椿の花を落とさぬように

万年青二三歳

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懐古

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 受付に行くと、ちょうど客が出た部屋があった。無理を言ってセーラスを案内してもらう。

「俺が出てくるまで、誰も部屋には近づかないでくれ」

 従業員の一人に耳打ちすると、眉をひそめた。客と花、それぞれの違法行為を防ぐために、他の従業員が部屋の様子を覗くことがある。これは花たちの命を守るためにも重要な決まり事だった。

「規則違反は承知の上だ。今週の俺の売り上げはみんなで山分けしてくれていい。とにかく頼む。放っておいてくれ」

 初めて見るアステルの必死な様子に他の従業員も耳をそばだて、眉をひそめた。アステルは個人的な理由だと伝え周囲を安心させるべきだったが、そんな余裕など残っていなかった。

 度数の強い酒を用意し、セーラスの元へ戻った。
 部屋の中には夜風が通る。前の客の痕跡を消そうと窓が開け離れているが、精の匂いがこびりついている。こんな空気の中セーラスと向き合うのは気が進まなかったが、誰にも話を聞かれたくない。素早く窓を閉めた。ギィと嫌な音が耳をつく。
 娼館とはいえ庶民用だから室内にはキングサイズのベッドと小さなテーブルが一つあるだけだ。椅子すら用意がない。
 セーラスはベッドの足元に腰掛けて、余らせた長い脚を組んでいた。茶色のマントが壁にかかっているのを見て、視線を下げた。まともに顔を見たら最後、きっとアステルは正気ではいられない。

「お待たせいたしました」

 頭を下げ、テーブルにをセーラスの前に移動させると酒器一式を置き、隣に腰掛ける。もちろん視線は下げたままだ。
 セーラスは古びた庶民の服を着ているが、その所作が貴族の出であることを物語っていた。そのチグハグさはまるで芝居小屋にいるようで、夢を見ている気持ちになる。
 これは悪夢か、それとも。
 粗末な綿でできたパンツに襟のないシャツ。ボタンなど庶民にとっては高価でもろいものだから胸元は紐で調整するのだが、セーラスの場合、胸筋が発達しているので、紐を締め上げる必要がない。記憶にある体よりふた周りは大きくなっているようだった。
 アステルはいつの間にか筋肉が落ちてしまった自分の体を恥じ、身を縮めた。

「どうぞ、こちらを」

 酒器を差し出すと、セーラスは受け取り一気にあおった。
 アステルも後を追い飲み干す。カッと酒精が喉を焼く刺激に目をつぶり、一刻も早く酔うことを願った。緊張に冷えた指先を握り締め、初めての客をもてなすのと同じように振る舞う。

「今宵は霧の丘にお越し下さり、誠にありがとうございます。私と共にひとときの夢をお楽しみくださ——」
「いつまでそうやっているつもりだ?」

 少々の威圧が含まれた声にセーラスの苛立ちを感じる。彼は決して人の話を遮ったりする人間ではなかった。それとも、もうアステルには人としての価値を感じないのだろうか。
 しかし、後を継いだ言葉はいつもの穏やかさを取り戻していた。

「アステル、お前はそんな話し方をする奴じゃない。あの頃、騎士見習いの中でお前だけが俺に媚びなかった。俺の言うことを鵜呑みにせず、質問するお前に何度助けられたことか。こんなにも他人行儀な対応をされるのは……傷つく」

 セーラスの弱音に、思わずアステルは顔を上げた。
 十年ぶりに視線がぶつかる。
 記憶と違わぬ紺碧の瞳がそこにあった。黒にも見える深い碧の虹彩に点々と黄金の星が散る。初めて視線を合わせたときからアステルはそこに夜空を見た。
 田舎の夜空は碧が濃く、星が煌めく。嫌でもセーラスを思い出すから、いまだに夜間の外出は極力しない。

「変わらないな、アステル」

 明からさまな嘘に、アステルの緊張は途切れる。セーラスは「仲間には誠実でありたい」といつも言っていた。もう、自分はその中に入っていないと当然の事実を突きつけられる。アステルは落胆し、安堵した。
 生きる世界が違う。
 それなら諦めがつく。もう互いに関わるべきではない。
 視線を外し、記憶より雄々しさを増したセーラスの顔を眺める。太い眉と甘く垂れた目尻。当時はなかった眉間のシワが思慮深さを感じさせる。形の良い鼻に、わずかにめくれた厚めの唇。完璧な顔を台無しにする左頬のひきつれに胸が痛んだ。
 セーラスの声はアステルの記憶を呼び起こす。


 当時、セーラスは他の貴族出身の騎士見習いから遠巻きにされていた。かなりの上級貴族であることが理由だったが、アステルには違いがわからない。庶民だからと距離を置かれる自分に似ていると親近感を抱いた。

「アステルだ、よろしく」
「アステルか。私はセーラス……」

 硬い表情がゆるみ、花が咲くようにセーラスは微笑んだ。その美しい顔にアステルの目は釘付けになり、セーラスの名字を聞き取れなかった。
 騎士は身分に左右されない関係を構築するために、ファーストネームで呼び合う。それは見習いも同じこと。
 きっとそこに爵位のヒントがあったはずなのだが、確認するチャンスは失われてしまった。しかし、だからこそ良い関係を築けたのかもしれない。
 博識なセーラスでも、庶民のことは上部しか知らず、アステルの話すことに一々感心した。アステルはそれをむず痒く感じながら、誇らしくもあった。
 それはアステルに自信を取り戻させた。
 法律を始めあらゆる座学について行けず、剣術も初心者。遅れを取りながらも諦めずに努力を続けられたのはセーラスのおかげだった。
 人生の重要な局面で自分を救ってくれた相手に特別な情を抱くのは当然だ。たとえ男同士でも甘さが混じり、先を考えたくなる。ただの仲間を超えて……
 
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