鎖でつないで、ここにとどめて

青埜澄

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7話 

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 靖一は玄関先の鏡の前でネクタイを締め直し、ブラックスーツの袖に腕を通した。  
──やっぱり似合わないな。  
鏡に映るくたびれた顔の男が大きく息を吐く。
 ふと足元に目をやると、今朝届いた郵便物の中に区からの注意喚起のチラシが紛れていた。  
《この地域で野犬または大型野生動物の目撃情報が相次いでいます。十分ご注意ください》。
靖一は眉をひそめ、聞き飽きた言葉のようにチラシを二つに折ってポケットに押し込んだ。

「またか……」

 無造作にため息をつき、視線を鏡に戻す。
リビングの方で小さな気配がした。振り向かずともわかる。ノラだ。
ドアの影に隠れるようにして、こちらをじっと見つめていた。
 袖口を整えながら、靖一はそっと視線を向ける。ノラはまるで初めて何かを見る子どものように目を丸くし、唇の端がかすかに上がっていた。興味深そうで、少し嬉しそうで──その表情に胸がざわつく。

「……何だ」

思わず声をかけると、ノラはぽつりと言った。

「かっこいいね」

 ネクタイの結び目を指先で確かめ、鏡の中の自分を見つめ直す。不思議とさっきまでよりはほんの少しマシな男に見えた。

「……行ってくる」

 小さく息を吐き、ドアノブに手をかけた。

「いってらっしゃい」

 背後から聞こえた声は明るく響いた。けれど、その奥にほんのわずかな寂しさがにじんでいた気がした。
それが、自分の願望のようなものでなければ──。

***

 従兄の結婚式が行われる式場へ向かう車内。
街の灯りが窓を流れていく。
本当は行きたくなかった。だが、父が怪我をして動けない今、母の頼みを断る理由もなかった。
 披露宴会場で親戚たちに笑顔で「いい人は見つかったか」と尋ねられ、「いえ、見つかればいいんですけど」と返す。そのたびに、少しずつ自分の中が削られていくようだった。
 食事の途中、酔った親戚の女性がこちらへやってきて、靖一の肩に手を置いた。

「この子、とてもいい子で彼女募集中なんです! どなたかいい方いませんか?」

 声は明るく、善意からのものだとわかっていた。だからこそ面倒だった。周囲がざわめき、何人かと視線がぶつかった。

「……ありがとうございます」

 靖一は貼りつけた笑顔でそれだけ言い、席を立った。「ちょっとトイレへ」と言い訳しながら。
 洗面台に両手をつき、深く頭を垂れる。

「……はぁ、はぁ……」

 呼吸がうまくできない。喉が詰まり、酸素が入り込まない。冷たい水で顔を洗い、何度も深呼吸を繰り返す。
──俺は、何をやってるんだ。
 席に戻ると、披露宴はすでに佳境を迎えていた。スクリーンには従兄とその花嫁の幸せそうな笑顔。流れる音楽の柔らかさとは裏腹に、胸の奥を締めつけられるような痛みがあった。
恋愛? 結婚?
そんなものはどうでもよかった。
けれど、この場にいる全員が無言で靖一に語りかけている気がした。「お前は異常者だ」と。
 式が終わり、従兄に挨拶を済ませてから母の運転する車に乗り込む。しばらく無言が続いた。

「羨ましいわね」

 母がぽつりと呟いた。靖一は、黙っていた。

「靖一、前に付き合ってる子がいるって言ってたでしょ。その子とは……どうなったの?」

 母の問いを遮るように、靖一は口を開いた。

「別れた。……俺にもっと“好き”になってほしいって言ったけど、俺にはそれができなかった。家族と同じくらい好き──それが、俺の最上級なんだよ。それ以上が、わからない。今思えば、あれは愛じゃなくて、情だったんだろうな」

 自分でも驚くほど、言葉がするりと口を出た。まるで、自分の意思とは関係なく。疲れ切った足が坂を勝手に下っていくように。
 母はしばらく黙り、そして低く言った。

「あなたは人を愛することを知らなすぎるのよ」

 何度も聞いてきたその言葉。その言葉が、冷たくも重く胸に突き刺さった。靖一は言い返す気力もなく、ただ俯いた。

「犬でも飼ってみたら?なにかを愛する練習になるかもしれないわよ」

 その言葉で、靖一の脳裏にノラの顔がよぎった。今朝、聞いた「いってらっしゃい」の声。

「……ああ」

 気のない返事を返すと、母は喉をしぼるように言った。

「私……育て方、間違えたのかな」

 その声は、まるで自分自身を罰するように聞こえた。靖一は、何も言えなかった。

***

 帰宅は深夜になった。酒を煽ったせいで足取りがやや重い。鍵を開けると、ソファの影からノラが顔を出した。

「おかえり!」

 無防備な笑顔に、靖一は胸の奥の何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。抑えようとしても、感情の洪水は止まらなかった。
見たくなかった。感じたくなかった。
だが、その全てを抑え込むことができず、言葉も出ずにノラを押し倒した。
怒りでも、欲望でもない。
もっと歪で、脆くて、理解しきれない感情に押し流されていた。
それが自分でも怖かった。
だけど止まることができなかった。
手が勝手に動いた。首にかかる指先。
ノラの呼吸が詰まり、もがく手が靖一の指を掴む。
気づいて、手を離す。ノラは咳き込みながら、潤んだ瞳で靖一を見た。

「……どうしたの? 靖一、大丈夫?」
「……なんだよ。なんで俺の心配をする」
「苦しそうな顔してるから」

 その言葉は、鋭く深く、靖一の中をえぐった。
もう、限界だった。押しつけるようなキスをして噛みつくように、ノラの唇を奪う。服を剥ぎ、肩を露わにする。手首を押さえつけて、動きを封じた。
──止まれなかった。
止まり方が、わからなかった。
 激しくぶつかる体。背中を仰け反らせ、ノラの身体は崩れ落ちた。それでも靖一は止まらず、ノラの腰を抱きかかえて打ちつけ続けた。
 ノラの身体は跳ね、背を反らして口を開く。

「──っあ、んっ、やっ……!」

 絶頂の波がノラを飲み込んだ。腰が痙攣し、指先がシーツを強く掴む。その背中に、靖一はさらに深く腰を打ちつけた。容赦はしなかった。いや、できなかった。
 果てたばかりの体に、追い打ちをかけるように繰り返し奥を突く。水音が濡れた空気に弾け、ノラの喘ぎが再び激しさを増す。

「あっ……待っ、ああっ……! 無理っ、もう……!」

 悲鳴にも似た声。それでも靖一は止まらない。ノラの尻を抱き込み、さらに深く、強く突き上げる。
引きちぎれる寸前まで張りつめた糸のように、理性は限界まで薄れていた。
 ノラの足がガクガクと震え、腰が逃げるように逃避を試みるが、靖一の腕がそれを許さない。
むしろさらに奥へ、暴力的なほどに繋がりを強くする。

「っん、や、だめ……イく、また……っ!」

 ノラの声が甲高く跳ねる。二度目の絶頂が、ノラの身体を襲った。
 全身が震え、脱力したノラの身体から汗が滴る。だが靖一は構わず、体位を変える。脚を無理やり肩に担ぎ上げ、浅く、そして速く──。
 肉がぶつかる鈍い音。熱のある吐息。ノラの目から涙がこぼれても、彼の動きは止まらない。

「……また、来る……!あ、やっ、やばいっ!」

 ノラは三度、背を仰け反らせた。小刻みに震える腹筋、押し殺すような喉奥の悲鳴。

「……まだイケるだろ?なあ、ノラ……」

 靖一の声は、どこか獣じみていた。ノラの太ももを抱え込み、己の欲を押し込むように貫く。
──もっと壊してやりたい。もっと感じさせてやりたい。
そんな衝動が、熱をさらに煽る。

「だめ、だって、もう……っ、変になる……! 靖一、や、やめ……!」

 かすれた声。けれど身体は、素直だった。拒みながらも、またその波に呑まれ、四度目の絶頂へと突き落とされていく。
 靖一はそのすべてを見逃さなかった。ノラの震える腹、反り返る背、閉じかけた目、揺れる喉──それらを見ながら、もう一度奥に到達し、限界まで力を込めて果てた。
 息が荒く、鼓動が喉元まで響く。
 ノラの身体はぐったりとして、だがその顔には、なぜか安堵のようなものが浮かんでいた。
 靖一は、濡れた髪を指で梳いた。その額にキスを落とすと、ノラはかすかに笑った。
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