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第五章

この命の重さは

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 誰も居ないことを確認したはずなのにいるフードの付いた外套を纏う三人。
 背中に剣を携えた者が一人に、ただ佇んでいる者が一人。そして、その二人の前に立つ子供が一人。
 酒場に訪れる人間すべてを覚えている店主は確信する。この者達を客として迎え入れたことはないと。

「(…………呼吸の乱れなし。佇まいからして只者じゃない)」

 後ろに立つ――肩幅からして男――を目にし、ただ者ではないと警戒する。背中に背負う剣も見ただけで分かる。かなりの業物だ。
 その隣に立つ者は、あらゆる人を見てきた店主でも見極めきれないそこ深さを感じた。強さも人柄さえも見通せない。そして、最後に二人の前に立つ子供を見る。
 二人を護衛のように後方に控えさせる子供は二人を従えているようにも見える。しかし、酒場の店主には、それは見せかけのようにも見えた。

「お客さん。残念だけど店じまいだよ。明日の朝来てくれないかい?」

 相手に不信感を抱かせないように表情を取り繕い、お客を相手にする時のように微笑む。貴族の令嬢の庭に咲く花のような微笑ではなく、大地を平等に照らし出す太陽のような明るい笑顔を三人に向ける。
 すると、前にいた子供が一歩踏み出し、右手を掲げる。

 一体何がしたいのだと後ろの二人を警戒しながらも子供の様子を観察していると、掲げられた右手の指の先に一つの指輪を視認する。
 そこにあったのは何の変哲もない銀の指輪。派手の装飾がされておらず、見た目だけは質素な指輪だ。
 何を見せたいのかと考え始めた時、何の変哲もなかった指輪が光りだす。広大な領地を持つ帝国内でも見かけない光景。銀が光り輝くという光景に店主は目を見開く。

 光り輝くと同時に指輪に文字が刻まれる。それは帝国では使われない言語。帝国人では何が書かれているかも分からないだろう。しかし、帝国人に分からなくとも、店主には分かった。それが一体何なのか。
 生涯一度しか見たことがないその光景をもう一度見ることになった酒場の店主は静かに跪く。

「これが分かると言うことは、お前は王国の手の者か」

 耳に届いたのは細く、綺麗な響きを持った少女の声。誰が発したのかなど言うまでもない。片膝をついたまま、静かに店主は口を開く。

「その通りにございます。私は遊牧国家と帝国との戦況を探るために潜伏していた間者にございます。ご存命、信じていました」
「そうか。なら、いい。お前に用があってここに来た」

 子供が被っていたフードを取り払い、顔を表す。
 絹のように滑らかな肌、そして、白い髪に赤茶色の瞳を晒したミーシャは、目の前に跪く酒場の店主――もとい、帝国に侵入している間者へと命令を下した。

「私の要件は一つだ。だが、まずはお前を操っている本体の所に連れていけ」
「御意に」




 帝国の兵士にも顔が利くようになる程、この街に馴染んだ自分が、その情報を手にすることは難しくはなかった。
 帝国が侵攻していることは分かっていた。王国が劣勢であることも分かっていた。しかし、それで首都まで落とされる所まで想像できた訳ではない。どこかで粘るはずだ。負けるはずがないと思っていたのは確かだ。
 だからこそ。首都が陥落した――その情報が耳に入った時は、膝から崩れ落ちてしまった。

「このような所にお招きしてしまい、申し訳ございません」

 酒場の店主――カリアの案内で酒場の隠し扉から暗い螺旋階段を降りた三人の目の前に、一つの木製の扉が現れる。その扉を開けると一人の女性が床に跪いた状態で三人を迎えた。

「構わない。ここに勝手に押し寄せたのは私だからな」

 そんな女性に対し、ミーシャは鷹揚な態度で返した。あちこちに埃が被ったいかにも不健康そうな部屋に案内されたことを少しも気にしていない様子だ。

「楽にしてくれても構わない」
「――はっ」

 ミーシャの許しを受け、女性が顔を上げる。その顔つきはカリアと瓜二つ。姉妹と言うよりも同一人物と言ってもいい程似ていた。唯一違うのは、目の下に隈ができており、疲れた表情をしている所か。変装でもしているのかと部屋の隅に移動したカリアに視線を移すと、丁度その時、カリアの姿がグチャリ――と粘土を捏ねたように歪み、どんどんと形が崩れていく。

「やっぱり人形ドールだったんだな」
「その通りです。一目で正体を見抜いた慧眼、御見それ致します」
「なに、少しばかり旅の途中で変わったことに巻き込まれてな。その時に――って、どうでもいいか」

 初めて見る現象に目を丸くするシグルドとガンドライドとは裏腹に最初から分かっていたミーシャが肩を竦めて称賛を受け取る。生物の魂そのものを見ることができる彼女にとっては魂がない時点で正体に予想がついていたのだろう。
 目を抑えて説明を仕掛けるが、今更どうでもいいことだと切って捨て、顔を上げた女性へと一歩近づく。

「…………お前が、レティーか」
「はい、お初にお目にかかります殿下。姉からよく殿下のことを耳にしており、何時かお会いしたいと思っておりました」
「――そうか。私もアネットから話を聞いていたよ」

 どこか懐かしそうに、そして寂しそうにしながらミーシャが目を細める。片膝をついた状態から立ち上がったレティ―はミーシャを見て微笑む。

「それは、私生活を含めてですかね? それなら、私の人には言えないようなことも伝わっているので恥ずかしいのですが……」
「ふふっ。安心してくれ。アネットはそんなことまで話していないさ。幼い頃の話は聞かせて貰ったが……」
「殿下、それは恥ずかしい話確実に入ってますよね? ちょっと殿下、顔を背けないで下さい」

 恥ずかしい話と聞いて思い当たる節のあるミーシャが罰が悪そうに視線を逸らすが、それを見逃すレティ―ではない。
 しばらく、話が弾む。
 初めて会う者でも互いがよく知る者の話題だ。話題が尽きることなどあるはずもなかった。
 だが、それも終わりを迎える。

「姉の最後は――立派でしたか?」
「…………あぁ、最後まで私の身を心配してくれていた。囮になって、私を逃がしてくれた」

 言葉の節々からもうその存在がいないということを感じ取れたレティ―は姉の最後を尋ねる。それに対し、ミーシャは真っ直ぐに目を見て答えた。
 ミーシャにとってアネットは身近にいた存在の一人だ。血は繋がらないものの家族と言っても良い。だからこそ、失った悲しみも分かる。分かる故に何を言われても構わないと、全てを受け止めるつもりでレティ―の前に立つ。

「そうですか…………姉は、自身の責務を全うしたのですね」
「――――責めないのか。私を……」

 しかし、ミーシャの予想とは違い、レティ―は責めるような言葉も視線も向けはしなかった。ただ安らかな笑顔を浮かべる。
 責められると思っていたというのに、安らかな笑顔を向けられることをした覚えがないミーシャは思わず弱弱しい声を出してしまう。

「責めるなど……姉の性格はよく知っています。望まないことは決してしない人です。あの人がそう望んで行動した結果ならば、私が口を出すことはありません」
「…………っ」
「それに、殿下がこうして生きていること。それこそ姉の誉れでしょう。ならば、私の方こそ礼を口にするべきです」

 再び膝をつくが、今度は畏まらずにミーシャに視線を合わせる。息がかかる距離まで互いの顔を近づけた二人が至近距離で見つめ合った。

「よく――よくぞ。生きていてくださいました。私にとっては、私達にとってはそれだけで十分でございますっ」

 両手でミーシャの小さな手を取り、生きていたことを喜ぶ。姉の行動を、命を無駄にしないでくれてありがとうと――。よくここまで辿り着いてくれたと感謝を告げる。
 ここまでの道のりは楽ではなかったはず。追っ手が迫る中、気を緩める日などなかったはず。
 首都が陥落し、王族が殺害される。それは王国の滅びを意味する。何時自身の故郷が崩れ去ってしまうのかと気が気で夜も眠れなかったレティーはいつの間にか、酒場で作業することができなくなっていった。髪と肌は荒れ、目元には隈ができ、食事も喉を通らずに衰弱していく日々。それでも店を閉めず、人形を使って仕事をしていたのは、少しでも気を紛らわせるためだ。

 偽りの身分であるはずのこの職業が本物になるのだろうかと思い始めた頃、分かった王族の安否。そして、今日この日。
 これ以上に嬉しいことはない。生きていれば、王国は終わりではないのだ。領土は失えど省庁までは失っていない。だから、立て直せる。家を取り返せる。
 それが分かっていたから姉も命を懸けたのだ。

 だから、レティーは責めることはせずにただただ、感謝を述べるだけだった。
 目の前に佇む小さな少女は黙してそれを受け取った。
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