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第2章 「左巻き虫」の街
25: ホテル・アタラクシア
しおりを挟む丹治が護に紹介した宿は、碇の外れにある古い洋館仕立ての長期滞在型ホテルだった。
室内には簡単なキッチンもあり、料金も格安、ただし作り自体はクラシカルな趣があると言えば聞こえがよいが、あちこちに相当ガタがきていた。
名前をホテル・アタラクシアと言い、オーナー件支配人は丹治の先輩、つまり警察OBだった。
アンティークな建築物が好きだったこの男が、自分の退職金と貯金をすべて注ぎ込んで、この建物を購入し、今はホテルとして運営しているという。
一刑事の収入で、そんな事が可能なのかという疑問を護は持っていた。
丹治がここを紹介するときに「警官としての悪事の全ては、ここの親父から全て学んだ」と冗談めいて言っていたのだが、支配人本人の顔を見ると、それが冗談に思えなくなっていた。
支配人といっても他のホテル従業員は少なく、色々な仕事を一人でこなしている
その日、居住区に帰るのも億劫になっていた護は、そのままとりあえず、一週間の契約をすませて、このホテルに泊まる事にした。
野良犬にとって、自分の塒などに、大した意味はないのだ。
「、、、まずいな、このボルシチ。」
真っ赤な汁をスプーンで飲み込み終わった護が言った。
野良犬でも味覚はある、それに機構の居住区で提供される食事はレベルが高い。
「文句を言いなさんな。それでも他の客は文句を言わずに食べてる。パンの方は美味いぞ、近所のベーカリーから仕入れてるからな。パンに汁を付けて喰うといい。」
ホテルのレストラン件バー件・その他諸々という空間の中で、今はバーテンダーのような事をやっている支配人が言った。
言われたとおり、護はボルシチの皿に千切ったパンを少し突っ込んでそれを口にほおりこんだ。
少しは、ましな味がした。
いやボルシチの方も、それ程、まずいという訳ではないのだ。
手抜きをせずにちゃんと作ってあるのは判る。
切った野菜などの大きさが不揃いだったが、肉もちゃんと熱が通っていた。
ただ味付けとか、色々な部分が「不器用」だという気がした。
「料理人が不器用なんだよ。指が一本少ない。それでも頑張ってる方だ。それに給料が安いしな、それ以上頑張る気がせんのだろう。」
支配人が笑いながら言った。
カウンター席の外れにでは、一人の老人が背中を丸めて、護と同じようにボルシチとパンを食べていた。
おそらくこの食堂件、バーには、他の食べ物のメニューがないのだろう。
「、、あんた、丹治警部の先輩なんだって?色々な事を知ってるんだろうな?」
「多少は、そうかも知れないな。警視殿。」
支配人が顔に薄笑いを貼り付けてそう言った。
「チッ!もう知ってるのか。、、、だったらカルロスって奴の事知ってるか?」
「カルロス・テベスタの事か?奴が何かしたのか?」
いくらなんでも、カルロスが特異点で化けた事は、まだ知らないだろうと護は思った。
この件は機構レベルの事案になっている。
カルロル自体が、特異点で得た力を使って碇で派手に動き回るまで、情報はまだ漏れないはずだ。
「どうしてテベスタなんだ?カルロスってヤツは、この街じゃ大勢いそうだけどな?」
「そりゃ警視殿、あの丹治とつるんでるんじゃカルロス・テベスタだろうって事になるな、、。」
「カルロスと丹治警部は、昔からの知り合いなのか?」
「知り合いっていう様な、良いものでも悪いものでもない。丹治がここに赴任して、刑事としての頭角を現し始めたときに、おなじようにこの街で悪の名前を上げ始めたのがカルロスで、丹治は最初から奴に目を付けてた。丹治から見れば十程年下の若造なんだが、やる事がキレ過ぎてた、、。丹治はことある毎に、こいつは今にとんでもない大物の悪党になるってな。」
支配人は空になったボルシチの皿とパンの皿を下げて、護のグラスに水をつぎ足してやった。
「ただな、珍しくこのカルロスだけは、丹治の見立てが狂った。奴はずっと鳴かず飛ばずだった。やってる事は凶悪、極悪を、絵に描いたような事を続けてるんだが、運に見放されてるのか、いつまでたっても街のチンピラのままだった。今じゃ、どこにいるのかも判らない。」
「運に見放されてる?」
「例えば、奴がどでかい悪事を働いた時に限って、他でもっと大きな事件が起きる。それとか、悪さの為に嫌々組んだ相手がヘマをして、誰もがビビる仕事だった筈のものが、笑いものの仕事になっちまったとかな。悪党ってのは悪さで評価されるんだよ。」
「ふーん、そんなものかな、、。」
だとするならテベスタ・カルロスには今回、大きなラッキーチャンスが巡ってきたって事だ。
そしてそのチャンスを、回してやったのは他ならぬ、この俺なんだと、護は苦く笑った。
「、、ああそれと、このホテルの名前なんだが、アタラクシアってどういう意味なんだい?」
「、、、平穏な心の状態かな?最初は、エピキュリアンにしようと思ったんだが、なんだか安っぽいラブホテルみたいだろ。せっかくのこの建物には釣り合わない。私はこれに愛着を持っているんだよ。アタラクシアって名前は、同じくエピクロスの哲学説から戴いたんだよ。」
「ふーん。」
あんたには悪いが、その名前、ここには似合わないなと付け加えそうになるのを、護はかろうじて堪えた。
そしてアタラクシアが、単純な心の平静を指すのではないことを、護が知ったのはもう少し後の事だった。
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