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第五話 夢の中だけの親友たち
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かなえはベッドに横になり、ラベンダーティーの残り香に身を委ねていた。
まぶたを閉じると、意識がふわりと軽くなり、まるで水面に浮かぶように滑っていく。
やがて、彼女は夢の淵に立っていた。
目の前に広がるのは、故郷、鹿児島の田園風景だった。遠くに桜島がそびえ、柔らかな陽光が水田をきらきらと照らす。
彼女の足元には、子供の頃によく遊んだ野原が広がっていた。緑の草が風に揺れ、遠くでカエルの声が響く。だが、どこか現実とは異なる、柔らかく幻想的な光に満ちていた。
「ここ……私の、地元?」
かなえはつぶやき、ゆっくりと歩き始めた。裸足で草を踏む感触が、くすぐったくて心地よい。野原の先に、白亜の洋館が佇んでいる。陽光を浴びて輝くその姿は、まるで夢そのもののように美しかった。大きなアーチ型の窓からは、暖かな光が溢れ、館の周囲には色とりどりの花々が咲き乱れている。
「私の実家と同じところに建ってる。でも、私の実家はこんな形じゃない」
場所だけが同じで、周囲の景色も同じで、でも実家だけが違う。
不思議な世界だった。これが夢の世界か、と思った。
「でも、この館、どこかで見たような……」
かなえの胸がざわめいた。まるで、子供の頃に絵本で見たような、夢の住み処のような場所だった。彼女が近づくと、館の扉が自然に開き、柔らかな光が彼女を招き入れる。
「かなえ!」
突然、明るい声が響いた。かなえが顔を上げると、館のホールの中央に、懐かしい姿が並んでいた。うさぎのぬいぐるみ『ミミちゃん』、クマの『くーさん』、犬の『ポチ』、そして布製の古い人形『リリィ』。
どの子も、子供の頃に彼女が愛した姿そのものだった。少し色褪せた布、擦り切れた縫い目、なのに、どの子も生き生きと輝いている。まるで、心を持っているかのように。
「ミミちゃん! くーさん! ポチ! リリィ!」
かなえの声が震えた。彼女は駆け寄り、ぬいぐるみたちをぎゅっと抱きしめた。柔らかな感触、懐かしい匂い。涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……。忘れてたなんて、信じられない。あんなに大切だったのに……」
「かなえ、久しぶり!」
ミミちゃんがぴょんと跳ねて、かなえの腕の中で笑った。くーさんがふわふわの腕で彼女の背中を叩き、ポチが尻尾を振るように体を揺らし、リリィが静かに微笑んだ。
「かなえ、どこに行ってたの? ずっと待ってたんだよ」
リリィの声は、まるで鈴のように澄んでいた。
かなえは涙を拭い、笑顔でうなずいた。
「うん……東京に行って、忙しくて……。でも、会いたかった。本当に、会いたかったよ」
ホールは、まるで時間が止まったような空間だった。ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描き、柔らかな風が花の香りを運んでくる。ぬいぐるみたちは、かなえの手を引き、ホールを駆け回った。
「かなえ、遊ぼ!」
「うん!」
ミミちゃんが叫び、かなえは笑いながらうなずいた。
彼女たちはホールの中央に座り、子供の頃のようにおままごとを始めた。ミミちゃんが紅茶を淹れるふりをして、くーさんがクッキーを配り、ポチが元気に走り回る。リリィは静かに微笑みながら、かなえの髪をそっと撫でた。
「かなえがわたしたちのことを覚えていてくれて、嬉しいよ!」
「……うん。……うん……!」
リリィの言葉に、かなえの胸が熱くなった。彼女はぬいぐるみたちと笑い合い、歌い、踊った。館の外では、四季がめまぐるしく移ろい、桜が咲き、夏の緑が茂り、紅葉が舞い、雪が降る。だが、館の中は永遠の春のように暖かく、時間が溶けるように流れた。
ふと、かなえは気が付いた。
ホールの一角に、逢と城川が立っている。
逢は少し驚いたように目を丸くし、城川はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「ああ、城川さん、六藤さん」
かなえは、微笑を浮かべてふたりに近づいていく。
城川もまた、笑顔を浮かべた。
『ここがお客様の夢の世界でございます。お客様が会いたかった友達とは、ぬいぐるみや人形たちのことだったのですね』
「そう! そうなんです。……私……私……もう一度、この子たちに会いたくて……それで……」
『大丈夫ですよ、なにも言わなくて。僕らはただ夢の世界を案内するために現れただけでございます。かなえさんはぜひ、夢の世界を心ゆくまで楽しんでください』
「ありがとう! ありがとうございます……。そうさせてもらいます。そうさせて……」
そのとき、城川と逢の姿がふっと消えた。
瞬間、かなえの心が過去へ飛ぶ。
鹿児島の実家。田園の風景。それは嫌いではなかった。ただし、両親が嫌いだった。特に父親が苦手だった。地元で進学し、地元で就職し、地元で結婚することこそ最上だと思い込んでいる父が本当に嫌だった。そこでかなえは、逃げるように上京し、それから二度と鹿児島には戻っていない。
必死に働き、十数年の月日が流れた。もう故郷を思い出すことはないと、そう思っていた。それなのに、三十五歳の誕生日を迎えたその日、突然思い出した。
――ミミちゃん。くーさん。ポチ。リリィ。
幼稚園のときからずっと一緒に過ごしてきた、友達のぬいぐるみや人形たち。気が付けば、話しかけることも遊ぶこともなくなってしまった、あの子たち。実家の片隅に置いてきてしまった、あの友達たち。
(名前をつけて、毎日話しかけていた。『ミミちゃん』とか『くーさん』とか……。あの子たちには心があるって、本気で思ってた。夜、寝る前にはいつも一緒に寝て、朝は一緒にご飯を食べるふりをして……)
あの子たちはなにをしているんだろう。
実家は、もう捨ててしまったかもしれない。
それとも、物置の片隅に放置されているのかもしれない。
子どものころ、一緒に過ごしたあのお友達たち。もしかしたら、泣いているかもしれない。かなえはどこ、かなえはどうして帰ってこないの、かなえはもう忘れちゃったの、あんなに一緒だったのに。
「会いたくてたまらなかった。ごめんね、私、わがままだね。私から出ていったくせに」
「いいんだよ、会いにきてくれたから! もういいんだよ、かなえ」
「ああ……」
かなえはぬいぐるみたちをぎゅっと抱きしめ、涙を浮かべながら笑った。
「ありがとう……本当に、ありがとう……だいすき……」
館の中での時間は、まるで永遠に続くかのようだった。
かなえはぬいぐるみたちと、子供の頃の思い出を一つ一つ辿るように遊んだ。
おままごとから、かくれんぼ、歌、ダンス。ミミちゃんがぴょんぴょん跳ね、くーさんがふわふわと抱きつき、ポチが元気に走り回り、リリィが静かに物語を語る。館の外では、星空が広がり、銀色の光が窓から差し込む。星屑のような光が、ぬいぐるみたちの毛並みや布に降り注ぎ、まるで魔法のように輝いた。
どれだけの時間が経ったのか。
夢の世界に時間の概念はない。
何日か、あるいは何年もの時間をミミちゃんたちと遊んだかなえは、気になっていたことを尋ねてみた。
「ねえ、みんなはまだ、鹿児島の実家にいるのかな?」
「――ううん。僕たちの身体はもう、この世界には……」
「ああ……」
やっぱり、捨てられてしまっていたんだ。
無理もない。十年以上も帰ってこない娘の、子供時代のおもちゃなど、捨てられるのが当たり前だ。
(でも……私が実家に残っていたとしても、大切にできたのかな? みんなと遊んだのは、小学生のときまで……どうして、遊ばなくなっちゃったの。こんなに大切な子たちなのに)
「かなえ、ずっと一緒にいてね。かなえがわたしたちのこと、忘れちゃったとしても、わたしたちはずっとずっと、かなえのそばにいるからね」
ミミちゃんが小さな声で囁くと、かなえはぎゅっと抱きしめた。
「忘れない。ぜったいに忘れないから。みんな、本当に友達だから。……ずっと、ずっと一緒だよ……!」
この子たちは、もう実体としては存在しないかもしれない。両親に捨てられ、鹿児島の実家にはもういない。それでも、こうして夢の中で会えた。いつでも会える。この場所なら、いつだって。
館のホールは、星光と花の香りに満ち、ぬいぐるみたちの笑い声が響き合った。かなえは目を閉じ、その温もりを胸に刻んだ。
やがて、意識がゆっくりと現実へと引き戻されていく。
目を開けると、柔らかな月光が寝室を照らしていた。
かなえはベッドから起き上がり、時計を見た。
夜の十時だった。
八時間も眠っていたことに、驚きと安堵が混じる。
身体が軽く、心の奥にあった重い霧が、まるで晴れたように感じられた。
階段を下りると、城川がカウンターで紅茶を淹れていた。逢がそばでグラスを磨きながら、かなえに気づいて微笑んだ。
「おはようございます、かなえさん。よくお休みになったようですね」
逢の声に、かなえは少し照れながらうなずいた。
「はい。こんなにぐっすり寝たのは久しぶりです。夢も……本当に、会えたんです。あの子たちに」
かなえは城川が差し出したカップを受け取り、紅茶を一口飲んだ。温かな香りが、夢の余韻を優しく包み込む。彼女はふと、子供の頃に考えていたことを思い出した。
「私、昔、考えたことがあるんです。もし人形やぬいぐるみに心があるなら……大昔、例えば江戸時代に作られて、子供たちに愛された人形は、どうやって人生を終えたんだろうって。捨てられて、忘れられて……それが、おもちゃの役目なのかって。でも……きっと、みんな、夢の世界に行ったんですよね」
城川はカップを置いて、静かに微笑んだ。
「その通りでございます。夢の世界なら、いつでもお会いできます。あなたのミミちゃんやくーさん、ポチ、リリィも、ちゃんとそこにいます」
かなえの目が潤んだ。
彼女は紅茶を飲み干し、代金を支払った。
「また来ます。絶対に来ます。あの子たちに、会うために」
かなえはそう言うと、軽い足取りで夢幻館を後にした。扉の鈴が軽やかに鳴り、彼女の背中がビルの谷間に消えていく。
逢はカウンターに肘をつき、城川を見た。
「昔遊んだ人形やぬいぐるみが、夢の世界にいるなんて……ありえるんですね」
城川はコーヒー豆を挽きながら、くすりと微笑んだ。
「いてもいいではありませんか。これは夢のお話ですから」
逢は少しだけ笑い、グラスを手に取った。
夢幻館の静かな空気の中、彼女自身の夢の続きが、どこかで待っているような気がした。
まぶたを閉じると、意識がふわりと軽くなり、まるで水面に浮かぶように滑っていく。
やがて、彼女は夢の淵に立っていた。
目の前に広がるのは、故郷、鹿児島の田園風景だった。遠くに桜島がそびえ、柔らかな陽光が水田をきらきらと照らす。
彼女の足元には、子供の頃によく遊んだ野原が広がっていた。緑の草が風に揺れ、遠くでカエルの声が響く。だが、どこか現実とは異なる、柔らかく幻想的な光に満ちていた。
「ここ……私の、地元?」
かなえはつぶやき、ゆっくりと歩き始めた。裸足で草を踏む感触が、くすぐったくて心地よい。野原の先に、白亜の洋館が佇んでいる。陽光を浴びて輝くその姿は、まるで夢そのもののように美しかった。大きなアーチ型の窓からは、暖かな光が溢れ、館の周囲には色とりどりの花々が咲き乱れている。
「私の実家と同じところに建ってる。でも、私の実家はこんな形じゃない」
場所だけが同じで、周囲の景色も同じで、でも実家だけが違う。
不思議な世界だった。これが夢の世界か、と思った。
「でも、この館、どこかで見たような……」
かなえの胸がざわめいた。まるで、子供の頃に絵本で見たような、夢の住み処のような場所だった。彼女が近づくと、館の扉が自然に開き、柔らかな光が彼女を招き入れる。
「かなえ!」
突然、明るい声が響いた。かなえが顔を上げると、館のホールの中央に、懐かしい姿が並んでいた。うさぎのぬいぐるみ『ミミちゃん』、クマの『くーさん』、犬の『ポチ』、そして布製の古い人形『リリィ』。
どの子も、子供の頃に彼女が愛した姿そのものだった。少し色褪せた布、擦り切れた縫い目、なのに、どの子も生き生きと輝いている。まるで、心を持っているかのように。
「ミミちゃん! くーさん! ポチ! リリィ!」
かなえの声が震えた。彼女は駆け寄り、ぬいぐるみたちをぎゅっと抱きしめた。柔らかな感触、懐かしい匂い。涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……。忘れてたなんて、信じられない。あんなに大切だったのに……」
「かなえ、久しぶり!」
ミミちゃんがぴょんと跳ねて、かなえの腕の中で笑った。くーさんがふわふわの腕で彼女の背中を叩き、ポチが尻尾を振るように体を揺らし、リリィが静かに微笑んだ。
「かなえ、どこに行ってたの? ずっと待ってたんだよ」
リリィの声は、まるで鈴のように澄んでいた。
かなえは涙を拭い、笑顔でうなずいた。
「うん……東京に行って、忙しくて……。でも、会いたかった。本当に、会いたかったよ」
ホールは、まるで時間が止まったような空間だった。ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描き、柔らかな風が花の香りを運んでくる。ぬいぐるみたちは、かなえの手を引き、ホールを駆け回った。
「かなえ、遊ぼ!」
「うん!」
ミミちゃんが叫び、かなえは笑いながらうなずいた。
彼女たちはホールの中央に座り、子供の頃のようにおままごとを始めた。ミミちゃんが紅茶を淹れるふりをして、くーさんがクッキーを配り、ポチが元気に走り回る。リリィは静かに微笑みながら、かなえの髪をそっと撫でた。
「かなえがわたしたちのことを覚えていてくれて、嬉しいよ!」
「……うん。……うん……!」
リリィの言葉に、かなえの胸が熱くなった。彼女はぬいぐるみたちと笑い合い、歌い、踊った。館の外では、四季がめまぐるしく移ろい、桜が咲き、夏の緑が茂り、紅葉が舞い、雪が降る。だが、館の中は永遠の春のように暖かく、時間が溶けるように流れた。
ふと、かなえは気が付いた。
ホールの一角に、逢と城川が立っている。
逢は少し驚いたように目を丸くし、城川はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「ああ、城川さん、六藤さん」
かなえは、微笑を浮かべてふたりに近づいていく。
城川もまた、笑顔を浮かべた。
『ここがお客様の夢の世界でございます。お客様が会いたかった友達とは、ぬいぐるみや人形たちのことだったのですね』
「そう! そうなんです。……私……私……もう一度、この子たちに会いたくて……それで……」
『大丈夫ですよ、なにも言わなくて。僕らはただ夢の世界を案内するために現れただけでございます。かなえさんはぜひ、夢の世界を心ゆくまで楽しんでください』
「ありがとう! ありがとうございます……。そうさせてもらいます。そうさせて……」
そのとき、城川と逢の姿がふっと消えた。
瞬間、かなえの心が過去へ飛ぶ。
鹿児島の実家。田園の風景。それは嫌いではなかった。ただし、両親が嫌いだった。特に父親が苦手だった。地元で進学し、地元で就職し、地元で結婚することこそ最上だと思い込んでいる父が本当に嫌だった。そこでかなえは、逃げるように上京し、それから二度と鹿児島には戻っていない。
必死に働き、十数年の月日が流れた。もう故郷を思い出すことはないと、そう思っていた。それなのに、三十五歳の誕生日を迎えたその日、突然思い出した。
――ミミちゃん。くーさん。ポチ。リリィ。
幼稚園のときからずっと一緒に過ごしてきた、友達のぬいぐるみや人形たち。気が付けば、話しかけることも遊ぶこともなくなってしまった、あの子たち。実家の片隅に置いてきてしまった、あの友達たち。
(名前をつけて、毎日話しかけていた。『ミミちゃん』とか『くーさん』とか……。あの子たちには心があるって、本気で思ってた。夜、寝る前にはいつも一緒に寝て、朝は一緒にご飯を食べるふりをして……)
あの子たちはなにをしているんだろう。
実家は、もう捨ててしまったかもしれない。
それとも、物置の片隅に放置されているのかもしれない。
子どものころ、一緒に過ごしたあのお友達たち。もしかしたら、泣いているかもしれない。かなえはどこ、かなえはどうして帰ってこないの、かなえはもう忘れちゃったの、あんなに一緒だったのに。
「会いたくてたまらなかった。ごめんね、私、わがままだね。私から出ていったくせに」
「いいんだよ、会いにきてくれたから! もういいんだよ、かなえ」
「ああ……」
かなえはぬいぐるみたちをぎゅっと抱きしめ、涙を浮かべながら笑った。
「ありがとう……本当に、ありがとう……だいすき……」
館の中での時間は、まるで永遠に続くかのようだった。
かなえはぬいぐるみたちと、子供の頃の思い出を一つ一つ辿るように遊んだ。
おままごとから、かくれんぼ、歌、ダンス。ミミちゃんがぴょんぴょん跳ね、くーさんがふわふわと抱きつき、ポチが元気に走り回り、リリィが静かに物語を語る。館の外では、星空が広がり、銀色の光が窓から差し込む。星屑のような光が、ぬいぐるみたちの毛並みや布に降り注ぎ、まるで魔法のように輝いた。
どれだけの時間が経ったのか。
夢の世界に時間の概念はない。
何日か、あるいは何年もの時間をミミちゃんたちと遊んだかなえは、気になっていたことを尋ねてみた。
「ねえ、みんなはまだ、鹿児島の実家にいるのかな?」
「――ううん。僕たちの身体はもう、この世界には……」
「ああ……」
やっぱり、捨てられてしまっていたんだ。
無理もない。十年以上も帰ってこない娘の、子供時代のおもちゃなど、捨てられるのが当たり前だ。
(でも……私が実家に残っていたとしても、大切にできたのかな? みんなと遊んだのは、小学生のときまで……どうして、遊ばなくなっちゃったの。こんなに大切な子たちなのに)
「かなえ、ずっと一緒にいてね。かなえがわたしたちのこと、忘れちゃったとしても、わたしたちはずっとずっと、かなえのそばにいるからね」
ミミちゃんが小さな声で囁くと、かなえはぎゅっと抱きしめた。
「忘れない。ぜったいに忘れないから。みんな、本当に友達だから。……ずっと、ずっと一緒だよ……!」
この子たちは、もう実体としては存在しないかもしれない。両親に捨てられ、鹿児島の実家にはもういない。それでも、こうして夢の中で会えた。いつでも会える。この場所なら、いつだって。
館のホールは、星光と花の香りに満ち、ぬいぐるみたちの笑い声が響き合った。かなえは目を閉じ、その温もりを胸に刻んだ。
やがて、意識がゆっくりと現実へと引き戻されていく。
目を開けると、柔らかな月光が寝室を照らしていた。
かなえはベッドから起き上がり、時計を見た。
夜の十時だった。
八時間も眠っていたことに、驚きと安堵が混じる。
身体が軽く、心の奥にあった重い霧が、まるで晴れたように感じられた。
階段を下りると、城川がカウンターで紅茶を淹れていた。逢がそばでグラスを磨きながら、かなえに気づいて微笑んだ。
「おはようございます、かなえさん。よくお休みになったようですね」
逢の声に、かなえは少し照れながらうなずいた。
「はい。こんなにぐっすり寝たのは久しぶりです。夢も……本当に、会えたんです。あの子たちに」
かなえは城川が差し出したカップを受け取り、紅茶を一口飲んだ。温かな香りが、夢の余韻を優しく包み込む。彼女はふと、子供の頃に考えていたことを思い出した。
「私、昔、考えたことがあるんです。もし人形やぬいぐるみに心があるなら……大昔、例えば江戸時代に作られて、子供たちに愛された人形は、どうやって人生を終えたんだろうって。捨てられて、忘れられて……それが、おもちゃの役目なのかって。でも……きっと、みんな、夢の世界に行ったんですよね」
城川はカップを置いて、静かに微笑んだ。
「その通りでございます。夢の世界なら、いつでもお会いできます。あなたのミミちゃんやくーさん、ポチ、リリィも、ちゃんとそこにいます」
かなえの目が潤んだ。
彼女は紅茶を飲み干し、代金を支払った。
「また来ます。絶対に来ます。あの子たちに、会うために」
かなえはそう言うと、軽い足取りで夢幻館を後にした。扉の鈴が軽やかに鳴り、彼女の背中がビルの谷間に消えていく。
逢はカウンターに肘をつき、城川を見た。
「昔遊んだ人形やぬいぐるみが、夢の世界にいるなんて……ありえるんですね」
城川はコーヒー豆を挽きながら、くすりと微笑んだ。
「いてもいいではありませんか。これは夢のお話ですから」
逢は少しだけ笑い、グラスを手に取った。
夢幻館の静かな空気の中、彼女自身の夢の続きが、どこかで待っているような気がした。
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