【完結】今さら執着されても困ります

リリー

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40. 雨とオルゴール

 新月の雨の夜。暗闇の中、オルゴールが次第にメロディーを緩やかにして、そして止まった。私はもう一度ねじを回す。音楽が始まる。
 その時、窓をたたく音がした。雨音がつよまったのだろうか。ふと窓のほうに視線をやると、そこに信じられない姿があった。

「フィンレイ様……!?」

 ここは四階だ。というのに、窓の外のバルコニーに、フィンレイ様がいた。駆け寄り、窓を開ける。雨に濡れた姿。髪はしだれている。

「無作法を許してくれ。こうでもしないと君に会えなかったから」

 私の脳裏に昼間のフィンレイ様とエレナ様の仲睦まじい姿が浮かぶ。

「帰ってください。誰かに誤解されたら……」

 私は慌てて追い返そうとする。

「君はそれでいいのか?」

「私は……私は幸せです。リアム様は変わりました。今はとても優しいのです。私は彼と結婚し、公爵夫人になります。ですから、どうか……私のことは忘れてください。ここから抜け出す必要も、そのための力も、もういりません。私なんかを気に掛けると、……エレナ様も、きっと悲しみます」

 私は本心を喉の奥に呑み込んで、舌先で嘘を並べた。彼をリアム様の狂気や、私を取り巻く危険から遠ざけるための。

 フィンレイ様は優しく微笑んだ。私を見つめる嵐の海のようなその瞳は、私の魂の底まで見透かしていた。

「君は、嘘が下手だな。ユリアナ」

「嘘では――」

「いいんだ。俺の前では、気を遣う必要はない」

『嘘ではありません』、――嘘を重ねようとした私の言葉は途中で遮られた。

「……君は今、変わらず地獄にいる。そうだろう?」

「それに……君は俺とエレナのことで何か誤解をしているようだ。彼女はただの幼馴染だよ」

 彼が一歩近づく。雨の匂いと、白檀の香りが私を包み込む。

「なぜ嘘をつく? なんのために?」

 答えられなかった。熱いものがこみ上げてくる。怖かった。この優しく美しい人が、私を取り巻く狂気に巻き込まれ、傷つくことが何より怖かったのだ。

「お願いです……」

 声が震える。

「ただ……行ってください。私のことは忘れて、長く、幸せに生きてください。それが私の望みです」

 フィンレイ様は私を見つめていた。オルゴールの音が止んだ。窓をたたく雨音だけが静寂をやぶる。彼は口を開く。

「俺は行かない。君を一人、雨の中には置き去りにしない」

 その言葉は、私の脆い壁など一瞬で吹き飛ばした。皮膚を突き抜け、熱く、私の心臓の氷を溶かしていく。

 

「少し、昔話をしよう。時間がないのは分かっている」

 フィンレイ様は濡れた手袋を外す。彼は部屋の奥には入ろうとしなかった。私たちは窓辺のカーテンの陰、闇に紛れるようにして身を寄せ合った。雨音が、私たちの囁き声を隠してくれる。

「昔々あるところに……」

 彼はまるで子供を寝かしつけるように、静かに語り始めた。
 それは、嵐を抱えて止まれなくなった男の子と、その彼を繋ぎ止めるいかりの女の子のおとぎ話だった。

「素敵な……お話ですね」

「これは、リンドストロムに伝わる伝承を元にしていると言われている」

「伝承?」

「『アンカー』という言葉、聞いたことは?」

 首を横に振る。

「本来は、嵐の中で船を繋ぎ止める錨のように、魂が惹かれ合う『対』となる相手のことだ」

 それは、今の私には、あまりにも眩しすぎる物語だった。

 彼のブルーの瞳が、至近距離で私を射抜く。

「俺は、アンカーを探しにこの国に来たんだ。星の神託に導かれて。そして、君を見つけた」

「私、ですか……?」

「……あの日。初めて君の手に触れた時の衝撃を、今でも覚えている」

 フィンレイは遠くを見るように目を細めた。

「雷に打たれたようだった。それまで俺の中で常に吹き荒れていた嵐が、嘘のように凪いだんだ。世界から音が消え、ただ安らぎだけが満ちた」

 彼はそっと自分の胸に手を当て、苦笑する。

「俺はあまりにも強大な魔力を生まれ持った。器であるこの体を内側から壊していく怪物だ。それを唯一、触れ合うことで修復し、現世に繋ぎ止めてくれる存在……それが『アンカー』だ」

「私が、フィンレイ様のアンカー……?」

「ああ。だが、すぐに確信するのが怖かった。期待して裏切られることには、慣れすぎているからな」

 彼の指先が、迷うように私の髪に触れる。

「だから俺は臆病にも、『契約』なんて無粋な名目を盾にして……君に近づいたんだ」

「そうだったのですね……」

「……手を。触れてもいいか?」

 私が恐る恐る手を差し出すと、フィンレイ様はスガるようにそれを両手で包み込んだ。
 ――バチッ。
 指先が触れ合った瞬間、鋭い電流のような痺れが身体を駆け抜けた。彼の手は氷のように冷え切り、震えていた。けれど、そこから私の中へ流れ込んでくるのは、魂を焦がすような熱だった。物理的な温度ではない。それは私の凍てついた心を芯から溶かす、優しい灯火のような温もりだった。

「……痛みが引いていく。ひび割れていた器が、君の熱で満たされていくのがわかるよ……」

 彼は微笑む。同じだ、と私は思った。一方的な癒やしではない。私もまた、彼に触れることで空っぽだった何かが埋まり、満たされていくのを感じていた。

「きっかけは『アンカー』への興味だった。でも……どんな泥沼でも折れない君の強さに、俺は惹かれたんだ。君と過ごす時間だけが、俺の心を満たしてくれた。アンカーだからじゃない。君だからだ。守りたいと思うのは。君が心から笑える場所へ、連れ出したいんだ」

 フィンレイ様の声は、雨音にかき消されそうなほど低く、けれど熱を帯びていた。濡れた髪が頬に張り付き、その美しい顔色はどこか蒼白に見える。

「どうしてそこまで――?」

「わからない。理屈じゃないんだ。ただ、君を放って置けない」

 時が止まったように感じた。言葉が熱を持ち、私の心臓を包み込む。おおわれていた氷は、完全に水となり溶け落ちた。心臓が鼓動を再開する。

 私は首を横に振った。

「いけません。この狂気に、あなた様を巻き込みたくないんです。私はもう……」

「――君はどうしてほしい?」

 彼は私の言葉を遮り、一歩踏み出した。その瞳が、逃げようとする私を射抜く。

「俺はただ、君の声が聞きたい。君の言葉一つで、俺は動く」

「っ……」

「自分に正直になることは、勇敢なことだ。……言ってくれ、ユリアナ」

 私は知っている。喉の奥で引っかかっている言葉を。
 けれども、フィンレイ様をより深く知ってしまった今、初めて会った時とはその言葉が持つ重みは違う。
 ――必要なのは、少しの勇気。彼を信じる力。
 私は震える唇を開いた。

「……助けて」

 蚊の鳴くような声だった。けれど彼は、確かに聞き取った。

「私が逃げるのに……力を貸して、ください……っ」

 張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れ出した。
 フィンレイ様はふわりと微笑んだ。雨雲が割れたような、優しい笑顔だった。

「ああ、もちろんだ」

 彼は私の手を取り、その冷え切った指先に、ウヤウヤしく口づけを落とした。
 
 それは深く、重い、魂の契約のようだった。

「……必ず、迎えに来るから。待っていてくれ。もう少し耐えて。それから、アリス――あの女には気をつけて。嫌な予感がする」


 ――――――


 日々は過ぎていく。

 彼の言葉を祈りに。私は生きていく。リアム様に囚われながら。

 そんな時、立て続けに公爵夫妻が病に倒れられた。
 病状はよくない。医者の顔は暗い。病床に立つリアム様の表情は読めない。悲しんでいるのか、喜んでいるのか。

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