椿の花を落とさぬように

万年青二三歳

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古い記憶を呼び覚ますもの

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 幼き日に誰もが一度は夢に見る職業が騎士だ。
 国章である薔薇と剣の紋章を彫った右手で剣を握り、国を守る。その姿は輝かしく、人々の規範であり、憧れである。
 騎士になるには、騎士見習いとして騎士団に所属する必要がある。その際、出自は問われず、ただ国への忠誠心と能力だけで選別される。ただし、ひとつだけ条件があった。
 ——身内に罪人がいないこと。

 王都で生まれ育ったアステルは織物業を営む父とお針子の母を持つ裕福な庶民の子だった。父譲りの恵まれた体格のおかげで、幼い頃から駆けっこでもなんでも負けたことがない。騎士見習いとして選ばれたことに疑問を持つ人間は誰もいなかった。
 騎士見習いとしては少数派の庶民ではあったが、母譲りの愛嬌で貴族出身の仲間とも上手く付き合っていた。

 すべてが順調だった見習い二年目、翌年には正騎士審査が迫る。騎士見習いの小隊で副隊長を任され訓練にも熱が入る中、告げられた。
 お前の父が人を殺した、と。
 すぐさまアステルは騎士見習いの仲間に押さえつけられ、右手に彫られた騎士見習いの証である薔薇の蕾の紋章を焼かれた。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~!!!!!」

 獣のような雄叫びは、夢を絶たれた悲しみと、理不尽への怒りと、そして感情のない顔で自分の紋章を潰す男——親友だと思っていたのに——への憎しみが込められていた。肌を焼かれる痛みなど、覚えていない。

 アステルが訓練を受けていた場所から生家までは歩いて三日の距離だった。
 しかし、二日目には家のあった場所に着いた。
 全ては焼け落ち、アステルを迎えるものは何も残っていない。
 息子の夢を絶った両親は命を持って、アステルに謝罪したのだった。

 抜け殻になったアステルはふらふらとあてもなく街道を歩いた。
 着の身着のまま休みなく歩いても、恵まれた体は生きることをやめない。
 野垂れ死ぬことを望んでいたが、叶わないと気づいたアステルは仕方なく生きることにした。

 しかし、仕事が見つからない。
 職人仕事は幼い頃より弟子入りする必要があり、他の仕事は右手の甲が邪魔をして門前払いだ。騎士見習いになる程優秀なくせに、身内に罪人がいる男なんて、誰も扱いたがらない。
 そうしてアステルは娼館の扉を叩いたのだった。
 十八の冬だった。

「なんでもします。ここに置いてください」

 ありきたりの色彩と、愛嬌はあるが別段美しいわけではない見た目。それでも若いから客はつくはずだが、娼館の主人は渋い顔をした。
 その視線の先にある右手の甲を撫で、アステルは正直に身の上を話した。
 自分は騎士見習いでしたが、身内に罪人が出たのでクビになりました、と。

 初めこそ周囲も遠巻きにしていたが、持ち前の愛嬌で馴染むことに成功した。
 恵まれた体はここでも役に立った。性欲が有り余る男たちの望む手荒い行為も受け入れられるし、指一本動かせない疲れマラの客から搾り取るのもお手のものだ。
 今では男娼で給仕で用心棒。
 頼れる存在として『霧の丘』の経営を支えている。

 体を弄られるのも、媚びた態度を取るのもすっかり慣れた。染みついたと言ってもいいだろう。そういう世界の人間にそっくり作り変えられてしまった。
 だから、調査のために現れたらしい男を誘うのも簡単だと思っていた。

「こんばんは、旅のお人。ここへは初めてだろうか」

 アステルが話しかけるとわずかに顔を上げたが、口を開くことはない。男が小さく頷くと、フードから髪が一筋はらりと落ちた。ツンと尖った鼻先にかかる蜂蜜色のブロンドは香油で手入れされている。満足に入浴ができず自分の脂で束になった庶民の髪とは訳が違う。

「やっぱり初めてかい。そうは思えないのだけど。でもその美しい髪色を忘れるわけがないよ。あぁ、もしかして……ねぇ、運命を信じるかい?」

 特別を予感する言葉を告げるが、微塵も思ってはいない。夜の街では定番の誘い文句だ。それなのに酒器を掴んでいた男の手がピクリと反応した。随分と初心な調査薬をよこしたもんだ。どうせお上から資金が出ているんだから、きっちり搾り取ってやろうとアステルも気合が入る。
 立ち飲み用の背の高いテーブルに肘をつき、男の前髪に手を伸ばす。ついでに顔も拝んでやろうと覗き込み、ギクリとする。
 左頬に走る歪なひきつれ。
 あの日、獣のように叫んだ自分が焼かれた右手を伸ばし、爪を立てた痕によく似ていた。
 蘇る記憶に息が詰まる。

「い、いや、気のせいか。余計なことを言った……では、ごゆっくり」

 とにかく急いでこの場を離れようと、身を起こしかけたが阻まれる。男の手がアステルの左手を握っていた。剣ダコのある分厚い手。こうして握り合ったことは何度もある。腕相撲では一度も敵わなかった。組み手ではアステルの方が強かったが、それは庶民ゆえに貴族が嫌う狡い手を躊躇なく使えたからだ。
 貴族の三男坊、小隊の隊長だった男、セーラス。
 アステルが最も信用していた仲間。いつしか恋してしまった相手。そして、アステルの右手を焼いた男だった。

「久しぶりだな、アステル。ふたりきりで話がしたい」

 十年ぶりに聞いた低音は記憶よりかすれている。あの頃、この重厚な響きは、他の騎士見習いたちを問答無用で従わせる不思議な力を持っていた。そして、今も健在だった。一秒でも早く逃げ出したかったのに、アステルは頷いてしまった。
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