〜巴旦杏〜腹減り新人ボクサーは、恋愛自体も新人です。

鱗。

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第一話『アーモンドの瞳を持つ麗人』

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早朝は朝刊配りのバイト。その後、週六でロードワーク。昼はジムでトレーニング。筋トレ。シャワー浴びて夜は居酒屋でバイト。終わったら下宿先でもあるジムの二階に帰って死んだように寝て。直ぐに起きて、また朝刊配り。


の、繰り返し。


いまは朝刊が配り終わったので、日課のロードワークをしている。10キロほど走って体を温めてから、ジムに向かう予定だ。途中に結構な勾配のある坂を挟んだり、高台にある見晴らしの良い公園のジョギングコースを通ったりと、足腰を鍛える道を敢えて選んでいる。最初のうちは、決められたメニューをこなすだけでヘトヘトになってしまっていたけれど、いまではすっかり慣れてしまったので、どうという事は感じない。


けれど、飽きという物は何事にも起こり得るもので。この場合はロードワークに当てはまった。


たまには走る時の景色を変えてみようか。気紛れにそう思った的場まとば 洋介ようすけは、坂を下り終えると、いつもなら横に突っ切るだけの商店街に足を向けた。まだ時間が早い事も手伝ってか、殆どの店のシャッターが閉まっており、人影らしきものすら見受けられない。結構なスピードで走っているからロードワークには適しているけれど、その様子はどこか物悲しかった。


閑散とした煉瓦敷きの道を走る。息が上がる。一歩踏み出すたびに、鼓動が一つ、二つと、追いかけてくる。汗が額に滲んでは頭髪に馴染んで。また一雫が髪の先端から散った。


細い十字路に差し掛かったところで、openと書かれたボードが遠目に見えた。こんな早朝から開いている店がある事に、まずは驚いた。そもそもあんな所に店があっただろうか。前にちょっとした買い出しを先輩に頼まれて前を通った時は、昼間だろうがなんだろうがシャッターが下りっぱなしの、古びた雑貨店だった筈だ。


気が付けば、薄暗い煉瓦敷きの路面を煌々と照らす、幻のように現れたその店の前に立っていた。


『cafe & deli amande』


看板はアンティーク調の雰囲気を醸すために、敢えて錆を浮かせていたものだとわかった。見た目に揺らぎのある年代物のガラスの引き戸があったので、洋介は、そこから何気無く中の様子を伺った。


随所に置かれた観葉植物。
嫌味なく適度に配された趣のある調度品。
使用感のある蓄音機。
木枠で囲われたショーケース。


中には、色とりどりの惣菜が盛られた木の器がずらりと並び、簡単に食事が出来るようにカフェスペースも設えてあった。


中に入るの、勇気いるなぁ、と胸の中で呟く。明らかにターゲット層は女性だろう。しかも若めの。草臥れたパーカーを羽織っている上に、汗だくの自分が入店する余地などない。だが。


店の中、ショーケースの上。
気怠げに頬杖をつく男と。
ガラス越しに、ばちりと目が合って。
ジョングクは、まるで金縛りにあったかのように身動きが取れなくなった。


巴旦杏アーモンドの様にすっと筋が通っていながら、ころんとしている印象のある柔らかな眼。磁器の様に、白い肌膚。ふっくらとして、一雫赤を落とし込んだ唇。作り物かと見紛うほどのそれらに、瞬間、意識を攫われた。


男の口許が、ふわりと和む。
そして、開く。
声もなく。緩々と。
艶めいた唇が、言葉を縁取る。


『お』

『い』

『で』


それを目にした瞬間。ぞくり、と得体の知れない何かが背筋を走った。


一体、なんだこれは。喉が渇いて仕方がない。走っていた所為などと、一概には片付けられない感覚。なのに、口内には溢れんばかりに生唾が溜まって。洋介は我知らず、それをごくりと飲み下した。


男が指先だけで手招く。それに誘われるようにして、ふらふらと脚が動いた。自分の脚だという感覚が、まるで無い。夢遊病患者でもないのに、夢に浮かされたような心地だった。そして、はた、と気が付いた時には既に扉の向こう側にいた。自分自身の行動が信じられず、洋介は暫く呆然としてその場に立ち尽くした。


「いらっしゃい」


男が柔らかく声をかけてきた。弾かれるようにして視線を再び交わすと、目を細め、花が綻ぶように、にこりと微笑まれる。洋介は頬に熱が篭った事を自覚した。恥ずかしかったけれど、止め様が無かった。胸を過ぎった羞恥心を持て余してしまい、何とかそれを誤魔化すようにして、小さく会釈を返した。


男の見目は性別を見間違えるような類いの代物ではなかったが、漂わせている空気が何処と無く艶めかしく、麗人と呼ぶに相応しい雰囲気を身に纏っていた為、普段無骨な男達としか会話した事のない洋介は、視線の置き場に悩んだ。店には他に誰も客はいなかった。店内に二人きりという状況も手伝って。洋介は、緊張から掌にかいた汗をパーカーの裾で拭った。


誘われる形で入店したものの、はっきり言って店に留まる理由が無かった。だが、一度足を踏み入れたからには、何かしら行動を起こさなければならないだろう。でなければ単なる冷やかしになってしまう。洋介は男から視線を無理矢理剥がすと、仕方なくショーケースの中を覗き、そして、驚愕に目を見開いた。


惣菜が入った木の器の前には、手書きのプレートが添えられていた。商品名だけならごく普通のそれらだったが、注視すべきはそこではなく、その下の表記だった。


100g毎のカロリー、脂質、糖質、塩分量が、全ての商品に記載されている。しかも、そのどれもが驚く程に低い。中には揚げ物の様な見た目の商品もある。俄かには信じ難いそれらをまじまじ眺めていると、鈴を転がしたような忍び笑いが耳に届いた。男に視線を戻す。開襟のワイシャツに、ダークグレーのエプロンを見に纏った男は、いつの間にか頬杖をやめて此方を眺めていた。


「気に入ったの、ありました?」

「あー……はい、まぁ。あの、これって本当に表示通りなんですか?」

「ちゃんと計算してますよ」

「本当に?……うわぁ、凄いな」


品数もさる事ながら、一品に含まれる食材の種類のふんだんさたるや。大手チェーンならばまだしも、個人経営の店でここまで計算するとなると、手間暇がかかるどころではない事は容易に想像がつく。だが、身体を資本にしている職業柄、こういった配慮がなされているのは素直に有難い。買い物をするつもりなどなかったのに、思わず食指が動いてしまった。


「これ……ささ身とモッツァレラチーズの香草パン粉焼きと、豚の角煮と、おからと豆のサラダ下さい」

「サラダはちゃんと計れるけど、あとは個数でやってます。その辺、了承して頂けると助かるんですけど」

「あぁ、はい。大丈夫です」

「お米いりますか?雑穀とこんにゃく米入れて炊いてるから、カロリーとか糖質とか、色々低いですよ」

「あ、いる、いります」

「じゃあ、お弁当にしましょうか?」

「うわぁ、それ助かります」

「分かりました。どれくらい欲しいか教えて下さい」


量を告げると、男は一つ頷いてから、慣れた手つきで丁寧に包装をし始めた。だから洋介は空いた時間を利用して、とっくりと男を観察した。


身長は、自分より少しばかり低く、身体つきは平均より薄い。滑らかに動く短めの指先は綺麗に爪が切り揃えられていて好感が持てた。見た目や物腰、言葉遣い。男の佇まいは、食品を扱うのであればこうであって欲しいという理想を体現していた。包装を終えると、ビニル袋に割り箸と弁当を入れて男がレジに向かったので、洋介も会計をする為に、後ろポケットから草臥れた財布を取り出した。すると男が。


「切り良く、ワンコインでいいですよ」


などと、驚くべき金額を提示してきたので。洋介は思わず、は?と素っ頓狂な声を上げた。


「君、富田さんのところのボクサーさんでしょう?」

「え……なんで俺のこと知ってるんですか」


洋介は心底から驚いて尋ね返した。すると。


「いつも、見てるから」


そう、なんの躊躇もなく、さらりと言い放たれて。洋介は、再び瞠目した。ばくん、と胸が大きく脈打って。洋介は唐突に襲い掛かってきたそれを受け止めきれず、げほげほ、と盛大に噎せた。


「だ、大丈夫?」


男が心配そうに眉根を寄せた。洋介はそれを片手で制して、大丈夫だと態度で示した。いま引き起こっている事態に比べれば、ちょっとやそっとの身体の反応など、瑣末な問題だった。


「っ…あの、あなた、もしかして、俺の……」


ーーーファンなんなんですか?


その先を口にする前に。男は合点がいったかのように、あぁ、と漏らして、さっぱりとした声で、それを遮った。


「窓の外、見てごらん」


男が促すので。洋介は咳が落ち着いたところで、緩々と窓の外に視線を移した。そして直ぐに、男の言葉の真意を理解した。この店の向かいにある、まだ薄暗い喫茶店の壁面に貼られているポスター。ファイティングポーズをとって此方を睨み付けてくる自分自身と、目が合った。


これでも看板ボクサーの端くれだ。ジムの宣伝用にと、撮られた覚えがある。それが、駅前だけでなく商店街にまで進出しているとは、思いもよらなかったが。タネを明かせば、そんなことか。事実を知った途端、洋介は小さく肩を落とした。それと同時に、無自覚のうちに高くなっていた自意識を眼前に晒された格好になり。洋介は、身を捩る程の羞恥心に苛まれた。


恥ずかしいにも、程がある。洋介が暫く押し黙ってその感情をやり過ごそうとしていると。男がこちらを伺う様にして、そろりと尋ねた。


「ちょっと……押し付けがましかったかな?」


その言葉選びに驚いて、洋介はパッと彼を振り返った。見ると、彼は頬を掻きながら、しょんぼりとした様子で視線を下に落としていた。


「こんなもんで応援になるなんて思っちゃいないけど、さ……」


なんだか、酷い思い違いが生じているような気がする。これは、早めに誤解を解いて置かなければ。


「いや、充分ッ……その、助かります」


洋介は慌てふためいた。勢いあまって、レジカウンターに身を乗り出してしまうくらいに。男は、そんな洋介を見て、きょとんと目を丸くした。そして。


「なら、良かった」


ホッと胸を撫で下ろしたかの様に、くしゃりと笑った。それは、いままで見た彼のどの表情よりも幼くて。洋介は、なんだか眩しいものを見た時のように、目を細めた。

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