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第36話 峡谷の主

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「いいか。タイミングを合わせるんじゃ。わらわが合図を出す。そうしたら、馬車を高速で突撃させるのじゃ」

 オルビークの言葉に俺は大きく頷く。

 仲間全員が乗り込んだ馬車の車内で、オルビークは峡谷に出てからの作戦を提案してくれていた。

『剣豪―三刀―』と『グラウンドイーター』の両方を相手にするにはまず、峡谷全体を明るく照らさなくてはならない。

 そして、それには高等魔術の発動が必要とのことで、ある程度の詠唱がいるのだという。

 だから、オルビークが詠唱を始め、ちょうど唱え終わる寸前に峡谷へと飛び出すよう、彼女は提案したのだ。俺もその作戦に異存はなかった。

 峡谷に出てからの戦闘行動は、俺に一任されていた。

 相手を翻弄するための初撃には一つ、アイディアがある。
 視界さえ鮮明になれば、あとはこちらのものだ。

「じゃあ――始めてくれ」

 俺の指示でオルビークは目を静かに閉じる。

 小さなその胸元で両手を合わせると、彼女の身体は赤い光を帯び始めた。

「顕現の奇跡に願う。欲するのは地を照らす大炎の燭台、それによって暴かれる化物の姿。我が魔の血を以って、魔術遂行の代償とする――」

 詠唱が進むにつれて、オルビークの身体に帯びる光が強まっていく。

 俺たちはじっと彼女の合図を待つ。この時ばかりは軽口を叩くモンスターもいない。

 そして、オルビークは詠唱を続けながら、小さく右手で突撃の合図を出した。

「よしッ! 『魔地馬』、突撃だ!」

 俺の叫びと共に『魔地馬』が高速で駆け出す。

 でこぼこの地面。

 しかし『魔地馬』の重力操作によって軽くなり、半ば浮きかけている馬車はバランスを崩すこともなく一直線に進んでいく。

「いよいよっすよねえ! 旦那ぁ!」

『邪神砲』が歓喜に満ちた声を上げる。

『地獄骸』と『地獄射手』は沈黙したまま、正面を見据えていた。

『地獄暴食』はその巨体で必死に馬車を追いかけてきている。

 魔法石壁の穴が近づく。

 オルビークの詠唱は終わりが近づいているのか、大きな声量になっていく。

 そして俺たちは、峡谷へと飛び出した。

 オルビークが二つの瞳を大きく見開く。

「――さあ、この峡谷全体を照らせッ! 大炎の燭台ッ!」

 彼女の叫びと同時、峡谷の上空に巨大な火炎球が出現した。それはまるで地上に落ちた太陽の如く。

 一瞬にして周囲の夜を昼に変え、気温さえ上昇させる。

 今まで、闇に包まれていた峡谷の姿がようやくはっきりと視界に入った。

 魔法石壁から出て辿り着いた場所は、二つに枝分かれして狭くなっていた部分。

 両側の崖は激しく切り立っていて、大きな圧迫感を与えてくる。

 幅は峡谷のメイン部分よりもだいぶ狭く、この場所では、巨体を持った敵とは戦えない。

 そう判断した時だ。

 俺の状況判断は正しかった。
 俺たちにとって、この場所は不利。

 ということは、敵にとっては有利である。

 峡谷のメイン部分と合流する地点。

 その少し手前に、俺たちを待ち受ける化け物と、その上に乗る『剣豪―三刀―』の姿があった。

「あれが……『グラウンドイーター』……」

 その姿は、俺が想像していた竜の姿とは似ても似つかない。

 暗闇の中で見えた鱗のついた前脚、それを見て俺は竜のような姿をしているのだと思っていた。

 狭くなった峡谷の幅いっぱいの図体。全長は三十メートルほど。
 顔は爬虫類に近い。全身が鱗に覆われている。ここまでは竜に似ている。

 だが、決定的に違うのは、その四本の腕が身体とのバランスを考えると、異様に長いことだった。

『グラウンドイーター』の身体は、俺たちから見ると遥か高い十五メートルほどの場所にあった。

「なんだ、あの姿……」

「ああ、お主は見たことがなかったんじゃったな。あの長い脚こそが『グラウンドイーター』の特徴じゃよ」

『グラウンドイーター』は俺たちを発見すると、ぎょろりとした目でじっと睨みつけてくる。

「マジか……あんな脚で近くの岩を蹴り上げてたってわけかよ」

「『グラウンドイーター』の厄介なところは、あの長い脚を使って獲物の頭上から強烈な一撃を与えるところじゃな。そして、こちらの攻撃は届くことさえない。さて、お主の策、あやつに効くかどうか見物じゃな」

「胴体があんな位置にあるなんて聞いてねえぞ……完全に予想外だ」

「じゃが、その割にはお主の目、死んでいないようじゃが」

 オルビークはにやりと口元を歪めてこちらを見る。彼女はまるで心配していないようだ。

 俺が初撃を与えることを信じて疑っていない。

「……そうだな。ぶっちゃけ、相手がどんな高さにいようが関係ない。そもそも俺は――奴の巨体の上まで一気に駆け上がってやろうと思っていたんだ」

「しかし、どうやって駆け上るのじゃ?」

「まあ、見てろよ」

 俺は頭上から見下ろしてくる『グラウンドイーター』を正面から見据え、笑みを浮かべる。

「ちょっとした曲芸の時間だ」
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