ギリシャの風に吹かれて

あぐつ

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四話

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 翌朝。律佳は早朝から動き出す。
 ホテルのロビーに寝転がる猫と戯れ、ホテルを発った。
 歩きながら祖父の手帳を開く。

 
『九月十四日
 ホテルからピレウス港へ。シロス島へと向かう。
 太平洋とは違い、とても青くて美しい海。エーゲ海という。
 ここにも猫がいる。日本では乗せないだろう。
 だが、船員はパンくずをやっていた。
 タダ乗りでタダ飯とは、人間と違って猫は良い扱いだ。
 
 五時間かけてシロス島に到着。
 船酔いした。
 港にも猫が多い。釣り人が猫に魚をやっていた。
 この島は静かだ。
 なにもない。』
 

 律佳はピレウス港へ向かっていた。次の目的地は『シロス島』だ。
 道中の脇道には、猫用の水受け皿やクッション、段ボールにタオルが入れられた簡易的な寝床まで用意されている。待遇が良すぎないか?
 塀の上に高箱座りしていた猫へ近寄る。こちらに気がついているのに逃げもしない。尻尾を揺らしながら「なにか用か?」と言いたげだ。
 カメラを構えて写真に納める。

「お前は、喋るのかな?」

 返事はない。当然だろう。猫は目を細めて黙っている。
 

 それから歩いていると、開店前のテラスカフェのテーブルに、一匹の黒猫が眠っているのが見えた。
 不思議と律佳の足は、その猫へと向いていく。
 整った綺麗な毛並みに、白い右足。律佳はおもむろにカメラに収めた。
 そして既視感があるその見た目を、じっと見つめるのだ。

「もしかして……」

 リュックのサイドポケットから、祖父の手帳を取り出した。そこから例の写真を抜き取る。
 目の前の猫と、写真に写る猫と照らし合わせてみた。

「……似てる」

 体格、白い右足、毛並み──どこをとっても似ている。
 これは思わぬ偶然だ。もしかすると、祖父が出会った猫の血をひいているのかもしれないと思った。

「ヤーサス。君は喋ったりする?」

 黒猫の耳がピクピクと動く。

「おーい、起きてる?」

 猫の瞼が持ち上がれば、鮮やかなグリーンの瞳がのぞく。

(綺麗な猫だ)

 そして猫は起き上がると、前足を押し出し、ぐっと伸びをした。

「おはよう。よく眠れた?」

 猫は欠伸をすると、こちらをジッと見つめてくる。

「うるさい小僧だな」
「……え?」

 静かな空間に、誰かの一言だけが響いた。
 律佳は辺りを見渡すも、人の気配はない。

「どこを見ている。こっちだ」

 律佳の手は震え、黒猫へ視線を向ける。背筋を伸ばしてテーブルに座っている、そのグリーンの瞳と目が合う。

「猫が、喋った……?」
「喋れと言ったのは、お前だろう」

 目の前のことに頭が付いていかず、体が硬直する。
 声は確かに猫から聞こえた──いや、そんなはずはない。
 律佳が言葉を失って呆然としていると、猫はテーブルから飛び降り、石畳へ着地する。

「どうした。いつまで突っ立っているんだ」

 声は足元から聞こえてくる。

「いやいや……夢か、そうだ夢なんだ。それか疲れてるんだ」

 律佳は頭を抱えた。現実にありえるのか?

「おかしな小僧だな。自分から話しかけておいて、こちらが喋れば驚くのか」
「やっぱり、喋ってる!!」
「騒がしいな……」

 混乱する青年をよそに、猫は呆れていた。

「なにが、どうなって──」
「おい、食いものは持ってないのか?」
「も、持ってません……」

 すると猫は舌打ちする。

「チッ、気の利かない小僧め」

(口、悪っ?!)

 可愛らしい外見とは裏腹に、黒猫は人間に毒を吐いてくる。

(悪い夢なら覚めてほしい)

 律佳は顔が真っ青になった。
 
 ◇

 港へ向かう細い路地。律佳の足元を、喋る黒猫はトコトコと歩いている。

「どうして着いてくるのさ」
「面白そうな予感の匂いがするからな」

 黒猫の声は弾んでいた。
 どういうわけか、勝手に着いてきているのだ。追い払う理由もないので、そのままにしているのだが。

(もしかして、自分にだけ猫の声が聞こえているんじゃ……)

 ギリシャに来て謎の能力でも開花したというのだろうか。
 考えているうちに、目的地の港へ着いてしまう。
 爽やかな風が潮の匂いを運んでくる。穏やかな美しい海には、一艘のフェリーが停まっていた。
 観光客と地元民たちがフェリーに吸い込まれるようにして、中へ入っていく。律佳もそれに習って続こうとした。
 足元へ視線を落とせば、黒猫はピッタリと自分の傍にいるのだ。一緒にフェリーに乗るつもりなのだろうか。

「駄目だよ。島に行くんだよ?」
「いいんだ。着いていくぜ、小僧」
「無賃乗船だ……」

 猫に乗船料金などないが、律佳は小さくため息をついた。
 

 フェリーの中では、猫がいても誰も咎めない。それどころか、他の乗客に構われているのだ。

「なんだ、あの猫は」

 律佳は甲板からエーゲ海を眺めていた。
 アテネはもう遠く、眼前に広がるのは美しい広大な海。そして真っ青な空。潮風が香り、心地よい。
 おもむろに祖父の写真をポケットから取り出して眺めた。祖父と共に写る猫は、やはりあの黒猫と酷似していると思う。
 そしてどういうわけか、自分にはあの猫の言葉が理解できる。意思疎通までしているのだ。これを摩訶不思議と言わないでなんというか。

「感傷に浸っているのか、若造が」

 猫が甲板の手すりに飛び上がってきた。風に吹かれて柔らかな毛並みがなびいている。

「まだ着いてくるんだ」

 律佳は写真の中の猫と、目の前の猫を見比べた。

「なんだよ」

 怪訝そうな猫の声が返ってくる。
 手にしていた写真を猫へ見せた。

「これ、もしかして君だったりしない?」

 猫はお喋りな口を閉じると、黙って写真を見つめた。

「この人、俺のじいちゃんなんだよね」

 すると猫は目を細める。

「……知らないな。猫なんて数えられないほどいるだろ」
「俺が知る限り、喋る猫は君しかいないよ」
「世界が狭いんだな。小僧は」

 写真の猫と、この猫が同一猫だとすると、五十年以上は生きていることになる。
 普通の猫ではありえないが、この猫が“普通”ではないとすれば──

「ケット・シーって知ってる?人の言葉を喋って、二本足で歩く猫の妖精なんだ」
「オレは二本足で歩いたりしねぇよ」
「そうみたいだね」

 律佳は写真を下げた。
 写真裏の『一九七六年ギリシャ クロスケ』と書かれた文字を見つめる。

「……君、名前はあるの?」
「好きに呼べばいい。いつの時代も、色んな名前で呼ばれてきた」
「そうか──」

 律佳は猫に目を向け、優しく微笑んだ。

「よろしくね、クロスケ」

 名付ければ、彼は鼻を鳴らして視線を逸らす。細い髭がヒクヒクと動いている。

「センスのない名前だな」

 律佳は肩を揺らして笑った。
 

 次の目的地であるシロス島まではフェリーで約三時間。
 船内のカフェで購入したピタパンとコーヒーを手に、デッキで軽食を摂っていた。テーブルのカフェスペースで時間を過ごしている。
 クロスケはというと、律佳が座るテーブルに寝転がっていた。たまに通りかかった人に構われ、甘えた声で鳴いては愛想を振り撒いている。
 律佳はその様子を冷めた目で見ていたのだ。

「この国の人は、猫を甘やかしすぎだよ」

 つい口を滑らせれば、クロスケは長い尻尾をゆらゆらと揺らし、鼻を動かした。

「ニホンジンも同じだろ?」
「なんで日本人だってわかるんだよ。俺の国籍は教えてないだろ」

 するとクロスケは口を閉じ、律佳が食べているピタパンを嗅いでくる。

「あげないよ。食べれないでしょ」
「……なにも言ってないぞ」

 クロスケは不貞腐れた様子で、体を丸めて目を閉じた。

(拗ねるのかよ)

 猫は喋れても、自由気ままで気分屋なようだ。
 律佳は祖父の日記を取り出して広げる。
 父から貰ってから今日まで、何度も読み返している。
 そして──

『約束の地 ここで』

 このページの意味だけが、わからないままだ。
 祖父は猫を飼っていたわけではないが、野良猫や近所の飼い猫に対し、犬と話すかのように喋りかけていたのを思い出した。
 もしかすると、祖父は喋る猫を探していたのではないのだろうか。
 眠るクロスケに視線を向ければ、小さく寝息を立てている。律佳は柔らかな笑みを浮かべながら、その背中を優しく撫でた。
 フェリーの先には、シロス島が見えてきている。
 
 ◇

──シロス島。
 アテネの南東に位置する島。アテネと比べると落ち着いた印象だ。
 律佳は降りた港で、大きく息を吸って深呼吸する。日本とは違う空気を味わった。日本の都会の喧騒と比べれば、ここはとても静かだ。

「さて、どこへ行くんだ」

 そんな声が足元から聞こえてくる。

「宿だよ、宿」

 クロスケに視線を向けることなく、律佳は歩き出した。
 

 街中へ入り、予約していた民宿へ向かう。スマホの画面と睨めっこしながら探すのだ。
 これには骨が折れた。似た外壁の家々が建ち並ぶ場所では、どれが宿で、どこが玄関かわからなかった。
 やっとのことで目的の民宿に辿り着き、宿主の女性が律佳を迎え入れてくれる。おおらかで可愛らしいおばさんだった。
 宿泊手続きの話をしていると、不意に宿主が律佳の足元へ視線を下ろし、クロスケを指差してくる。

「あなたの猫?」

 そう聞かれたので、律佳は首を横に振った。

「アテネから着いてきたんです。俺の飼い猫じゃなくて」

 流石に断られるだろうか。
 そう思っていると──

「気に入られたんだね。一緒に泊まって行きなよ」

 クロスケは歓迎され、「ちょっと、待ってて」と女性は部屋の奥へと消えてしまう。
 再び女性が律佳の前に姿を見せれば、何かが入ったポリ袋を持たされる。ずっしりと重い。
 袋を覗けば、猫缶とキャットフードと水、それを入れるための容器が入っている。

「その猫ちゃんにね」

 と女性は笑顔を見せた。

(常備してるの?)

 心の中でツッコミながらも、律佳はありがたく受け取ることにした。
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