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第二章 漂流漂着

19: 弥勒会議の影

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 岩崎は、本庁のデータベースに向かい合っていた。
 イマヌェル見崎がCUVR・W3第1レベルで垣間見たという『凶悪な世界』を、現実との類似性をもって最近の『犯罪事例』に照合するためだった。
 岩崎の直感は、イマヌェルが告白して仮想現実の中に、現実の犯罪に相似する匂いを嗅ぎ取ったのである。
 岩崎は、その『凶悪世界』を捜査する為に、再びCUVR・W3へ接続する時には、現実世界での予備知識こそが重要になると考えていたのだ。

 それにあわよくば、現実世界でのデータベース検索で、『凶悪世界』のマスターを確定する事も可能かも知れなかった。
 特に現場跡に残されていたという批判本がキーポイントだった。
 イマヌェル見崎の供述は仮想空間中の事でありながら正確を極めていて、検索の為の入力は多大の時間を必要としたが、その分、犯人像の絞り込みの精度が期待できた。

 岩崎の隣には、若手のマーシュ刑事が付き添っていた。
「こんな事をしている時間があるんですか?先輩があそこに潜っていられる期限は限られているというのに。」
「時間がないからこそこうしているんだ。CUVR・W3内部は私が考えていた以上に遥かに広大だ。あてもなく、うろつき回っても捜査は進展しない。私はあそこでは、陸に上がった魚という所さ。」
 岩崎の目は、検索結果が表示される筈のデスプレィを見つめながら言った。
 それは数秒後に答えを吐き出した。
「マーシュ、見ろ!ブキャナン事件だ。これで当たりだろう!」
 デスプレィに表示された文字を読んでマーシュが息を飲んだ。


「確かに。それにブキャナンは執拗にガタナ氏の思想を批判していますね。見崎がもらしたキーワードと一致する。この寄稿数を見てると異常なくらいだ。」
「ブキャナンは心理学者だ。心理学界きっての論客と言う事で、心理学以外の幅広い分野への言及でも知られているが、専門外のガタナへのこの執拗な絡みようは、ストーカーのそれに近いな。」
 岩崎はデータベースがはじき出したブキャナンの書籍タイトルを眺めながら言った。

「それに他の該当事件事例が表示されませんでしたね。ブキャナンか、、あらゆる面でどんぴしゃりだ。しかし彼は現在、国立精神病理学センターに収容されている筈ですよ。おそらく事件当日も収容されていた筈だ。完璧なアリバイって奴ですね。警部、こいつはひょっとすると予想していた以上にどでかいヤマかも知れませんね。俺はCUVR・W3絡みだから、ジャッジメントシステムにのっかただけだと思っていましたが、、これは単純な殺人事件に収まらないかも知れない。」
 マーシュが興奮を隠しきれずに言った。

「マーシュ、すまんが、今直ぐ国立精神病理学センターに飛んでくれないか?私はブキャナンについてのデータをまとめ終わったら、ソラリスに戻って、もう一度接続してみるつもりだ。」
 マーシュは深く頷くと、その部屋を飛び出していった。
『アルビーノ・ブキャナン博士。今世紀最大の犯罪心理学の権威であり、同時に大量淫楽殺人者の烙印を押された男か、、。ガタナ殺しの容疑者としては、はまり役過ぎて怖いぐらいだな。』
 岩崎はそのあと更に、アルビーノ・ブキャナンが犯した戦慄すべき殺しの実態をこのデータベースから引き出すことになる。


    ・・・・・・・・・

 保海真言は、人気のない『闇の左手』の道場の板張りの上で座禅を組んでいた。
 真言は相当に深い疲労の中にいる。
 しかもその疲労は肉体的なものではなかった。
 いつもは直ぐに瞑想状態に入れるのに、この日は、いつになっても、それが出来なかった。
 CUVR・W3の中で最後に出会った、『あのもの』の存在が、真言の心に突き刺さったままだったからだ。
 『あのもの』は、確かに真言を見つめていた。
 それに第一レベルに入り込んだのは良いものの、ソラリスによって直ぐに弾き出されている、そのダメージもあった。

「よう。保海。精神修行か?のんびりしてるじゃないか?」
 真言は突然背後から声をかけられた。
 声の持ち主が近づいて来る気配すら察知できなかった。
 『闇の左手』の使い手としては完全に失格だった。

「流さんですか?なんの様です。」
「何のようとは、ご挨拶だな。いろいろと調べて来てやったぜ。聞きたくないのか?」
 流騎冥は真言の前にどっかりと腰を下ろした。

「お前、弥勒会議ってぇのを知っているか?そいつが俺達を踊らせているようだ。」
「なんですかそれは、秘密結社の名前ですか?」
 流がにやりと笑うと、どう猛な大粒の歯並びが見える。

「未来に出現し人間を救うという仏さまの名前をかたるとは大仰なネーミングだが、なんでもこの弥勒会議が始まったころには、もっとまともな名前だったらしい。始めの頃は、各先進国の指導者・実力者・有識者が寄り集まって、Ωウェブの有効利用と運営をそこで考えていたらしいな。」
「オメガウェブ?それCUVR・W3の事でしょう?今なら秘密でもなんでもない。」
 真言は瞼を閉じたまま言った。

「いや。Ωウェブの有効利用の看板は表向きなのさ。弥勒会議はΩウェブ関連の通常では取り扱えない厄介な問題を専門にしているようだ。CUVR・W3は見方を変えれば、人間の精神とコンピュータの融合の場って事だよな。そこから人間は、望むと望まざるとに関わらず、新しい存在になるための階梯を登っていくわけだ。とまあ彼らはそう考えている。その過程上に起こる様々なトラブルを、弥勒会議が予見し処理するという事なのさ。」
 流は最後の内容を何処かで聞きかじったらしい、自分の言葉になっていなかった。

「俺達銀甲虫に、お前の護衛を指示したのは、その弥勒会議だ。何かしらんがお前は重要な鍵を握ってるって事だな。あの二次元刀とかに関係してるのかもしれん。」
「僕を戦車まで使って追いかけていた側は?」
「そいつは判らない。ただ弥勒会議は、彼らの敵対者に、自分たちの立場の意思表明をしたかったんだろう。(俺はお前には反対だ。)そう言うことだ。そしてお前を追いかけていた奴も(俺はこうするぜ)と弥勒会議に伝えたかった訳だ。どうやら奴らの本当のやりあいは、これから始まるらしい。」
「そんな事のために、あんな派手な市街戦を引き起こしたのか?何人死傷者が出たことか、、、。」
 真言の顔色が曇った。

「おいおい。お前らしくもない。クールな顔してそんな事を気にしていたのか?『闇の左手』の使い手で、しかもヤクザの跡取り息子にゃ出来過ぎだぜ。それに権力とはそんなもんだ。俺達だって、銀甲虫になった時は人の命なんて屁とも思っちゃいないぜ。」
「、、、どうやってそこまで調べたんです?」
「流個人として本庁の警視正を締め上げた。勿論、相手に銀甲虫の素性をばらす様なヘマはしちゃいないがね。奴も騒ぎだてはしない。俺は奴さんのちょっとした弱みを握っているんでね。」
 銀甲虫は警察組織とは別物だが、まったく関係がないという訳ではない。
 流の階級を無理矢理、警察のそれに並列させれば流の階級は警視正よりずっと下の筈だ。
 真言はそれをどうやったかについては興味を持たなかった。
 ヤクザも警察も銀甲虫も脅しのやり口は似たようなものの筈だった。

「と言うことは、その警視正も弥勒会議のメンバーなんですか?」
「そうじゃない。奴はCUVR・W3で起こった別件のトラブルで、たまたま弥勒会議の存在を知ったようだ。つい最近な。」
「別件のトラブル?」
 真言の切れ長の目がうっすらと開きかける。
 それは道場の薄明かりの中で鞘から引き抜かれかけた日本刀のような青白い輝きを放った。

「そっちの方は、さすがに口が堅い。よく判らないんだ。ただ、市警の岩崎というおっさんが、その件で首を突っ込んでいるらしい。ジャッジシステムに本人が指名されたらしくて、かなり派手にやってる。市警じゃその噂で持ちきりだ。俺達、市警に居場所を間借りしてる部外者の銀甲虫にさえ、岩崎を応援する署内のムードが伝わってくる。今まで内調が警察から横取りした事件は数多いからな。無理もない話だ。縄張り意識って奴だ。こいつは俺達、銀甲虫にもあるが。おっとその事についちゃ、ヤクザが本家本元だったな。」

「今日の流さんは、やけに明るいですね。はしゃぎすぎだ。」
「お前さんが、幽霊みたいな顔色をしているからさ。その顔を見るのが嬉しくてたまらない。所でお前さんの方はどうだ?俺にこれだけ喋らせておいて、黙っているなんて事はしないよな?」
 流の顔は笑っていたが、目はそうではなかった。

「CUVR・W3に接続するツテを掴みました。それでソラリスの第一レベルに一瞬ですが、入り込むことが出来たんです。」
 真言は彼が体験したことを詳しく流に伝えなかった。
 CUVR・W3に入った途端に、誰かに目を付けられたと言っても話がややこしくなるだけだった。
 それに、流も彼が仕入れた情報を事細かに伝えている訳がないと判断していたからだ。

「それで?向こうであの奇妙な刀の事は判ったのか?」
「わかりません。もう一度挑戦してみます。」
「そうか、、、。もう一つ教えといてやろう。もうすぐお前の叔父貴にCUVR・W3使用の認可が下りるだろう。」
「どういう事です?」
「それが弥勒会議の方針らしい。その意味は俺に聞くな。お前さんと同じことさ。(わかりません。)だ。」
「(わかりません)に挑戦はしてくれるんですか?」
 真言は挑発するように言った。
 真言には、この男が、自らが関わったこの事件にのめり込んでいる事が手に取るようにわかっていた。

「お前の為にでなく。俺自身の為にな。だから必ず、もう一度俺と勝負をやるんだ。いいな。決着はまだついていないんだぞ。」
 流はズックリと立ち上がりながら保海に言った。
 そして保海は再び、静かに目を閉じ瞑想に戻った。



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