に人の気を引くペンダントだった。

 事前の打ち合わせ通り、俺と斉藤はヒヨコを挟むようにスツールに座った。
 ヒヨコは反応しない。
 例の若者達からの、ヒヨコへの通報はなかったのかも知れない。

 俺の顔はまだ、ヒヨコには知られていないだろうし、斉藤の方も、ぱっと見には筋者には見えないだろう。
 両方から彼を挟んでいれば、逃亡を防げるという読みだったが、ヒヨコの実物を見た時、既にそんな自信は消し飛んでいた。

 バーテンがおそるおそるこちらにやってくる。
 その視線は、斉藤に張り付いたままだ。
 恐らくバーテンは、銭高組絡みで、斉藤のことを聞き及んでいたのだろう。

「私たちは、水だけで良い、、。それと、この店への組からの目こぼしは、もうない。覚えとくといいな、、。」
 斉藤が静かに言った。
 バーテンは俺達の前に水の入ったグラスを置いた途端、これから起こる事を予測して姿を隠した。

 ヒヨコの側に座っていると、スキンヘッドだと思っていた彼の頭皮に、うっすらと頭髪が生えかけているのが判った。
 だが、それより目を引いたのは、彼の頭皮の表面に縦横に走る切り傷や縫い跡だった。
 ますます俺の心は震えた。
 こいつは斉藤と同じようにヤバイ奴だ。

 ヒヨコは、斉藤とバーテンの短いやりとりの間に、カウンターテーブルに覆い被さるようにしていた姿勢を、さり気なく後ろに引いていた。
 それはヒヨコの首からかけているペンダントが微かに揺れただけという動きだった。
 彼も又、異常を察して、戦闘体勢に入ったということだ。

「零さんはどこにいる?組は腹を決めた。意味は分かるな?」

 斉藤が無造作に拳銃を抜いて、隣のヒヨコの脇腹に突きつける。
 それに対して、ヒヨコは微動だにしない。
 確かにヒヨコは普通の人間ではなかった。
 いくら日本の治安が悪くなったといっても、昼下がりから、いきなりバーの片隅で銃を突きつけられるのは特別な事の筈だった。

 俺は緊張に耐えきれずグラスを持った。
 それぐらい斉藤とヒヨコが発する暴力と破壊衝動の磁場は強かったのだ。
 斉藤の顔が何処までも堅くなり始めている。
 チンピラどもに囲まれた時と同じだった。
 あの時、斉藤がチンピラ達に、やったのは脅しではない。
 宣言だ。
 こいつは無造作に人を殺す。

 やめろ。
 ヒヨコは簡単に口をわる人間じゃない。
 あんただって、こいつをみりゃ判るだろ。
 俺の真横で人殺しはよしてくれ。

 次の瞬間、俺は、手に持ったグラスの水を斉藤の顔にぶちまけていた。
 やろうとしてやった事ではない。
 耐えきれなかったのだ。
 手が無意識に動いたのだ・

 しかしそれが合図になったのかも知れない。
 ヒヨコの反撃が始まった。
 まるで突風に巻き込まれたようなものだった。
 ヒヨコは、斉藤との闘いを至近戦に持ち込んだのだ。
 勿論、銃撃を怖れたからだ。

 俺はヒヨコを斉藤から引き剥がしにかかった。
 俺の腕では、組からもらった拳銃は威嚇にも使えない。

 ヒヨコは既に床の上で、斉藤と組み合っているが、体格的には勝る筈の彼が、なかなか優勢に持ち込めないのは、俺が加勢しているからというより、斉藤が決して自分の手から離そうとしない拳銃のせいだった。

 二人の闘いは、大型の肉食獣二匹が組み合ったように凄まじく、こういった肉弾戦を何度となく見てきた俺が、戦慄を覚える程だった。
 斉藤を常に己の内に組み込もうとするヒヨコに対して、斉藤は何度かヒヨコに投げ技をかけ、それに一旦は成功するのだが、ヒヨコは斉藤の身体を掴んで離さず、それを阻止する。
 少しでも二人の距離が空けば、ヒヨコは斉藤の拳銃に仕留められるからだ。

 しかしその拳銃が、ついに斉藤の手から放れる瞬間が訪れた。
 ヒヨコの斉藤の顔面へのパンチが、一瞬、斉藤の意識を暗転させたのだ。
 斉藤の手から離れた拳銃は、カウンターの方に転がっていく。
 ヒヨコの身体が、それを追おうとして浮き上がる。

「止めろ!」

 俺は自分の拳銃を腰貯めに構えた。
 今の斉藤とヒヨコの位置関係なら、俺でもヒヨコだけを傷つける事が出来る。
 ヒヨコは、転がった拳銃と、俺の顔を瞬時に見比べて、何事かを計算し始めたようだ。
 俺はヒヨコの表情に、どう猛な嘲笑の表情が浮かぶのを見た。

 ヒヨコにやられる!

 ヒヨコはいざとなったら俺が引き金を引くのを躊躇うだろうと、読み切ったのだ。
 、、しかし、そうはならなかった。
 斉藤が意識を取り戻したのだ。
 既に斉藤は拳銃を取り戻そうと動き始めている。

 それからのヒヨコの動きは素早かった。

「撃て!その銃で、やるんだ!」
 斉藤が叫んだが、俺には当然そんな事が出来るはずがなかった。
 ヒヨコの目が、左右に素早く動いたかと思うと、次の瞬間には、俺の手の中の拳銃はヒヨコによってもぎ取られていた。
 しかし俺が、この修羅場の光景を覚えていられたのは、ここまでだった。
 次の瞬間に、俺の身体はヒヨコによって、銃を構えなおした斉藤に向かって投げ飛ばされていた。


    ・・・・・・・・・
 

 数分後、俺達は再びシズルのカウンターに座っていた。
 斉藤はバーテンに持ってこさせた氷嚢を顔にあてている。

「目川さんは、ヒューマニストの探偵なんですね。私はもっと、探偵というのはハードボイルドなものだと思っていましたよ。」
 下らない戯れ言だが、今の斉藤は、俺がかけたグラスの水のせいで、未だに水も滴る良い男だった。

「今日のは、浮気調査が主な探偵家業にしてみりゃ、充分腰を抜かすに値する出来事だったんだよ。第一、殺人があれば、その側にいただけでも、こっちは無事じゃ済まない。あんたは、何故、拳銃を使わなかったんだと、俺を非難するが、日本の警察は優秀で、俺はご覧の通りドジで間抜けな探偵だ。あんたは良くても、俺が持ってた拳銃を、警察に、どう説明するんだ?指紋だって映画に出てくるみたいに綺麗にふき取る自信もなければ、拳銃の隠し場所も俺には判らない。」

「何度も申し上げています。後始末は組がしますと。」

「、、、。」

「信用されていないようですな。私がいい見本のようなものなのですがね。私が思い切りがいいのは、キれやすい人間だからだけでは、ないんですよ。それなりの背景があるからなんです。戦時中をご覧なさい。普通の人間でも人殺しをしますよ。それはそいうった背景があり、背景がその事を許すからだ。」
 俺はその件で、斉藤と議論する気にはならなかった。

「、、ヒヨコの実物を拝ませて貰ったお陰で、俺は少し彼の人物評を修正する事が出来たよ。」

「どんな風にです。」
 斉藤もこれ以上、俺の臆病ぶりを当てこするつもりはないようだった。
 頼りない相棒のせいで、下手をすれば殺されていたかも知れないのにだ。
 そのあたり斉藤という人物は、やくざの本分から離れた思考を持つ男のようだった。

「俺は、始めヒヨコってやつは、相当、頭がぶっ飛んだ奴だと思っていたんだよ。、、零の事が、会長に知れて風向きが変わり始めているのは、零のツレなんだから、充分知ってる筈だよな。それが、こうやって世間に堂々と顔をさらしている。キれているか、阿呆か、どちらかなんだろうとな。でも奴は違うな。ああやって、組の動きを探っていたんだよ。奴の方から、組には潜り込めないしな。零は、こんな荒事には向いていてないし、結局、ヒヨコが危険を承知のアンテナ代わりを買って出ていたという事だ。」

「だとしたら、私が今日、奴が知りたかった事を教えてやったわけだ。会長や組が本気で動いている事をね。、、、今後は、零さんの方の動きも活発になるだろう。」

「これからどうする?」
「今日は、ひとまず解散しましょう。」
「いいのか?」
「ええ。それに目川さんも、いつまでも恋人をほって置くわけにもいかんでしょう。」
 斉藤はリョウに会っている。

「恋人?奴がそう見えるのか。」
「何処から見てもね。」
 斉藤は意味ありげに、にやりと笑った。





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