学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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闇の中に潜む悪魔

闇の中に潜む悪魔 その2

「雪は降らないからか、この辺りは酷く冷え込むわね」
 まだ完全に日が登り切っていないような早朝にスティフィがそんなことを言ったのでミアが不思議な顔をする。
 スティフィが食事当番の日だったので、ミアも手伝うために、いや、当番を変わるために早起きしたのだ。
 それは特に問題ないのだが、スティフィが言った言葉がミアには不可解だったのだ。
「あれ? 雪が降るから寒いんじゃないんですか?」
 ミアの感覚ではそうだ。
 実際そうでもあるのだが、本当に寒い地域では雪が降っている時のほうが暖かく感じることがある。
「北側だと雪が降ると少しだけマシなのよ。暖かいっていうわけでもないんだけど」
 スティフィはそう言って、白い息を吐き出した。
「そうなんですか? そういえばスティフィは雪国出身なんですよね?」
 ミアにはよくわからない話だったが、スティフィがそう言うならそういうものなのだろうと思っておく。
 ミアも自分が知らないことが多いのだと、そのことはもう十分に理解できている。
「一年の半分以上は雪が降っているような場所ね」
 リズウィッドもそんな感じではあるのだが、リズウィッドの地は、精霊王同士のいざこざによる異常気象だ。
 他の地域と比べてもあまり意味がない。
「あんまり想像できませんね」
 ミアはそう言った後、魔術学院があるリズウィッドも似たようなものだったことを思い出す。
 さすがに一年の半分というわけではないが、三分の一程度はリズウィッドの冬も寒く雪深い。
 海の精霊王が水気の含んだ海風を吹かせ、天の精霊王が山から乾いた風を吹かせているせいだ。
 その結果、海の精霊王の力が強い夏の時期は異常に蒸し暑く、天の精霊王の力が強い冬の時期は雪まみれになる特異的な気候となっている。
「ミアが住んでたところはどうだったの?」
「年明けてから、稀に雪が降ることがあるって感じですね。年によっては雪が降らない年もあるって感じですね」
 そもそもミアの故郷であるリッケルト村では雨自体が少ない。
 だから、雪もそれほど降らないというだけの話だ。
 入り組んだ山脈の中にあり、最東端でもある本当に辺境中の辺境の地だ。
「ふーん」
 あまり興味なさそうにスティフィが返事を返す。
「雨があまり降らないので、そのせいで雪も、って感じですね」
 スティフィが興味を持ってくれなかったことにミアは慌てて追加の情報を出す。
 その情報も大してスティフィの興味を引きはしないのだが、スティフィのほうがミアに気を使い話に乗る。
「それなりに寒い場所なの?」
「そうですね。リズウィッド程寒くはないですけど」
 リズウィッドの気候は色々とおかしいので、他の地域と比べても仕方がないのはわかっているが、ミアとスティフィの共通の知っている場所はリズウィッドしかない。
「あそこは色々と気候がおかしいから」
「精霊王同士がケンカしているんでしたよね。その結果、夏と冬しかありません……」
 一応、春と秋もないことはない。
 ただ一、二週間で終わってしまうような感じだ。
 そんなとりとめのない話をしていると、遠くからエリックの声が聞こえて来る。
「おーい、小鹿が罠にかかってたぞ」
 昨日の日が落ちる前に、エリックが仕掛けておいた簡易罠に獲物が掛かっていたようだ。
「小鹿!! ロロカカ様に捧げさせてください!」
 それを聞いたミアはエリックの元へ駆けていく。
「ん? まあ、どっちにしろ。血抜きしなくちゃならないからな。あと処理任せていいか?」
 エリックは罠にかかっていた小鹿を片手で持ち上げてそう言った。
 前足と後足、それぞれ縄で縛られていて身動き取れていないが小鹿はまだ生きていて、悲痛な声を上げている。
 罠にかかったのが小鹿だから、エリックは仕留めずに生きたまま捕獲したようだ。
「はい、私がやっておきます! エリックさんはもう寝ててください」
 そんな生きた小鹿をミアは両手で抱きかかえるように受け取る。
 エリックはこれから数時間ほど寝て、その後、馬車の御者までやってくれるのだ。
 御者台の上で居眠りしているとはいえ、睡眠時間が足りているとも思えない。
 それにミア自身も獲物を捌くことも慣れてはいるので、小鹿を処理すること自体は問題ない。
「出発は?」
 その様子を見てスティフィはミアに確認する。
「この小鹿を肉にしてからですね」
 そして、スティフィの予想通りの答えが返ってくる。
 そうなると、恐らくなんだかんだで今日の出発は昼前になるはずだ。
「じゃあ、私も少し寝るわ」
 スティフィはそう言って馬車へ上がり込んでいく。
 スティフィもスティフィであまり寝られていない。
 左手が未だにひどく痛むためだ。
 揺れないうちに少しでも追加で寝ておきたい。
 食事当番のことは特に言わない、というか、現状では不可能なので、ミアもそのことはわかっているし、もともと変わるつもりでこの時間に起きてきたことも理解している。
 わざわざ言葉に出すようなことでもない。
「はい、二人ともゆっくり休んでください」
 ミアは笑顔でそう言って、抱きかかえている小鹿を見る。
 まだ本当に小さく若い小鹿だ。
 余裕があれば逃がす大きさの小鹿だが、肉類は貴重だし、ロロカカ神にお供え物する機会も限られている。
 なにせ今は備蓄の食料は赤芋しかない。
「鹿の解体ですか? ならついででいいので、教えてもらってもいいですか?」
 スティフィとエリックと入れ違いにジュリーが馬車から出てきてそう言った。
 もしかしたら話声で起こしてしまったのかもしれないと、ミアは声を小さくして聞き返す。
「ジュリーはしたことないんですか?」
「ええ、アンバー領は獲物自体がいないので、実はあまり捌いたことがなくて」
 自虐的にジュリーはそう答える。
 定期的に取れる獣などジュリーの故郷にはいない。
 居ても毒や呪いを受けていて、人が食べることには向いていない。
「荒地なんですっけ?」
「荒地というか荒野というか、まあ、そんな感じの場所ですね」
 そう言ってジュリーは故郷のことを思い起こす。
 自分たちが住んでいた村より南西は、赤く呪われた不毛の大地が広がっているだけだ。
 生き物らしい生き物など全く見かけない呪われた地だ。
「あまり想像できないですね」
 先ほどスティフィと話していて出てきた言葉と同じような言葉をミアはもう一度吐き出した。
 今度はよく考えてから言った言葉で、本当に想像できない。
 リッケルト村も貧しい村だとは思うが、それでも獲物が獲れないということはなかったし、痩せている土地ではあるが周りは自然がないわけでもない。
「ああ、でも、運河ができて少しだけ豊かになったと聞いてます。運河ができる前は本当にひどかったと。棘の生えた多肉植物しか食べる物がなかったそうですよ。それで荒地の神が荒地でも実を着ける木を授けてくれたらしいです」
 ジュリーはため息交じりにそんなことを言った。
 運河が領地内を通ることで、そこで魚が取れるようにもなり、飢えることは少なくなったという話だ。
 それまでは本当にひどい生活だったとジュリーは聞かされている。
「あの、おいしい油が取れる木ですね」
 ミアはジュリーがサリー教授の弟子になるきっかけになった植物を思い出す。
 ジュリーはシェルムの実から取れる油が高く売れることを知り、それの効率の良い育て方を学ぶために自然魔術の権威であるサリー教授に弟子入りしたようなものだ。
 ただ、それは様々な理由から実現していない。
「そうです。シェルムの木を植えると他感作用で植物が育たなくなるんですよね。さすが荒地の神から授けられた植物ですよ」
 ジュリーはそう言って苦々しくため息を吐き出す。
「他感作用?」
 他感作用とは植物が放出する特殊な物質により、周囲の他の植物や微生物の生育を阻害、もしくは逆に促進させる作用のことだ。
 シェルムの木が他感作用で周囲に発する物質は、植物にとっては猛毒の物質で、シェルムの木自身に対しても、生育を阻害する効果があるものだ。
 そのため、シェルムの木を植えた土地では、他の作物は育たなくなるし、そのうちシェルムの木自身ですら育てられなくなる。
 シェルムの木のみを植えるにしても、ある程度離して植えなければ、シェルムの木も育たない程、その毒性は強いときている。
 本当に荒地の神が授けたとわかるような植物だ。
「えっと…… 他の植物が育たないように周囲に毒を巻くって感じですよ」
 ジュリーは一瞬どう説明すべきか迷った挙句、何も配慮しないでその言葉を吐き出した。
「え? 毒あるんですか?」
 ミアは驚いた顔をする。
「人間には害を与えないので平気です。他の植物には猛毒のようですが。その毒が他の作物どころか、シェルムの木にまで影響してしまうので、シェルムの木を育てるにしてもある程度距離を取らないとダメなんですよ。毒で土地が簡単に死んでしまうんです」
 ジュリーは疲れたようにそう言った。
「そういえば…… なんかそんなこと言って悩んでましたね」
 一時期ジュリーがそれで悩み、シェルムの実から絞りだした油を、定期的に買いたいと言っていたローラン教授に安定生産ができないと頭を下げていたのを思い出す。
 それでも、土地だけは余ってはいるので、アンバー領で大々的なシェルム畑を作る計画が持ち上がっているらしい。
「師匠が言うには品種改良は可能だという話なのですが…… なにぶんシェルムの木は神から頂いたものなので」
 ジュリーは一応故郷であるアンバー領の領主である父に、そのことを手紙で聞いてみたが、品種改良の許可など下りるわけがない。
 その代わりにシェルムの畑を広げるという話にはなっている。
 そもそも、アンバー領の地は神々の呪いの影響で普通の作物も育たない。
 シェルムの木くらいしか育つ作物はないので、アンバー領からすれば助かる話だ。
 今まで外部の商人にただ同然に買いたたかれていた物が、高額で売れるのだから。
「あー、それは手を出したらダメですよ!」
 ミアもジュリーを睨めつけるようにそう言った。
 神が授けてくれた物を、人の手で勝手に作り変えるなど、神の巫女であるミアからすれば禁忌とも言えるような行為だ。
「ですよね。まあ、私の故郷の話はどうでもいいので、さ、捌き方…… 教えてもらってもいいですか?」
 ジュリーはこのまま話し込んでいても仕方がないと、ミアの抱きかかえている鹿を、小鹿を見てギョッとする。
 想像以上に若い小鹿だったので、これを今から捌くのかと思うと、ジュリーは胸が苦しくなる。
「はい、私もそれほど得意というわけではないですが! でもなんで急に?」
「そういったことにも慣れろと師匠に……」
 最近よくその言葉を聞く、とミアは思いつつ、サリー教授に言われたのなら仕方ないと納得もする。
「あー、まあ、最初はきついですよね」
 ミアは自分の腕の中で、既に諦めたのか静かになって、もう鳴きもしない大人しくなった小鹿を見つめた。



「この小鹿…… 生きてますよね」
 ミアが大きな岩の上に小鹿を寝かせると、急に跳ね起きようとした小鹿を見てジュリーは驚いた。
 随分とミアの腕の中では大人しかったので、既に〆られているものだと勝手に勘違いしていた。
「罠で捕獲したと言ってたので、生け捕りにしたんですね」
 ミアは慣れた手つきで、小鹿を抑え込んでそう言った。
 生け捕りにしたのはエリックの気まぐれか、何か利用価値があると考えたのだろう。
 魔術的に生命があるもの、と、ないものではその価値や意味合いがまるで違ってくる。
 ただ、罠にかかった獲物、という点では、エリックやミアからすると、止め刺し前か、後か、の違いでしかない。
「これ、こんなかわいいのを〆るんですか?」
 ジュリーには小鹿がとても弱々しく、可愛らしいものに思えてしまう。
 これに今から止めを刺すと思うと胸が痛くなってくる。
「はい、糧になってもらいます! 小さいですけど野生の獣です、気を付けてください」
 ミアはそう言ってジュリーのほうを見た。
「え?」
 ジュリーにはその言葉を理解するのに少しだけ時間を要した。
 ミアの言っている言葉を、ジュリーなりに理解すると、自分に気をつけろ、と、そう言っているのだ。
 では、何を気をつけろというのか言うと、野生の獣だからだと。
 なんで野生の獣だから注意しなければならないかというと、恐らくはミアは言っているのだ。
 ジュリー自身に、この可愛らしい小鹿を〆ろと、止めを刺せと。
「捌き方を知りたいんですよね?」
 ミアがそう言って、固まってしまったジュリーに声をかけ再度確認する。
 それに対して、
「私がやるんですか?」
 と、ジュリーは素で聞き返してしまう。
 確かに捌き方を習いたいといったのはジュリーだが、まさか止め刺しまで、自分の手でやることになるとは思いもしなかった。
「何事も慣れですよ! ジュリー! まずは殴って気絶させて、心臓を一突きです! そしたらロロカカ様に捧げますので」
 ミアは小鹿を押さえつけながら、ジュリーに声をかける。
「殴る?」
 ジュリーは殴ると言われて、自分の手を見る。
 この手で殴って小鹿を気絶させる、そんなことができる自信はない。
「棒で、ですね。頭の後ろ当たりを思いっきりです! 手加減すると暴れて余計苦しめることになりますよ」
 すぐにジュリーの勘違いに気づいたミアは声をかける。
 そして、暴れる小鹿を抑え込んで、頭部の後ろ側を叩きやすいように小鹿の首を固定する。
「え? は、はい? 殴る? この可愛い子を?」
 涙目でジュリーは確認してくる。
 ミアから見ても、ジュリーがそんなことできるようには思えなかった。
「心が痛むなら魔術で気絶させてもいいですよ?」
 ミアがそういうと、ジュリーは少しだけ考える。
 自分が扱える魔術の中でそんな術があるのかと。
 答えはない。
 そもそも、戦闘向きの魔術など一切ない。
 二体の精霊と盟約を結んでいるので、その精霊にやってもらうことはできるかもしれないが。
 今はそのことに気づくこともない。
「気絶させる? そ、そんな術…… ないですよ」
 回らない頭でジュリーは色々と考えるが、その結果、そんな術はないと気づく。
 そして、サリー教授はそういった点をジュリーに気づかせたかったのと、ジュリーはそう思うことにした。
「仕方ないですね、今日は私がします」
 完全に呆けてしまっているジュリーを見てそう言った。
 いつまでも恐怖に怯えている小鹿を、そのままにしておくのもかわいそうだ。

「す、すいません……」
 ミアの代わりに小鹿をジュリーが抑える。
 足を縄で結ばれているにもかかわらず、小鹿は暴れ、ピィピィと悲痛な鳴き声を上げる。
 ジュリーは沸き起こってくる庇護欲を必死に抑える。
「荷物持ち君、杖を」
 暴れだす小鹿をジュリーに任せ、ミアは荷物持ち君から古老樹の杖を受け取る。
 既に逃げ腰のジュリーでも、前足と後足それぞれ脚同士が結ばれているため、小鹿は逃げ出すことどころか、立ち上がることも不可能だ。
 多少暴れたところでミアには関係ない。
 ミアは古老樹の杖を振り上げ狙いを定める。
 その姿にどことなく恐怖を感じたジュリーは、
「荷物持ち君にやらせないんですか?」
 杖を振り下ろそうとしているミアにそう声をかける。
「荷物持ち君は古老樹なので、無益な殺生はしないんですよ。私を守るためにならしてくれますけど」
 ミアは言葉をかけられて、少しだけ言葉に詰まったが、その答えを口にする。
 自然の守護者である古老樹は基本的に野生動物を理由なく傷つけることはしない。
 逆に言えば、必要があれば躊躇いもなく命を奪う。
「そ、そうなんですか…… え? なのに、古老樹の杖を使って気絶させるんですか?」
 ジュリーはその答えに納得しつつ、新たな疑問が浮かび上がる。
 ミアの持っている杖は、古老樹の杖だ。古老樹の枝で古老樹自身が作った杖だ。
 そんなもので野生動物を殴りつけていいものかという疑問だ。
「この杖は硬くてよく手になじむので」
 だが、ミアから返ってきた返答は、そんな言葉だった。
 以前からジュリーは思っていたが、ミアはそれほど古老樹を敬ってはいない。
 上位の存在として理解はしているが、敬いが足りないのではないか、そんなことをジュリーはこの時に強く思った。
「は、はあ? 古老樹は殺生を好まないけど、古老樹の杖で殺生はするんですね」
 と、ジュリーはそう言って、小鹿を抑えることに専念する。
 小鹿を救うでもなく、暴れる小鹿を抑えるのでもなく、ただただ、その場を見守ることしかできない。
 それ以外に、ジュリーができるようなことはなかった。
「するのは私なので。見ていてください。手加減は無用です!」
 ミアはそう言って、古老樹の杖を力いっぱい振り下ろした。
 この時、ミアもミアでジュリーに教えなければならないと、少し意気込んでしまっていたところがある。
 次の瞬間、揺れというか衝撃を間近でジュリーは感じた。
 そして、衝撃とともに、暖かい何かが顔に飛び散るのをジュリーはを感じる。
 それが何だったのか、理解するのは、怖くて目を閉じていたジュリーが目を開けた後だ。
 まあ、顔に飛び散ってきたのは小鹿の頭部の中身だったわけだが。
 ジュリーは目を開け、自分の顔に飛び散った物を手でぬぐい、それを理解して、思考を停止させる。

 そんなジュリーに向かいミアは、
「本当は気絶させた後、心臓を刃物で一刺しするんですよ」
 頭部がなくなってしまった小鹿を見下ろしながらジュリーに説明する。
 その言葉でジュリーも止まっていた思考を再開させる。
 既に小鹿の頭部はない。
 痙攣でだろうか、頭部を失った小鹿はまだ小刻みに弱々しく動いているが、それも弱くなっていっている。
「でも、なんというか、これ…… 既に死んでますよね?」
 ジュリーは頭部がはじけ飛んでしまった小鹿を見て当たり前のことを聞く。
「古老樹の杖が優秀でした」
 そう言って、ミアは古老樹の杖を荷物持ち君に渡す。
 杖を渡された荷物持ち君は、杖を何度か素早く振って、杖についていた血を吹き飛ばしてから、背中の籠にしまい込んだ。
 ジュリーが改めて、小鹿を見る。
 見事に頭部がはじけ飛んでいる。
 それどころか、下敷きにしていた大きな岩にヒビが入っている。
 ジュリーはそれを呆然と見つめる。
 そして、ミアに教えてもらうのは色々と間違っていたと、まだエリックに教わった方がマシだったと、今更ながらに気づいた。
「では、ロロカカ様に捧げるので少し待っていてください」
 ミアはそう言って肩から掛けていた鞄の中から、簡易魔法陣が書かれた布を取り出す。
「は、はい」
 と、ジュリーは顔や服についた、小鹿の血やなにかをぬぐい取りながら、返事をした。
 
「本来は血抜きという作業があるんですが、ロロカカ様は血も持って行ってくださるので、これ以上の血抜きの必要はないです」
 ミアは得意げに頭部がなくなった小鹿をジュリーに見せてくる。
 確かにもう無くなった頭部からも血は流れ出していない。
 血抜きの効果としては、素晴らしいものなのだろうが、ここまで見せてもらった実演で、ジュリーができそうなことは何一つない。
「そ、そうなんですね……」
 そう答えるのが精いっぱいだった。
「私も血抜き作業はそれほどしたことないので、エリックさんに習ったほうがいいですね。それともジュリーもロロカカ様を崇めますか? それなら血抜き作業を覚える必要はないですよ!」
 ミアは嬉々として、それを進めてきた。
 今まで他人にそれを進めるようなことはあまりなかったミアだが、心変わりでもしたのかと、ジュリーは感じた。
「あ、いえ、えっと…… あっ、私も一応は領主の血を引いているので……」
 ただジュリーも一応は領主の血を、世が世なら神に選ばれた王の血を引いているということだ。
 荒地の神とはいえ、それを裏切ることはできない。
「そうでしたね。残念です! では、小鹿を吊るして皮をはいでいきましょう! 小さく重くないので、この子はやりやすいと思いますよ!」
 そう言ってミアは、小鹿の足を縛っていた縄を短剣で切りはなった。
「は、はい……」
 ジュリーは何も考えないように、ただただミアに言われたことだけを無心で作業した。



「どうしたのジュリー、青い顔しちゃって」
 スティフィが数時間ほど馬車の中で寝てから馬車の外に出ると、そこには青い顔をしたジュリーが地べたに座り込んでいた。
「ミアさんに捌き方を習ったのですが、予想以上に生々しくて……」
 しばらく返答がなかったが、ジュリーから弱々しい返答が返ってきて、スティフィも納得する。
「あー、はいはい。あんたも慣れているものだと思ってたけど」
 以前、ジュリー自身が農民と変わらない暮らしをしていると、そう言っていたので、その手のことは慣れているとスティフィは思っていた。
「慣れてないですよ。魚なら捌けますが。私の住んでいたところには大きな獣もいないので……」
 それを聞いたスティフィは、そういうこともあるのか、と素直に納得する。
 不毛の土地すぎて、獣を捌いたことがない、なんてことは想像してなかった。
「なるほど。まあ、皮をひん剥いたところは確かに生々しいわよね」
 そう言ったあとスティフィはジュリーの口から出て来た言葉で少しだけ困惑する。
「首が…… 首から上が…… 木っ端みじんに吹き飛んでて……」
 うわごとのようにそう言っているジュリー、スティフィは怪訝そうに聞き返す。
「え? どういうこと? でも鹿でしょう? それも小鹿なんでしょう? そこまでへこむこと?」
 首から上、云々の話はスティフィはとりあえず無視しておく。
 恐らく聞いても仕方がないことだ。
「やっぱり皆さん、慣れているんですね……」
 皮をはいでいく工程も、ジュリーからすれば衝撃的な光景だった。
 そして、あんな可愛らしかった小鹿が肉になっていく過程を見て、ジュリーにはかなり精神的負担が大きかった。
「まあ、ミアもエリックも山育ちみたいなもんだからね」
 ミアもエリックも生物、特に獲物の命を奪うことに躊躇はしない。
 二人にとってはそれが日常だったのだろう。
「スティフィさんは?」
 と、スティフィはジュリーに聞かれ少し迷う。
 迷ったが、ジュリー相手に気を遣うこともないとスティフィは判断する。
「私? 聞かないほうが良いわよ? 私は獣より先に人を……」
 と、言おうとしたところで、
「あっ、はい、言わなくていいです。いいですから!!」
 と、ジュリーに遮られる。
「逆に話をよく聞いて、慣れておかないと?」
 からかうようにスティフィが言うとジュリーは顔を真っ赤にさせて、
「刺激が強すぎます!」
 と、そう叫んだ。
「でも、それくらいのほうが早くなれるわよ?」
 さらにスティフィがジュリーをからかう良い機会だとばかりに詰め寄ろうとしていると、少し離れたところから声をかけられる。
「スティフィ、あんまりジュリーをいじめないでください」
 その声の主は顔を見なくともわかる。ミアだ。
「はいはい」
 と、適当に返事をしたところで、ミアの顔を見ると、ミアはミアで少し難しそうな顔をしている。
「それとなんですが、サリー教授はどこにいます?」
「馬車の中で何か作業してたわね」
 ミアの問いに、スティフィが答える。
 覗き見たわけではないが、サリー教授は馬車の中で何か書き物をしていた。
「学院への報告書を書いているんですよ」
 スティフィの答えにジュリーが付け足す。
 オルタマリアの町で起きていることを報告書としてまとめているのだろう。
「こんな場所じゃまともに郵便も出せないでしょうに」
 スティフィはそう言って周囲を見回す。
 一応、道らしき道はあるが、人通りが多いだけでもない。
 所々、獣道のような個所すらある。
 やはり神の加護がある街道と比べると道としては悪路だ。。
「そんなことはないですよ! この辺りでも定期的に行商さんが来てくれますので!」
 ミアが必死にそんなことを言うが、今はこのあたりのことを聞いている場合ではない。
 ミアが何でサリー教授を探していたのかのほうが重要だ。
「で、師匠に何の用が?」
 スティフィではなくジュリーがそれを聞く。
「ああ、ちょっと食べない内臓を埋めに、道から離れた場所に行ってたんですが、近くに大きな洞穴があって……」
 ミアも真剣な顔をして喋りだした。
「洞穴?」
 スティフィはそう聞いて、熊でも住んでいるのか、と思ったが、荷物持ち君がいるので、熊くらいでミアがここまで真剣な顔をする理由にはならない。
「しかも、なんかそこから奇妙な気配があるんですよ。なので一応知らせておこうかなって?」
 ミアが神妙な顔をしてそう言った。
 神の巫女であるミアがそういうのであれば、それは間違いがないのだろう。
「奇妙な気配? 荷物持ち君は?」
 スティフィはすぐにミアのそばにいる荷物持ち君の方を見る。
 だが、スティフィにはいつも通りの荷物持ち君にしか見えない。
「洞穴のほうを見るんですけども、特にそれ以外の反応はないんですよ。洞穴に入るのも止めなかったですね。入りませんでしたが。まあ、私が洞穴を見つけたのも荷物持ち君が見ていたからなんですけど」
 ミアはそう言って少し不思議そうな顔をする。
「じゃあ、腕輪は…… 特に変化なしね」
 スティフィは次にミアの左手にはめられている腕輪を見る。
 恐らくミアの身に何かが起こる時、その神から授けられた腕輪は光を発するはずなのだが、今は光ってはいないし、特に変わったところもない。
「はい」
 と、ミアも返事をして、それからミア自身も自らの左手にはめられている腕輪を確認する。
「気配ってどんな気配なのよ」
 スティフィがそう聞くと、ミアは息を飲んでから答えた。
「んー、確信がないんですが、恐らく御使いの類かと思うんですよね」
 それを聞いたスティフィとジュリーが目を大きく見開く。
「え? 御使い?」
「でも、アイちゃん様も反応ないですよね?」
 ミアはそう言ってスティフィ、ではなくその左肩にいる肉塊に目を向ける。
 御使いであるアイちゃん様も特に変わった様子はない。
 朝だからか少し眠たそうな目をしているくらいだ。
「いつも通りね……」
 スティフィも左肩の住人が特に変わったようには思えない。
 いつも通り悪戯に左手を刺激してくる厄介な相手だ。
「気のせいかもしれないですが、一応知らせてきます」
 ミアはそう言って馬車へ向かい歩いていく。
「そうね、ミアがそう感じるなら……」
 恐らくは本当に、その洞穴とやらに御使いの類がいるということだ。
「こんなところに御使い? ということは……」
 ジュリーが身を震わせながらも、その言葉を最後まで言えない。
「本当にいるなら自由意思を持っている悪魔、それもはぐれ悪魔って奴かもね…… あの黒い御使いみたいな奴じゃなければいいけど」
 その代わりにスティフィが、嫌なことを思い出したとばかりに顔を顰める。
 ただスティフィの言葉にミアが反応する。
「あの黒い御使いさんは神の意思に従っていたそうですから、天使じゃないんですか?」
「神の意思に従っていても、自由意思を持っているなら、魔術的な分類では悪魔よ。だから、あの黒い御使いは悪魔!」
 ミアの問いにスティフィが的確に答える。
「んー、その辺がよく理解できてなくて……」
 ミアはまだ天使という存在に出会ったことがない。
 だから、そのことを理解できていない。
「天使っていうのは、まあ、ミアはまだ出会ってないから分からないか。どこか異質な存在よ。会えばすぐに違いが分かるわよ」
 スティフィはそう言って、右手で早く報告してこい、という仕草をする。
 天使にも色々な種類がいるのだが、概、その存在はどこか無機質で機械的であり事務的な存在だ。
 生物らしさや揺れやブレが一切ない。
「そうなんですか。まあ、報告してきます!」
 ミアはその答えに納得はしていなかったが、確かに報告のほうが先だと馬車へと駆け込んでいった。







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