16 / 36
婚約解消③ー②
しおりを挟む
彼には初恋だった。
遠戚にトラント公爵家がある事に憤りしか感じた事はなかった。
4歳の誕生日の前日、両親や弟妹と引き離された連れていかれた先は地獄だった。
何をするにも打たれる。返事をしてもしなくても頬が張られる。
気に入らない事があったりすれば食事は抜かれて、池の水を飲んで腹を満たした事もあった。トラント公爵も公爵夫人も暴力的で打たれた背中が痛くて夜中、厩舎に逃げ込んで泣いた日もあった。寝転がると背中が焼けるように熱くて痛い。傷が癒えても仰向けで寝る事が出来なくなった。
結果を出せばこの家から出られると思ったのは騎士の鍛錬を見た時だった。
騎士たちは宿舎暮らしをしていると言っていたのを聞いたクロヴィスは剣を握った。5歳だった。
昼間は学問やマナー、所作の講師が来るので出られなかったが、夜中は毎晩窓に当たっている向かいの木の枝を伝って外に出て1人素振りをしたり、仮想の敵を想像して鍛錬を重ねた。
右に出る者はいないと言われた9歳。
決勝で王太子セレスタンに敗北した。セレスタンはそれまでに痛めていた左手を庇い打ち手を変えて攻めてきた。練習であれば卑怯と呼ばれる手でも、実戦となれば関係がない。
実戦形式で行われている試合では綺麗ごとも通用せず、クロヴィスは負けた。
準優勝だったが、クロヴィスに賭けていた公爵は大損をしてその日は食事抜きだった。
だが、王太子セレスタンの側近に指名がかかった時、公爵は【自分が見込んだ通り】だと飛び上がらんばかりに喜んだ。更に鍛錬を積み、側近となるには近衛隊に入隊せねばならないため12歳になったあの日。王宮に向かった。
「クディエ公爵か…蛇男が…」
呟く義父、いやトラント公爵に止まった馬車を見ていると天使が降りてきた。
鼓動が早くなり、隣で何かを言っている義父の言葉もかき消されるほど耳に聞えるのは心臓の音だった。
手からは水溜まりが出来はしないかと思うくらい手汗が流れた。
少女に見入っていると視線が合いそうになって慌てて顔を背けた。
義父に挨拶をしろと背を叩かれるが、前に出る事も出来ず声も出なかった。
「すみません。まだ躾をしている途中でしてね」
そう言いながら義父の指はクロディスの脇腹を抓った。
抓られた痛さよりもまた、謝っても謝っても終わらない折檻が始まるのが怖かった。
そんな怯えを吹き飛ばすかのように声が聞こえた。
「初めてお目にかかります。シルヴェーヌと申します。以後お見知りおきを」
――シルヴェーヌ…可愛いな――
ハッとして自分は何を考えているんだと義父を見れば悟られてはいないようで安心した。
去っていく後姿を見送り、また会えるといいなと芽生えた恋心に神に祈った。
しかし、神は非情だった。
主となる王太子セレスタンの婚約者がシルヴェーヌだと知らされると目の前の景色の色が無くなった。口にする食事の味も無くなった。
寝台に倒れ込んだらそのまま寝てしまうようになるまで剣に打ち込んだ。
何かをしていなければ嫉妬で狂ってしまいそうだった。
第二王子のディランは婚約者のアデライドと誰にも見られていないと思っているのか、水音がしそうなほど唇を合わせ舌を貪っていた。婚約者となればそれが常なのか。彼女もこんな事をセレスタン殿下と…そう思うとそれがなぜ自分ではなく寄りにも寄ってセレスタンなのかと手のひらに爪が食い込み肌が避けるほど強く握った。
だが、セレスタンとシルヴェーヌはクロヴィスが拍子抜けするほど物理的に距離を取って行動していた。2人が何かを話しているのは執務、政務の事と国王や王妃のご機嫌伺いくらいで私的な会話を聞いた事はなかった。
セレスタンから「一人にしてくれ」と言われれば聞き入れるしかない。
最初は扉の外で待っていたが、そんな暇があるならバイエ侯爵家が何時仕掛けてくるかわからないからシルヴェーヌを護衛していろと言われた。浮足立っていたのをセレスタンは気付いていたかも知れない。
シルヴェーヌは自分と同じように虐げられた幼少期を過ごしていた。
「脇腹に痕はあるけど…コルセットの擦れで判りにくいの」
明らかに鞭の痕と判る自分も辛かったが、人に見えない、わかりにくい場所を選んで打ち据えられたと思うと自分の事のように思えた。クディエ公爵にはシルヴェーヌの分を代わりに復讐してやりたいと思うほどに。
だから驚いたのだ。
それまで4年ほど不仲だったのに突然行動を共にし始めて、それまでよりも執務などについて深く話をする2人の心境の変化が。
それもすぐ解消された。
「半年で結果を出せと言われたんだけど…難しくて…」
クロヴィスは騎士団の伝手を使って街にある商会、個人商店に行き頼み込んだ。
個人を回っても結果は芳しくなかった。市場に行き商店街の店を纏めている者を教えて貰うと鮮魚店に行き土下座をして頼み込んだ。
「お願いです。5分、いえ1分で良いんです。彼女に時間をください!」
「無理だよ。帰っとくれ。商売の邪魔だ」
「買います。今日仕入れた魚を全部買います。だから時間をください」
「あぁもう!判ったよ。でも聞くだけだからね」
王妃の手助けもあり話が纏まった時、シルヴェーヌは満面の笑みでクロヴィスに礼を言った。
もう手が届かない女性になってしまう。
気持ちは封印し、生涯伝えられない思いを胸に抱き側付きになる事を願った。
それで養子縁組が解消されても構わない。
公爵家に養子を解消されればセレスタンの側近でいる事は出来ないが、実家は貧乏だが伯爵家。近衛隊で王太子妃、王妃の専属となる事は出来る。
嬉しそうに微笑むシルヴェーヌに思いを伝える事は諦めた。
だからこそクロヴィスは後悔していた。
セレスタンが目的のためなら敵とでも手を組む男だと言う事を見抜けなかった事に。
遠戚にトラント公爵家がある事に憤りしか感じた事はなかった。
4歳の誕生日の前日、両親や弟妹と引き離された連れていかれた先は地獄だった。
何をするにも打たれる。返事をしてもしなくても頬が張られる。
気に入らない事があったりすれば食事は抜かれて、池の水を飲んで腹を満たした事もあった。トラント公爵も公爵夫人も暴力的で打たれた背中が痛くて夜中、厩舎に逃げ込んで泣いた日もあった。寝転がると背中が焼けるように熱くて痛い。傷が癒えても仰向けで寝る事が出来なくなった。
結果を出せばこの家から出られると思ったのは騎士の鍛錬を見た時だった。
騎士たちは宿舎暮らしをしていると言っていたのを聞いたクロヴィスは剣を握った。5歳だった。
昼間は学問やマナー、所作の講師が来るので出られなかったが、夜中は毎晩窓に当たっている向かいの木の枝を伝って外に出て1人素振りをしたり、仮想の敵を想像して鍛錬を重ねた。
右に出る者はいないと言われた9歳。
決勝で王太子セレスタンに敗北した。セレスタンはそれまでに痛めていた左手を庇い打ち手を変えて攻めてきた。練習であれば卑怯と呼ばれる手でも、実戦となれば関係がない。
実戦形式で行われている試合では綺麗ごとも通用せず、クロヴィスは負けた。
準優勝だったが、クロヴィスに賭けていた公爵は大損をしてその日は食事抜きだった。
だが、王太子セレスタンの側近に指名がかかった時、公爵は【自分が見込んだ通り】だと飛び上がらんばかりに喜んだ。更に鍛錬を積み、側近となるには近衛隊に入隊せねばならないため12歳になったあの日。王宮に向かった。
「クディエ公爵か…蛇男が…」
呟く義父、いやトラント公爵に止まった馬車を見ていると天使が降りてきた。
鼓動が早くなり、隣で何かを言っている義父の言葉もかき消されるほど耳に聞えるのは心臓の音だった。
手からは水溜まりが出来はしないかと思うくらい手汗が流れた。
少女に見入っていると視線が合いそうになって慌てて顔を背けた。
義父に挨拶をしろと背を叩かれるが、前に出る事も出来ず声も出なかった。
「すみません。まだ躾をしている途中でしてね」
そう言いながら義父の指はクロディスの脇腹を抓った。
抓られた痛さよりもまた、謝っても謝っても終わらない折檻が始まるのが怖かった。
そんな怯えを吹き飛ばすかのように声が聞こえた。
「初めてお目にかかります。シルヴェーヌと申します。以後お見知りおきを」
――シルヴェーヌ…可愛いな――
ハッとして自分は何を考えているんだと義父を見れば悟られてはいないようで安心した。
去っていく後姿を見送り、また会えるといいなと芽生えた恋心に神に祈った。
しかし、神は非情だった。
主となる王太子セレスタンの婚約者がシルヴェーヌだと知らされると目の前の景色の色が無くなった。口にする食事の味も無くなった。
寝台に倒れ込んだらそのまま寝てしまうようになるまで剣に打ち込んだ。
何かをしていなければ嫉妬で狂ってしまいそうだった。
第二王子のディランは婚約者のアデライドと誰にも見られていないと思っているのか、水音がしそうなほど唇を合わせ舌を貪っていた。婚約者となればそれが常なのか。彼女もこんな事をセレスタン殿下と…そう思うとそれがなぜ自分ではなく寄りにも寄ってセレスタンなのかと手のひらに爪が食い込み肌が避けるほど強く握った。
だが、セレスタンとシルヴェーヌはクロヴィスが拍子抜けするほど物理的に距離を取って行動していた。2人が何かを話しているのは執務、政務の事と国王や王妃のご機嫌伺いくらいで私的な会話を聞いた事はなかった。
セレスタンから「一人にしてくれ」と言われれば聞き入れるしかない。
最初は扉の外で待っていたが、そんな暇があるならバイエ侯爵家が何時仕掛けてくるかわからないからシルヴェーヌを護衛していろと言われた。浮足立っていたのをセレスタンは気付いていたかも知れない。
シルヴェーヌは自分と同じように虐げられた幼少期を過ごしていた。
「脇腹に痕はあるけど…コルセットの擦れで判りにくいの」
明らかに鞭の痕と判る自分も辛かったが、人に見えない、わかりにくい場所を選んで打ち据えられたと思うと自分の事のように思えた。クディエ公爵にはシルヴェーヌの分を代わりに復讐してやりたいと思うほどに。
だから驚いたのだ。
それまで4年ほど不仲だったのに突然行動を共にし始めて、それまでよりも執務などについて深く話をする2人の心境の変化が。
それもすぐ解消された。
「半年で結果を出せと言われたんだけど…難しくて…」
クロヴィスは騎士団の伝手を使って街にある商会、個人商店に行き頼み込んだ。
個人を回っても結果は芳しくなかった。市場に行き商店街の店を纏めている者を教えて貰うと鮮魚店に行き土下座をして頼み込んだ。
「お願いです。5分、いえ1分で良いんです。彼女に時間をください!」
「無理だよ。帰っとくれ。商売の邪魔だ」
「買います。今日仕入れた魚を全部買います。だから時間をください」
「あぁもう!判ったよ。でも聞くだけだからね」
王妃の手助けもあり話が纏まった時、シルヴェーヌは満面の笑みでクロヴィスに礼を言った。
もう手が届かない女性になってしまう。
気持ちは封印し、生涯伝えられない思いを胸に抱き側付きになる事を願った。
それで養子縁組が解消されても構わない。
公爵家に養子を解消されればセレスタンの側近でいる事は出来ないが、実家は貧乏だが伯爵家。近衛隊で王太子妃、王妃の専属となる事は出来る。
嬉しそうに微笑むシルヴェーヌに思いを伝える事は諦めた。
だからこそクロヴィスは後悔していた。
セレスタンが目的のためなら敵とでも手を組む男だと言う事を見抜けなかった事に。
91
あなたにおすすめの小説
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』
しおしお
恋愛
王太子の秘書官として、陰で国政を支えてきたアヴェンタドール。
どれほど杜撰な政策案でも整え、形にし、成果へ導いてきたのは彼女だった。
しかし王太子エリシオンは、その功績に気づくことなく、
「女は馬鹿なくらいがいい」
という傲慢な理由で婚約破棄を言い渡す。
出しゃばりすぎる女は、妃に相応しくない――
そう断じられ、王宮から追い出された彼女を待っていたのは、
さらに危険な第二王子の婚約話と、国家を揺るがす陰謀だった。
王太子は無能さを露呈し、
第二王子は野心のために手段を選ばない。
そして隣国と帝国の影が、静かに国を包囲していく。
ならば――
関わらないために、関わるしかない。
アヴェンタドールは王国を救うため、
政治の最前線に立つことを選ぶ。
だがそれは、権力を欲したからではない。
国を“賢く”して、
自分がいなくても回るようにするため。
有能すぎたがゆえに切り捨てられた一人の女性が、
ざまぁの先で選んだのは、復讐でも栄光でもない、
静かな勝利だった。
---
俺の妻になれと言われたので秒でお断りしてみた
ましろ
恋愛
「俺の妻になれ」
「嫌ですけど」
何かしら、今の台詞は。
思わず脊髄反射的にお断りしてしまいました。
ちなみに『俺』とは皇太子殿下で私は伯爵令嬢。立派に不敬罪なのかもしれません。
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
✻R-15は保険です。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる