〜それよりも、もっとずっと。〜天才山岳写真家の愛息子は、俺に初恋を運んでくれました。

鱗。

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第一章『天才写真家の愛息子』

第五話『初めての招待客』

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日本百名山にも数えられている長野県伊那市と山梨県南アルプス市に跨る仙丈ヶ岳は、三つのカールを持っており、女性的で緩やかな山容をしている。六合目付近に差し掛かると、南アルプスの山々や富士山を眺めながら稜線歩きが楽しめる為に、初級者から中級者向けの山として、多くの登山家達に親しまれていた。今回は、卒業制作の写真を撮るために訪れたという事もあり、しっかりとした装備と、気温差を考慮した服装に加えて、カメラ機材を多く所持している。その為、あまり稜線歩きにばかり気を取られていると、目的である写真撮影に割く時間と体力が無くなってしまうので、その時間は、作品に対するイマジネーションを促進する為の時間だと割り切って考え、作品作りに注力する事にした。


バス乗り場は、仙流荘前から出発する南アルプス林道バスに乗車しようとする登山客で溢れていた。ICカード等は使用出来ないので、バス乗り場で切符を購入する必要がある。また、肝心のバス自体も小型なので、実家に前泊し、こうして早めに来ていても、時間的余裕はあまり感じられなかった。車内が狭いためにザックを膝上に置き、約55分ほど掛けて北沢峠に辿り着く。甲斐駒ヶ岳への登山口としても開かれている場所でもあり、どちらも日帰りで登山可能なので、北沢峠付近に何軒かある山小屋に宿泊し、仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳を1泊2日で登る行程も考えとしてはあったのだけど。今回は、卒業制作のメインテーマに設定した仙丈ヶ岳の撮影と、その後に控える喫茶店への訪問が目的だったので、その選択肢を頭の中で除外した。


今回のコースでは、出発すると仙丈ヶ岳登頂後の仙丈小屋までトイレが無いので、迷わずに北沢峠のトイレを使用した。そして、そのすぐ脇にある登山道から『仙丈ヶ岳』方面へと足を進め、やや勾配のある坂を登って行き、いよいよ登山を開始していった。途中にある標識を進捗度の目安にしながら登って行くと、四合目を過ぎたあたりから再び急登になり、今度は土から岩の登山道に変化する。つまり、ここからが本格的な登山の開始となるので、気を引き締めて足を進めた。


大滝ノ頭にある分岐で、『小仙丈ヶ岳』方面へと向かうと、六合目付近で稜線に出られるため、そこから一気に展望が開けた。植生はハイマツ帯が中心になり、この先は、高山植物が植生の主体となっていく。振り返ると後方に甲斐駒ヶ岳が見え、左手には富士山が望めるガレ気味の登山道を真っすぐ進んで行くと、大体、登山口から徒歩で一時間三十分程で、標高2,864メートルの小仙丈ヶ岳に到着した。小仙丈ヶ岳を過ぎた辺りから、『小仙丈沢カール』と『大仙丈沢カール』という、二つのカールが望める様になる。そこで一旦写真を撮影してから、俺は再び幅の狭い登山道を進んで行った。


所々が岩場になっている登山道を、岩場に描かれた『○』『→』を目印にして歩いて行くと、山頂を目前とした最後の分岐が見えてくる。そこで『仙丈ヶ岳』方面を選ぶと、登山道右手に、三つ目のカール、『薮沢カール』が見えてくる。左手には日本第一位と第二位の高峰、富士山と北岳が並んでおり、壮大な景観がそこに広がりを見せ、まるでこの場所に到達した者達を歓迎しているかの様な様相を呈していた。


今日は久々に歩いたな、という実感がある。最近では、親の強い勧めと広告代理店の叔父からのプレッシャーを受けて、就職活動もじわじわと始めているから、こうして山に触れる機会をなかなか見繕えなかった。とはいえ、自分自身の中にある写真家だけで食べていきたい、社会人として働き、どっちつかずな人間にはなりたくないという気持ちは、まだまだ胸の中にあったから、俺が就職活動に手を出しているのは、親と叔父の顔を立てる意味合いが色濃く出た結果ではあった。


山頂へと続く最後の登りを終えれば、標高3,033メートルの仙丈ヶ岳のピークに到着する。北沢峠から、およそ三時間二十分掛けて辿り着いたその場所は、真冬のように耐風姿勢を取っていないと、立っていられないくらいの風の強さだった。バックパックからパッキングしたカメラ機材を取り出して設置すると、他の登山客の邪魔にならない様にしながら、仙丈ヶ岳のピークから、富士山から北岳、そして、鳳凰三山に至るまでの景観に向けて、カメラのシャッターを無心になって切り続けていった。


切り取る。目の前にある雄大な光景を、流れる空気や光を真空パックして、そのままに。


それでも、自分の納得の行く作品が一枚でも撮れたかと聞かれれば、思わず自分自身で苦笑してしまう様な代物ばかりで。俺は、手応えらしい手応えを殆ど感じ取れないまま、本日の自分に早々に見切りをつけて、とぼとぼと仙丈ヶ岳を下山した。


やっぱり、俺には才能なんて。それに、どうしたら尾身先生の様に、天候すらも味方に付ける強運に恵まれるんだろう。


卒業制作の際に訪れた際には、きっと顔を出しますと、深雪さんと約束をしたその店が次第に見えてくると、それまで意気消沈していた気持ちが、次第に切り替わっていった。このまま、沈んだ顔を見せて、今回の写真撮影に手応えを感じなかった空気を悟らせて、深雪さんを心配させるわけにはいかない。無事に帰ってきた事だけを、明るい雰囲気のもと伝えて、また前の様に、深雪さんと一緒にゆっくり時間を過ごしたり、一緒に尾身先生の作品に触れながら、気分だけでもリフレッシュさせよう。


そうと決まれば、後は入店を果たせばいいだけなのだけど。以前初めて訪れた時とはまた別の胸の高鳴りを覚えて、またしても俺は、店の扉の前で立ち尽くしてしまった。先生の作品のある空間に再び触れる事ができる緊張からくる動悸なのか。はてまた、もっと別の何かに対する期待なのか。自分でもよく分からない感情に支配されて。だからこうして、様々に生まれた感情に踏ん切りをつけて、ままよ、と入店する勇気を振り絞った俺の前に現れたのが、あの春風を優しく封じ込めた様な柔らかな人ではなく、ギリシア彫刻の様に整った顔立ちの、呆気に取られてしまうくらいの美男子だった事には、思わず肩透かしを食らってしまった。


「いらっしゃい。へぇ、本当に来たんだ、お疲れ様。いま帰りだよね、時間的に」


この人が、一体何者かは分からないけれど、以前深雪さんと話をしていた様子から察するに、この店の店員さんである事は間違いがなさそうだ、と判断して。気を取り直して、自分の中に一生懸命に見繕って用意した回答を口にした。


「はい、そうです。すみません、荷物がちょっと多くて。それに、下山したままのこんな格好で来てしまって。ご迷惑をお掛けします」

「大丈夫、そんなお客さんも結構いるし、寧ろ、そんなお客さん向けに、この店は作られたみたいなものだから。深雪の親父さんの意向でね」

「そうだったんですか……」


以前訪れた際に、深雪さんから作品の説明や、当時のエピソードなどを聞いていた時に、この店についても軽く説明をされたけれど。本当にその通りだったんだなと知り、この店の出資者でありオーナーだった尾身先生が、それだけ山を愛し、山を愛した人を大切にしてきた人物だったんだなと、そこからも伺い知れて。先生に対して、より一層の尊敬の念を抱いてしまった。


「深雪はいま、ギャラリーの方にいるよ。お客さんみたいな親父さんのファンが来ててさ。だから、あいつと話したい様なら、もう少し待ってて」

「え、あ……いや、そんな。お忙しいなら、それで」

「何言ってんの、俺の顔見た途端に、滅茶苦茶ガッカリしてた癖に」

「え、ええ……?」


ガッカリしてた?俺が?そんな、殆ど面識が無い人から見ても、分かりやすいくらいに?そんな指摘を受けて、一気に狼狽してしまった俺は、顔に一気に血が巡る自覚すらも得ながら、その場であわあわと、口を開いたり閉じたりを繰り返した。そんな俺の様子を見ても、なんら茶化したりしてこない、深雪さんに智久と呼ばれていたその人は、口元に人の良い笑みを浮かべて、指先だけで俺を手招きした。


気を取り直し、なんだろう、と思いながら恐る恐る近付き、智久さんに促されるまま、智久さんの口元に耳を傾けていく。すると、そんな俺の耳に向けて、穏やかなテノールが流れ込んできた。


「あいつ、いま付き合ってる奴、いないよ。ていうか、付き合ってた人の話とか聞いた事ない。だから、できればお前がリードしてやって」


言われた事の意味が、初めのうち、全く頭に入って来なかった。どうして、深雪さんに付き合っている相手がいるいないの話になってしまったのか、それこそ見当がつかず。『なんて?』と、その場で思考が完全にフリーズしてしまった。


「あれ、もしかして、自覚ない?うーん、なんかごめんね。でも、それくらい奥手の奴じゃないと、あいつが相手の場合、空回りして終わる可能性大だしなぁ」

「いや、あの……智久さん」


そこらの俳優も目じゃ無いくらいに整った顔に書いてある、『ん、何?』という問いかけに、それ以上の言葉を無くしそうになる所を、なんとか乗り越えて、自分自身の中にある疑問を解消する為に口を開いた。


「……俺、恋愛対象は、恐らく女性なんですが」

「大丈夫、それくらいは見てれば分かるから」

「なら、どうして、そんな」

「見てれば分かるから」


会話にならない。なんだこれ。会話のテンポが不思議というか、いまいち性格が掴みにくいというか。本当の意味での天然の人には出会った事がないけれど、もしかして、この人、それなのかな。


「だけど、ときめいたなら、自分の気持ち大事にしないと」


ときめき、という、自分にとって一番縁遠い感情が、自分の中に芽生えているという指摘を受けて、二の句が告げない。確かに、俺の胸に芽生えたこの感情には、自分でも、どんなルビを振れば良いのか全く分からなかったけれど。だからといって、直ぐに直ぐ、恋愛感情に結び付けてしまうのは、如何なものか。あまりにも、短絡的過ぎやしないか?それに、もし仮にそうだったとしても、その感情を積極性をもって育てていって何になる。


「仮にそうだとして、その感情を育てても、どうにもならないでしょう」

「なるよ、どうにか」

「え……?」


敢えて突き放した言い方をしてしまったけれど、俺の中で、智久さんに対する目立った罪悪感はなかった。でも、そうした冷たい態度を取る俺の事なんて、全く意に介せず。智久さんは飄々と、ある信じられない事実を、俺に告げてきたんだ。


「親父さんが大切にしていたギャラリーのあるこの場所を、あいつが自分から進んで紹介した事は、これまで一度も無かったんだ。だから、あいつにとって、初めてこの場所に招待したお客さんが、お前さんなんだよ」


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