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第06話 喪中に婚約
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「何してるの!何様のつもり?」
ゲルハ伯爵の遺産を放棄したレティツィアには侯爵家に居場所はなかった。
使用人も居ない別宅。ゲルハ伯爵からの金を本宅の使用人に握らせればついでだと色々してくれた使用人も金が無いとなればやっても来ない。
必然的にレティツィアがせねばならなかった。
昨夜も散々にワインを飲んで、テーブルの上はゴチャゴチャ。
レティツィアは布巾を水に浸し、テーブルを拭こうとすれば罵声が飛んでくる。
もうすっかり母親の罵声も忘れていたが、目の前で怒鳴る母親に「あぁ、こういう人だった」と何処か思い出のようにかの日を思う。
嫌な事があった時、ゲルハ伯爵はレティツィアをそっと抱きしめてくれた。
『嫌な事があればなんでも話してごらん』
蜂蜜たっぷりのホットミルク。「いい子だよ。レティはいい子だ」と髪を撫でながら幼いレティツィアを守ってくれたゲルハ伯爵はもういない。
『寂しくないよ。ウサギさんが一緒だろう?』
婚約者で幼女とは言え、成人の男性が添い寝をするのは宜しくないとレティツィアが眠りにつくまで野太いバリトンの声で子守唄を歌い、手を握ってくれていたゲルハ伯爵。
抱きしめていれば温かみを感じるとウサギのぬいぐるみはレティツィアがゲルハ伯爵家で眠る日はいつも一緒だった。
そのぬいぐるみももう灰になった。
――どうでもいいわ。何も考えたくない――
「聞いてるの?!ボケっとしてんじゃないわよ!」
母親の張り手が頬を打つが、痛みも感じない。
言いたいだけ言って、気が済むか、体力が尽きれば手を挙げるのを止めてくれる。
放っておけばいい。気にかけるだけ人生を無駄にするとまで母親に対してレティツィアはそう感じていた。
何発目かの張り手を貰った時、珍しく別邸の玄関から父の侯爵が入って来た。
更に珍しかったのは続いて侯爵夫人も入って来た事だった。
「何をしてるんだ」
「あ、いえ・・・これは・・・躾を・・・」
「頬が腫れあがり、鼻血が出ても止めない躾とは…畏れ入るわね」
バツが悪そうに振り上げた手をおろし、ギュッと手を握った母親は「早く拭きなさい」とテーブルに置いたままの布巾をレティツィアの顔に押し付けてくる。
テーブルの上を片付けろというので、片付けていた時に、いや「片付けろ」と部屋まで呼びに来た時にはもう母親の怒りは頂点に近かった。布巾はまだテーブルを拭く前。それでも綺麗とは縁遠い。おろしたてではないのだから。
「問題のある躾をするようなクズは要らない。荷物を纏めて夕方までに出て行け」
「そんなっ!!違うのです!これはこの子が口答えを!そう!口答えをしたのです。伯爵家の遺産も放棄するような娘ですから今一度私が――」
「もういいから出て行け」
侯爵が静かにそう言うと侯爵夫人は扇を口元に当てて目を半月型にした。
「申し訳ございません!!ですが、旦那様っ」
「まだ言うか。いいか?レティツィアは商品だ。商品に傷をつけて売るバカな商人などおらん。世の道理も解らないような愚鈍なものは侯爵家には不要だ。抓み出される前なら荷物も持って出られると言ってるんだ」
「お願いです!何処にも行くアテが無いのです。ここに置いてくださいませっ」
まだ縋る母親を侯爵は従者に命じて腕を掴ませると、引きずるように別宅から外に出した。
もうこの別宅をいや、侯爵家の敷地に足を踏み入れる事は叶わないだろう。
何年前だろうか。母親の実家である男爵家は何処にあるのだろう、祖父母は何をしている人なんだろうと興味を持った事があり、母親に問うのが怖くてゲルハ伯爵に問うたことがあった。
しかし母親の実家は借金が払えず夜逃げをしてしまい、屋敷はあるが全く無関係の者が住んでいると言われた。聞いた時、夜逃げの意味が解らなかったが今なら解る。
実家ももうない母親。
そして侯爵家でぬるま湯のような生活をしていた母親が放逐をされて生きていけるはずもない。この頃は不景気で娼館も多くの娼婦を抱えているため一昔前のように娼婦に売られる女性はほぼいない。買い取ってもらえないのだから娼婦にすらなれないのだ。
尤も娼婦もこれだけ数が多いから大盤振る舞いと価格設定が安いそうだが、客側にも事情があった。
女遊びをするほどの給金どころか、今の仕事に齧りつかねば失業してしまい再就職も容易ではないので街角に立っている娼婦を揶揄うのが関の山。
体を売れば日銭が稼げたのはもう昔の話だった。
冷たいと思われるだろうがレティツィアは放逐される母親に「ざまぁ」とは思わないが「可哀想」とも思わなかった。それ以前にもう「どうでもいい」とさえ思えてしまっていた。
追い出すのが母親だけなので、自分には何か使い道を見出したのだろう。
虚ろな目で侯爵夫妻を見れば、さも面倒そうに答えをくれた。
「お前はハーベル公爵家に嫁いでもらう。いいな?」
「ハーベル公爵家・・・ですか?」
「そうだ」
「しかし、今は喪中で・・・」
「死んだ人間なんぞ弔ったところで金にはならん。先方は1日でも早くと言ってくれてる。誕生日が来れば直ぐにでも結婚だ。それまで短い婚約期間を楽しむといい」
ハーベル公爵家は半年ほど前に領地に向かう街道が崩落し道が塞がれただけでなく、橋も落ちたと聞く。国からも補助金や復興費用は出るがとても追いつかないのが実情。
借りようにも額が巨額で公爵家と言えど、廃家が無いわけではない。
特にハーベル公爵家は王族が臣籍降嫁や臣籍降下をしなくなって5代以上になる。血も薄まった公爵家を国が必要以上のテコ入れするはずもなかった。
ハーベル公爵家に金を融資する。侯爵家としては婿は必要が無いので嫁がせる。
そして公爵家を介して新たな事業への足掛かりとする。それが侯爵夫妻の狙いだった。
腐っても公爵家。爵位というブランドがレティツィアを嫁がせて姻戚関係となる事に侯爵家には旨味を見出した。
レティツィアには拒否する権利も与えられていない。
逃げ出そうにも今までにいなかった侍女やメイドがやって来てレティツィアを監視し始めた。
17歳となったその日、結婚式もなにもない、ただ寝起きをする場所がハーベル公爵家になったのだった。
ゲルハ伯爵の遺産を放棄したレティツィアには侯爵家に居場所はなかった。
使用人も居ない別宅。ゲルハ伯爵からの金を本宅の使用人に握らせればついでだと色々してくれた使用人も金が無いとなればやっても来ない。
必然的にレティツィアがせねばならなかった。
昨夜も散々にワインを飲んで、テーブルの上はゴチャゴチャ。
レティツィアは布巾を水に浸し、テーブルを拭こうとすれば罵声が飛んでくる。
もうすっかり母親の罵声も忘れていたが、目の前で怒鳴る母親に「あぁ、こういう人だった」と何処か思い出のようにかの日を思う。
嫌な事があった時、ゲルハ伯爵はレティツィアをそっと抱きしめてくれた。
『嫌な事があればなんでも話してごらん』
蜂蜜たっぷりのホットミルク。「いい子だよ。レティはいい子だ」と髪を撫でながら幼いレティツィアを守ってくれたゲルハ伯爵はもういない。
『寂しくないよ。ウサギさんが一緒だろう?』
婚約者で幼女とは言え、成人の男性が添い寝をするのは宜しくないとレティツィアが眠りにつくまで野太いバリトンの声で子守唄を歌い、手を握ってくれていたゲルハ伯爵。
抱きしめていれば温かみを感じるとウサギのぬいぐるみはレティツィアがゲルハ伯爵家で眠る日はいつも一緒だった。
そのぬいぐるみももう灰になった。
――どうでもいいわ。何も考えたくない――
「聞いてるの?!ボケっとしてんじゃないわよ!」
母親の張り手が頬を打つが、痛みも感じない。
言いたいだけ言って、気が済むか、体力が尽きれば手を挙げるのを止めてくれる。
放っておけばいい。気にかけるだけ人生を無駄にするとまで母親に対してレティツィアはそう感じていた。
何発目かの張り手を貰った時、珍しく別邸の玄関から父の侯爵が入って来た。
更に珍しかったのは続いて侯爵夫人も入って来た事だった。
「何をしてるんだ」
「あ、いえ・・・これは・・・躾を・・・」
「頬が腫れあがり、鼻血が出ても止めない躾とは…畏れ入るわね」
バツが悪そうに振り上げた手をおろし、ギュッと手を握った母親は「早く拭きなさい」とテーブルに置いたままの布巾をレティツィアの顔に押し付けてくる。
テーブルの上を片付けろというので、片付けていた時に、いや「片付けろ」と部屋まで呼びに来た時にはもう母親の怒りは頂点に近かった。布巾はまだテーブルを拭く前。それでも綺麗とは縁遠い。おろしたてではないのだから。
「問題のある躾をするようなクズは要らない。荷物を纏めて夕方までに出て行け」
「そんなっ!!違うのです!これはこの子が口答えを!そう!口答えをしたのです。伯爵家の遺産も放棄するような娘ですから今一度私が――」
「もういいから出て行け」
侯爵が静かにそう言うと侯爵夫人は扇を口元に当てて目を半月型にした。
「申し訳ございません!!ですが、旦那様っ」
「まだ言うか。いいか?レティツィアは商品だ。商品に傷をつけて売るバカな商人などおらん。世の道理も解らないような愚鈍なものは侯爵家には不要だ。抓み出される前なら荷物も持って出られると言ってるんだ」
「お願いです!何処にも行くアテが無いのです。ここに置いてくださいませっ」
まだ縋る母親を侯爵は従者に命じて腕を掴ませると、引きずるように別宅から外に出した。
もうこの別宅をいや、侯爵家の敷地に足を踏み入れる事は叶わないだろう。
何年前だろうか。母親の実家である男爵家は何処にあるのだろう、祖父母は何をしている人なんだろうと興味を持った事があり、母親に問うのが怖くてゲルハ伯爵に問うたことがあった。
しかし母親の実家は借金が払えず夜逃げをしてしまい、屋敷はあるが全く無関係の者が住んでいると言われた。聞いた時、夜逃げの意味が解らなかったが今なら解る。
実家ももうない母親。
そして侯爵家でぬるま湯のような生活をしていた母親が放逐をされて生きていけるはずもない。この頃は不景気で娼館も多くの娼婦を抱えているため一昔前のように娼婦に売られる女性はほぼいない。買い取ってもらえないのだから娼婦にすらなれないのだ。
尤も娼婦もこれだけ数が多いから大盤振る舞いと価格設定が安いそうだが、客側にも事情があった。
女遊びをするほどの給金どころか、今の仕事に齧りつかねば失業してしまい再就職も容易ではないので街角に立っている娼婦を揶揄うのが関の山。
体を売れば日銭が稼げたのはもう昔の話だった。
冷たいと思われるだろうがレティツィアは放逐される母親に「ざまぁ」とは思わないが「可哀想」とも思わなかった。それ以前にもう「どうでもいい」とさえ思えてしまっていた。
追い出すのが母親だけなので、自分には何か使い道を見出したのだろう。
虚ろな目で侯爵夫妻を見れば、さも面倒そうに答えをくれた。
「お前はハーベル公爵家に嫁いでもらう。いいな?」
「ハーベル公爵家・・・ですか?」
「そうだ」
「しかし、今は喪中で・・・」
「死んだ人間なんぞ弔ったところで金にはならん。先方は1日でも早くと言ってくれてる。誕生日が来れば直ぐにでも結婚だ。それまで短い婚約期間を楽しむといい」
ハーベル公爵家は半年ほど前に領地に向かう街道が崩落し道が塞がれただけでなく、橋も落ちたと聞く。国からも補助金や復興費用は出るがとても追いつかないのが実情。
借りようにも額が巨額で公爵家と言えど、廃家が無いわけではない。
特にハーベル公爵家は王族が臣籍降嫁や臣籍降下をしなくなって5代以上になる。血も薄まった公爵家を国が必要以上のテコ入れするはずもなかった。
ハーベル公爵家に金を融資する。侯爵家としては婿は必要が無いので嫁がせる。
そして公爵家を介して新たな事業への足掛かりとする。それが侯爵夫妻の狙いだった。
腐っても公爵家。爵位というブランドがレティツィアを嫁がせて姻戚関係となる事に侯爵家には旨味を見出した。
レティツィアには拒否する権利も与えられていない。
逃げ出そうにも今までにいなかった侍女やメイドがやって来てレティツィアを監視し始めた。
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