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出発
しおりを挟むまだ薄暗い時間。団長の執務室の扉が勢いよく開く。
中には、昨夜から報告書に目を通していた団長。書きかけの紙の上で、筆の先が止まった。
「……カイか。こんな時間に何の用だ」
「団長。俺、話があります」
息を荒くしたまま、カイは机の前に立つ。その目はもう迷っていなかった。
「リシュは……もう止められません。
何を言っても、何を命じても、自分の命を賭けてでも行こうとしています」
「……わかっている」
団長は低く呟いた。昨夜からずっと同じ報告書を読み返しながら、顔に深い影を落としている。
読んでも読んでも内容が入ってこない。矢に射抜かれたリシェルが戻ってきてから、団長も珍しく動揺を隠しきれないのだ。
「なら、俺も行かせてください。止めることはできない。でも、せめて俺がついていくことで、あいつの命だけは守りたいんです」
「カイ――」
「どうかお願いします! あいつは、もう"傭兵"の域を超えて動こうとしてる。けど、俺は……俺はあいつを見捨てられない!」
拳を机に叩きつける音が部屋に響く。
団長は黙ったまま、長く目を閉じた。やがて、ゆっくりと筆を置くと、静かに顔を上げる。
カイの手に握られた、一枚の封筒に目を止めた。
「それは……?」
「これは任務ではなく、俺のわがままです。傭兵団に迷惑をかけたくありません。けじめとして置いていきます」
カイは深く頭を下げ、封筒を机の上に置く。団長はそれを一瞥し、そして小さく笑った。
「けじめ、ね。……まったく真面目すぎる奴だ」
そう言って、退団願と書かれたそれを手に取り、しばらく黙り込む。やがて、その封筒を机の引き出しへとしまいながら、静かに言葉を落とした。
「これは形だけ預かっておく。本当に退団するかどうかは……帰ってきてから決めろ」
カイは目を見開き、力強く頷いた。
「ありがとうございます……団長!」
「好きにしろ。ただし、俺の命令はひとつだ。――どれだけ時間がかかっても、必ず二人とも生きて戻ってこい」
カイは深く頭を下げ、扉の外へと歩み去る。
その背中を見送りながら、団長はしばし無言で窓の外の空を見上げた。
東の空が、わずかに白み始めている。
その光を見つめながら、ふっと口の端を上げた。
「……俺が、あの娘をお前に預けたのは……間違いだったか?」
誰にともなく呟き、天を仰ぐ。
けれどその顔には少しの悔しさと、それを上回るほどの大きな誇らしさが浮かんでいた。
時を同じくして。宿舎の一室で、リシェルは肩の包帯を押さえながら荷物を詰めていた。
まだ動かすたびに傷が疼く。それでも、じっとしてはいられなかった。
背に上着を羽織ろうとしたその時、部屋の扉が静かに開く。
立っていたのは、既に鎧を着込み、剣を腰に吊るしたカイだった。
「……何してる」
低い声に、リシェルの肩がびくりと揺れた。
彼の視線は、すぐに彼女のまだ完全に癒えていない肩へ向かう。
「まだ万全じゃないくせに……どこへ行くつもりだ」
「いや、その……」
目を逸らし、リシェルは言葉を濁した。
カイはゆっくりと部屋へ入ってくる。どこか最初から見越していたような顔だった。
「……まぁ、そんなことだろうとは思ってたがな」
「え……?」
「俺も行く」
「え……!?」
リシェルは思わず顔を上げる。
カイはいつものようにぶっきらぼうな調子で、だが迷いのない目をしていた。
「言っただろ。俺がずっとそばにいるって。だから、一緒に行く」
その言葉に、リシェルの胸が一瞬詰まる。
顔が熱くなるのを必死で隠そうとするが、頬は赤く染まっていった。
「……次はどこに行くつもりだ?」
「……」
リシェルは口を開きかけ、だが結局何も言わずに目を伏せた。
カイは肩をすくめるように笑い、まるで開き直ったように言う。
「まぁ、言わないつもりならそれでいい。俺は勝手についていくからな」
「……っ」
その言葉に、リシェルは思わず吹き出してしまった。
その笑顔は、いつもの強がりでも、苛立ちでもない。自然にこぼれた、柔らかな笑顔だった。
カイの足が止まる。
彼はその笑顔に、息を呑んだ。
(……こんな顔、五年の間で初めて見る……)
厳しく接してきた日々。
反発しあい、ぶつかりながらも積み重ねてきた時間。その向こうに、今、初めて向けられた笑顔。
カイの胸の奥で、何かが静かに揺れた。
街を抜ける風が、朝の冷たさを運んでくる。
馬上のリシェルは、まだ痛む肩を押さえながら、手綱を握りしめていた。
隣を走るカイが、ちらりと横目で彼女を見る。
「……で、これからどこへ行くつもりなんだ」
問いかけに、リシェルは少し迷ったように視線を前に向けた。その目には、静かな決意が宿っている。
「……書庫で、"黒炎"についての記録を見つけました。そこに王印がありました。それと、"器"についても書いてあったんです」
カイの眉がわずかに動く。だがリシェルは止まらない。言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「もしかしたら、城跡に……何かが残っているかもしれません。一度、あの場所を確かめたいんです」
「あの場所?」
「……ルミナリア王国の、城跡です」
「……ルミナリア? どうして」
また王都に潜入するのかと思い込んでいたカイは、驚き眉を顰める。
リシェルは、それを横目に書庫で見た内容を思い出す。
「"器"は、ルミナリアにあると書かれていました」
「なんだと?」
「ただ、現在は行方不明だともありました」
「……」
「何か手掛かりがあるなら、それを探しに行きたいんです」
「そうか。……でも、お前。ルミナリアには行ったことあるのか?」
カイの問いに、リシェルは小さく息を呑んだ。
ほんの一瞬、迷いが過る。
けれど、すぐに顔を上げる。もう隠す必要はないのだと思いながら。
「……ええ。俺……いえ私。……ルミナリアの出身なんです」
その一言だけを残し、リシェルは手綱を強く握った。
しばらくの間、言葉はなかった。
ただ蹄の音と、はやる自分の呼吸音だけが鳴り響く。
カイは前を行くリシェルの背中を見つめながら、何度も言葉を探しては飲み込んだ。
風に揺れる短い髪。
その姿は、もうかつての"少年兵"ではない。
気づけば、彼女は本当の意味で、自分の意志で歩こうとしている。
(……本当は、止めるべきなのかもしれない。でも、今のあいつの目を見たら……誰にも止められねぇよな)
息を吐き、カイは手綱を握り直す。
ふと、リシェルが振り返った。
「……隊長?」
「いや、なんでもねぇ」
わずかに目を逸らして、笑うように言う。
その笑みには、僅かな寂しさと、それ以上に強い決意が滲んでいた。
もう、守ると決めたのだ。
彼女がどんな道を選んでも――その隣を、離れずに歩くと。そう決めたのだから。
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