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執事ギャラモ、39歳。渾身の飛び蹴りが決まる

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ルシェルは非常に緊張していた。

目の前に、本物のディアナ殿下がいて茶を飲んでいる。
エルバルトン第二王子殿下の第一子となるディアナ殿下。下に弟妹がいるものの現在王位継承者第三位である。第一位の継承者は病床にある第一王子殿下、二位はディアナ殿下の父となるエルバルトン第二王子殿下。

第一王子は15年ほど前から病床にあって、ここ数か月は予断を許さない状況が続いていると言う。巷に流れる情報と貴族に流れる情報と本物の情報が全て一致する事は少ない。

市井では質の悪い風邪に感染し後遺症と闘っているという情報があるが、貴族ではそれが麻疹。だが実際は先ほどエルバルトン第二王子殿下に見舞いに行きたいと言ったが本当の病名を伝えられ断られた。
第一王子は【肺結核】に侵されていた。

ディアナ殿下が生まれる前から既に病床にある第一王子は末期に入っている。
治療法のないレ・ナニル国では諸国の医師を招き治療に当たっているが、治療薬も予防薬もないため成果を全く見せていない。


エルバルトン第二王子殿下は幼き日に兄を支えると誓った言葉を今も胸に決して立太子をしようとしない。現実には無理だと判っていても、もしかすれば治る特効薬が見つかる日が来るやも知れぬ。そう考えて38歳になる今も王子のままである。63歳の現国王もこの頃は足腰の衰えも顕著。

「兄が国王にならないのなら私は即位式でそのままこのディーに王冠を譲ろうと思っている。近隣諸国を含め千年以上の歴史を見ても何処にも【女王】はいない。このレ・ナニルが先駆けとなる。素晴らしい事だと思わないか?私は来るべき日に備えて兄からの王冠をディーに渡せるよう女性の地位向上に取り組んでいるんだが…ハハハ。男社会と言うのは歪でね。まだ道半ばにも到達しないよ」


乾いた笑いを浮かべるエルバルトン第二王子殿下だが、確かに王宮の中級以上の文官には女性が登用されるようになったし、色々な事業で【役員の2割は女性とする事】も定められている。
ただ、王宮の中級以上の文官でも産前産後の休暇が取れるのはごく一部の高位貴族の令嬢であったものだけにとどまっていて法は制定しても義務ではなく努力目標である事が口惜しくてならないようだ。

それでも。それでもだ。国王の交代も遠い先の事ではない。
レ・ナニル国は新しい時代を迎えようとしている。



ディアナ殿下の所作は女性のしなやかさの中に男性的な大胆さもある所作で、ルシェルは冷や汗が出た。どう考えてもルシェルの方が教えを乞う立場にあるとしか思えなかったからだ。

ディアナ殿下は20歳。ルシェルよりも2つ年上である。

「わたくし、幼き日にルシェルのお母様、ハンナマリーネ先生に講義をして頂いていたの」
「は、母に…そうで御座いましたか…」
「とても厳しい先生だったけれど、今でもわたくしの中では一番の先生なの」
「そのお言葉に母も天国で涙を流して喜んでいると思います」

「それで…」とディアナ殿下は使い物にならなくなって最早廃材のトリニタッドに目を向けた。
直立不動でテーブルを守るように立ってはいるが、立っているだけだ。
息をしているかどうかも分からない真っ赤な大木になっている。

「公爵はわたくしの剣の師匠でもあるのだけれど…こんな姿、初めて見たわ」
「さ、左様でございますか…」

ルシェルもちらりとトリニタッドを伺えば、ギッギッと音がしそうな視線が交差する。
ピキーンと音がしそうなほど真っ直ぐだった体が更に硬直すべく姿勢を正す。

「ここはわたくしの管轄区域だから、許可のないものは来ないし外からも見えないの。安心してこの木偶師匠に講義をしてあげて。女性とのお付き合いは…母親と…そうねぇ…報告、連絡の侍女頭か女官長くらいかしら。女性の手を握った事も無くてダンスを踊ってるのを見た事もないわ。身綺麗なのはわたくしが保証致しますわ」

――保証頂いてもわたくし、既婚者なのですけれど――

「団長、こちらに来てイチからジュウまでじっくりと教えて頂いて?」
「は、ハイッ!!」
「ぷっ!!いつもは【へぇへぇ】とか【おぅ】なのに…緊張かしらね?」
「で、殿下ァ!違いましゅしょ」
「ふふふっ…噛んでるし…声も上ずってるし…いいものを見たわ」

ディアナ殿下は側付侍女たちと共に、部屋から出ていく。
残されたのは挙動不審なトリニタッドとルシェル。そしてルシェルの侍女ペイジと王宮の護衛兵士が数人。最後に執事ギャラモである。


「アバスカル公爵様、こちらにお座りくださいませ」
「ハッ、ハイィィィッ!」

返事をしたのは良いのだが、トリニタッドは動かない。さもすると首を傾げだした。

「どうされたのです?」
「あ、あのっ。天使の声が聞こえると歩き方を忘れてしまい…足はどうやって出せば‥」
「天使?まぁ…アバスカル公爵様は変わったお方ですのね」
「そ、そうですね。部下からは魔法使いまで秒読みと揶揄されておりますっ」
「魔法使い…ふふふっ。では歩かなくても箒に跨れば空が飛べますのね」
「空っ?!今も心だけは浮遊している状態でありますっ」

まるで上官に報告するような話し方に、ルシェルのほうがつい楽しんでしまう。
埒が明かないトリニタッドの元に行き、ルシェルは手を背中に回し「右足」と声をかける。

だが、背に手を回すと腹を突き出すようにトリニタッドの胴体がしなる。

「申し訳ございません。配慮が足りませんでしたね」

シュンとなるルシェルにトリニタッドはルシェルの手をいきなり握った。

「配慮が足らないのは俺の方だ。何でも言ってくれ。欲しいものはないか?俺にして欲しい事はないか?君の為なら今から隣国に馬を飛ばし、花を一輪買ってくる事も厭わない」

「えっ…えっと…あの…アバスカル公爵様?」

「私は口下手なので、何を言い出すか判らない」

――本当ですね――

「だが、この胸の熱い思いだけは本物だと言える」

――そんなにマナーを知りたかったのね――

「本当に生きててこの日を迎えられるとは…感無量だ」

――そこまでマナーにはお困りだったとは――


やっと席に着き、王宮のメイドが待ちかねたように茶を淹れた。
執事ギャラモをちらりと見れば、侍女ペイジに腕を引っ張られて拘束されている。

「では、改めまして、自己紹介から致しましょう。自己紹介は爵位が上の者から。爵位が同じ場合は王家に登録されている名簿の上にある者から致します。今回はアバスカル公爵様の方が爵位が上ですの――」

「待ってくれ」
「はい?」
「その…突然で申し訳ないんだが、俺は今まで愛称で呼ばれた事が無――」
「だ・ん・な・さ・まあぁぁぁ!」

侍女ペイジの制止を振り切った執事ギャラモはイノシシのようにトリニタッドに突進し、絵に描いたような美しい飛び蹴りが決まった。

ドサリと椅子ごと倒れたトリニタッド。

色々と先走っているトリニタッド。昨夜、興奮のあまり眠れず明け方まで読んだ本は【結婚を考える貴方に】という恋愛ハウツー本の中にある【蜜月まであと一押しが足らない貴方に】という項目だった。

そこに書いてあったのだ。
ちゃっかり愛称を呼んでもらうには勢いが大事だと。

――恋愛初心者は行動が読めない――

執事ギャラモはちょっと捻った足首をクルクルと回した。
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