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出陣
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清らかな山奥で穏やかな日々を送ってきた天狗にとって、今の下界は醜い
話し合いから2ヶ月後、天狗の男衆の多くが戦場へと出立することになった。一度皆で美濃の関ヶ原へと向かうがそこから二つの隊に分かれる。凩達は江戸の方角に、我等は伊賀から玻璃野へと向かう手筈になっていた。
「まさかあの太閤が身罷られたとは」
仮の面を着けた月夜は意外と言いたげである。石田だの徳川だの知らぬが、幼かった月夜に分かるほど戦力の差は圧倒的だったのだろう。
「やはり戦の規模も大きかったのか、亡くなった者が多かったようだ。それ故、外法師は大規模な邪法に、最適な土地が手に入ると考えたのだろう。そこを基盤として長の庭の湧き水が如く、滾滾と魑魅魍魎が沸くという」
背後で会話を聞いていた天狗の青い者達が怯えている空気が伝わってくる。天狗達で長の庭の湧き水を知らぬものがいないので、容易く想像してしまったのだろう。だがこの程度で挫けていては、実戦だと使い物にならぬぞと叱咤した。
「言っておくが、此度美濃に向かうのは、あくまで上空から様子を見るだけだ。おぬしら、この程度で逃げようとは思うなよ」
天狗達は承知しましたと返事はするものの、声にあまり力が籠っていない。やれやれ、こやつらで大丈夫なのか。風琴は思わず言いたくなってしまった。
山を下って二、三刻後に美濃に着く。戦で死者が出たという関ヶ原は、赤黒い邪気の霧で全く様子が見えぬ程であった。
「あの……ご隠居。これは索敵どころではないと思うのですが」
風琴の隣で飛んでいた東雲が、言いにくそうに言う。確かにそれはそうであるな。この場合、鬼も見えぬ人間を何処かで浚ってきて、報告させれば良いのかと物騒なことを考えてしまう。まあ冗談であるが。
「土御門の奴らの霊符に妖力を込めてから言え」
「それは、どういう……? ああ、そうでしたね。おいお前達もご隠居が仰られた通りにやれ」
衣の裏側に縫い付けた霊符に妖力を込める。すると霧で見えなかった部分が露になった。
地を何やら人影らしきものが蠢いているが、この邪気の濃度の中で生きる人間が動ける筈がない。彼方此方に血の色をした水溜まりのようなものがあり、そこからおぞましい妖異がうじゃうじゃと沸いていた。
数名がその光景に吐きそうになっていたので、術で強制的に吐き気を止めさせた。
「言っておくが、我の術で全員を隠行させている。故に眼下の化物どもは、此方に気づいておらぬ。しかし、吐瀉物が掛かろうものなら見破られる。死にたくなければ、耐えろ」
えずきそうになった者達はこくこくと首を縦に振る。とは言え、いつまでも耐えられそうにもない。吐きそうな奴らは一旦凩に任せて、残りの者に測量と記録をするように命じた。
風琴は記録役に、化物を呼び出している外法の特徴を事細かに伝えながら、周りの天狗に目を配る。月夜と涼太は意外と気丈である。2人は浄化の作用がある里の湧水を配ったりなど、周りの者達の手伝いを行っていた。
それにしても、外法師どもは此処にはいなさそうだ。何処へ行ったのか。土御門の話だと、此処を核として霊脈にまで穢れが流れ、日ノ本各地に魑魅魍魎が沸いているという。我等の山が無事だったのはひとえに奉る神の御加護と、結界のおかげであろう。……まあ、少し前に壊されてしまったが。風琴は苦い顔をする。
愛宕の太郎坊の孫殿に文で聞いたところ、人嫌いが多い故、小数名だけ我等より後に土御門に手を貸したそうだ。そして京周辺の邪気に対応しているが、きりがないそうだ。これを仕組んだものは、大勢いるとのこと。それだけ、人の世に憎悪を抱く者が多かったということか。はたまた優れた外法の使い手がいたのか。どちらにせよ、恨みがなくばこれほどの外法が組める訳もない。
土御門にさっさと対応できたのではと問うたが、奴は苦々しく首を横に振っていた。というのも、この戦が終わった年にようやく京に戻って来たゆえ、その頃には手遅れであったという。その間に暗躍していた外法師にとって、土御門の目が無い状況はさぞ楽であっただろう。
とは言え、人の世に憎悪があったとしても、現にこの地獄を作り出すとは理解出来ぬ。
「……気味が悪い」
風琴は眼下を睨みつけながら呟いた。
夕方頃に美濃の人気の無い山に降り立つ。先に飯の支度をしていた凩達は我達を迎えた。
「ご隠居達、お疲れ様でございます。それで、先程の場所の記録は出来ましたか」
「ああ、なんとかな。もう少し詳細に描いても良かったが、彼処に長居しては魔に転じる。土御門にはこのくらい描けば伝わるだろう」
あの場で記録するには、これくらいで良い。後は、我が更に詳細な書簡を書いておこう。風琴は同行していた者達にしばし休めと命じる。彼らは各々で腰を下ろしたり、水浴びに行ったりしていた。
「ところで師匠、これらの食材は一体何処から調達なさったのでしょうか」
後ろに控えていた月夜がそんなことを問う。ああ、あれかと風琴は鍋の方を見た。
「お前の替えの服を入れた小さな布袋があるだろう。あれの応用で、食材が数ヶ月分入れられる物を調理担当が持っておるのだ」
父の世代かはたまたそれより昔か。布袋に妖術を用いて大量の荷物が入るようにした者がいた。里を飛び出して旅をする者には必須の術。我がしてみたところ、無尽蔵に収納できたので食事用にと使ってもらった。
「紅月が料理が好きというのでな、陣中食とやらを聞き出して作らせてみた」
「成る程。だから味噌汁と握り飯なのですね。私も作り方を教われば善かったなあ……あっ」
突然、ぐうと大きな音する。振り向くと、月夜は耳まで赤くなっていた。
「腹の虫も鳴いているようだなあ。月夜、食べようか」
「はい……」
月夜は恥ずかしそうに頷いていた。
その夜。土御門への書簡を書き終えて乾かしていた。傍に控えていた月夜が水を持ってきたので飲み込む。少し緊張したせいか、いつの間にか喉が渇いていたようだ。
「月夜、もし今したいと言ったらどうする」
「え……!? 流石に今は……その……不寝の番の方に見つかってしまいますし。いや……師匠がお望みなのでしたら……」
月夜の慌てように思わず笑ってしまう。冗談だと言って、月夜の頭を撫でた。
「流石に今日はするつもりなどない。だが、戦では昂ることがある。その時は露見せぬように術をかけるので、腰に負荷がかからぬように頼んだぞ」
月夜は首を振ったが、少し残念だったのだろう。少し仮面をずらして触れ合うばかりの口づけをしてやる。突然の口づけに混乱した月夜の初な表情は可愛らしい。風琴はくくっと小さく笑った。
次の日の早朝、月夜は書簡を渡しに京へと向かう。渋柿で染めた袋に入れているので、突然の雨にも安心して構わない。だが、途中の近江で激しい雷雨に見舞われた。食後の話し合いで、明日雨が降ると師匠が仰っていたので、予め雨具を身につけていている。だが、こう雨の中で飛ぶのは少し辛い。月夜と涼太ははぐれぬように互いに声をかけながら進む。
そして、京に着いた頃にはびしょ濡れになっていた。屋敷に着いてからすぐに渋柿染めの袋を確認した。中身は一切濡れておらず、滲んでいる箇所も見当たらない。師匠のしなやかで美しい文字に、思わず見惚れそうになる。だがこれは大事な書簡だ。不必要に見てはいけない。月夜はすぐに畳み、応対した泰重に渡した。
「ありがとうございます。すぐに父に渡しますね。ところで月夜殿と涼太殿、少し休みませぬか」
月夜と涼太は顔を見合わせると外を見た。雨は激しさを増す一方である。豪雨の中での飛行は、体力の消耗が激しい。師匠達の身を考えればすぐにでも帰りたいが、それを考えると危険な気がしてきた。
「では四半刻だけ休ませて頂ければ幸いです。縁側でも構いません」
「いえ、今すぐ部屋をご案内いたしますよ」
二人は客間に通されると、腰を下ろす。温かい茶を渡されて、二人はふうと息を吐いた。思ったよりも身体が冷えていたのだろう。
指が青白く、互いの口元から覗く唇が紫色になっている。屋敷に上がる前に妖力で水気を飛ばしたが、身体が震えてしまう。我らは屋根の下で休めるから良い。だが、師匠達は雨の中闘っているのかもしれない。それを考えると申し訳なくなる。涼太殿も同じ気持ちなのか、空を見る目がどことなく暗い。
「師匠……」
今頃、師匠は伊賀に移動したであろう。師匠がご無事であるといいが。月夜は伊賀の方に視線を向けた。
その頃、伊賀の国境に来ていた風琴達であったが、化け物どもに遭遇ていた。外法師が放ったものであろうか。生き物と呼ぶにはあまりにもおぞましく、歪だ。人間の顔をしているが、それ以外は子供の悪趣味な人形遊びのように手足が大量に生えている。
そして翼はどろどろと気味の悪い粘液を滴らせていた。数は十体程度。だがよりにもよって、こんな雨の中で面倒な。
風琴は舌打ちすると、皆の前に出る。無言で剣を抜くと、今まさに自分に襲いかかる化け物に向かって一直線に飛ぶ。その途端、雷鳴の稲光が周囲に広がり、轟音が轟いた。
あまりの眩しさに若者達が目を瞑る。そして目を開けると、化け物達の姿は無かった。ただ血で濡れた剣を手にした風琴の背が見える。あの一時の間に片付けたのか。
「すごい……」
誰かが感嘆の溜め息を溢す。だが一人だけ、あることに気づいたのか、風琴に凄まじい勢いで近づいた。
「ご隠居! 腕は大丈夫ですか!」
ご隠居に近づいたのは薬師。手甲があるとはいえ、化け物の粘液が付着したことに、気づいたのである。
風琴は痛みなどないと言ったが、手甲をそっと外した。手甲の粘液が付着した箇所から、しゅうしゅうと音を立てて煙を上げている。粘液は雨に打たれているのに中々落ちる気配がない。ということは毒のある油か。
「ひとまず、退魔師達の拠点へと急ぎましょう。彼らなら、何か知っているかもしれません」
「そうだな。たまたま数が少なく、雨が降っていたから良かったものの、これ以上現れては厄介だ。おい、おぬしら。遅れずに着いて来い」
風琴達はそれから伊賀の土御門と共闘関係を結んだ退魔師の拠点に急ぐ。道中も化け物が出たものの、風琴が相手をしたような化け物よりは格下で、天狗達でも容易に対処が出来た。拠点に着くと、見覚えのある顔の者が出迎える。
「お久しぶりですね。天狗の皆様方、そして風琴殿」
微笑を浮かべたその少年は、以前に東雲を手合わせで打ち負かした勾陳であった。
「お久しゅうございます。土御門から聞いてはいましたが、本当に伊賀おられるとは」
「中々伊賀も厄介なことになっていてね。僕が駆り出されているんだ。ところで道中大丈夫だった?」
天狗は皆無事であるし、我も手甲が駄目になっただけで、怪我はしていない。薬師に目配せをすると、薬師は駄目になった手甲を勾陳殿に差し出した。
「人を人形のように複数体くっつけた化け物の翼の体液が付着し、手甲が駄目になった。以前聞いた話にはこのような物はいなかったが、一体何かお聞かせ頂こう」
勾陳殿は険しい表情で手甲を受け取る。心当たりがあるのだろうか。しばらく手甲を見つめていた勾陳殿は顔を上げた。
「これは最近、湧いてきたやつだね。最近、この汁を撒き散らすんだ。人間に付着しても死ぬことはない。ただ火傷のように皮膚が爛れて、1月は火で炙られる苦痛に苛まれる。僕や君達だったら、軽傷で済むだろう。ただ……代わりにごっそりと神気や妖気が奪われる。人間の場合、それで霊気をほとんど奪われたまま、抵抗できずに死んだ者がいる。あいつら人間を食って取り込むからね。天狗だからと、油断は禁物だよ」
では、あれは喰われた人間だったのか。風琴はおぞましさに寒気がする。そんな風琴を見かねたのか、勾陳は屋内へと案内した。
薬師と東雲と風琴以外は手前の部屋に腰を落ち着ける。三名だけ奥の部屋へと通される。風琴が腰を下ろすと、一人の童が白湯の入った湯呑みを差し出した。風琴は礼を言うと、それを受け取る。湯呑みは熱く、芯まで冷えた身体には心地好い。
「やっぱり、冷えていたんだね。天狗が風邪を引くかは知らないけど、君達にとって雨水は相剋。今日は戦場に出るべきではないだろうね」
剣に妖力が通りづらかったのはそのためか。昼間はさほど化け物達の動きが俊敏ではないので、今日はこのまま休憩になるのだろう。
「では晴れ次第、あの化け物を含めた空を飛ぶ魑魅魍魎と対峙し、霊符をばら蒔けと」
「その通り。まあ大体は久脩と話しただろう。更に詳しいことは、僕の新たなる仮の主が説明する。仮の主は夕方には戻ってくるから、その間はゆっくり羽を休めておいてね」
仮の主……土御門が協力者を募るために十二天将の所有権と引き換えにしたという。にしても十二天将側から術師を選んだらしいが、勾陳が選んだ術師はどのような奴なのだ。
興味があったが、それを露にするのは恥ずかしい。風琴は外を眺めて興味が無いふりをする。
それにしても、月夜達が早く着けばよいが。外の雨はざあざあと降るばかりであった。
風琴達と勾陳の仮の主が話を終えた頃、ばさばさと翼が羽ばたく音が聞こえた。
それと同時に、月夜がいることが手に取るように分かる。これが魂の繋がりか。通りでこの前怒られた訳だ。しばらくすると、風琴が休息している部屋に月夜が入ってくる。見慣れない着流しを着ているようだが、やはり濡れ鼠になってしまったか。
「月夜、ようやく戻ってきたか。道中大丈夫だったか」
「ええ、何事も無かったです。ただ、妖気の消耗が著しいですね」
月夜が面を取ると、血の気があまりない。我よりも雨に打たれていたのだ。無理もなかろう。
「天狗になったばかりのお前は妖気の回復が遅く、消耗が多いからな。……今から、やるか?」
「今からですか!? いえ、その……心の準備が……」
散々我を抱いておいて、それはないだろ。だが、月夜の様子からして満更でもないか。風琴は面を外して笑った。
「ではお前が飯を食ってからにするか。空腹なのだろう。それと今日は不寝の番は東雲だ。気にせずともよい」
「そうなのですか。はい……では……」
そして1刻後になって、月夜と風琴は身体を重ねる。といっても、此度は他所様の拠点でするのだ。
勿論、痕跡が残らぬように細心の注意を払ってである。いつもよりも激しくはないが、胸が幸福で満たされるような情交。妖気の供給目的ではある。だが、かつてはただの人間だったかもしれない敵を殺めてしまった風琴のひりつく心を優しく癒してくれた。
昼間、肉を断つ感触がおぞましく、眠れぬかもしれぬと覚悟はしていた。だが、情交のお陰か、うとうとと眠気で微睡む。そんな時、障子の向こうから名前を呼ばれた。
「風琴」
「何だ」
眠そうに答えると、障子の向こうの影はふふっと笑い声を上げる。
「月夜君が傍を離れている時は俺が守る。……だから、一人で無理はするなよ。指揮官が倒れれば、総崩れだ。それに……」
「それに……?」
東雲は数秒黙り込むと、首を横に振る仕草をした。
「いや、何でもないよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
そして風琴は泥沼に沈むのように眠りに落ちた。
その日は、昨夜の大雨が嘘かと思われる程の快晴。勾陳の仮の主である百地という姓の男は、占が当たったことに安堵しているようであった。
「晴れた日は向こうの動きが鈍くなるので助かりますよ。それでは天狗殿、例の作戦でよろしいですか」
「ああ、此方もさっさと終わらせたいのでな」
夜の間は、結界やこの人間どもがいたので、休むことが出来たのだ。一応、安眠を得られたことへの礼はしければならない。
「では、全力を尽くすとしよう」
風琴が力強く宣言すると、百地は口元に微笑を浮かべた。
それから風琴達は地図で示された場所に向かう。途中で何度も化け物に出くわすが、天狗にとっては苦戦する相手ではない。それどころか、快晴によって陽の気が強いせいか、のろまにも程がある。
「それで、今日から本格的な戦なのだな」
新たに1体斬り捨てながら東雲は問う。ああと、我も2体斬り殺して答えた。
「目的地に向かうだけで、こうなのだ。着いたらこれ以上のことと覚悟せねばなるまい」
空の敵を斬り殺して、霊符の雨を降らせる。言うだけなら単純だが、やれ籠目になるように降らせろだの、五芒星だのと面倒なことまで言ってきた。練習は何度もしたが、問題は実戦で行えるかどうかである。
目的地が目の前まで来たとき、風琴は振り返った。皆、道中の襲撃で多少は疲れているものの、まだ生気がある。疲れきって明日に響かぬように、短時間で片付けねばならない。
「ぬしら、此度がぬしらの多くにとって、初陣となるだろう。油断はせず、かといって臆病者にもなるな。分かったな」
「はい!」
風琴の凛とした声音に威勢の良い声が応じる。ああ、此処に月夜がいたならば、この若人達に混じって返事をしていたのだろう。風琴は一瞬だけ、寂しそうな眼差しをしたがすぐに戻った。
「では、ゆくぞ。……我に続け!」
風琴の掛け声に、男達は声を上げる。そして、目的地である魑魅魍魎の涌き出る場所に向かって空を駆けた。
目的地のすぐ側まで近づく。風琴は眼下の光景に、顔をしかめたくなった。地上では術師や彼らが使役する式が、魑魅魍魎と闘っている最中である。
天狗ゆえに目は良いので、血飛沫や肉片が飛び散る様子が見えてしまう。人間どもは容易に食われて劣勢かと思いきや、意外としぶとく闘っている最中であるようだ。
ただ、空からの襲撃には上手く対処できていないように見える。
「事前に申したように、まず上空の敵を凪払う。そして人間どもがまともに動けるようになったら、敵の住処を叩く。分かったな」
「承知!」
皆が息のあった返事をする。風琴は面の下で笑みを浮かべると、扇を懐から出してひとつ扇いだ。
一見ただの扇に見えるというのに、軽く扇いだだけで、凄まじい妖気の竜巻が起こった。その竜巻は魑魅魍魎を呑み込んでいくが、人間達を素通りしていく。前もって百地から聞かされていたとはいえ、その奇妙な光景に戦っていた術師達は呆気に取られた。
「人間ども何を呆けておる! 此処からが正念場であろうが! 死にたくなければ、さっさと闘え!」
凛とした青年の声音が辺りに木霊する。ぞんざいな物言いであるが、不思議と不快にならないそれに、術師達は背を押されるように戦う。
「では我らも始めるとしよう」
風琴が剣先を、まだ上空にいる敵に向ける。天狗達は、火球の如く上空の敵目掛けて飛んだ。
準備期間中に、みっちりとしごいていたのが良かったのだろう。皆、我の指示に従って的確に闘ってくれる。風琴は空を舞うように敵を斬りながら、背後の男に目を遣った。
月夜は確かに成長して愛おしいが、戦場で背中を預けられるのは東雲くらいだな。幼い頃から過ごし、互いに鍛練を重ねたからであろうか。ただ少し寂しいのは、我がいない間に東雲が凩に手解きを受けたことで、剣術の型が変わってしまったことか。
「風琴、もうそろそろ敵の本陣に雨をお見舞いしても良いんじゃないか」
「そうだな」
もう空の者はあらかた一掃したので、大丈夫だろう。あとは霊符の雨を降らすのみ。
「東雲、油断するなよ」
「分かってるって、我が主」
長時代の呼び名で突然東雲が呼ぶ。我は少し驚いたが、睨みつけた。
「今さらそう呼ぶな。呼び捨てで呼べと申したであろうが」
「はいはい。分かったよ風琴」
東雲は笑うように目を細める。目指すは敵の湧き処。せめて同胞が無事でいられるようにと、心の内で一族の神に祈った。
ようやく化け物どもの湧き処に着く。と言っても外法師どもの姿は視認が難しい。別の場所に移動したのか。はたまた視認できないようにしているのか。
「確か、黄泉や異界との路を繋げて邪気を垂れ流しにしているんだよな」
「ああそうだ。確か伊賀では3ヶ所。玻璃野では4ヶ所と言ったところか。京こと山城では広い範囲で7ヶ所。先日見た関ヶ原は4ヶ所だが、あれは玻璃野よりも範囲が広いらしい」
数では手の指で数えられる程度だが、それを潰すのに相当難儀をしているという。なので上空から接近できる我らが必要とされた。だが、伊賀でこれだけならば、山城も戦況は大変であろうな。風琴はため息を吐きたくなってしまう。
その時、霧のように無数の化け物どもが我ら目掛けて飛んできた。自分達の縄張りを侵されたと勘づいたのであろう。風琴はひとつ息を吸うと、扇で起こした竜巻を叩き込む。最初に放った竜巻よりも大規模で、化け物どもはたちまち散り散りになる。
「皆のもの、かかれ!」
風琴が扇を向けると、落星のように皆が飛ぶ。皆が応戦する中、風琴は紙を斬るかのように化け物を斬り捨てていく。中には、風琴の手甲を駄目にしたような黒い汁を滴らせる化け物がいた。
雨で流されないなら油だ。それで百地達も火矢を射ようとしたが、矢が届かない高さに逃げられてしまうという。ならば……。
「うわああ____!?」
その時、10尺以上離れたところにいる男が悲鳴を上げる。何事かと見ると、男は例の化け物に翼を掴まれていた。翼に黒い汁がかかり、煙が上がる。
下手をすれば翼をもがれ、運良く逃げても翼が動かぬまま墜落して死ぬだろう。風琴は、剣を振りながら慎重に妖力を調整する。そして、襲われている天狗に向かって空中で剣を薙いだ。
「我の力は神の焔なり」
剣の軌跡を描くかのように、白い焔が男と化け物目掛けて走る。そして焔が当たったかと思うと、化け物の身体が火だるまになる。灰になって化け物が崩れたところで、男はそのまま落下しようとした。
そこで東雲が妖気の風の網を作り、男の落下を防ぐ。
「では茴香、こいつを陣に連れ帰ってね」
薬師の弟子である茴香は面倒そうに頷くと、百地達の元に運ぶ。そして風琴と東雲は何事も無かったかのように、周囲の敵を斬っていった。
まだ経験の浅い者達が化け物を斬り、戦慣れしている者達は剣を振るいながら妖力の風で邪気を払う。邪気の霧がある程度薄まったところで風琴は手を上げた。
「皆の者、籠目の陣につけ!」
皆、闘いながらも練習した通り、籠目になるような配置に並ぶ。まだうじゃうじゃと湧いているのだから、早くせねば。その時、地から我を目掛けて矢のような閃光が飛んでくる。風琴は紙一重で避難したものの、結い上げていた髪が紐ごと千切れてしまった。
「っ……皆、霊符を投げよ!」
風琴の号令と共に、妖力を籠めた霊符が青白い光を放ちながら雷のように地面に突き刺さる。空から見れば、綺麗に籠目の陣が出来ている。
そこで、敵の湧き処のすぐ近くで闘っていた勾陳が兎のように跳躍する。陣の中央に着地すると、見慣れぬ剣を鞘から抜いて地に突き刺した。
剣から神気が放たれて、凄まじい光が視界を覆う。耳をつんざく絶叫が、周囲から聞こえる。やがて視界が晴れると、たくさんいた筈の魑魅魍魎どもが消え失せていた。
「天狗達、ありがとう。一旦、百地の館に戻ってね」
華奢な体躯からは考えられぬ声で勾陳が言う。数名負傷した程度で済んで良かった。ならば言われた通りに帰ろうか。
「皆の者、良くやった。帰って休むぞ」
同胞達の目には安堵と疲労の色が浮かんでいる。無理もない。気がつけば、もう日暮れなのだ。一旦休ませるべきだろう。風琴は天狗達の後ろを飛んで、帰ることにした。
「……なあ、風琴。髪だが大丈夫か」
東雲が気まずそうに口を開く。先程切られた箇所を振れると、歪に髪を切られていた。
「帰ったら、切り揃えねばなるまいな。そんなに心配することはあるまい」
「だけどさ……髪も呪詛の触媒になることがあると聞いたぞ」
心配してくれるのはありがたいが、風に紛れて失せたであろう。そう言っても、東雲は心配が拭えないようである。
「何かあったらすぐに言う。それで良いだろう?」
「そうだな……。帰ったら切ってやろう。月夜君も心配するだろう?」
「ああ、そうだな」
月夜には心配はかけられぬ。風琴は笑みを作るが、東雲に言われたことが妙に胸に引っ掛かってしまう。……呪詛か。確かに注意ぐらいはしておくべきだな。一応、久脩に相談しておこうか。夕焼けを見ながら風琴は胸の内で呟いた。
百地の館に戻ると、風琴は東雲に髪を切り揃えてもらった。切り口を見せてもらったが、斬られたというよりも溶かされたように見える。
「我を殺そうとしていたのか、はたまた髪を狙ったのか」
「殺せれば御の字。髪が入手出来れば、呪詛を仕掛けられると思った可能性もある。お前が言うように、あの高さであれば風に紛れてそうだけど、万が一に備えた方がいい」
であれば、一刻も早く着替えて呪詛返しの術でも己に掛けておこうか。風琴は身体と衣を清めると、すぐに術を唱える。妖力の薄衣が一瞬風琴を覆ったかと思うと、雪解けのようにすっと音もなく姿を消した。
これで良し。あとは土御門家に書簡でも書いて、月夜に渡してもらうか。月夜の顔を思い浮かべたと同時に、月夜の気配がする。凩達のところにやっていたが、もう戻ってきたのか。風琴が顔を上げると、障子が開いた。
「師匠、ただいま戻って参りました。此方は凩殿からの文です」
「助かる。それで凩達はどうであった」
「凩殿達はご無事でしたよ。ただ、初陣だから良いものの、これからは気を付けた方が良いと伝えてくれと仰られました」
考えることは同じか。風琴は笑みを浮かべる。我ら天狗のこのような使い方を、敵はまだ想定していなかった。故に此度の作戦は上手くいった。だが敵も阿呆ではない。日が経つにつれ、対策を練ってくるだろう。その前に素早く叩きのめす必要がある。
「分かった。心に留めておこう。……月夜、どうした」
面を外した月夜が我の頭をじっと見ている。一体何を……いや、髪を見ているのか。風琴は思わず、斬られた髪の部分を押さえる。
「師匠、もしや敵に髪を斬られたのですか」
「あ……いや……まあ……うん」
月夜の顔が青ざめていくので、はっきりとした返事が出来ない。だがそれを肯定と受け取ったのか、月夜は今にも泣きそうな顔になった。
「いや待て。髪だけだぞ」
「それでも、師匠のお髪を無断で斬るなんて……許せません。相手の姿は見えたのですか」
「いや、分からぬ。次も出てくる危険を考えると、警戒はすべきだろうな」
そうですかとしゅんとした顔で呟く。そんな月夜をそっと抱き締めた。
「我は髪で済んで良かったのだ。この程度で落ち込んでいると、後が持たぬぞ」
「ですが……。いえ、申し訳ございませんでした。ですが師匠、危険を感じられたら無理に行動なさらないでください。私にとって師匠は、命よりも大切なのですから」
我もお前が命よりも大切だぞ。今それを言ったら怒られそうなので、風琴はただ笑みを浮かべて月夜の頭を撫でた。
それから数日、残りの2ヶ所の片付けをした。術師達も、あれ以来呆けることは一切無く、我達の到着にほっと息を吐いている程である。あの日、翼に黒い汁が掛かった者は勿論休ませたので、編成し直しをすることになった。1名程度ならば穴を埋められる。だがこれから怪我人が増えていくかもしれないことを考えると、悠長に構えていては駄目だ。
そして予想していたように、結果的に怪我人は伊賀で3名出た。翼がやられた者が2名、腕をやられたものが1名である。とは言え、翼や腕をもがれた訳でもないので大事には至らなかった。しかし初日に翼をやられたものはまだ飛べないのにどうするべきか、百地と勾陳に相談すると、2人とも口を揃えてこう言った。
「玻璃野の紅月お抱えの薬師が、妖異による負傷に対して特に腕が立つ。一度看てもらっては如何か」
紅月お抱えの薬師か。確かいるとは聞いていたが、どのような奴なのだろうか。天狗の里の薬師よりも劣るとあらば意味がない。どの道、我らは玻璃野に向かう。その際に頼ればいいかと思うことにした。
伊賀の魑魅の湧き処を封じて2日後、玻璃野に向かう。一晩野宿もしたが、その次の日には玻璃野に到着した。玻璃野といえば、雪が積もった野を見て、時の帝が名付けたと風土記に書いてあった。本当であれば、雪化粧をした姿を見たいが、季節としては真逆。それを望むことは不可能だろう。龍神がおわします山の側を通って、術師達の里に着く。厳重な結界が張ってあったが、我が先頭で入るとすんなりと入ることが出来た。
「いやあ……お久しぶりですね。風琴殿」
笑みを浮かべて現れたのは、紅月。最後に会ったときは、顔色がそれほど良いものではなかったが、血色が良くなっている。久しいと言えるか微妙だが、人間の感覚など分からないが、ひとまず会わせることにした。
「ああ久しいな紅月。ところで申し訳ないが、そちらの薬師に看てもらいたい者がいる。頼めるか」
「先日、文でお聞きしております。桔梗、例の怪我人だ。任せた」
「はいはい、狐使いの悪い主ですこと」
そこに現れたのは、狐の耳が頭部に露にしている、男装の……女性? である。 まるで霞みたいだな。風琴が怪我人を運ぶように命じると、3名の怪我人達を天狗の里の薬師や茴香達が運び、桔梗とやらに着いていく。それを眺めながら、風琴は呟いた。
「女が薬師をしていることは別に気にせぬが、妖狐の薬師とは。疑いたくはないが、実力はどういったものだ」
「相当腕が立ちますよ。彼女には何度も助けられましたからね」
紅月は相当自信があるのか、自慢気に笑みを浮かべる。だが妖狐というより、天狐なのでは。……いや、下手に素性に興味を持つべきではない。だが、何故か桔梗から目を離せなかった。
話し合いから2ヶ月後、天狗の男衆の多くが戦場へと出立することになった。一度皆で美濃の関ヶ原へと向かうがそこから二つの隊に分かれる。凩達は江戸の方角に、我等は伊賀から玻璃野へと向かう手筈になっていた。
「まさかあの太閤が身罷られたとは」
仮の面を着けた月夜は意外と言いたげである。石田だの徳川だの知らぬが、幼かった月夜に分かるほど戦力の差は圧倒的だったのだろう。
「やはり戦の規模も大きかったのか、亡くなった者が多かったようだ。それ故、外法師は大規模な邪法に、最適な土地が手に入ると考えたのだろう。そこを基盤として長の庭の湧き水が如く、滾滾と魑魅魍魎が沸くという」
背後で会話を聞いていた天狗の青い者達が怯えている空気が伝わってくる。天狗達で長の庭の湧き水を知らぬものがいないので、容易く想像してしまったのだろう。だがこの程度で挫けていては、実戦だと使い物にならぬぞと叱咤した。
「言っておくが、此度美濃に向かうのは、あくまで上空から様子を見るだけだ。おぬしら、この程度で逃げようとは思うなよ」
天狗達は承知しましたと返事はするものの、声にあまり力が籠っていない。やれやれ、こやつらで大丈夫なのか。風琴は思わず言いたくなってしまった。
山を下って二、三刻後に美濃に着く。戦で死者が出たという関ヶ原は、赤黒い邪気の霧で全く様子が見えぬ程であった。
「あの……ご隠居。これは索敵どころではないと思うのですが」
風琴の隣で飛んでいた東雲が、言いにくそうに言う。確かにそれはそうであるな。この場合、鬼も見えぬ人間を何処かで浚ってきて、報告させれば良いのかと物騒なことを考えてしまう。まあ冗談であるが。
「土御門の奴らの霊符に妖力を込めてから言え」
「それは、どういう……? ああ、そうでしたね。おいお前達もご隠居が仰られた通りにやれ」
衣の裏側に縫い付けた霊符に妖力を込める。すると霧で見えなかった部分が露になった。
地を何やら人影らしきものが蠢いているが、この邪気の濃度の中で生きる人間が動ける筈がない。彼方此方に血の色をした水溜まりのようなものがあり、そこからおぞましい妖異がうじゃうじゃと沸いていた。
数名がその光景に吐きそうになっていたので、術で強制的に吐き気を止めさせた。
「言っておくが、我の術で全員を隠行させている。故に眼下の化物どもは、此方に気づいておらぬ。しかし、吐瀉物が掛かろうものなら見破られる。死にたくなければ、耐えろ」
えずきそうになった者達はこくこくと首を縦に振る。とは言え、いつまでも耐えられそうにもない。吐きそうな奴らは一旦凩に任せて、残りの者に測量と記録をするように命じた。
風琴は記録役に、化物を呼び出している外法の特徴を事細かに伝えながら、周りの天狗に目を配る。月夜と涼太は意外と気丈である。2人は浄化の作用がある里の湧水を配ったりなど、周りの者達の手伝いを行っていた。
それにしても、外法師どもは此処にはいなさそうだ。何処へ行ったのか。土御門の話だと、此処を核として霊脈にまで穢れが流れ、日ノ本各地に魑魅魍魎が沸いているという。我等の山が無事だったのはひとえに奉る神の御加護と、結界のおかげであろう。……まあ、少し前に壊されてしまったが。風琴は苦い顔をする。
愛宕の太郎坊の孫殿に文で聞いたところ、人嫌いが多い故、小数名だけ我等より後に土御門に手を貸したそうだ。そして京周辺の邪気に対応しているが、きりがないそうだ。これを仕組んだものは、大勢いるとのこと。それだけ、人の世に憎悪を抱く者が多かったということか。はたまた優れた外法の使い手がいたのか。どちらにせよ、恨みがなくばこれほどの外法が組める訳もない。
土御門にさっさと対応できたのではと問うたが、奴は苦々しく首を横に振っていた。というのも、この戦が終わった年にようやく京に戻って来たゆえ、その頃には手遅れであったという。その間に暗躍していた外法師にとって、土御門の目が無い状況はさぞ楽であっただろう。
とは言え、人の世に憎悪があったとしても、現にこの地獄を作り出すとは理解出来ぬ。
「……気味が悪い」
風琴は眼下を睨みつけながら呟いた。
夕方頃に美濃の人気の無い山に降り立つ。先に飯の支度をしていた凩達は我達を迎えた。
「ご隠居達、お疲れ様でございます。それで、先程の場所の記録は出来ましたか」
「ああ、なんとかな。もう少し詳細に描いても良かったが、彼処に長居しては魔に転じる。土御門にはこのくらい描けば伝わるだろう」
あの場で記録するには、これくらいで良い。後は、我が更に詳細な書簡を書いておこう。風琴は同行していた者達にしばし休めと命じる。彼らは各々で腰を下ろしたり、水浴びに行ったりしていた。
「ところで師匠、これらの食材は一体何処から調達なさったのでしょうか」
後ろに控えていた月夜がそんなことを問う。ああ、あれかと風琴は鍋の方を見た。
「お前の替えの服を入れた小さな布袋があるだろう。あれの応用で、食材が数ヶ月分入れられる物を調理担当が持っておるのだ」
父の世代かはたまたそれより昔か。布袋に妖術を用いて大量の荷物が入るようにした者がいた。里を飛び出して旅をする者には必須の術。我がしてみたところ、無尽蔵に収納できたので食事用にと使ってもらった。
「紅月が料理が好きというのでな、陣中食とやらを聞き出して作らせてみた」
「成る程。だから味噌汁と握り飯なのですね。私も作り方を教われば善かったなあ……あっ」
突然、ぐうと大きな音する。振り向くと、月夜は耳まで赤くなっていた。
「腹の虫も鳴いているようだなあ。月夜、食べようか」
「はい……」
月夜は恥ずかしそうに頷いていた。
その夜。土御門への書簡を書き終えて乾かしていた。傍に控えていた月夜が水を持ってきたので飲み込む。少し緊張したせいか、いつの間にか喉が渇いていたようだ。
「月夜、もし今したいと言ったらどうする」
「え……!? 流石に今は……その……不寝の番の方に見つかってしまいますし。いや……師匠がお望みなのでしたら……」
月夜の慌てように思わず笑ってしまう。冗談だと言って、月夜の頭を撫でた。
「流石に今日はするつもりなどない。だが、戦では昂ることがある。その時は露見せぬように術をかけるので、腰に負荷がかからぬように頼んだぞ」
月夜は首を振ったが、少し残念だったのだろう。少し仮面をずらして触れ合うばかりの口づけをしてやる。突然の口づけに混乱した月夜の初な表情は可愛らしい。風琴はくくっと小さく笑った。
次の日の早朝、月夜は書簡を渡しに京へと向かう。渋柿で染めた袋に入れているので、突然の雨にも安心して構わない。だが、途中の近江で激しい雷雨に見舞われた。食後の話し合いで、明日雨が降ると師匠が仰っていたので、予め雨具を身につけていている。だが、こう雨の中で飛ぶのは少し辛い。月夜と涼太ははぐれぬように互いに声をかけながら進む。
そして、京に着いた頃にはびしょ濡れになっていた。屋敷に着いてからすぐに渋柿染めの袋を確認した。中身は一切濡れておらず、滲んでいる箇所も見当たらない。師匠のしなやかで美しい文字に、思わず見惚れそうになる。だがこれは大事な書簡だ。不必要に見てはいけない。月夜はすぐに畳み、応対した泰重に渡した。
「ありがとうございます。すぐに父に渡しますね。ところで月夜殿と涼太殿、少し休みませぬか」
月夜と涼太は顔を見合わせると外を見た。雨は激しさを増す一方である。豪雨の中での飛行は、体力の消耗が激しい。師匠達の身を考えればすぐにでも帰りたいが、それを考えると危険な気がしてきた。
「では四半刻だけ休ませて頂ければ幸いです。縁側でも構いません」
「いえ、今すぐ部屋をご案内いたしますよ」
二人は客間に通されると、腰を下ろす。温かい茶を渡されて、二人はふうと息を吐いた。思ったよりも身体が冷えていたのだろう。
指が青白く、互いの口元から覗く唇が紫色になっている。屋敷に上がる前に妖力で水気を飛ばしたが、身体が震えてしまう。我らは屋根の下で休めるから良い。だが、師匠達は雨の中闘っているのかもしれない。それを考えると申し訳なくなる。涼太殿も同じ気持ちなのか、空を見る目がどことなく暗い。
「師匠……」
今頃、師匠は伊賀に移動したであろう。師匠がご無事であるといいが。月夜は伊賀の方に視線を向けた。
その頃、伊賀の国境に来ていた風琴達であったが、化け物どもに遭遇ていた。外法師が放ったものであろうか。生き物と呼ぶにはあまりにもおぞましく、歪だ。人間の顔をしているが、それ以外は子供の悪趣味な人形遊びのように手足が大量に生えている。
そして翼はどろどろと気味の悪い粘液を滴らせていた。数は十体程度。だがよりにもよって、こんな雨の中で面倒な。
風琴は舌打ちすると、皆の前に出る。無言で剣を抜くと、今まさに自分に襲いかかる化け物に向かって一直線に飛ぶ。その途端、雷鳴の稲光が周囲に広がり、轟音が轟いた。
あまりの眩しさに若者達が目を瞑る。そして目を開けると、化け物達の姿は無かった。ただ血で濡れた剣を手にした風琴の背が見える。あの一時の間に片付けたのか。
「すごい……」
誰かが感嘆の溜め息を溢す。だが一人だけ、あることに気づいたのか、風琴に凄まじい勢いで近づいた。
「ご隠居! 腕は大丈夫ですか!」
ご隠居に近づいたのは薬師。手甲があるとはいえ、化け物の粘液が付着したことに、気づいたのである。
風琴は痛みなどないと言ったが、手甲をそっと外した。手甲の粘液が付着した箇所から、しゅうしゅうと音を立てて煙を上げている。粘液は雨に打たれているのに中々落ちる気配がない。ということは毒のある油か。
「ひとまず、退魔師達の拠点へと急ぎましょう。彼らなら、何か知っているかもしれません」
「そうだな。たまたま数が少なく、雨が降っていたから良かったものの、これ以上現れては厄介だ。おい、おぬしら。遅れずに着いて来い」
風琴達はそれから伊賀の土御門と共闘関係を結んだ退魔師の拠点に急ぐ。道中も化け物が出たものの、風琴が相手をしたような化け物よりは格下で、天狗達でも容易に対処が出来た。拠点に着くと、見覚えのある顔の者が出迎える。
「お久しぶりですね。天狗の皆様方、そして風琴殿」
微笑を浮かべたその少年は、以前に東雲を手合わせで打ち負かした勾陳であった。
「お久しゅうございます。土御門から聞いてはいましたが、本当に伊賀おられるとは」
「中々伊賀も厄介なことになっていてね。僕が駆り出されているんだ。ところで道中大丈夫だった?」
天狗は皆無事であるし、我も手甲が駄目になっただけで、怪我はしていない。薬師に目配せをすると、薬師は駄目になった手甲を勾陳殿に差し出した。
「人を人形のように複数体くっつけた化け物の翼の体液が付着し、手甲が駄目になった。以前聞いた話にはこのような物はいなかったが、一体何かお聞かせ頂こう」
勾陳殿は険しい表情で手甲を受け取る。心当たりがあるのだろうか。しばらく手甲を見つめていた勾陳殿は顔を上げた。
「これは最近、湧いてきたやつだね。最近、この汁を撒き散らすんだ。人間に付着しても死ぬことはない。ただ火傷のように皮膚が爛れて、1月は火で炙られる苦痛に苛まれる。僕や君達だったら、軽傷で済むだろう。ただ……代わりにごっそりと神気や妖気が奪われる。人間の場合、それで霊気をほとんど奪われたまま、抵抗できずに死んだ者がいる。あいつら人間を食って取り込むからね。天狗だからと、油断は禁物だよ」
では、あれは喰われた人間だったのか。風琴はおぞましさに寒気がする。そんな風琴を見かねたのか、勾陳は屋内へと案内した。
薬師と東雲と風琴以外は手前の部屋に腰を落ち着ける。三名だけ奥の部屋へと通される。風琴が腰を下ろすと、一人の童が白湯の入った湯呑みを差し出した。風琴は礼を言うと、それを受け取る。湯呑みは熱く、芯まで冷えた身体には心地好い。
「やっぱり、冷えていたんだね。天狗が風邪を引くかは知らないけど、君達にとって雨水は相剋。今日は戦場に出るべきではないだろうね」
剣に妖力が通りづらかったのはそのためか。昼間はさほど化け物達の動きが俊敏ではないので、今日はこのまま休憩になるのだろう。
「では晴れ次第、あの化け物を含めた空を飛ぶ魑魅魍魎と対峙し、霊符をばら蒔けと」
「その通り。まあ大体は久脩と話しただろう。更に詳しいことは、僕の新たなる仮の主が説明する。仮の主は夕方には戻ってくるから、その間はゆっくり羽を休めておいてね」
仮の主……土御門が協力者を募るために十二天将の所有権と引き換えにしたという。にしても十二天将側から術師を選んだらしいが、勾陳が選んだ術師はどのような奴なのだ。
興味があったが、それを露にするのは恥ずかしい。風琴は外を眺めて興味が無いふりをする。
それにしても、月夜達が早く着けばよいが。外の雨はざあざあと降るばかりであった。
風琴達と勾陳の仮の主が話を終えた頃、ばさばさと翼が羽ばたく音が聞こえた。
それと同時に、月夜がいることが手に取るように分かる。これが魂の繋がりか。通りでこの前怒られた訳だ。しばらくすると、風琴が休息している部屋に月夜が入ってくる。見慣れない着流しを着ているようだが、やはり濡れ鼠になってしまったか。
「月夜、ようやく戻ってきたか。道中大丈夫だったか」
「ええ、何事も無かったです。ただ、妖気の消耗が著しいですね」
月夜が面を取ると、血の気があまりない。我よりも雨に打たれていたのだ。無理もなかろう。
「天狗になったばかりのお前は妖気の回復が遅く、消耗が多いからな。……今から、やるか?」
「今からですか!? いえ、その……心の準備が……」
散々我を抱いておいて、それはないだろ。だが、月夜の様子からして満更でもないか。風琴は面を外して笑った。
「ではお前が飯を食ってからにするか。空腹なのだろう。それと今日は不寝の番は東雲だ。気にせずともよい」
「そうなのですか。はい……では……」
そして1刻後になって、月夜と風琴は身体を重ねる。といっても、此度は他所様の拠点でするのだ。
勿論、痕跡が残らぬように細心の注意を払ってである。いつもよりも激しくはないが、胸が幸福で満たされるような情交。妖気の供給目的ではある。だが、かつてはただの人間だったかもしれない敵を殺めてしまった風琴のひりつく心を優しく癒してくれた。
昼間、肉を断つ感触がおぞましく、眠れぬかもしれぬと覚悟はしていた。だが、情交のお陰か、うとうとと眠気で微睡む。そんな時、障子の向こうから名前を呼ばれた。
「風琴」
「何だ」
眠そうに答えると、障子の向こうの影はふふっと笑い声を上げる。
「月夜君が傍を離れている時は俺が守る。……だから、一人で無理はするなよ。指揮官が倒れれば、総崩れだ。それに……」
「それに……?」
東雲は数秒黙り込むと、首を横に振る仕草をした。
「いや、何でもないよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
そして風琴は泥沼に沈むのように眠りに落ちた。
その日は、昨夜の大雨が嘘かと思われる程の快晴。勾陳の仮の主である百地という姓の男は、占が当たったことに安堵しているようであった。
「晴れた日は向こうの動きが鈍くなるので助かりますよ。それでは天狗殿、例の作戦でよろしいですか」
「ああ、此方もさっさと終わらせたいのでな」
夜の間は、結界やこの人間どもがいたので、休むことが出来たのだ。一応、安眠を得られたことへの礼はしければならない。
「では、全力を尽くすとしよう」
風琴が力強く宣言すると、百地は口元に微笑を浮かべた。
それから風琴達は地図で示された場所に向かう。途中で何度も化け物に出くわすが、天狗にとっては苦戦する相手ではない。それどころか、快晴によって陽の気が強いせいか、のろまにも程がある。
「それで、今日から本格的な戦なのだな」
新たに1体斬り捨てながら東雲は問う。ああと、我も2体斬り殺して答えた。
「目的地に向かうだけで、こうなのだ。着いたらこれ以上のことと覚悟せねばなるまい」
空の敵を斬り殺して、霊符の雨を降らせる。言うだけなら単純だが、やれ籠目になるように降らせろだの、五芒星だのと面倒なことまで言ってきた。練習は何度もしたが、問題は実戦で行えるかどうかである。
目的地が目の前まで来たとき、風琴は振り返った。皆、道中の襲撃で多少は疲れているものの、まだ生気がある。疲れきって明日に響かぬように、短時間で片付けねばならない。
「ぬしら、此度がぬしらの多くにとって、初陣となるだろう。油断はせず、かといって臆病者にもなるな。分かったな」
「はい!」
風琴の凛とした声音に威勢の良い声が応じる。ああ、此処に月夜がいたならば、この若人達に混じって返事をしていたのだろう。風琴は一瞬だけ、寂しそうな眼差しをしたがすぐに戻った。
「では、ゆくぞ。……我に続け!」
風琴の掛け声に、男達は声を上げる。そして、目的地である魑魅魍魎の涌き出る場所に向かって空を駆けた。
目的地のすぐ側まで近づく。風琴は眼下の光景に、顔をしかめたくなった。地上では術師や彼らが使役する式が、魑魅魍魎と闘っている最中である。
天狗ゆえに目は良いので、血飛沫や肉片が飛び散る様子が見えてしまう。人間どもは容易に食われて劣勢かと思いきや、意外としぶとく闘っている最中であるようだ。
ただ、空からの襲撃には上手く対処できていないように見える。
「事前に申したように、まず上空の敵を凪払う。そして人間どもがまともに動けるようになったら、敵の住処を叩く。分かったな」
「承知!」
皆が息のあった返事をする。風琴は面の下で笑みを浮かべると、扇を懐から出してひとつ扇いだ。
一見ただの扇に見えるというのに、軽く扇いだだけで、凄まじい妖気の竜巻が起こった。その竜巻は魑魅魍魎を呑み込んでいくが、人間達を素通りしていく。前もって百地から聞かされていたとはいえ、その奇妙な光景に戦っていた術師達は呆気に取られた。
「人間ども何を呆けておる! 此処からが正念場であろうが! 死にたくなければ、さっさと闘え!」
凛とした青年の声音が辺りに木霊する。ぞんざいな物言いであるが、不思議と不快にならないそれに、術師達は背を押されるように戦う。
「では我らも始めるとしよう」
風琴が剣先を、まだ上空にいる敵に向ける。天狗達は、火球の如く上空の敵目掛けて飛んだ。
準備期間中に、みっちりとしごいていたのが良かったのだろう。皆、我の指示に従って的確に闘ってくれる。風琴は空を舞うように敵を斬りながら、背後の男に目を遣った。
月夜は確かに成長して愛おしいが、戦場で背中を預けられるのは東雲くらいだな。幼い頃から過ごし、互いに鍛練を重ねたからであろうか。ただ少し寂しいのは、我がいない間に東雲が凩に手解きを受けたことで、剣術の型が変わってしまったことか。
「風琴、もうそろそろ敵の本陣に雨をお見舞いしても良いんじゃないか」
「そうだな」
もう空の者はあらかた一掃したので、大丈夫だろう。あとは霊符の雨を降らすのみ。
「東雲、油断するなよ」
「分かってるって、我が主」
長時代の呼び名で突然東雲が呼ぶ。我は少し驚いたが、睨みつけた。
「今さらそう呼ぶな。呼び捨てで呼べと申したであろうが」
「はいはい。分かったよ風琴」
東雲は笑うように目を細める。目指すは敵の湧き処。せめて同胞が無事でいられるようにと、心の内で一族の神に祈った。
ようやく化け物どもの湧き処に着く。と言っても外法師どもの姿は視認が難しい。別の場所に移動したのか。はたまた視認できないようにしているのか。
「確か、黄泉や異界との路を繋げて邪気を垂れ流しにしているんだよな」
「ああそうだ。確か伊賀では3ヶ所。玻璃野では4ヶ所と言ったところか。京こと山城では広い範囲で7ヶ所。先日見た関ヶ原は4ヶ所だが、あれは玻璃野よりも範囲が広いらしい」
数では手の指で数えられる程度だが、それを潰すのに相当難儀をしているという。なので上空から接近できる我らが必要とされた。だが、伊賀でこれだけならば、山城も戦況は大変であろうな。風琴はため息を吐きたくなってしまう。
その時、霧のように無数の化け物どもが我ら目掛けて飛んできた。自分達の縄張りを侵されたと勘づいたのであろう。風琴はひとつ息を吸うと、扇で起こした竜巻を叩き込む。最初に放った竜巻よりも大規模で、化け物どもはたちまち散り散りになる。
「皆のもの、かかれ!」
風琴が扇を向けると、落星のように皆が飛ぶ。皆が応戦する中、風琴は紙を斬るかのように化け物を斬り捨てていく。中には、風琴の手甲を駄目にしたような黒い汁を滴らせる化け物がいた。
雨で流されないなら油だ。それで百地達も火矢を射ようとしたが、矢が届かない高さに逃げられてしまうという。ならば……。
「うわああ____!?」
その時、10尺以上離れたところにいる男が悲鳴を上げる。何事かと見ると、男は例の化け物に翼を掴まれていた。翼に黒い汁がかかり、煙が上がる。
下手をすれば翼をもがれ、運良く逃げても翼が動かぬまま墜落して死ぬだろう。風琴は、剣を振りながら慎重に妖力を調整する。そして、襲われている天狗に向かって空中で剣を薙いだ。
「我の力は神の焔なり」
剣の軌跡を描くかのように、白い焔が男と化け物目掛けて走る。そして焔が当たったかと思うと、化け物の身体が火だるまになる。灰になって化け物が崩れたところで、男はそのまま落下しようとした。
そこで東雲が妖気の風の網を作り、男の落下を防ぐ。
「では茴香、こいつを陣に連れ帰ってね」
薬師の弟子である茴香は面倒そうに頷くと、百地達の元に運ぶ。そして風琴と東雲は何事も無かったかのように、周囲の敵を斬っていった。
まだ経験の浅い者達が化け物を斬り、戦慣れしている者達は剣を振るいながら妖力の風で邪気を払う。邪気の霧がある程度薄まったところで風琴は手を上げた。
「皆の者、籠目の陣につけ!」
皆、闘いながらも練習した通り、籠目になるような配置に並ぶ。まだうじゃうじゃと湧いているのだから、早くせねば。その時、地から我を目掛けて矢のような閃光が飛んでくる。風琴は紙一重で避難したものの、結い上げていた髪が紐ごと千切れてしまった。
「っ……皆、霊符を投げよ!」
風琴の号令と共に、妖力を籠めた霊符が青白い光を放ちながら雷のように地面に突き刺さる。空から見れば、綺麗に籠目の陣が出来ている。
そこで、敵の湧き処のすぐ近くで闘っていた勾陳が兎のように跳躍する。陣の中央に着地すると、見慣れぬ剣を鞘から抜いて地に突き刺した。
剣から神気が放たれて、凄まじい光が視界を覆う。耳をつんざく絶叫が、周囲から聞こえる。やがて視界が晴れると、たくさんいた筈の魑魅魍魎どもが消え失せていた。
「天狗達、ありがとう。一旦、百地の館に戻ってね」
華奢な体躯からは考えられぬ声で勾陳が言う。数名負傷した程度で済んで良かった。ならば言われた通りに帰ろうか。
「皆の者、良くやった。帰って休むぞ」
同胞達の目には安堵と疲労の色が浮かんでいる。無理もない。気がつけば、もう日暮れなのだ。一旦休ませるべきだろう。風琴は天狗達の後ろを飛んで、帰ることにした。
「……なあ、風琴。髪だが大丈夫か」
東雲が気まずそうに口を開く。先程切られた箇所を振れると、歪に髪を切られていた。
「帰ったら、切り揃えねばなるまいな。そんなに心配することはあるまい」
「だけどさ……髪も呪詛の触媒になることがあると聞いたぞ」
心配してくれるのはありがたいが、風に紛れて失せたであろう。そう言っても、東雲は心配が拭えないようである。
「何かあったらすぐに言う。それで良いだろう?」
「そうだな……。帰ったら切ってやろう。月夜君も心配するだろう?」
「ああ、そうだな」
月夜には心配はかけられぬ。風琴は笑みを作るが、東雲に言われたことが妙に胸に引っ掛かってしまう。……呪詛か。確かに注意ぐらいはしておくべきだな。一応、久脩に相談しておこうか。夕焼けを見ながら風琴は胸の内で呟いた。
百地の館に戻ると、風琴は東雲に髪を切り揃えてもらった。切り口を見せてもらったが、斬られたというよりも溶かされたように見える。
「我を殺そうとしていたのか、はたまた髪を狙ったのか」
「殺せれば御の字。髪が入手出来れば、呪詛を仕掛けられると思った可能性もある。お前が言うように、あの高さであれば風に紛れてそうだけど、万が一に備えた方がいい」
であれば、一刻も早く着替えて呪詛返しの術でも己に掛けておこうか。風琴は身体と衣を清めると、すぐに術を唱える。妖力の薄衣が一瞬風琴を覆ったかと思うと、雪解けのようにすっと音もなく姿を消した。
これで良し。あとは土御門家に書簡でも書いて、月夜に渡してもらうか。月夜の顔を思い浮かべたと同時に、月夜の気配がする。凩達のところにやっていたが、もう戻ってきたのか。風琴が顔を上げると、障子が開いた。
「師匠、ただいま戻って参りました。此方は凩殿からの文です」
「助かる。それで凩達はどうであった」
「凩殿達はご無事でしたよ。ただ、初陣だから良いものの、これからは気を付けた方が良いと伝えてくれと仰られました」
考えることは同じか。風琴は笑みを浮かべる。我ら天狗のこのような使い方を、敵はまだ想定していなかった。故に此度の作戦は上手くいった。だが敵も阿呆ではない。日が経つにつれ、対策を練ってくるだろう。その前に素早く叩きのめす必要がある。
「分かった。心に留めておこう。……月夜、どうした」
面を外した月夜が我の頭をじっと見ている。一体何を……いや、髪を見ているのか。風琴は思わず、斬られた髪の部分を押さえる。
「師匠、もしや敵に髪を斬られたのですか」
「あ……いや……まあ……うん」
月夜の顔が青ざめていくので、はっきりとした返事が出来ない。だがそれを肯定と受け取ったのか、月夜は今にも泣きそうな顔になった。
「いや待て。髪だけだぞ」
「それでも、師匠のお髪を無断で斬るなんて……許せません。相手の姿は見えたのですか」
「いや、分からぬ。次も出てくる危険を考えると、警戒はすべきだろうな」
そうですかとしゅんとした顔で呟く。そんな月夜をそっと抱き締めた。
「我は髪で済んで良かったのだ。この程度で落ち込んでいると、後が持たぬぞ」
「ですが……。いえ、申し訳ございませんでした。ですが師匠、危険を感じられたら無理に行動なさらないでください。私にとって師匠は、命よりも大切なのですから」
我もお前が命よりも大切だぞ。今それを言ったら怒られそうなので、風琴はただ笑みを浮かべて月夜の頭を撫でた。
それから数日、残りの2ヶ所の片付けをした。術師達も、あれ以来呆けることは一切無く、我達の到着にほっと息を吐いている程である。あの日、翼に黒い汁が掛かった者は勿論休ませたので、編成し直しをすることになった。1名程度ならば穴を埋められる。だがこれから怪我人が増えていくかもしれないことを考えると、悠長に構えていては駄目だ。
そして予想していたように、結果的に怪我人は伊賀で3名出た。翼がやられた者が2名、腕をやられたものが1名である。とは言え、翼や腕をもがれた訳でもないので大事には至らなかった。しかし初日に翼をやられたものはまだ飛べないのにどうするべきか、百地と勾陳に相談すると、2人とも口を揃えてこう言った。
「玻璃野の紅月お抱えの薬師が、妖異による負傷に対して特に腕が立つ。一度看てもらっては如何か」
紅月お抱えの薬師か。確かいるとは聞いていたが、どのような奴なのだろうか。天狗の里の薬師よりも劣るとあらば意味がない。どの道、我らは玻璃野に向かう。その際に頼ればいいかと思うことにした。
伊賀の魑魅の湧き処を封じて2日後、玻璃野に向かう。一晩野宿もしたが、その次の日には玻璃野に到着した。玻璃野といえば、雪が積もった野を見て、時の帝が名付けたと風土記に書いてあった。本当であれば、雪化粧をした姿を見たいが、季節としては真逆。それを望むことは不可能だろう。龍神がおわします山の側を通って、術師達の里に着く。厳重な結界が張ってあったが、我が先頭で入るとすんなりと入ることが出来た。
「いやあ……お久しぶりですね。風琴殿」
笑みを浮かべて現れたのは、紅月。最後に会ったときは、顔色がそれほど良いものではなかったが、血色が良くなっている。久しいと言えるか微妙だが、人間の感覚など分からないが、ひとまず会わせることにした。
「ああ久しいな紅月。ところで申し訳ないが、そちらの薬師に看てもらいたい者がいる。頼めるか」
「先日、文でお聞きしております。桔梗、例の怪我人だ。任せた」
「はいはい、狐使いの悪い主ですこと」
そこに現れたのは、狐の耳が頭部に露にしている、男装の……女性? である。 まるで霞みたいだな。風琴が怪我人を運ぶように命じると、3名の怪我人達を天狗の里の薬師や茴香達が運び、桔梗とやらに着いていく。それを眺めながら、風琴は呟いた。
「女が薬師をしていることは別に気にせぬが、妖狐の薬師とは。疑いたくはないが、実力はどういったものだ」
「相当腕が立ちますよ。彼女には何度も助けられましたからね」
紅月は相当自信があるのか、自慢気に笑みを浮かべる。だが妖狐というより、天狐なのでは。……いや、下手に素性に興味を持つべきではない。だが、何故か桔梗から目を離せなかった。
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看護師
ベテラン山添さん
準主人公 成海真幌 腸疾患・排泄障害・てんかん
木島 尚久 真幌の恋人同棲中
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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