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図書館のかみさま
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紫陽花の色だ。
「返却お願いします」という決まり文句は唐突な気づきに遮られた。カウンターの向こうに座る職員は私が押し黙ったのなんか気にも留めずに本を受けとる。
弧を描くカウンターは優しい木目調。カウンターをすっぽり覆い隠すほど大きい笠が天井から吊り下げられ、灯りをやわらかく受け止めている。職員はちらりと右手奥――検索用端末の前に立つ老婆に視線を走らせると私を見上げた。
「あと一冊、未返却の本があります。貸し出しを希望される方がいらっしゃいますのでお早めにお願いいたします」
真面目そうな女の人だった。ベージュのブラウスの上から無地のエプロンをつけ、髪をひとつにまとめ、眼鏡をかけた姿は地味そのもの。
けれどよく見るとその両瞼は淡い紫色のアイシャドウに彩られていた。光の加減で時おりラメが光るのが、雨に濡れた紫陽花のようだった。
窓ガラスを軽く叩く音。つられて外を見ると灰色の雲が重く立ち込めていて、湿気と肌寒さに肩を竦める。
「分かりました」
私はゆるく会釈してカウンターに背を向ける。腰の曲がった老婆が私と入れ違いで職員の前に行った。
「あのですね、本を探しているんですが、機械がよお分からんで。メモはしてきたんですけどねえ……」
歩調と同じくゆっくりとした声が、私の返し忘れた一冊のタイトルを読み上げる。
「申し訳ありません。こちらは現在貸出し中で、分館から取り寄せると数日お日にちをいただきます」
あの女性の声が即答した。
彼女のアイメイクはどうやら季節に応じて変わるらしい。梅雨の時期には紫陽花の色、夏が来れば向日葵イメージのオレンジ色。カウンターを飾る折り紙の花は彼女の手作りだという。学校帰りに図書館に寄り道するのが習慣だったから、いつしか彼女とも顔馴染みになっていた。
「図書館ってひとつの世界だと思います」
瞼にコスモスの色を乗せた彼女はそう言った。
ジャンルごとに分類された多種多様な本は世界中のいろんな事柄を網羅している。いろんな知識をひとところに集めたここはひとつの世界、小宇宙だと。
微笑む彼女はきっと本当に本が好きで、本に携わる仕事をする自分を誇れているのだろう。
私は俯いたまま、彼女に笑い返すことができなかった。
ひとつひとつをあげつらえば些細な、けれど毎日続けば心を蝕む陰口。進路への不安や親への反発。そういううっとうしさを払い除けて払い除けて、前向きになるのにも疲れたある日。
図書館近くのコンビニで、私の手がチョコレートバーをカバンに押し込んだ。100円でお釣りが来るようなものだし絶対見つかるんだからレジに行けばいいものを、私はなぜだかレジを素通りして出口に向かってしまう。
店員はバックヤードから出て来ず、防犯ベルみたいなものも沈黙して、自動ドアを抜けた瞬間走り出した私を追いかけてくるものは私の鼓動しかなかった。
図書館はいつものように静かで、林立する書棚の奥に逃げ込めば誰にも見つからない。私は書棚に背中をあずけて崩れ落ちた。
誰かに強要されたわけでもないのになぜこんな事をしてしまったのか自分でもわからない。目から勝手に涙があふれて、私は膝を抱えてぐずぐずとしゃくりあげる。
柔らかい足音がした。
にじんだ視界にはパンプスの爪先が映る。踵の低い、布製のパンプスが誰のものか私は知っている。
あの女性が私を覗きこんでいた。今日は氷を思わせる淡いブルーのアイシャドウで――その目も同じ色に輝いていた。
「ずいぶん慌てて駆け込んできましたね。ぶつけた肘、大丈夫ですか」
ぞくりと肌が粟立つ。
私が彼女と顔を合わせたのは今日が初めてだ。彼女がいう通り肘をぶつけたけれど、それは彼女の定位置であるカウンターからは絶対見えないはずの玄関でのこと。その場に彼女はいなかった。
爛々と輝く瞳が急に恐ろしく思えて私は書棚に背中を押し付ける。
彼女は眉を下げて微笑む。ゆっくりと目を閉じ、次に開いた時は私や他の人たちと同じような色に戻っていた。
「図書館ってひとつの世界なんです」
いつか聞いた話が繰り返される。
「でも足りないものがある。改訂とか改稿とかありますし、新しい本も入ってきますけど、いったん印刷された文章が自然に変わることはありません。移り変わる自然……それを私の身で取り入れることを対価に、この図書館の中でならわたしはすべてを見通せます」
そうして彼女は「みんなには内緒ですよ」なんて人差し指をたてて見せた。
「なんで」
内緒ならなんで私に言うの。
自分の好きな仕事をして充実しているんだから、私なんか放っておいて仕事をすればいいのに。
私は涙をぬぐおうともせず彼女にくってかかる。ぐっと肺が膨らんで、彼女をひっぱたこうと手を振り上げる。
喉まで込み上げた怒声は指一本で止められた。
「本を愛する同志が辛そうにしていたら放っておけないでしょう」
彼女の人差し指が私の唇に触れる。決してこちらを押し止める強引さはなく、リップを塗るみたいな手つきで。
図書館に四季を届ける女性は、かみさまみたいな慈愛をたたえていた。
「返却お願いします」という決まり文句は唐突な気づきに遮られた。カウンターの向こうに座る職員は私が押し黙ったのなんか気にも留めずに本を受けとる。
弧を描くカウンターは優しい木目調。カウンターをすっぽり覆い隠すほど大きい笠が天井から吊り下げられ、灯りをやわらかく受け止めている。職員はちらりと右手奥――検索用端末の前に立つ老婆に視線を走らせると私を見上げた。
「あと一冊、未返却の本があります。貸し出しを希望される方がいらっしゃいますのでお早めにお願いいたします」
真面目そうな女の人だった。ベージュのブラウスの上から無地のエプロンをつけ、髪をひとつにまとめ、眼鏡をかけた姿は地味そのもの。
けれどよく見るとその両瞼は淡い紫色のアイシャドウに彩られていた。光の加減で時おりラメが光るのが、雨に濡れた紫陽花のようだった。
窓ガラスを軽く叩く音。つられて外を見ると灰色の雲が重く立ち込めていて、湿気と肌寒さに肩を竦める。
「分かりました」
私はゆるく会釈してカウンターに背を向ける。腰の曲がった老婆が私と入れ違いで職員の前に行った。
「あのですね、本を探しているんですが、機械がよお分からんで。メモはしてきたんですけどねえ……」
歩調と同じくゆっくりとした声が、私の返し忘れた一冊のタイトルを読み上げる。
「申し訳ありません。こちらは現在貸出し中で、分館から取り寄せると数日お日にちをいただきます」
あの女性の声が即答した。
彼女のアイメイクはどうやら季節に応じて変わるらしい。梅雨の時期には紫陽花の色、夏が来れば向日葵イメージのオレンジ色。カウンターを飾る折り紙の花は彼女の手作りだという。学校帰りに図書館に寄り道するのが習慣だったから、いつしか彼女とも顔馴染みになっていた。
「図書館ってひとつの世界だと思います」
瞼にコスモスの色を乗せた彼女はそう言った。
ジャンルごとに分類された多種多様な本は世界中のいろんな事柄を網羅している。いろんな知識をひとところに集めたここはひとつの世界、小宇宙だと。
微笑む彼女はきっと本当に本が好きで、本に携わる仕事をする自分を誇れているのだろう。
私は俯いたまま、彼女に笑い返すことができなかった。
ひとつひとつをあげつらえば些細な、けれど毎日続けば心を蝕む陰口。進路への不安や親への反発。そういううっとうしさを払い除けて払い除けて、前向きになるのにも疲れたある日。
図書館近くのコンビニで、私の手がチョコレートバーをカバンに押し込んだ。100円でお釣りが来るようなものだし絶対見つかるんだからレジに行けばいいものを、私はなぜだかレジを素通りして出口に向かってしまう。
店員はバックヤードから出て来ず、防犯ベルみたいなものも沈黙して、自動ドアを抜けた瞬間走り出した私を追いかけてくるものは私の鼓動しかなかった。
図書館はいつものように静かで、林立する書棚の奥に逃げ込めば誰にも見つからない。私は書棚に背中をあずけて崩れ落ちた。
誰かに強要されたわけでもないのになぜこんな事をしてしまったのか自分でもわからない。目から勝手に涙があふれて、私は膝を抱えてぐずぐずとしゃくりあげる。
柔らかい足音がした。
にじんだ視界にはパンプスの爪先が映る。踵の低い、布製のパンプスが誰のものか私は知っている。
あの女性が私を覗きこんでいた。今日は氷を思わせる淡いブルーのアイシャドウで――その目も同じ色に輝いていた。
「ずいぶん慌てて駆け込んできましたね。ぶつけた肘、大丈夫ですか」
ぞくりと肌が粟立つ。
私が彼女と顔を合わせたのは今日が初めてだ。彼女がいう通り肘をぶつけたけれど、それは彼女の定位置であるカウンターからは絶対見えないはずの玄関でのこと。その場に彼女はいなかった。
爛々と輝く瞳が急に恐ろしく思えて私は書棚に背中を押し付ける。
彼女は眉を下げて微笑む。ゆっくりと目を閉じ、次に開いた時は私や他の人たちと同じような色に戻っていた。
「図書館ってひとつの世界なんです」
いつか聞いた話が繰り返される。
「でも足りないものがある。改訂とか改稿とかありますし、新しい本も入ってきますけど、いったん印刷された文章が自然に変わることはありません。移り変わる自然……それを私の身で取り入れることを対価に、この図書館の中でならわたしはすべてを見通せます」
そうして彼女は「みんなには内緒ですよ」なんて人差し指をたてて見せた。
「なんで」
内緒ならなんで私に言うの。
自分の好きな仕事をして充実しているんだから、私なんか放っておいて仕事をすればいいのに。
私は涙をぬぐおうともせず彼女にくってかかる。ぐっと肺が膨らんで、彼女をひっぱたこうと手を振り上げる。
喉まで込み上げた怒声は指一本で止められた。
「本を愛する同志が辛そうにしていたら放っておけないでしょう」
彼女の人差し指が私の唇に触れる。決してこちらを押し止める強引さはなく、リップを塗るみたいな手つきで。
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