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第六章

逆転、逆転

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 ゆっくりと長椅子から皇帝が起き上がる。
 血溜まりはもうない。服も汚れてはいない。ミーシャがナイフで滅多刺しにする前の姿に戻っている。まるで、

「——時間逆行」

 体の傷のみならず、血も、服も全てが元通りになった様子からそう判断する。しかし——

「違うわよ」

 それはウルによって否定される。
 何処から取り出したのか煙管をクルリと掌の上で遊ばせ、口を付け、煙を吐き出す。

「時間逆行は元に戻って行く過程があるけど、さっきのはその過程すらなかったでしょう?」
「——どういう、ことだ」
「ふふっ。ごめんなさいね。これ以上言うことはないわ」

 諭すような笑みを浮かべるウルをミーシャは睨み付ける。
 時間逆行。時間と言う流れには逆らうことはできないという大原則を覆す大魔術。聞いたことはある。だが、御伽噺よりもあやふやなもので詳しい文書も残っておらず、誰が作り出したかも分かっていない代物だ。
 そんな大魔術を知っているかのような態度にも驚いたが、何よりも驚いたのは魔女が時間逆行と同レベルかそれ以上のものを行使したことだ。

「お前、正真正銘の化け物だったんだな」
「酷くなぁい? 私にだって傷つく心はあるのよ?」

 どの口が言っている。そう口の中で言葉を噛み締める。
 何をしたのか理解できない。どうやってそこまで到達したのか計り知れない。改めて、ミーシャは目の前の魔女を規則外だと認識する。そして、同時に自分では逆立ちしても勝てないことも。

「——チィッ」

 判断は速かった。規則外のものを目にしたことで冷静に慣れたミーシャは敵の視界から消えるために首からぶら下げている紐に通された指輪を取り出す。
 どんな危機的状況でも抜け出せたのはこの姿隠しの指輪があるからだ。敵に囲まれていても、捕まった時でもこの指輪があれば必ず危機を脱せた。その実績がこの指輪にはある。そして、この指輪はミーシャにとっては別の意味で特別だ。家族の形見、そう言っても過言ではないほどの大切なもの。
 だからこそ迷わずこの場でも頼ることができた。どんな格上の存在がいたとしても自分の姿を消してくれると信じて——。


束縛ニイド

 ミーシャが指輪を嵌めようとした瞬間だった。
 ミーシャもよく知っている魔術。ルーン魔術の拘束がミーシャの脚を絡めとる。

「プギャッ」

 考えが甘かった訳ではない。これまでのミーシャの行動から、怒りのままに行動するだろうという考えの裏を取り、冷静に真正面から攻めずに不意打ちを試みた。その行動は正しい。規則外の外法を見て冷静になれたミーシャの行動は確実に相手の思考の裏を掻いた。——が、この場合、相手の方が上手だった。
 初めから指輪を付けようと行動することを知っていなければ、できない一手。ミーシャは知る由もない。魔女がその動きを既にとある並行世界で見ていたということなど。
 そして、ミーシャにとって何よりも最悪なことが起きる。

「ふふっ。ありがと」

 自身が最も信頼する指輪が敵の手に渡ったのだ。

「あ、かっ——返せ!!」
「残念だけど無理よ。私達にとってもこれは必要な物だもの」

 転がって来た指輪を摘まみ、顔の位置まで掲げて見せる。
 それを取り戻そうとするが、起き上がることができずにミーシャは地面に転がるしかなかった。

「こっっんの——それで、何をするつもりだ!! これ以上、私から何を奪うつもりなんだ!!」

 これまで以上にミーシャは声を荒げる。
 王家の象徴と呼ばれている程の指輪。確かに価値はある——が、帝国で必要だと思えるようなものではない。

「安心しなさいよ。傷つけたりはしないわ。この指輪が持っている魔力が必要なの」
「一体何を……まさか量産でもするつもりかっ」
「はずれ。というか貴女は知らないのね」

 狙いは指輪の保有する姿隠しの能力なのかと思い至り、それが敵に渡ればどうなるか。そして、もしその力が解析され、量産でもされたらどうなるかを考え、顔を青ざめるミーシャの言葉をウルは否定する。

「確かに姿隠しの力は魅力的だけど、これって量産できるものじゃないのよね。そんなことをすると指輪自体が壊れるようになっているし……それにこれが作られた経緯を知っている身としては手を加える何てことはしたくないしねぇ」
「な——」

 のんびりとした口調で語ったウルにミーシャが驚く。
 指輪が作られた経緯などは知らない。国王であるミーシャの父も知らなかったことだ。だから聞かされてもいないし、そういった文献が残ってもいないのだ。
 それなのに何故そんなことを知っているのか。先程の死者蘇生と言い、この女は何者なのか。

「お前は、魔物の類か?」
「酷くなぁい? アレ? これと似たようなやり取りさっきもやったわね?」
「——ふざけやがってっ」
「ふざけてないわよ。至って真面目。そもそも私の正体って今一番知りたいことなの? 怒りに憎悪。心の中ぐちゃぐちゃになってるのは分かるけど、一つに絞ってやるべきことを見据えなさいな」
「……黙れ」
「ホラ、それよ。状況は頭で理解しているのに感情を優先させてしまっている。まぁ、子供だから仕方がないでしょうけど。貴女は一刻も早く助けを呼ぶべきなのよ」
「うるさいっ」
「はぁ、何だかよく分からない娘ね。理知的なのか、感情的なのか。一体どちらなのかしら? 私達を殺したいのなら、まずは自分が生き残らなきゃいけないのに」

 諭すように語り掛けるウルをミーシャは一蹴する。その様子にウルは肩を竦める。
 ウルからしてみれば、ミーシャの行動は理解できない。力の差を理解し、撤退しようとした所までは分かるのだが、それ以降——脚を拘束されてから、身動きを制限されたにも関わらず、助けを呼ぼうとする気がまるでない。

「一体どういう考えなのかしら?」
「考え、という程のものではない。この小娘は自分以外を信頼していないだけだ」
「えぇ、人間不信には早すぎない?」

 ビルムベルが血の痕が綺麗サッパリに消えた長椅子に腰を下ろして口を開く。

「復讐者とはそんなものだ。貴様も知っているだろう。先のことなど考えず、全てを放り投げて自らの快楽のために全てを犠牲にする連中だ」
「はぁ、悲しい娘ね」

 憐みの目を向ける魔女に、どうでも良いとばかりに体を休める皇帝。
 気に食わない。そう口の中で呟く。憐みの目も、興味のない目も、どちらもミーシャを苛立たせる。苦しめばいいのにと歯を軋ませる。
 復讐は自己満足。己の快楽を満たすためだけのもの。確かにその通りだ。と憎い敵の言葉をミーシャは認める。確かにこれは狂気と呼ばれても仕方がない。襲っているのは軍事関係の箇所ばかりで住民に直接な被害は出てはいないが、これから今までの比ではないくらいの被害を出そうとしているのだ。全ては自分が目の前の二人を苦しませたいという我欲のために——。

「お前達は——」
「ん?」
「お前達は、私がただの狂人に見えるか?」
「——って言ってるけど?」

 問いかけを答える気のないウルはビルムベルへと流す。一瞬だけ、ウルを睨み付けたビルムベルはミーシャに目をやり、直ぐに視線を元に戻した。
 言葉には出さずとも、当然だ——と態度が物語っていた。

「そうか。私が狂人だと分かっているのに、恐れないんだな」
「分かっていても、貴女はもう無力化されてるじゃない。それとも何? ここに援軍が押し寄せてくるの?」
「アイツ等は私の味方じゃないよ」
「はぁ。あの三人は貴女のことを信じていたかは兎も角、味方であったはずだけど」

 全てを見て来たかのように語るウル。また疑問が一つ増えるが、もう時間を稼ぐ必要すらないのでそれを無視し、演技を止めたミーシャはウルの顔を覗き込む。

「誰のことを言っている。そいつらのことじゃない」
「……へぇ、じゃあ一体誰のことなのかしら?」

 例え死者蘇生ができる相手であっても、全てを見通せる訳ではない。それが分かったミーシャは仮面を脱ぎ捨てる。
 蘇生には驚いた。指輪が取られたことにも怒りは沸いた。けれども、奥底に忍ばせたものを読み取られた訳ではない。
 少女の顔には似合わない歪な笑みを浮かべ、ミーシャは向かいにあるベランダへと続く扉に視線を移す。

「さぁ、窓から覗けば見えるかもな」

 そこから見えるのは城塞都市の北門だ。常人ならば闇夜で目が効かない状況、しかし、ウルの目にはしっかりと姿
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