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2話
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靖一はベッドで仰向けになり、薄く目を開けた。頭の奥で鈍い鐘の音が鳴っている。二日酔いだ。額に手を当て、昨日のことをゆっくりと思い返す。
右も左も分からなくなるまで酔って、ふらふらになって、そのままどこかの屋上に登って──そういう妄想をしていたはずだった。だが、ノラと名乗る男が目の前に現れて「俺を飼って」と言った。犬を飼うのに勝手に死ぬわけにもいかないだろう。そうやってまた死にそびれた。
ノラには何か事情があるようだが詳しい理由は聞かなかった。ここはそういう人間が集まる街だ。余計な詮索はしない。
代わりに靖一は、二つの条件を口にした。
《俺のプライベートを詮索しないこと》
《俺の言うことには反抗せず、従うこと》
それだけだった。
ノラはただ「わかった」と頷いた。
そのやりとりは、まるで初めから決まっていたことのように自然で、静かだった。
リビングのソファに目をやると、ノラが膝を抱えて小さくなっていた。
まるで犬のようだ、と靖一は思った。
「……おい、ノラ」
声をかけるとすぐにまぶたが持ち上がった。眠そうに目を擦りながら、彼はゆっくりと起き上がった。
「……おはよう、靖一」
少しの間を置いて、ノラが問いかける。
「……って呼んじゃだめ?」
「好きにしろ」
靖一はそう返し、キッチンへ向かう。コーヒーを淹れながら、背を向けたまま告げた。
「俺は仕事だ。お前は風呂でも洗っておけ。それ以外は好きにしろ。テーブルの金は使っていい範囲だ。それから……昨日は、ありがとな」
言い終えると、そのまま扉を閉めた。
***
マンションを出て最寄り駅へ向かう途中、靖一はふと電柱に貼られた張り紙に目をやった。
《近隣で狼のような野生動物の目撃情報が複数寄せられています。特に夜間はご注意ください》
──またか。
本当にこの辺りに狼なんているのだろうか。半信半疑のまま、靖一は足を止めることなく通り過ぎた。
靖一の職場は、自宅から電車で三十分ほどの距離にあるパーソナルジムだった。
金と時間に余裕のある個人客相手に、トレーニングを教える。黙々と鍛える身体の線。追い込まれて吐き出す呼吸音。それを支配する感覚──それが、靖一は好きだった。
けれど今日は、なぜか集中できなかった。
頭のどこかに、家に置いてきた男の存在がこびりついて離れない。
ただの気まぐれで家に置くことにした、ただそれだけのはずなのだが──。
***
夕方、帰宅した部屋は静かだった。
だが、きちんと片付いていて、バスルームから微かな光が漏れている。
何の気なしにドアを開けかけたとき、裸のノラと目が合った。
「……あ」
タオル一枚をまとったノラが、こちらを見ていた。肌には湯気が纏わりつき、濡れた髪の先が頬に貼りついている。それから──胸の辺りに火傷のような跡と脇腹に大きな傷跡があった。
「……なんだ、その傷」
「おかえり、靖一。ごめん、お風呂洗ったついでに先に入っちゃった。服がびちゃびちゃで……」
ノラはそれには答えずにヘラリと笑った。
「ご飯にする? お風呂にする? ……それとも──?」
その言葉で、自分の視線がノラの胸元から腰へ落ちていたことに気づく。
引き返すべきだった。
だが、足が止まらない。冷たいタイルの感触が、足裏を撫でた。
「ノラ。お前、俺の言うことになんでも従うって言ったよな」
「うん」
「じゃあ──タオルを退けて、ここに正座しろ」
ノラはほんの一瞬だけまばたきをし、それから素直にタオルを外した。
濡れた肌が光を帯びる。
靖一は床にしゃがみ込み、ノラのあごを指先で持ち上げた。
「……何をされるかわかってる?」
「うん……だいたい、ね」
ノラの声は、どこか挑むような響きを帯びていた。ほんの一瞬、その奥に自暴自棄な影がのぞいたような気がした。
「……怖くないのか?」
「怖くはないよ。僕の知らない靖一を見られるなら……ちょっと楽しみ、かな」
その言葉に、靖一の胸の奥で何かが軋んだ。
止めようとしていた良心が、音もなく崩れ落ちていくのを、はっきり感じていた。
右も左も分からなくなるまで酔って、ふらふらになって、そのままどこかの屋上に登って──そういう妄想をしていたはずだった。だが、ノラと名乗る男が目の前に現れて「俺を飼って」と言った。犬を飼うのに勝手に死ぬわけにもいかないだろう。そうやってまた死にそびれた。
ノラには何か事情があるようだが詳しい理由は聞かなかった。ここはそういう人間が集まる街だ。余計な詮索はしない。
代わりに靖一は、二つの条件を口にした。
《俺のプライベートを詮索しないこと》
《俺の言うことには反抗せず、従うこと》
それだけだった。
ノラはただ「わかった」と頷いた。
そのやりとりは、まるで初めから決まっていたことのように自然で、静かだった。
リビングのソファに目をやると、ノラが膝を抱えて小さくなっていた。
まるで犬のようだ、と靖一は思った。
「……おい、ノラ」
声をかけるとすぐにまぶたが持ち上がった。眠そうに目を擦りながら、彼はゆっくりと起き上がった。
「……おはよう、靖一」
少しの間を置いて、ノラが問いかける。
「……って呼んじゃだめ?」
「好きにしろ」
靖一はそう返し、キッチンへ向かう。コーヒーを淹れながら、背を向けたまま告げた。
「俺は仕事だ。お前は風呂でも洗っておけ。それ以外は好きにしろ。テーブルの金は使っていい範囲だ。それから……昨日は、ありがとな」
言い終えると、そのまま扉を閉めた。
***
マンションを出て最寄り駅へ向かう途中、靖一はふと電柱に貼られた張り紙に目をやった。
《近隣で狼のような野生動物の目撃情報が複数寄せられています。特に夜間はご注意ください》
──またか。
本当にこの辺りに狼なんているのだろうか。半信半疑のまま、靖一は足を止めることなく通り過ぎた。
靖一の職場は、自宅から電車で三十分ほどの距離にあるパーソナルジムだった。
金と時間に余裕のある個人客相手に、トレーニングを教える。黙々と鍛える身体の線。追い込まれて吐き出す呼吸音。それを支配する感覚──それが、靖一は好きだった。
けれど今日は、なぜか集中できなかった。
頭のどこかに、家に置いてきた男の存在がこびりついて離れない。
ただの気まぐれで家に置くことにした、ただそれだけのはずなのだが──。
***
夕方、帰宅した部屋は静かだった。
だが、きちんと片付いていて、バスルームから微かな光が漏れている。
何の気なしにドアを開けかけたとき、裸のノラと目が合った。
「……あ」
タオル一枚をまとったノラが、こちらを見ていた。肌には湯気が纏わりつき、濡れた髪の先が頬に貼りついている。それから──胸の辺りに火傷のような跡と脇腹に大きな傷跡があった。
「……なんだ、その傷」
「おかえり、靖一。ごめん、お風呂洗ったついでに先に入っちゃった。服がびちゃびちゃで……」
ノラはそれには答えずにヘラリと笑った。
「ご飯にする? お風呂にする? ……それとも──?」
その言葉で、自分の視線がノラの胸元から腰へ落ちていたことに気づく。
引き返すべきだった。
だが、足が止まらない。冷たいタイルの感触が、足裏を撫でた。
「ノラ。お前、俺の言うことになんでも従うって言ったよな」
「うん」
「じゃあ──タオルを退けて、ここに正座しろ」
ノラはほんの一瞬だけまばたきをし、それから素直にタオルを外した。
濡れた肌が光を帯びる。
靖一は床にしゃがみ込み、ノラのあごを指先で持ち上げた。
「……何をされるかわかってる?」
「うん……だいたい、ね」
ノラの声は、どこか挑むような響きを帯びていた。ほんの一瞬、その奥に自暴自棄な影がのぞいたような気がした。
「……怖くないのか?」
「怖くはないよ。僕の知らない靖一を見られるなら……ちょっと楽しみ、かな」
その言葉に、靖一の胸の奥で何かが軋んだ。
止めようとしていた良心が、音もなく崩れ落ちていくのを、はっきり感じていた。
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