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龍臣の記憶
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四年前の、とある春の日。
直哉が心臓移植を受けてから一週間が経過した日のこと。
とても朗らかで春らしい陽気がとても心地の良い朝だった。
「直哉くん、おはよう。どうだい? 体調は」
「……おはようございます。まぁ、普通だけど」
「ははっ、そうか、普通か。それは良かった」
当時中学一年生になったばかりの直哉は、病室で横になったまま主治医に無愛想に返事をした。
主治医はそんな直哉には慣れているのか、安心したように笑う。
普通。
つまり、移植した心臓を身体が受け入れている証拠だ。
移植直後は拒絶反応が出て大変だったようだが、もちろんその時直哉の意識は無かったためよくわからない。
ドクンドクンと規則正しく動いている心臓の音を感じて、一度生死の境を彷徨いながらも生還した意味を考える。
直哉は、ずっと自分は若くして死んでいくのだと思っていた。
何度も手術を繰り返して、その度に苦い顔をする主治医と泣く両親の姿を見てきた。
生きることに希望なんてなかった。
このまま病院で一生を終えると思っていた。
それなのに、突然現れたドナー。新しい心臓。
(……普通に考えて、怖すぎんだろ)
漠然とした恐怖は、生きることへと向けられていた。
自分の持って生まれたものはもうこの胸の中に無いのかと思うと、よくわからない複雑な感情に支配される。
他人の心臓を繋いだ自分の身体が生きていることが、まだ信じられなかった。
「退院したらようやく学校に通えるね」
主治医の言葉に、直哉は
「はは……まぁ、そうだね」
と苦笑いを返す。
(……みんながみんな学校を楽しみにしてるわけじゃないっつーの)
中学生になったとは言え、小学生の頃からほとんど登校できなかった直哉にとって、そこは未知の世界。
これから無事に退院したとして、周りの同級生と同じようにすぐに運動ができるかと言われればそれは難しいだろう。
筋肉もない、身体の動かし方も覚えていない。そもそも友達がいなくてコミュニケーションがまともに取れるとは思えない。
中学に在籍はもちろんあるだろうけれど、行ったこともなければその建物を見たこともない。毎日歩いて学校に行けるのかどうかも不安しかない。
そんな状態で登校したとしても、腫れ物に触れるように扱われるのかと思うと憂鬱な気分は変わらない。
(学校なんて今さら行って何になる? 俺は歳だけは中学生だけど、九九が限界だぞ……)
元気になって学校に通う未来など想像もしていなかったため、勉強なんてほとんどしてこなかった。
それが突然中学校に放り込まれたら、どうなるかは歴然としている。
友達どころか知り合いもいない。
(……本当、これからどうしよう)
生きることができる喜びよりも、これからの生活の不安でいっぱいの頭の中。
そんな悩みを抱きながら過ごしていた時だった。
ふと、何かが頭の中に何かが浮かび上がってきたのだ。
"優恵"
"優恵は大丈夫か"
"俺は優恵を守れたのか"
「……な、んだ? 今の……」
「ん? どうしたの直哉。何か怖い夢でも見た?」
「いや……」
心配そうな母親の声に、いつもなら"子ども扱いするな"と怒りたくなるところだったのに、その日は何故か違った。
"優恵"
何度も優恵という言葉が頭の中を過ぎる。
その度にひどい頭痛がして、直哉はナースコールを押した。
しかし検査をしても、脳に異常は見られない。
「何か声が聞こえた?」
「そう。"優恵"っていう声が」
「誰かの名前かい?」
「わかんない、でも俺は知らない人。聞いたことない」
「そうか……」
主治医はしばらく悩んだ様子だったものの、もしかしたら、と前置きしながら一つの仮説を立ててくれた。
「これは僕はあまり信じていなかったんだが……」
「なに?」
「直哉くんは、"記憶転移"っていう言葉を聞いたことがあるかい?」
それは、初めて聞く単語だった。
「記憶転移? 何それ」
「移植の多い海外では割と知られているかもしれないね。日本でもドラマや漫画になったりしているよ。臓器移植を受けたレシピエント……君のような患者に、臓器と一緒にドナーの記憶や趣味嗜好が移ってしまうという現象が報告されているんだ」
「記憶や趣味嗜好が? 移る? そんなことあるの?」
「僕は信じてないんだけどね。実際にそういう報告があるんだ」
「でも……待って、記憶って、脳に刻まれてるものなんじゃないの? なんで臓器と一緒に移っちゃうの?」
「それはわからない。あくまでもそういう事例があるっていうだけで、それが科学的に解明されたわけではないんだ。ドナーの情報もレシピエントの情報もお互いに開示されない。だから正直、本当に記憶や趣味嗜好が転移しているかどうかは確認のしようもない。それは誰にもわからないんだ」
「そんな……」
「現に、今までそれっぽいことを言っていた患者もいたんだが、気のせいじゃないかってことで済むようなものが多かったんだよ。好きな食べ物が変わったとか、今まで食べられなかったものが食べられるようになったとか。逆に好きだったはずのものが嫌いになったり服の系統の好みが変わったとかね。君のようにそこまではっきりと声が聞こえるとか、何かが浮かんでくるとか。明らかに攻撃的になったりとか目に見えて何かが変わったとか、そんな患者は見たことがなかったから。僕もどうにも信用できなかったんだよ」
「そう、なんだ……」
「でも、直哉くんの話を聞いているともしかしたら、と思ってね」
「……じゃあ、この心臓の元々の持ち主が、"優恵"って人を知っているってことか……」
「あくまでも仮説だけどね。まぁ、都市伝説レベルに考えておいてよ」
頭痛の原因を調べるためにいろいろ検査をしてみたものの、特に何も見つからなかった。
結局そんな都市伝説レベルの記憶転移という言葉と、それに伴うストレスが頭痛の原因なんじゃないかと告げられた。
しかし、そんなの到底納得できるはずはない。
心臓を移植したから持ち主の記憶が移った?本当にそんなことがあり得るのか?
そう思うけれど、
"優恵"
"優恵は無事なのか"
(なんなんだよ……なんなんだよ!)
次第に気を抜けば声が聞こえるようになり、直哉はしばらくそのストレスから逃げるようにベッドの中に潜り込んで塞ぎ込んだ。
しかし、
"優恵にもうあのサンダルはやめろって言わなきゃ"
"優恵に気持ち伝えてない"
どんどん心臓から声が溢れてきて、止まらない。
次第に"優恵"らしき人との会話の記憶まで聞こえてくるようになった。
"そういえば明日から部活見学始まるね。オミはやっぱりサッカー部?"
"あぁ。もう入部決めてるって顧問の先生に言ったら、明日から練習参加させてくれるって言ってた"
"え! すごいじゃん! 良かったね!"
明日から部活、サッカー部。
中学一年?高校一年?サッカー部ということは、おそらく男子生徒。
"幼なじみが頭悪いとか私も恥ずかしいし?"
そうか、この二人は幼なじみなんだ。
"オミ、おはよう。ごめん待った?"
オミ?それがこの心臓のドナーの名前か?
優恵の声や優恵との会話の記憶から、二人のことを少しずつ知っていった直哉。
次第に頭に広がるたくさんの記憶。
それは日を重ねるごとに減るかと思いきや、増える一方。
それを繋ぎ合わせていくうちに、この心臓のドナーが優恵とは幼なじみの中学一年生だということがわかった。
彼は一人っ子で優恵とは幼い頃から同じマンションの隣同士に住んでおり、ずっと一緒にいたようだ。
そして何かのタイミングで優恵と出かけ、交通事故に巻き込まれそうになった優恵を庇った。
その結果、亡くなってしまったのだと。
退院してから慌てて図書館に行って当時の新聞でその事故について調べてみると、被害者は市内に住んでいた中学生男児、藤原 龍臣だとわかった。
(オミ。タツオミだから、オミか)
その記事は、龍臣の声が教えてくれたものと寸分の狂い無く合致した。
そしてそれがわかった瞬間。
(……記憶、転移)
(……俺に、龍臣っていう奴の記憶が移ったのか……?)
それが、自分の勘違いや気のせいなんかじゃないということがわかり、ぞわりと鳥肌がたったのだった。
直哉は記憶が転移したということを身をもって実感しながらも、その意味を考えていた。
どうしてここまで強く龍臣の記憶が残ったのだろう。
"優恵に気持ちを伝えたい"
"優恵は無事だったのか?"
毎日頭の中に響く声は、優恵のことばかり。
おそらく優恵の無事を確認する前に亡くなってしまったのだろう。龍臣は亡くなるその瞬間まで、ずっと優恵の無事を知りたくて祈っていた。
しかし、そこに優恵を責めたり後悔するような言葉は一つもなかった。
"優恵を守れたんなら、それでいい"
"とにかく無事かどうかだけ知りたい"
"優恵は必ず俺が守る"
"それで、優恵に気持ちを伝えるんだ"
龍臣の記憶は、常にポジティブだった。
どうして事故に遭ってしまったんだとか、まだ死にたくなかっただとか。そんな思いがどこかから溢れてきてもいいはずなのに、龍臣の記憶には一切それがなかった。
もしかしたらそんなことを感じる間もなかったのかもしれない。
直哉が感じ取れるのは、あくまでも龍臣の記憶。
無くなる直前までの龍臣の想いだけだ。
その龍臣は、常に優恵のことを一番に考えていて、それ以外はどうでもいいとでも言っているように聞こえた。
驚くほどにいつ聞いても龍臣の中心は優恵で、その世界は優恵で彩られていたのだろうと容易に想像できた。
(……龍臣にここまで想われてる優恵って人は、一体どんな人なんだろう)
次第に直哉はそう考えるようになり。
人をそこまで一途にさせる人物が、すごいと思う。
それと同時に、誰かをそこまで一途に思い続けられることが羨ましくも感じた。
(……会ってみてぇな。優恵に。それで、龍臣の代わりに龍臣の気持ち、伝えてやりたい)
そう、考えるようになった。
*****
「俺はそれまで無気力で、ずっと生きることを諦めてたんだ。だから、常にポジティブで優恵のことだけを想ってる龍臣のことがすごいと思ったし、そこまで龍臣に想われてる優恵に会ってみたくなった。龍臣が伝えたかったこと、代わりに伝えたいと思った」
「……」
「龍臣は優恵を助けたことを後悔なんてしてない。唯一悔やんでることは、優恵の無事を確認できないまま力尽きてしまったこと。それと、気持ちを伝えないまま亡くなってしまったこと。それから、優恵とこれからを一緒に生きていくことができない。ただそれだけだ」
「そんな……」
「俺も事故の記事を新聞で読むまで信じられなかった。他人の記憶が身体に入ってくるなんて、普通に考えたら頭がおかしくなったかと思うだろ? 俺も実際に自分がおかしくなったと思った。だから信じたくなかったのかもしれない。だけど、それを認めてみたら一気に楽になったよ」
そう微笑む直哉に、優恵は言葉を失う。
「でも四年も経つと、さすがに心臓も俺の身体に馴染んできてるのか、声が聞こえることは段違いに減った」
「そう、なの?」
「あぁ。だけど、俺は諦めたくなくて。優恵をずっと探してた」
「それは、オミのことを私に伝えたかったから?」
直哉が不意に優恵に向ける視線はすごく優しくて、優恵はどくんと胸を鳴らす。
「そう。なんだろうな。急にこれから長い人生を生きてもいいって言われて、何をどうやって生きていけばいいのかわからない時に、俺に希望を見出してくれたのが龍臣だったんだよ」
「……希望」
「そう。どこに向かえばいいのか、何を目指せばいいのか悩む俺に、まず目先の目標をたてさせてくれたんだ」
優恵を探す。そして龍臣の気持ちを伝える。
それがただの自己満足であろうとも、命を繋いでもらった直哉にとってそれは精一杯の誠意であり、自分にしかできない使命のようにも感じていた。
そしてその思いの根底には、
"優恵、どうか自分のことを責めないで"
"優恵は悪くないんだ。だけど、きっと優恵は俺が死んだら馬鹿みたいに泣く"
"あいつはすぐ自分を責める。優しすぎるんだよ。でも、俺は全く恨んでないし後悔もしてない"
"それを、伝えられたら良かったのに"
そんな、龍臣の強い気持ちがあった。
「医者からもドナーの親族に接触するのは御法度だって言われてるし、俺もそう思った。だけど優恵ならセーフだとも思った。だから、ずっと探してたんだ。それで実際にあの事故現場で会えた時、奇跡が起こったと思ったよ。会ったことも見たことも無かったはずなのに、一目見て優恵だってわかった。あぁ、やっと会えたって。ようやく会えたって」
「……だからあの時、あんなに嬉しそうだったんだね」
「うん。嬉しかったよ。ホッとしたし、やった! って思いもあったし。まぁ、でもすぐにどうやって俺のことを信じてもらおうっていう悩みに変わったけど。実際龍臣の予想通り優恵はめちゃくちゃ自分を責めてるみたいだったし、俺のことも警戒しまくるし。ま、当たり前のことだろうけど」
ケラケラと笑う直哉は確かにあまりにも線が細いけれど、たった数年前まで生きることを諦めていたようには見えなかった。
その諦めを覆すような希望を、龍臣の心臓が与えたと言うのか。
それもその希望が、優恵を探すことだったなんて。
そう思うと、全身が震えるような気がした。
優恵はじっと直哉を見つめた後、手を伸ばして直哉の手に触れる。
「……ん? どうした?」
「……あったかい」
「うん。そりゃあ、生きてるからな」
「うん。……オミの、心臓が動いてくれてるから。なんだよね」
「……信じてくれんの?」
こくりと頷く優恵は、
「……私とオミしか知らないはずの会話を直哉くんが知ってるってことは、そういうこと。……ありがとう。私を探してくれて。オミの願いを叶えようとしてくれて、本当にありがとう」
涙を堪えながら笑う。
そして、
「オミのこと、オミが考えてたこと。オミが私に伝えたかったこと。全部教えて欲しい。……私、オミに何も感謝を伝えられていないの。いつも助けてもらってばっかりで。オミに、何も返せないままいってしまった。だからせめて、オミの気持ちだけでも知っておきたい。わがままかもしれない。だけど、全部教えて欲しい」
「……わかった。その代わり、俺にも優恵の知ってる龍臣のことを教えてよ。」
「え?」
「なんかもう、龍臣の存在自体が俺の一部になっちゃってる感じなんだ。だから、俺も龍臣のことを知りたい。いいだろ?」
「……うん」
それからしばらく、スイーツバイキングの会場を出た後も近くのカフェに入り、日が暮れるまで二人は龍臣の話をした。
優恵は幼い頃からの記憶。
ずっと一緒にいた思い出話。
直哉は覚えている限りの龍臣の記憶。
今でも稀に聞こえてくる、声のこと。
「龍臣は、優恵を庇った時点で自分が死ぬことをわかってた。だけど、龍臣もドナーになることは多分想定外だったと思う」
「うん、そりゃあね」
「だからなのか、この心臓には強く龍臣の記憶や想いが詰まってる。多分、未練ってやつだ」
お互いの話を聞けば聞くほど、龍臣という人物がどれほど優しくどれほど優恵のことを想っていたのかがわかる。
「これは俺の推測だけど。きっと、龍臣は優恵のことが好きだった」
「っ、そう、なのかな」
「じゃなかったら、もっとたくさんの人との記憶が残っててもいいはずだろ。龍臣はな、笑っちゃうくらいに優恵のことしか考えてないんだよ。だから、きっとそうだと思う」
「……本当にそうだったらいいなあ。そうだったら、嬉しい。今知ってもどうすることもできないし、私が死なせてしまったっていう後悔も消えはしないけど。でも、嬉しい」
「……ってことは、やっぱり優恵も龍臣のこと」
「うん。私、オミのことが好きだった。大好きだった」
ずっと胸に秘めていた想いを、初めて誰かに打ち明けた。
「でも、それに気付いた時には、オミはもう……」
「っ……」
「失って、初めて自分の気持ちに気が付いた」
一緒にいるのが当たり前だった。
隣を見れば、いつでも龍臣がいる。そんな環境に、甘えすぎていたんだ。
だからこそ、気付くのが遅すぎた。
気付いた時には、隣には誰もいなかった。
龍臣の姿は、どこにもなかった。
苦しくて、悲しくて、後悔しかなくて、どうしようもなくて。
「だから、許せない」
「優恵……」
「大好きだったからこそ、自分が心底許せない」
あれ以来ヒールのある靴はトラウマで履けなくなってしまったし、正直信号を渡るのは今でも怖い。
けどそんなことはどうだっていい。
自分の好きな人を、自分のせいで失ってしまった。
小さなこだわりとプライドと。たったそれだけで、龍臣を失ってしまった。
その後悔は、いくら龍臣が直哉の身体を介して"自分を責めないで欲しい"と伝えることができても決して消えはしない。
龍臣を失った事実は変わらないのだから。
「私が私を許す日は、多分一生来ないや」
涙を隠してへらりと笑ってから、グラスの中のアイスティーをストローでくるくると混ぜる。
中の氷がカランと音を立てるたびに、優恵の心はなんだか寂しくなっていく気がした。
目の前で直哉が切なさに表情を歪めていることに気付いていながらも、その言葉に嘘は微塵もないと言い切れる。
「ありがとう。オミのこと教えてくれて。嬉しかった」
優恵は、その言葉を最後に無言になる。
そして、しばらくじっと窓の外を見つめていた。
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