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第2章 「左巻き虫」の街
29: 狂犬か飼い犬か
しおりを挟むその朝、響児は、緊急に招集を受けた夜間の張り込み開けの状態で、そのまま署に出向いた。
自宅に帰れば、一時間半ほどの睡眠がとれそうだったが、中途半端に眠るとかえって怠さを訴える自分の身体をよく知っていたし、この日は、香坂と組む日だったので、いっそのこと、勤務が始まるまで署で時間つぶしをしようと思ったのである。
響児は署に付くと、一番最初に銃器保管室に向かった。
任務が切り替わる度に、拳銃携帯許可の申告をやり直す必要があるからだったが、響児の目的は、どちらかというと、それより保管室の近くにある休憩室のコーヒーが目当てだった。
響児がとりあえず申請を済まそうとブースに入った時、そこに先客がいるのを発見した。
護だった。
護は、隣のブースでぼんやりと拳銃保管用のシャッターボックスの操作パネルを眺め、何かを考え込んでいる風情だった。
護の前のシャッターボックスのシャッターは既に開いており、そこにブロンコの黒い鋼の肌が横わたっていた。
響児は、護を発見して、挨拶をするかどうかを躊躇した。
このタイミングなら、護と顔を合わせず、そっと退室する事も可能だったのだ。
人なつこい響児にしては、非常に珍しい逡巡だった。
一時はあこがれの念を抱いていた人物であるとはいえ、相手は年下で警官としては自分より新米だ。
いや、だからなのかも知れない。
響児は、着任早々、街で悪い評判をとり続ける護と話を交わすような事になれば、かっての憧れに対して、ついつい非難がましい言葉を面と向かって吐いてしまいそうな自分が怖かったのだろう。
「ホントに噂通り、ブロンコを使っておられるんすね。」
響児は各ブースを区切る低い衝立の上から、護の手元を覗き込むようにして言った。
結局、響児は話しかける事に、我慢が出来なかったのだ。
護が不審げに、響児のすっとぼけた表情を見る。
「鉄山響児です。これでも警視殿と同じ課に所属してます。」
「ああ、香坂さんが面倒を見てる新人さんだね。」
「面倒見て貰ってるのは確かですが、もう新人じゃないっすよ。少なくとも警視殿よりは、経験を積んでる。」
響児は不敵に笑いながらそう応えて、自分の銃の手続きに入る。
護はその間に、手続きを終えてブースから離れている。
「でも驚きだな。どうして香坂さんの事を?警視殿は、てっきり丹治オンリーかと。」
護を追いかけるようにして響児もブースから出てきて彼と並んで歩き始めた。
「こちらに来て、二週間になる。署にいる時間だってない訳じゃない。だが誰も話しかけてこない。そんな中、唯一の例外が、香坂さんだった。」
「、、、なるほど。香坂さんらしい。ねっ、一緒にコーヒーでも飲みませんか。通常の勤務なら、まだ時間があるでしょ。」
「いいだろう。」
響児の顔が綻んだ。
半ば護から気難しい答えが返って来るのではないかと思っていたからだ。
「俺、コーヒー取って来ます。警視殿は座っててくださいよ。あっ、ついでにドーナツなんてどうです。ここのは自販機から出てくる割には結構いけるんすよ。」
「ああ、よろしく頼むよ。」
護はプラスチック製の白くて丸いテーブルに付いた。
ほどなく響児が、二人分のコーヒーとドーナツを持って来て席に付いた。
「さっきのブロンコ、警視殿が選んだんですか?」
「いや、丹治警部が薦めてくれた。」
「ふーん、相当、警視殿は丹治さんに評価されているんだ。ブロンコはイイ銃だけど、名前の通り、じゃじゃ馬だ。乗り手が良くないと、振り落とされてしまう。」
「丹治警部も、そのような事を言ってたな。」
護がコーヒーカップの飲み口から熱いコーヒーを啜る。
「で、ブロンコを今まで使った事は?」
「ここの現場では無いな。、、特異点では違うのを使ってたが、それも少し前に、使うのを止めていた。だから射撃訓練は時間があればやっている。」
「、、でも、実際使うのは、拳と蹴りだけなんでしょ?」
ドーナツに手を伸ばしかけた護の動きが止まる。
拳と蹴りと言った響児の言葉に、非難の色が混じっていたからだ。
護は、響児の顔を正面から見た。
「ここからは正直に言いますよ。警視殿。俺は昔、警視殿と同じフルコンをやっていた。俺にとっては、年下だがロバート長谷川と藍沢護は、一種のヒーローだった、、、。その藍沢護を、今、街の連中がなんて呼んでるか知ってますか?」
「なんと呼んでいるんだ?」
「丹治の飼い犬。丹治は狂犬を飼い犬にしてる。丹治が犬の散歩をさせる時は気を付けろ、すぐにその犬に噛みつかれるぞ。ってね。」
「丹治の狂犬か、、。」
「おかしいじゃないすか?藍沢さんはそんな事をする為にフルコンやって来たんすか?それに言っちゃなんだけど、ここ二週間の藍沢さんの行動は、俺達の仕事の研修にもなんにもなっちゃいない。ただ丹治に命令されて、街のチンピラを痛めつけてるだけだ。」
「君は丹治警部が嫌いなのか?」
「ええ、あの人は、はっきり言って腐りきっている。」
「その事を面と向かって言ったことは?」
「、、、、。」
「、、、俺は言ったことがあるよ。まあ君と違って、階級的には俺の方が丹治警部より上だからな。」
「だったら何故、丹治の言いなりになってるんです。警視殿は、この仕事が初めてだからよく判っていないかも知れないけど、藍沢さんが今、街でやっているような事を他の署でやったら即刻、首ですよ。暴行の重犯で、とっちめられるのは、藍沢さんの方だ。丹治さんが片っ端から、それをもみ消してるのに気が付かないんですか?」
「世間知らずのリペイヤーでも、それくらいの事は判るよ。」
護の表情はあくまで穏やかだった。
そして穏やかに席を立った。
「そろそろ時間だ。飼い犬とすれば、尻尾を振りながら、ご主人様をお出迎えしないといけないからな。コーヒーとドーナツ、ありがとう。今度は、俺がおごるよ。大体、この時間にはここに来てる。」
響児は肩すかしを食らったような表情を浮かべて、椅子に取り残される格好になった。
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