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心機一転
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「おはようございます」
「おはよう」
ダイニングテーブルにいた圭ちゃんこと圭悟さんが挨拶を返してくれた。昨日会ったばかりの人の家だというのに妙に居心地が良くて久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
「眠れた?」
「はい」
「よかった」
圭悟さんは口数は少ないけれど、とても気遣ってくれていて優しい人だということが分かる。
「朝ご飯できるから、座りな?」
「すみません。ありがとうございます」
腰を下ろすと「おはよう」と言う颯真さんがトレイを持ってやってきた。次々と料理が並べられていって、ほとんど菓子パン1つで朝食を済ませていた僕は驚いてしまう。
「すごいですね」
「そう?」
「朝から焼き魚もあるし」
「友達がたくさんくれるから、朝から消費しないと追いつかないんだよ」
なんて羨ましい環境なんだ。
「聡真くんにもお裾分けするからね」
「魚焼いたことないです」
「そうなの?グリルじゃなくてもフライパンで焼けるからそんなに構えなくても大丈夫だよー」
「そうなんですか」
「先に食べてて。紬希連れてくるから」
「ありがとうございます。頂きます」
魚から食べてみることにした。美味しい。身がふっくらとしている。味噌汁も野菜のお浸しもすごく美味しくて感動する。圭悟さんも颯真さんも料理ができるってすごい。僕とは大違いだ。もっと美味しいものを史弥さんに食べさせてあげたかった。
「紬希が起きましたよ~」
まだ覚醒しきっていない紬希ちゃんが颯真さんに抱かれてやってきた。
「あっ、紬希ちゃん。おはよう」
椅子に座ったけれど、まだ目が開ききっていなくて今にも眠ってしまいそう。その姿はとても可愛い。
朝食を食べ終えてしばらくすると、圭悟さんが仕事に行くために玄関へ行った。二人と一緒に見送りをして、後片付けを手伝う。
「あっ、洗濯物干しますよ」
「えー、いいよ」
「お世話になってるんで、やらせてください」
「そう?じゃあ、お願いしようかな」
リビングに面した庭に出て、服を干していく。日当たりが良くて気持ちがいい。
「聡真くーん、電話だよー」
慌てて出てきてくれた颯真さんからスマホを受け取る。画面に表示された名前は珍しい人だった。
「もしもし、姉さん?」
『聡真?よかった、繋がった』
「どうしたの?」
『今どこにいるの?』
どうしてそんな事を聞くんだろう。姉から連絡が来ること自体珍しいし。なにかあったのだろうか。
「どうして?」
『あなたの旦那様が探しているわよ』
「……は?」
探してる?史弥さんが僕を?離婚届に不備があったとか?
『いなくなって、連絡も取れないって随分憔悴した様子だったけど、何があったの?』
「この事他に……」
『まだ私しか知らない。家の前で見かけて別の場所で話を聞いたから』
「そう……」
『喧嘩?聡真が言わないでほしいって言うなら居場所は言わない。でも、私には教えておいて?心配だから』
観念して、離婚することと今いる場所を伝えた。
「連絡はするから、姉さんは何も言わないで。後、まだこの事誰にも言わないで」
『分かった。言われなくても言わないわよ。父さんと母さんにはちゃんと聡真が説明しなさい』
「分かってる」
『話をするときは私が側にいてあげるから』
「ありがと……」
『無事ならひとまずよかったわ。でも、とても離婚するようには見えなかったわね。心底、聡真のこと心配してるように見えたし』
「そっか」
『まぁ、二人のことは二人にしか分からないから何も言わないけど』
「ごめんね。迷惑かけて」
『別に迷惑じゃないから。じゃあ、またね』
「またね」
通話終了ボタンを押してスマホの画面に目を落とす。史弥さんが僕を探している。離婚のことで決めないといけないことがあるんだろうか。会わずに済むならその方がいい。会ってしまえば離れるのが辛くなりそうだから。
「聡真くん?」
心配そうに見つめる颯真さんに何でもないというかのように笑顔を向けた。
「続きやっちゃいますね」
明るい声でそう言って先程の続きに取り掛かった。
干し終えて洗濯かごを持って部屋に入ると、一生懸命歌を歌う紬希ちゃんがいた。目が合ったから「上手だね」と言うと心なしか得意げな顔をしてまた歌い出した。
「聡真くん、ありがとね。電話大丈夫だったの?」
「はい、大丈夫です。今日は不動産屋さんに行ってみようかと思うんですけど、どこがいいとかありますかね?」
「圭ちゃんの友達が働いてるとこなら融通きくかも。俺もついて行ってあげるよ」
「そんなご迷惑ですし」
「いいよ、お散歩のついで」
「おしゃーぽ?」
目を輝かせた紬希ちゃんがトタトタと駆け寄ってきた。
「そう、お散歩行こうか」
「いこうかー」
「紬希もこう言ってるし、ご一緒してもいいかな?」
「よろしくお願いします」
さらっと親切にしてくれる颯真さん。本当にすごい。出かける準備をして外に出た。紬希ちゃんはとてもご機嫌で張り切って歩いている。
「今から行くって連絡しておいたからね」
「何から何まですみません」
「いいってことよ。紬希、おてて繋ごう」
近づく颯真さんに「やっ」と言って拒絶する紬希ちゃん。面白い。颯真さんと紬希ちゃんの攻防を見つめながらのんびりと歩く。しばらく歩いていると目的の場所に到着した。
「いらっしゃいませー」
「中林さんいるかな?」
「あぁ、少しお待ち下さいね」
話が通っているのか颯真さんが声を掛けるとすぐに応じてくれた。やってきた中林さんは、眼鏡をかけた高身長な人で、とても人の良さそうな笑顔をたたえながら「いらっしゃい」と応対してくれた。
椅子に腰掛けて、希望条件を聞かれる。よく考えると一人暮らしは初めてで、特に何も考えていなかったなと思い当たる。とりあえず家賃はこれくらいでという希望だけ伝えた。
「それならこのあたりとか人気ですよ」
そう言っていくつかおすすめの物件を見せてもらった。昨日物件を見ていたときにも思ったけど、ずいぶんと家賃が安く感じる。
「この値段って普通なんですか?」
「都心から来た子?びっくりするよね。事故物件とかじゃないからね、これが普通だよ」
「なるほど。ここって見せてもらえるんですか?」
「うん、大丈夫だよ。颯真どうする?」
自分の名前を呼ばれたのかと思ってビクッとしてしまった僕を中林さんが不思議そうに見た。
「この子、俺と同じ名前なの」
「なるほどね」
「俺達は公園にいるよ。聡真くん、ゆっくり見ておいで」
「ありがとうございます」
「車取ってくるから待ってて。美穂ちゃんちょっと行ってくるね」
「了解でーす」
内見か、緊張するな。あれ、このまま決めちゃってもいいのかな。ここって職場から随分離れているし、通える距離だけど交通費とか割高になるような……。一応国枝さんに伝えておいたほうがいいかな。明日はまだ休みだけど、明後日は出社の予定になっていた。とりあえず今日は見るだけ見て、国枝さんに連絡してから考えようか。その間はやっぱりホテル暮らしをするとして……考えを巡らせていると「お待たせー」と声を掛けられた。「いってらっしゃーい」という声を背中に受けながら店を出た。
車に乗り込んで物件を見て回る。その中にある平屋に心惹かれた。築年数はそれなりだけど、中はとてもきれいだし日当たりが抜群によかった。
「ここ気になります」
「お目が高い。ここね、最近リフォームしたばっかりでおすすめなんですよ」
「縁側もいいですね」
ここで日向ぼっこしたらとても気持ちよさそうだ。静かな環境も好みだし。どう考えてもここがいい気がしてくる。
「すぐには決まらないから急いで決めなくても大丈夫だよ」
「そうですか。すみません、もう少し考えます」
「分かりました。じゃあ、戻りましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
また車に揺られて、先程までいた不動産屋へ戻った。決まったら連絡すると伝えて、店を後にした。2人がいる公園はどこだろう。地図アプリを見ると近くに公園があることが分かった。そっちの方へ歩いていくと、滑り台の階段をよじ登る紬希ちゃんが見えた。キャッキャッと楽しそうに笑いながら滑り降りる紬希ちゃん。また階段の方へと向かっていく。
「紬希ー、もうおしまいにしようよー」
「颯真さん!」
「あぁ、聡真くん。あっ、まだやるの!?」
「そんなにやってるんですか?」
「うん、エンドレス……」
「そりゃすごい」
「いいとこあった?」
「はい、気になるところはありました」
「まぁ、引っ越すまで家にいてくれていいから」
「いや、それはさすがに」
「無理にとは言わないけどね」
優しすぎて驚いてしまう。いや、でも甘えてしまうわけにはいかない。
「そろそろ帰ろうー?」
「ぃやぁー」
「だめだこりゃ」
それから滑り台を満喫したのか、突然終わりを迎えた紬希ちゃんを抱っこした颯真さんと公園を後にした。
出ていこうと思っていたのに、昨日も滞在してしまった。紬希ちゃんの遊び相手を務めていたらあっという間に夕方になってしまって、結局そのまま泊まることになってしまったのだ。
今日は国枝さんに引越しのことを伝えることにした。緊張しながらメッセージを送ると、社長もそうだし、会社に来ることができるなら大丈夫だよと返信が来た。社長もそうなんだ。それならあの部屋に決めようかな。早く連絡をしたほうがいいような気がして、颯真さんに報告し、不動産屋さんに行くことにした。申込はできたけれど、審査はGW明けになるとのことですぐに住めるというわけにはいかなかった。
早くても来週末くらいだろうか。色々手続きがいるし、ほぼ何もないから色々と買い揃えないといけない。やることが多そうで本当にやっていけるのか不安になってしまう。トキさんがいればな……ダメだ。すぐにトキさんを頼ろうとするの悪い癖だ。
史弥さんにも連絡をしないといけない。でもできずにいる。僕になんか会いたくないだろうに、探しているということはやっぱり書類に不備があるのだろう。きっと一刻も早く離婚届を出したいに違いない。気づけばまた海水浴場へ来ていた。砂浜に座ってぼんやりと波を眺める。史弥さんは今、何をしてるんだろう。連絡したらどんな反応をするんだろう。スマホを取り出して、史弥さんとのトーク画面を開いた。ブロックマークに指を置きかけたところで、画面が切り替わった。トキさんからの電話だった。
「もしもし、トキさん?」
『聡真さん、お変わりありませんか?』
「うん、大丈夫」
『そうですか、よかったです』
久しぶりに聞くトキさんの声に安心する。
「どうしたの?」
『あの……史弥さんのことなのですが』
史弥さんという名前が出てきて心臓が跳ね上がる。
「連絡きてる?」
『それは、もう……1日に何度も』
「そう……なんだ」
『差し出がましいと思うのですが、きちんとお話されたほうがよいのではないでしょうか?』
「離婚のことだよね。きっと困っているんだろうね。ごめんね、トキさん」
『そうではないのです。史弥さんは……』
「何?」
『いえ、私から申し上げるべきではないかと。直接お話されたほうが』
「分かった。近いうちに……」
『本当ですか?』
「……たぶん」
『聡真さん』
だって怖いんだ。トキさんには詳しい事を伝えていない。何があったかなんて言えるはずもなかった。
『近いうちにお会いできませんか?』
「トキさんと?」
『心配なので、お顔を見たいのです』
「こっちに来る?お世話になってる人を紹介したいし。そっちに行ったらどこかで会ってしまうかもしれないから」
『分かりました。いつでもよろしいですか?』
「連休中なら大丈夫だよ。住むとこも決めたんだ。そこにも案内するね」
『住むところ……ですか?』
「うん、まだ言ってなかったよね。ごめん」
『分かりました。訪問する前にご連絡しますね』
「わかった。待ってるね」
『それでは』
「うん、またね」
トキさんが来てくれる。颯真さんたちにも伝えなきゃ。立ち上がっておしりについた砂を払い落とした。史弥さんのことは、また今度にしよう。先延ばしにしても良いことはないと分かっているのに、どうしても勇気が出ない。颯真さんの家へ戻るために、砂浜を歩き出した。
「あっ、おかえり。聡真くん」
「……ただいま」
おかえりと言って出迎えられて、ここが第二の家みたいになってしまっているような気がしてくる。
「家、一応決まりました」
「そうなの?でも、まだ引っ越せないでしょ?その間はいてくれていいからね」
「本当にいいんでしょうか?」
「いいよいいよ」
「あっ、あと、前に住んでいたところでお世話になっていた人が来ることになって」
「うん?」
「ご紹介したいなと」
「そうなんだ。オッケー。どんな人なの?」
「実家で働いてくれてる人なんですけど、僕も依頼していて」
「実家で働く?」
「お手伝いさんっていうんですかね?」
「聡真くんってお金持ちの子なの?」
「えっ……そうなのかな?」
「なるほど、だからなーんかお坊ちゃま感があるんだね」
「お坊ちゃま感?」
「所作とかきれいだし」
「そうですかね?」
「とりあえず入りな?」
「あっ、はい」
ずっと玄関で喋っていることに気づいて、靴を脱いで家の中に入った。
「そま」
「紬希ちゃん、ただいま」
絵本を見ていた紬希ちゃんにそう言うと、にっと笑ってくれた。
今日は魚を消費するの手伝ってとお願いされてまたしても泊まることになってしまった。せめてと思って、手伝いをしたり紬希ちゃんと遊んだりさせてもらった。圭悟さんもここにいることが当たり前のように接してくれて、ふたりの温かさが胸に沁みた。
その日の夜、明日行くというトキさんからのメッセージが入った。久しぶりに幸せな気持ちを抱いて眠りについた。
「おはよう」
ダイニングテーブルにいた圭ちゃんこと圭悟さんが挨拶を返してくれた。昨日会ったばかりの人の家だというのに妙に居心地が良くて久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
「眠れた?」
「はい」
「よかった」
圭悟さんは口数は少ないけれど、とても気遣ってくれていて優しい人だということが分かる。
「朝ご飯できるから、座りな?」
「すみません。ありがとうございます」
腰を下ろすと「おはよう」と言う颯真さんがトレイを持ってやってきた。次々と料理が並べられていって、ほとんど菓子パン1つで朝食を済ませていた僕は驚いてしまう。
「すごいですね」
「そう?」
「朝から焼き魚もあるし」
「友達がたくさんくれるから、朝から消費しないと追いつかないんだよ」
なんて羨ましい環境なんだ。
「聡真くんにもお裾分けするからね」
「魚焼いたことないです」
「そうなの?グリルじゃなくてもフライパンで焼けるからそんなに構えなくても大丈夫だよー」
「そうなんですか」
「先に食べてて。紬希連れてくるから」
「ありがとうございます。頂きます」
魚から食べてみることにした。美味しい。身がふっくらとしている。味噌汁も野菜のお浸しもすごく美味しくて感動する。圭悟さんも颯真さんも料理ができるってすごい。僕とは大違いだ。もっと美味しいものを史弥さんに食べさせてあげたかった。
「紬希が起きましたよ~」
まだ覚醒しきっていない紬希ちゃんが颯真さんに抱かれてやってきた。
「あっ、紬希ちゃん。おはよう」
椅子に座ったけれど、まだ目が開ききっていなくて今にも眠ってしまいそう。その姿はとても可愛い。
朝食を食べ終えてしばらくすると、圭悟さんが仕事に行くために玄関へ行った。二人と一緒に見送りをして、後片付けを手伝う。
「あっ、洗濯物干しますよ」
「えー、いいよ」
「お世話になってるんで、やらせてください」
「そう?じゃあ、お願いしようかな」
リビングに面した庭に出て、服を干していく。日当たりが良くて気持ちがいい。
「聡真くーん、電話だよー」
慌てて出てきてくれた颯真さんからスマホを受け取る。画面に表示された名前は珍しい人だった。
「もしもし、姉さん?」
『聡真?よかった、繋がった』
「どうしたの?」
『今どこにいるの?』
どうしてそんな事を聞くんだろう。姉から連絡が来ること自体珍しいし。なにかあったのだろうか。
「どうして?」
『あなたの旦那様が探しているわよ』
「……は?」
探してる?史弥さんが僕を?離婚届に不備があったとか?
『いなくなって、連絡も取れないって随分憔悴した様子だったけど、何があったの?』
「この事他に……」
『まだ私しか知らない。家の前で見かけて別の場所で話を聞いたから』
「そう……」
『喧嘩?聡真が言わないでほしいって言うなら居場所は言わない。でも、私には教えておいて?心配だから』
観念して、離婚することと今いる場所を伝えた。
「連絡はするから、姉さんは何も言わないで。後、まだこの事誰にも言わないで」
『分かった。言われなくても言わないわよ。父さんと母さんにはちゃんと聡真が説明しなさい』
「分かってる」
『話をするときは私が側にいてあげるから』
「ありがと……」
『無事ならひとまずよかったわ。でも、とても離婚するようには見えなかったわね。心底、聡真のこと心配してるように見えたし』
「そっか」
『まぁ、二人のことは二人にしか分からないから何も言わないけど』
「ごめんね。迷惑かけて」
『別に迷惑じゃないから。じゃあ、またね』
「またね」
通話終了ボタンを押してスマホの画面に目を落とす。史弥さんが僕を探している。離婚のことで決めないといけないことがあるんだろうか。会わずに済むならその方がいい。会ってしまえば離れるのが辛くなりそうだから。
「聡真くん?」
心配そうに見つめる颯真さんに何でもないというかのように笑顔を向けた。
「続きやっちゃいますね」
明るい声でそう言って先程の続きに取り掛かった。
干し終えて洗濯かごを持って部屋に入ると、一生懸命歌を歌う紬希ちゃんがいた。目が合ったから「上手だね」と言うと心なしか得意げな顔をしてまた歌い出した。
「聡真くん、ありがとね。電話大丈夫だったの?」
「はい、大丈夫です。今日は不動産屋さんに行ってみようかと思うんですけど、どこがいいとかありますかね?」
「圭ちゃんの友達が働いてるとこなら融通きくかも。俺もついて行ってあげるよ」
「そんなご迷惑ですし」
「いいよ、お散歩のついで」
「おしゃーぽ?」
目を輝かせた紬希ちゃんがトタトタと駆け寄ってきた。
「そう、お散歩行こうか」
「いこうかー」
「紬希もこう言ってるし、ご一緒してもいいかな?」
「よろしくお願いします」
さらっと親切にしてくれる颯真さん。本当にすごい。出かける準備をして外に出た。紬希ちゃんはとてもご機嫌で張り切って歩いている。
「今から行くって連絡しておいたからね」
「何から何まですみません」
「いいってことよ。紬希、おてて繋ごう」
近づく颯真さんに「やっ」と言って拒絶する紬希ちゃん。面白い。颯真さんと紬希ちゃんの攻防を見つめながらのんびりと歩く。しばらく歩いていると目的の場所に到着した。
「いらっしゃいませー」
「中林さんいるかな?」
「あぁ、少しお待ち下さいね」
話が通っているのか颯真さんが声を掛けるとすぐに応じてくれた。やってきた中林さんは、眼鏡をかけた高身長な人で、とても人の良さそうな笑顔をたたえながら「いらっしゃい」と応対してくれた。
椅子に腰掛けて、希望条件を聞かれる。よく考えると一人暮らしは初めてで、特に何も考えていなかったなと思い当たる。とりあえず家賃はこれくらいでという希望だけ伝えた。
「それならこのあたりとか人気ですよ」
そう言っていくつかおすすめの物件を見せてもらった。昨日物件を見ていたときにも思ったけど、ずいぶんと家賃が安く感じる。
「この値段って普通なんですか?」
「都心から来た子?びっくりするよね。事故物件とかじゃないからね、これが普通だよ」
「なるほど。ここって見せてもらえるんですか?」
「うん、大丈夫だよ。颯真どうする?」
自分の名前を呼ばれたのかと思ってビクッとしてしまった僕を中林さんが不思議そうに見た。
「この子、俺と同じ名前なの」
「なるほどね」
「俺達は公園にいるよ。聡真くん、ゆっくり見ておいで」
「ありがとうございます」
「車取ってくるから待ってて。美穂ちゃんちょっと行ってくるね」
「了解でーす」
内見か、緊張するな。あれ、このまま決めちゃってもいいのかな。ここって職場から随分離れているし、通える距離だけど交通費とか割高になるような……。一応国枝さんに伝えておいたほうがいいかな。明日はまだ休みだけど、明後日は出社の予定になっていた。とりあえず今日は見るだけ見て、国枝さんに連絡してから考えようか。その間はやっぱりホテル暮らしをするとして……考えを巡らせていると「お待たせー」と声を掛けられた。「いってらっしゃーい」という声を背中に受けながら店を出た。
車に乗り込んで物件を見て回る。その中にある平屋に心惹かれた。築年数はそれなりだけど、中はとてもきれいだし日当たりが抜群によかった。
「ここ気になります」
「お目が高い。ここね、最近リフォームしたばっかりでおすすめなんですよ」
「縁側もいいですね」
ここで日向ぼっこしたらとても気持ちよさそうだ。静かな環境も好みだし。どう考えてもここがいい気がしてくる。
「すぐには決まらないから急いで決めなくても大丈夫だよ」
「そうですか。すみません、もう少し考えます」
「分かりました。じゃあ、戻りましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
また車に揺られて、先程までいた不動産屋へ戻った。決まったら連絡すると伝えて、店を後にした。2人がいる公園はどこだろう。地図アプリを見ると近くに公園があることが分かった。そっちの方へ歩いていくと、滑り台の階段をよじ登る紬希ちゃんが見えた。キャッキャッと楽しそうに笑いながら滑り降りる紬希ちゃん。また階段の方へと向かっていく。
「紬希ー、もうおしまいにしようよー」
「颯真さん!」
「あぁ、聡真くん。あっ、まだやるの!?」
「そんなにやってるんですか?」
「うん、エンドレス……」
「そりゃすごい」
「いいとこあった?」
「はい、気になるところはありました」
「まぁ、引っ越すまで家にいてくれていいから」
「いや、それはさすがに」
「無理にとは言わないけどね」
優しすぎて驚いてしまう。いや、でも甘えてしまうわけにはいかない。
「そろそろ帰ろうー?」
「ぃやぁー」
「だめだこりゃ」
それから滑り台を満喫したのか、突然終わりを迎えた紬希ちゃんを抱っこした颯真さんと公園を後にした。
出ていこうと思っていたのに、昨日も滞在してしまった。紬希ちゃんの遊び相手を務めていたらあっという間に夕方になってしまって、結局そのまま泊まることになってしまったのだ。
今日は国枝さんに引越しのことを伝えることにした。緊張しながらメッセージを送ると、社長もそうだし、会社に来ることができるなら大丈夫だよと返信が来た。社長もそうなんだ。それならあの部屋に決めようかな。早く連絡をしたほうがいいような気がして、颯真さんに報告し、不動産屋さんに行くことにした。申込はできたけれど、審査はGW明けになるとのことですぐに住めるというわけにはいかなかった。
早くても来週末くらいだろうか。色々手続きがいるし、ほぼ何もないから色々と買い揃えないといけない。やることが多そうで本当にやっていけるのか不安になってしまう。トキさんがいればな……ダメだ。すぐにトキさんを頼ろうとするの悪い癖だ。
史弥さんにも連絡をしないといけない。でもできずにいる。僕になんか会いたくないだろうに、探しているということはやっぱり書類に不備があるのだろう。きっと一刻も早く離婚届を出したいに違いない。気づけばまた海水浴場へ来ていた。砂浜に座ってぼんやりと波を眺める。史弥さんは今、何をしてるんだろう。連絡したらどんな反応をするんだろう。スマホを取り出して、史弥さんとのトーク画面を開いた。ブロックマークに指を置きかけたところで、画面が切り替わった。トキさんからの電話だった。
「もしもし、トキさん?」
『聡真さん、お変わりありませんか?』
「うん、大丈夫」
『そうですか、よかったです』
久しぶりに聞くトキさんの声に安心する。
「どうしたの?」
『あの……史弥さんのことなのですが』
史弥さんという名前が出てきて心臓が跳ね上がる。
「連絡きてる?」
『それは、もう……1日に何度も』
「そう……なんだ」
『差し出がましいと思うのですが、きちんとお話されたほうがよいのではないでしょうか?』
「離婚のことだよね。きっと困っているんだろうね。ごめんね、トキさん」
『そうではないのです。史弥さんは……』
「何?」
『いえ、私から申し上げるべきではないかと。直接お話されたほうが』
「分かった。近いうちに……」
『本当ですか?』
「……たぶん」
『聡真さん』
だって怖いんだ。トキさんには詳しい事を伝えていない。何があったかなんて言えるはずもなかった。
『近いうちにお会いできませんか?』
「トキさんと?」
『心配なので、お顔を見たいのです』
「こっちに来る?お世話になってる人を紹介したいし。そっちに行ったらどこかで会ってしまうかもしれないから」
『分かりました。いつでもよろしいですか?』
「連休中なら大丈夫だよ。住むとこも決めたんだ。そこにも案内するね」
『住むところ……ですか?』
「うん、まだ言ってなかったよね。ごめん」
『分かりました。訪問する前にご連絡しますね』
「わかった。待ってるね」
『それでは』
「うん、またね」
トキさんが来てくれる。颯真さんたちにも伝えなきゃ。立ち上がっておしりについた砂を払い落とした。史弥さんのことは、また今度にしよう。先延ばしにしても良いことはないと分かっているのに、どうしても勇気が出ない。颯真さんの家へ戻るために、砂浜を歩き出した。
「あっ、おかえり。聡真くん」
「……ただいま」
おかえりと言って出迎えられて、ここが第二の家みたいになってしまっているような気がしてくる。
「家、一応決まりました」
「そうなの?でも、まだ引っ越せないでしょ?その間はいてくれていいからね」
「本当にいいんでしょうか?」
「いいよいいよ」
「あっ、あと、前に住んでいたところでお世話になっていた人が来ることになって」
「うん?」
「ご紹介したいなと」
「そうなんだ。オッケー。どんな人なの?」
「実家で働いてくれてる人なんですけど、僕も依頼していて」
「実家で働く?」
「お手伝いさんっていうんですかね?」
「聡真くんってお金持ちの子なの?」
「えっ……そうなのかな?」
「なるほど、だからなーんかお坊ちゃま感があるんだね」
「お坊ちゃま感?」
「所作とかきれいだし」
「そうですかね?」
「とりあえず入りな?」
「あっ、はい」
ずっと玄関で喋っていることに気づいて、靴を脱いで家の中に入った。
「そま」
「紬希ちゃん、ただいま」
絵本を見ていた紬希ちゃんにそう言うと、にっと笑ってくれた。
今日は魚を消費するの手伝ってとお願いされてまたしても泊まることになってしまった。せめてと思って、手伝いをしたり紬希ちゃんと遊んだりさせてもらった。圭悟さんもここにいることが当たり前のように接してくれて、ふたりの温かさが胸に沁みた。
その日の夜、明日行くというトキさんからのメッセージが入った。久しぶりに幸せな気持ちを抱いて眠りについた。
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