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第六章

理の外

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ナイフが、心臓に吸い込まれるように落ちて行く。
 小さな両手で跡が残る程握り締められたナイフをビルムベルに突き刺すと、引き抜き、もう一度突き刺す。
 何度も、何度も突き刺し、顔に血が跳ね返ろうともミーシャは止めない。
 先程までの頭に過っていた考えも、これまで胸の内に隠していた憎悪も今は忘れた。ただ、目の前の肉の塊にナイフを突き立てることだけに集中している。果物を切るためだけのナイフだ。切れ味など悪いに決まっている。ブチッブチッと肉を斬るというよりも削るような感覚で何度もナイフを突き立てていく。相手のことなど考えない。むしろ、苦しめばいいとより一層両手に力を込める。

 どれだけ時間が経っただろうか。
 一分、それとも五分。実際にはそんなに時間は経っていないだろうが、体感的にはかなり長く感じていた。
 人にナイフを突き刺す。動作だけを言葉にするなら馬乗りになって胸にナイフを突き立てるだけだ。しかし、その行為を何度も続けると人は疲れる。
 全力で振り下ろし続けていれば、十で息が切れ初め、二十で腕が上がらなくなるだろう。だから、体感している程の時間は経ってはいないだろう。精々、三十秒程度のはずだ。

「はぁっ——はぁっ——」

 妖精達が編んだ白い服は血で染まり、自慢の髪も乱れ、綺麗な顔には血が跳ね返っていた。それを拭いもせずに、ミーシャは目の前の骸を見下ろす。
 あまりにも呆気ない。あれだけ大口を叩いておいて最後の抵抗もなかった老人。死んだことで他者を傅かせる威圧もなくなり、今では只の枯れ木のような老人のようだ。
 結局、最後の最後まで死に怯える顔を見ることはできなかった。もっとナイフで胸を抉ってやれば良かったかと考えるが、それだけで悔やむ気持ちはなかった。

 これまで魔術で人を殺めたことはあった。だが、魔術も使わずに自分自身の手を使ったのは初めてだ。
 初めての魔術の使わない殺人に放心しているのではない。ミーシャにあるのは疲労だ。何十人と騎士を相手にした時よりも疲れてしまっている。

「————」

 赤く染まった両手を見下ろす。
 殺意と憎しみは晴れない。皇帝を殺したと言うのに満足できなかった。喜びは感じられなかった。憎い相手を一人でも多く殺せば、少しは晴れるだろうと思っていたが、どうやらそんなことはなかったらしい。
 未だに憎しみは燻っている。早く外に出せと自身を高ぶらせる。それでも一度落ち着こうとミーシャは呼吸を整える。——その時だった。

「あら、もしかして終わっちゃった?」

 聞き覚えのある声が耳に届いた。
 休みたい、疲れたなどの気分が吹き飛び、反射的に死体から飛び退き距離を取る。視界に映ったのは黒。軽薄そうで、憎々しい女——あの日、伯爵領で見た黒い魔女がそこにいた。

「お前は……私を痛めつけた伯爵の魔術師」
「ハァイ。可愛らしいお嬢さん。でも、伯爵の、と言うのは違うわよ。というかこんな所で何しているの?——って聞く方が野暮か」
「…………」
「あれ、だんまり? 何か聞くことないの? 一体どうやって中に!?——とか聞いてくるものだと思ったんだけど」
「……お前は以前私をコテンパンにしただろ。そう考えると別に不思議ではないな」
「ふぅん。一応、前回の失敗からは学べているみたいね」

 長椅子へと近寄り、皇帝の死を確認すると、今度はミーシャに視線を移す。それは警戒と言うよりも観察。どんな対策を講じているのか楽しみにしているようだった。
 皇帝が死んだというにも関わらず、驚いた様子はない。手遅れながらも何とか手を尽くすか、仇を討とうとするのが普通だと言うのに。
 相変わらず何を考えているか分からない魔女は、再開を懐かしむようにミーシャと会話する。

「二重、いや、三重か。感知結界に魔力障壁、それに干渉防止結界かぁ。術式介入が起きたことには気付いたんだ」
「考える時間はたっぷりあったからな。お前の体に到達する前に魔術が弾けたように見えたが、私の体には何の介入もなかった」
「なるほど。私が術式介入してきたと考えた訳だ。準備が良いわね。もしかして、私が来てるの分かってた?」
「可能性は考えていた。でも、来ていなくともお前レベルが帝国にいた場合の警戒は必要だと思ってな」
「あら、それなら大丈夫よ。帝国に、いえ、世界中を探しても私に比肩する者はいないわ」
「……随分と自信ありげだな。上には上がいるものだぞ」

 何処が大丈夫なんだ。と言いたくなる。帝国の魔術レベルが警戒していたよりも高くないと分かっても強者と向き合っていることには変わりない。
 褒められていると勘違いして胸を張る魔女にミーシャが皮肉を返すと、魔女はキョトンとした表情を作る。
 それは自分の上には誰もいないと思っている傲慢な者が作る表情だった。

「——あぁ、そういえば自己紹介していなかったわね。初めまして、の王女。わたくし、皇帝ビルムベルの良き相談者にして後見人。そして、深淵を覗いた到達者にして最古の魔術師——ウルと申します。以後、お見知りおきを」

 初めてミーシャはウルの名を耳にする。帝国の魔術の最高峰——宮廷魔術師。
 伯爵領での術式干渉や部屋に張った強力な結界を気付かれずにすり抜ける。なるほど、確かに宮廷魔術師ならば可能だろう。そうミーシャは納得しただろう。しかし、今はそれどころではなかった。

「——誰が亡国の王女だ!! 王国が終わっていると言うのならば、貴様ら帝国ももう終わりだろうが!! 後ろを見ろ。お前がどこかに行っている間にお前らの皇帝はあの様だ。頭がなくなった蜥蜴と同じだぞ!!」

 亡国という挑発にギリッと歯を食いしばる。そして、長椅子の上に横たわる老人を指差し、睨み付ける。
 象徴はなくなった。国を纏める君臨者はいない。王国と同じだと口にする。

「頭に血が上り過ぎよお嬢さん。この男に世継ぎがいることを忘れているんじゃない? 象徴になるには、君臨者になるには未熟だけどいずれ人は成長するものよ」
「成長するまでに帝国がなくなっても同じことが言えるか? 言っただろ。頭がなくなった蜥蜴と同じだと。君臨者のいない国なんて攻めてくれと言っているようなものだし、抑えつけていた連中だって黙っちゃいないぞ」

 人は生まれながら完ぺきではない。未熟な時に残酷な現実が待ってくれるという保証はないのだ。それをミーシャはよく知っている。
 それに皇帝の世継ぎがどれほどのものかミーシャは知らないが、現皇帝以上ということはないと考える。もし、今の時点で皇帝を上回っているのならば、さっさと皇位を譲っているだろう。
 現皇帝ビルムベル。彼が進めた政策も彼がいなければ成り立たない。多くの貴族に反対されるも推し進めた改革は反感を買ったし、支配下に置いた領地からは恨まれている。それでも反乱がなかったのは、彼が恐ろしかったから。
 不要ならば斬り捨てる。反乱分子には子供ですら容赦せず、徹底的に潰していく様子は人間ではないとも噂された。
 そんな男がいなくなったら、抑えつけられていた者達の怒りはどこへ向かうのか。簡単だ。次の皇帝。そして、帝国そのものだ。

 ミーシャが皇帝では満たされなかった復讐心を、憎しみを魔女の苦悩する表情で満たそうと言葉を叩き付ける。だが——。

「まぁ、確かにそうなる可能性は高いわねぇ」

 相手は何一つとして動じない。
 顎に手を当てて困ったような仕草を取るが、表情は違う。まるで、幼子の飯事ままごとを相手している母親だ。
 その様子を見てまた乗せられていると気付き、ミーシャは自身を落ち着かせる。激昂に駆られて行動すれば先の二の舞なのだ。しかし、今度こそミーシャの思考は完全に止まることになる。

「だから、こうしちゃいましょう」

 腕を一振り。それだけで変化は起きた。
 それは、魔術と言う領域のものではない。あらゆる種族が持つ、受け継ぐ体質を磨き上げて作った技術スキルでもなかった。

「悪いわねビルムベル。でも、こうなったのは貴方が試作品を動かそうって言いだしたんだから、言い出しっぺの責任……取ってね?」

 目の前で起きていることが信じられなかった。起きてはいけないことが起きていた。それは世の中の常識を覆し、世界のルールすら捻じ曲げるもの。
 そこでミーシャが行動していれば、何かが変わっただろうか。いや、変わらない。隙だらけに見える魔女の背中に大魔術レベルのものを叩き込んでも無理だ。何故なら、その力を行使している間、魔女は無敵に等しい力を手に入れるからだ。
 数十か所刺された傷が塞がり、飛び散った血が消えていく。まるで

「気分は?」

 起き上がった人間に向けて魔女は気さくに声を掛ける。人間は一通り部屋を見渡し、状況を理解すると魔女に対してこう答えた。

「——最悪だ」
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