【番外編】恋を煎じて、愛を呑む。

あぐつ

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父の心、子知らず

1.娘の父

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 商店街の一角に立つ老舗漢方屋【矢尾板堂】
 その奥座敷にて、店主の矢尾板勇は緊張した面持ちで茶を出していた。
 湯呑みの中で揺れる漢方茶の水面。温かな湯気がたちのぼり、生薬の香りがする。
 勇の前に座るのは、貿易商を担う白嵜家の当主・白嵜弥勒しらさきみろく。差し出された湯呑みの中をじっと見つめていた。

「勇さん」

 低く厳格のある声が勇の耳に届く。自然と背筋を伸ばし、膝の上に拳を乗せる。

「突然ではありますが、息子をこちらに婿養子に捧げたい」

 勇は目を丸くした。自分の耳を疑い、聞き間違えではないかと思う。

「……婿養子ですか? この矢尾板に?」

 白嵜は妖族だ。かつて妖怪と人間が交わった種族の子孫。今では社会的地位が高く、妖族と婚姻ができるのは華族や有力な家系のみ。
 一介の漢方屋との婚姻だなんて聞いたことがない。
 勇が驚いたのそれだけではなかった。

「しかし白嵜さん。息子さんは婚姻されているのでしょう?」

 すると弥勒は僅かに目を伏せる。

「長男、次男ともに妻がいますが。末息子は二十四でありながら、未だ婚姻はしていません」

 勇は開いた口が塞がらない。

(待て待て、末子だと……?)

 白嵜の子息は長男の桜典、次男の錦。三男については初めて耳にしたのだ。

「こちらの娘さんと婚姻をしていただければ、奴を跡継ぎにしていただいて構いません。生薬の卸しにつきましては今まで通り……いや、より良い生薬を売らせていただきます」

 弥勒は畳に手をつけば、勇に深々と頭下げるのだ。

「このとおり、よろしくお願いいたします」

 勇は慌てて弥勒の肩を掴む。

「やめてください! あんたに頭を下げられちゃ、困りますんで」

 おずおずと頭を上げる弥勒だが、真剣な眼差しをこちらに向けた。
 これは冗談ではないと感じる勇。しかしながら、それほどまで婚姻を願う意味が計り知れなかった。

「なぜ、うちの娘なのか聞いてよろしいか」

 勇とて父である。四年前に妻を亡くし、大切に育てた一人娘だ。一言返事で受けることなんてできない。
 弥勒の眉間の皺がさらに深くなる。

「こちらの娘はよく働き、気立も良い。だが婿にくる者がいないと聞く。西洋医学の影に隠れつつある漢方は、後がわからぬと言われているのでしょう」

 勇は低く唸った。
 弥勒が言うことは確かである。婿ができぬのは娘の菜佳に問題があるのではない。世は西洋医学が主流になり、漢方は淘汰されつつあるのだ。
 そんなところに継ぎたいという者がいるだろうか?
 難しい話だろう。賢い者は、未来が見えぬ場所へ自ら進んで足を踏み入れようとしない。

「ありがたい話だ。白嵜の子息が婿に来てくれるなんてな」

 だが良家の白嵜が息子を手放してなんの徳があるという。
 婿養子に出すというのは、白嵜の名でなく、矢尾板にするということ。出自は白嵜を背負っても、矢尾板は生涯背負うことになる。
 考えられることは一つだ。
 弥勒は息子を手放したいのだ。
 そのために矢尾板堂に頭を下げに来た。

「橙司は昔から、桜典や錦と違って表へ出ない。白嵜の人間としては才も乏しく、我が身が哀れといわんばかりに卑屈だ。それでも白嵜の人間として恥ずかしくない教育は受けています。矢尾板堂にとっては過不足ないかと思うところです」

 勇は腕を組んだまま視線を下ろした。古い畳の目を見つめる。
 つまりは白嵜に置いておくには足らない息子を、うちにあげたい。というのが弥勒の考えだろう。
 ここに婿養子として渡すのが都合が良いらしい。
 
 沈黙が重く漂う。
 矢尾板堂の店主としては受けたい話だ。しかし一人娘の父となると迷うところがある。
 縁談の経緯について馬鹿正直に話したところで、娘の菜佳は納得しないだろう。
 自らの意思で志願したわけではない男などいらぬと、そう言う娘だ。
 だが菜佳のその生真面目さと誠実さが、より婚姻の道を遠ざけているのもまた事実。
 商いの娘として出来すぎた菜佳は、人生が商いでまわっている。そうしてしまったのは父である勇自身であると猛省していた。
 この縁談を蹴れば次はないかもしれない。
 矢尾板堂の未来も、娘の未来も──

 勇は古びた畳に手を置けば、白髪混じりの頭を下げた。

「娘をどうぞよろしくお願いします」

 店の主人として、娘の父として。
 一人の男の覚悟だ。

  ◇

 菜佳が橙司と婚姻をして、はや九ヶ月がすぎた。
 娘夫婦が住む別邸で、勇は酒を飲んでいたのだ。
 真新しい畳に一升瓶を置き、瓶のラベルを橙司に見せる。

「これが老舗酒屋の焼酎だ。こいつを飲まなきゃ、新年は始まらねぇよ」

 勇は顔を赤くながら、グラスに焼酎を注ぐ。

「父さん、飲み過ぎよ。それに新年はとっくに過ぎてるわよ」
「硬いこと言うな菜佳ぁ。これは男の契りだ!」

 熱燗のお銚子を掲げる。菜佳から冷たい視線を感じるも、勇は気にしてなんかいない。

「美味しいお酒ですね。口あたりがまろやかで飲みやすいです」

 顔色が変わらぬ橙司の背中を勇は叩く。

「さすがは橙司くんだ! 酒の味がわかる男だな!」

 ガハハっと勇は笑う。
 橙司は飲み始めからずっと変わらなかった。顔がほんのり赤くはなっているものの、穏やかな微笑みを絶やさず酒を飲んでいる。
 勇の酒は進みに進んだ。


 勇が目を醒めれば、畳の上で寝転がり、体には布団がかけられていた。

「いててっ……」

 老体が布団も敷かずに寝るもんじゃない。背中が痛く、ゆっくりと起き上がった。
 和室には菜佳も橙司の姿もない。
 お手洗いに行こうと膝をついて立ち上がり、のそのそと和室を出て廊下を歩く。
 冷たい廊下が足の裏を冷やした。
 
「ごめんなさい。いつもはあれほど飲まないのに」
「よほど楽しかったんだ。謝ることではないよ、菜佳」

 僅かに隙間ができた襖。その中から光が漏れていた。
 聞こえてきた声に足を止めて息を殺す。

「俺も楽しかった。父と酒を飲んだことがないからね」
「……それなら、いいですけど」

 勇の脳裏に弥勒の姿が浮かぶ。
 橙司からすれば厳格で冷たい父親に見えるのだろう。
 しかし勇から見れば、それはほんの氷山の一角に過ぎず。弥勒に肩入れをしてしまう自分もいた。

「父さん、まだ寝てるのかしら。様子を見に行きますね」

 菜佳の声に勇はびくりと肩を揺らす。
 どこかに身を隠さねば……だが隠れられるような場所がない。急いでその場から離れようとした。

「ゆっくりしてあげるといい。なにかあればハルもいるだろう」

 部屋を離れようとした勇の足がぴたりと止まる。思わず耳を傾けた。

「橙司さん……」

 菜佳の狼狽えたような声がすると、室内は静かになる。

(戻るか……)

 勇は複雑な心境を抱きながらも、足音を立てぬよう部屋を通り過ぎてゆく。

 ****

 菜佳は立ったまま橙司に抱きしめられており、温かな胸に身を委ねていた。

「酔っていらっしゃいます?」

 聞けばゆっくりと腕が離れていく。
 橙司の視線と合えば、彼は目を細めて微笑んだ。

「もういいよ」
「……?」

 怪訝な顔をする菜佳だが、橙司は菜佳から離れて襖に手をかけた。

「さて、部屋に戻ろうか。勇さんの様子を見に行かねばね」
「はい……」

 と返事はしたものの、先ほどは『ハルもいる』と言っていたではないか。
 首を傾げながらも菜佳は橙司の後をついていった。

 部屋に戻れば勇は起きていた。
 ハルも一緒におり、勇に水をあげていたらしい。

「お戻りになられましたか、旦那様、奥様」
「悪いなハル。片付けてもらえるか」

 橙司が言うと、ハルは慣れた手つきで酒瓶やお銚子などを片付けていった。

「俺も、帰ろうかな」

 そう言って勇は立ち上がる。

「泊っていけばいいじゃない。三太は大助に預けているんでしょう? うちに帰っても誰もいないんだから」
「……いいや、母さんが寂しがるだろ」

 それを言われてしまうと、菜佳も返す言葉ない。

「そう、気をつけてよ」


 菜佳は橙司と共に勇を見送った。
 灯りのついた提灯を手に、暗闇に紛れてゆく父の背中を見つめるのだ。
 いつも大きな父の背中が、どこか哀愁漂っている気がする。

「やっぱり、泊まるように強く言えばよかったわ」
「俺たちに気を遣ったのだろう。次も誘えばいい」
「そうですね……」

 橙司に続いて菜佳も玄関へ入る。
 別邸の扉はゆっくりとしまった。
 田んぼだらけの見晴らしがいい土地。ぽつんと佇む大きな別邸。
 灯っていた明かりは徐々に消えてゆく。
 田んぼ道の小さな灯りだけは、ゆらゆらと揺れながら商店街へ向かっていたのだった。
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