王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru

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蜘蛛と蝶


「よく来てくれたね」。まぁ座ってよ
「し‥‥承知致しました…」

若干12歳のセレスタンを前に脂汗が止まらないのはクディエ公爵家の当主ランヴェルだった。ソファに腰掛けてみたはいいものの、目の前に広げられた書類とポインター指示棒が何を意味するか。

向かいに腰をおろしたセレスタンはとても子供とは思えない。



「ここ最近で2番目?かな…驚いたよ」
「こ、これは…その…躾の一環でして」
「今時、犬を躾するにも叩く者はいないよ?それに…語学のこの問題。算術の問題。クディエ公爵家では余程有能な家庭教師をつけているんだね。名前はもう確定してあるから今度の夜会には私から直々に招待状を送っておいた。ついでに楽しい余興もあるから是非楽しんでいってほしい」

そしてもう一冊。書類の束をランヴェルの前に放り投げた。

「隅々まで目を通して欲しいが、抜粋でもわかると思うよ」

セレスタンの温度のない目が細く微笑んだ。
恐る恐る手に取り、ページを捲る度にランヴェルの呼吸が荒くなっていく。

「こっこれは!!」
「本当。これは3番目に驚いた。公爵家ともあろう家がまさか婚約者用にと組まれた予算を使い込んでいたとなれば大問題だよね」

「違うのです。婚約者に選定をされたのでドレスを作った分を支度金から補填をしただけで」
「だから?」

「その…元に戻ったという事で…」
「なら、それまでに作ったというドレスを見せてもらおうか。まさかと思うが全てが姉のお下がりであったり、シルヴェーヌ用には1着も作っておらず、今回慌てて?なんて事はないよね。仕立て屋に聞けば済む話でもあるが」

ランヴェルは青ざめていく。辛うじて色が残っているのは髪と瞳くらいで蒼白な肌の色にじっとりと脂汗が滲んでいた。知られるはずのなかったシルヴェーヌへの躾と言う名の暴行。
そして王家からの支度金のうちシルヴェーヌにはハンカチーフの1枚すら買っていない。全て懐に蓄えるか趣味の狩猟道具を買うか夫人の宝飾品にになっていた。

「私はね、意外と用心深いんだ」
「・・・・」
「物を贈れば売り飛ばすのは難しい。かといって取り上げれば私にバレてしまうと警戒するだろう?だから敢えて何も贈らず支度金を増額するように母上に頼んだんだ」

「お許しを!どうか!どうか!全て戻します。シルヴェーヌに全てを使い買い与えますっ。ですから何卒」

「公爵、何を言ってるんだ?そのままでいいんだよ」
「は?‥‥あの…いったいどういう…」

ランヴェルはセレスタンの書類を広げる指が蜘蛛の足に見えた。
そして自分はその蜘蛛が張った糸に見事に絡まった蝶か蛾か。


「全てを言わねばわからない愚鈍な公爵なら国にとっても必要ないよね?」
「いえっ滅相も御座いません‥‥では支度金の件は…」
「公爵家でから問題なのだろう?」
「では、返金…いえ減額で…」
「公爵の頭は綿わたが詰まっているんだろうか?それともヘドロかな?」


セレスタンはこの事は胸に留め置く代わりに王家からシルヴェーヌへの支度金はセレスタンへの支援金とせよと言った。

「で、ではシルヴェーヌの身の回りの品はどうやって…」
「クディエ公爵家で買えばいいだろう?養女であろうと娘は娘。今までしていなかった分、多めに買い与えればいいんじゃないのか?誤魔化そうたってそうはいかないよ。支度金の決済には私も絡んでいるからね」


クディエ公爵家に支給される王家からの支度金はディオンを支援するバイエ侯爵家の支援金額に匹敵する。そのままセレスタンへの支援金とスライドする事でクディエ公爵家の懐は痛まないし、セレスタンも支援金が受け取れる。
問題点は、【何のための支援金】かと言う事で本来の使用用途であるシルヴェーヌには一切使われない。

セレスタンはシルヴェーヌへの経費はクディエ公爵家が出せばいいと言った。

ランヴェルは非常に危うい橋を渡る事になる。
支援金を相手がセレスタンとはいえ流用してしまうのだ。
それをカムフラージュするために自腹を切ってシルヴェーヌに買い与えねばならない。さらに怖いと感じたのは決済にセレスタンが関わっている。ペンの動き一つでゼロの数は増える。
増えた分だけシルヴェーヌへ自腹を切って物品を購入せねばならない。
額によっては数年で家が傾くだろう。


万が一、露呈した時セレスタンは【そんな用途の金だと何故私が解る?】と言えば済むのだ。全ての責を負うのはクディエ公爵家でセレスタンは何の咎もない。

自らが蒔いた種だとはいえ、ランヴェルは悔しがった。
背に腹の代えられないランヴェルは従うしかなかったのだ。
まもなく13歳になるとはいえ、たった12歳のセレスタンには歯向かえなかった。

「殿下はそれほどまでにシルヴェーヌの事を考えてくださっているのですか」

ランヴェルは嫌味も含めて問うた。
だが、セレスタンの答えはランヴェルが思っていたものとは違った。

「私がシルヴェーヌを?まさか…アハハっ。彼女は確かに打ち出の小槌だ。振れば振るほどクディエ公爵家から私に金が入って来る。だからよ?金の成る木を枯らせるほど私はバカじゃない」

立ち上がり、ソファの周りを半周してきたセレスタンはランヴェルの肩を叩いた。

「クディエ公爵はね。父上の婚約打診が例え王命だとはいえ、徹底抗戦しなかったよね?そこで詰んでたんだよ」

「それはどういう意味でしょうか」

「私はね金は腐らないし裏切らない。知識は荷ではないから増えても苦にならないと考えているだけだよ。国費の流用は大罪。そしてその国費は王太子である私の婚約者の支度金。黙っている代償が愛だの恋だのくだらないものなわけがないだろう。干乾びて朽ちるまで城壁に吊るされるより私に従う方が賢い生き方だと思うけどね?」


薄く微笑んだセレスタンを残し、ランヴェルはガックリと肩を落として執務室を後にした。あれでもうすぐ13歳。末恐ろしいが逆らうにももう遅すぎたと諦めるしかなかった。


セレスタン殿下は聡明。そんな事を誰が言ったのだろうか。
ランヴェルは馬車に乗る前、植え込みの蜘蛛の巣に蝶がかかったのを見た。藻掻けば藻掻くほどに絡んでいく蜘蛛の糸。そして近寄って来る蜘蛛。体に血液が流れていた事も忘れてしまうまで吸い尽くされるのだと我が身に重ねて悟った。

蝶とてそんな所に蜘蛛が巣を張っていたとは掛かるまでわからなかっただろう。
バタバタと動いていた羽根が動きを止める。全身に見えない蜘蛛の糸が絡まった錯覚に陥った。ランヴェルは蝶の最期を見入ってしまった事に身震いしながら首を横に振った。
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