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第五章

スラム、崩壊

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「おえっぷ……気持ち悪い」

 大量の料理を無理やり腹の中に収めたシグルド。最後の方はもうやけだった。少しでも腹の中に入るように喉が渇いたとしても水を飲まずにひたすら皿の上の料理を掻き込み、押し入れる。
 本当に腹に収まったのが不思議なくらいである。

 しかし、料理を平らげたは良いものの消化が追い付いていない。限界まで詰め込まれた料理は抑え込もうとする内臓を押しのけて口から飛び出そうとしてくる。
 油断してしまえば今すぐにでも通りに嘔吐物が散らされることになるだろう。それも自分の口から……。
 そんなことを許さないシグルドはより一層口を固く結ぶが、気分が悪いことには変わりない。
 あまりの気分悪さに下を向きそうになるが、吐き気が込み上げてくるので顔を上げる――が、顔を上げたら上げたで、パンパンに膨れている腹が苦しくなる。
 結局の所、この苦しさをどうすることもできなかった。

「気持ち悪いのはこっちだよ」

 顔を青ざめるシグルドに対し、ガンドライドが汚物を見るような目で罵る。だが、もうこんなやり取りは慣れたもの。特に気にすることもなく受け流す。

「それにしても、また雨降りそうだな」
「流しやがったなこのクソめ」
「勘弁してくれ、今お前とやり合う余裕はないんだ。正直少しでも動くと出そう」

 腹を軽く擦り、少しでも気分を紛らわせようとする。本音を言えば休んでおきたいが、もうすぐ時間だ。
 相手は犯罪を犯すことも戸惑わない者が多い。舐められたら終わり、そんな場所なのだ。姿を現した時に情けない姿を見せていれば侮られる。

「吐くなよ。もうすぐ着くんだから」
「分かってるよ」


 ガンドライドの言葉にシグルドは大きく頷く。
 こんな所で腹の中身を通りに撒き散らしたくはないのはシグルドも同じだ。それにもうすぐスラムの入口に着く。弱弱しい姿など見せていたら格好の鴨だと思われるだろう。そうなると面倒ごとにしかならない。
 だが、気張った所で大きくなった腹が直ることはなかった。

「あんなに食うからそうなるんだろうが、残せばよかったのに」
「それじゃぁ作って貰った料理人に申し訳が立たないだろ…………自分で頼んだんじゃないけど」

 本当ならば、腹に余裕を持たせたかったのだが、料理を頼むだけ頼んでおいて大皿に山盛りの料理を残したまま席を立つ何て料理人からしてみれば腹立たしく思うだろう。それに出されたものを残すというのは後味が悪い。泊まっている宿屋と連携している所ならば猶更だ。

「そんなの気に病むことないと思うけどねぇ」
「ホント、お前ってミーシャ以外は何とも思ってないのね」
「当たり前でしょ。何回目だそれ?」

 何度も同じことを言わすなとガンドライドがシグルドを睨みつける。
 シグルドが頭を掻くと同時に溜息を尽く。
 ミーシャのためなら何をしても良いと考えていそうで恐ろしいと感じる。いつか、馬鹿な行動に出やしないかと心配してしまう。下水道での彼女の醜態を見たシグルドは一層強くそう思うようになった。

 だが、しかし、どうするべきか?そうなると頭を抱えてしまう。
 自分はただ、戦いができる剣士に過ぎない。戦や魔物狩りならば自信をもって励むのだが、人間関係となると専門外である。
 人は自信のない分野の話になると思考停止する生き物なのだ。

「(誰かに相談……ってミーシャしかいないんだよな。ここら辺に傭兵の知り合いはいないし。それにあの娘は警戒し過ぎて溜め込んでるし)」

 一人で解決できないのならば話し合うのが良いのだが、相談できる相手は少女一人だ。友人がいない訳ではない。放浪の傭兵なのだから、あちこちに友と呼べる人間はいる。ちょっと間が悪いだけである。

「――――?」

 得意でもないことに考えを裂いているとふと、複数の蹄の音が耳に入る。貴族が馬に馬車を引かせるような、ゆったりとした速さではない。何かを追っているかのように急ぐ足音だ。

「うおっ⁉ な、何をする!!」

 前を歩いていたミーシャの体を抱き上げ、ガンドライドの背中を押して路地裏へと入る。ガンドライドの耳にも音は届いていたらしく、目を白黒して状況を飲み込めていないのはミーシャだけだ。
 念のため、フードを深く被らせ、壁に身を寄せる。数秒もしないうちに馬に乗った騎士達が騒がしい音を立てて通り過ぎて行った。

「一体何だったんだ?」
「さぁな。何かあっちであったんじゃないか?」
「おいおい、あっちにゃ特になんもないぜ」
「馬鹿、スラムがあっただろうが」
「なら、騎士様がスラムに何か用があるのか?」
「分かんねぇよ。だが、近づかない方が良いと思うぜ」

 騎士が来るのが珍しいのか、通りの人々が立ち止まり、騎士が走り去った方向へと顔を向けて話し合う。
 不安そうな顔をする者、不思議そうな顔をする者、関係ないと知らぬ顔をする者と人それぞれだ。

「おい、見ろっ」

 通りで話し合っていた男の一人が、騎士が来た方角を指さす。通りにいる人々が釣られて顔を向ける。
 現れたのは馬に跨る騎士達。街の人々の視線など顧みず、真っ直ぐに通りを駆けていく。

「アイツ等も同じ場所に行くのか」
「だろうな」

 ガンドライドの問いにシグルドが短く答える。

「ミーシャ、姿隠しの指輪は?」
「私が手放すと思っているのか? ちゃんと持ってきているさ」

 首にかけていた紐を手繰り寄せ、指輪を見せつける。
 このまま通りを進めば騎士と遭遇することになる。自分とガンドライドは良いが、指名手配中のミーシャをそのまま連れていく訳にはいかない。

「行くぞ。離れるなよ」

 戦闘をするつもりはないが、万が一ということもある。武装の確認、そして、ミーシャが指輪を指に通したのを確認すると通りへと足を踏み出した。








 ポツポツと軽い雨が体を叩く。一度目の雨よりも勢いは弱いが、走っている者の視界を邪魔するのには十分だ。
 雨によって柔らかくなった地面を蹴る。泥が跳ねるのも気にせずにひたすらに走る。
 盗み、不法侵入、殺し、それを生業としている者が多いスラムの住人達は突然現れた騎士達に戸惑い、恐れ、逃げ出した。

 そして、それは正しかったと認識する。
 女も子供も関係なく騎士達に捕まり、黒鉄に覆われた馬車の中へと乗せられていく。抵抗する者は殺し、傷つけることすら躊躇がなかった。
 その瞬間、スラムは恐怖に包まれる。
 関係ないと思っていた者も、バレるはずがないと自信に満ちていた者も関係ない。全員が恐怖に顔を染めて、走り出す。

「くそったれめ、話しやがれ!!」
「――ックソ!!」
 曲がり角を曲がろうとした瞬間に見えた人影に足を止め、石造りの壁に開いている穴から体を滑り込ませる。
 途中で服が引っ掛かるが、力づくで無理やり脱出し、身を隠す。次に聞こえてきたのは、男の悲鳴だった。
 恐らく、先程捕まっていた男。殺されたのか、騎士を汚く罵ってしまったから、殺されたのだろうか。

「何で、何で今になって騎士の連中がここに来るんだよっ」

 見向きもしなかった。干渉もしてこなかった騎士。それが何故――、
 何故、何故、何故、そればかりが頭の中を支配する。ここでは生きていくために正しく生きていた者もいる。それも関係なく殺された。連れていかれた。
 連中の目的は何なのか、単なる犯罪の取り締まりという訳ではない。

「まさか、掃除とでもいうのかよ」

 あり得る話だ。スラムというのはどこの街でも邪魔者扱いだ。犯罪も起きるし、街の印象を悪くしてしまう。
 そのための掃除、そう考えれば納得がいく。

「早く、早く逃げなきゃっ」

 もうこのスラムは安全な場所ではなくなった。今のここは狩場。力ないものが強者に狩られるだけの場所となった。そんな場所に身を隠していてもいずれは見つかるだけ。生き残るにはこのスラムから、いや、街から逃げ出すしかない。

 男の悲鳴が聞こえている間はまだ、騎士の目がそちらに向いているということ。動くならば今しかないと、背中を壁から離し、走り出す。
 向かう先は、いつも情報収集のために使っている、仲間達しか知らない秘密の経路。そこを通っていけば、騎士の連中には知られずに外へと出られるはず。
 生き残ることに集中して、男は走り続ける。

 軒下に隠れ、茂みの中を進み、時には息を潜めて騎士をやり過ごす。
 中には助けを求める者もいたが、全てを無視して逃げた。自分にはそんな力はないと恐怖に怯えて脚を動かした。

 そして、辿り着く。
 仲間内で使っていた秘密の経路。目印にしてあるバツ印を目にし、もう少しで自分の安全が確保されることに安堵する。

「あれ? おじさん何してるの?」
「――――!!」

 だが、現実はそう簡単にいかない。
 振り向いた先にいたのは吟遊詩人のような服を着た童顔の男。騎士ではない――と胸を撫で下ろしかけるが、男の目を見た瞬間に指先一つ動かせなくなる。

「――――!!――――!?」
「ハハハッ――体が動かないかい?」

 ゆっくりと舞台の上の役者のように男が歩み寄り、笑顔を向ける。その瞬間、男の背筋に悪寒が走る。汗が止まることなく流れ出し、喉がカラカラに乾き始める。
 殺気ではない。何か得体のしれないものを流し込まれた。
 手足に力が入らない。殴れば倒れてしまうような男であるのに、自分は瞬きすることもできずにただ震えることしかできない。

「小汚いねぇ、何でこんな場所が存在するんだろうか。どうやら皇帝陛下の威光が届いていないらしい」

 空虚な瞳が自分の姿を映し出す。
 何故体が動かないのか、理解不能な事態に陥った男の思考は停止し、ただ目の前の男を恐れるしかできない。
 顔を青ざめる男へと旅人装束の男はそっと手を伸ばす。
 白い綺麗な生地でできた手袋。魔術的な要素も何の仕掛けもない唯の手袋だ。手を保護するしか性能のないもの――しかし、男にとって、それは死神の鎌を連想させた。
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