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第一章 『憧憬』

第六話 僕は、貴方を、誰よりも誇りに思うんだ

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その後の話し合いで、律は、もし良ければ自分の家に来てくれないか、自分の実家に来てくれた方がおもてなしが出来るから、その方が有難いと言って、僕を実家に招きたいという強い希望を示していった。あまりに前のめりだったので、一体どうしたんだろう、とは思ったのだけれど、考えてみれば、ワンちゃんの遊び道具なんてウチには無いし、ワンちゃんにもおやつの好みがあるだろうから勝手には用意出来ないしで、ワンちゃんの事を考えたら、僕が律の家にお邪魔しに行った方が早いよね、という事で、僕の中でも話が決まった。


とはいえ、憧れて止まない矢澤 律選手を育んでくれたご実家に足を踏み入れるなんて、度が過ぎた真似をしてしまうのは他のファンに申し訳ない気持ちで一杯になってしまったけれど。話し合いの結果決まった翌週の土曜日、そのご実家に一度足を踏み入れると、僕の緊張はそれを遥かに上回る興奮によって塗り替えられてしまった。


「うわぁ、あれ、TVで見た事ある。お父様が律の為に作ったクライミングウォールでしょう?」


僕の日光アレルギーを考慮して、陽が沈むぎりぎりの時間に訪れた、ドッグランに使うに申し分ない広さの庭には、大掛かりな手作りのクライミングウォールが存在感を発揮している。ボルタリング用のそのウォールには、ありありとした使用感があり、使用者である律が日々親しんでいるの事が伝わってきて、胸がほっこりと温まった。


「はい。父が一から手作りして。今でも増築したり、近所の子供に遊ばせたりしています。大人がいない時に勝手にやるのは駄目だよって言ってあるので、今のところ問題は起こってないけど……もし良かったら、やってみます?」

「え?……いいの?」

「うん、勿論。シューズは、俺が学生時代に使ってたやつ貸しますよ」

「わぁ、ありがとう……っ、僕、TVで初めて見た時から、ずっとこの場所に憧れてたんだ。だから、本当に夢みたいだよ」

「ええ?あはは、そんな大袈裟な……」


大袈裟な話なんかじゃ無い。実際に、僕の身体は興奮でぶるぶると震え始めていたし、声もそれに応じて微かに震えていた。僕の身体に現れた反応を見て、律は、得意げに浮かべていた笑顔を沈めると、不思議そうに目を丸くして、まじまじと僕を観察し始めた。


「震えてるのは寒さの所為かと思ってたけど、違うの?本当にお世辞じゃなくて?」

「うん、全然。寒さなんて、今はちっとも。ごめんね、こんなで……入り口からして迷惑かけちゃった」

「そんな事は無いですけど……そっか、真澄さんは、そんなに……じゃあ寧ろ、お客様扱いせずに、どんどん慣れていって貰うしかないか。ちょっと待ってて下さい」


暫くの間、ぼそぼそと独り言を口にしていた律は、にこり、と老若男女全てを安心させる様な人の良い笑みを浮かべると、一言添えてから、くるりと身体を反転させて、物置きとしても使われているガレージに進んでいった。すると、そこに重ねて置かれていた強化プラスチック製の収納ボックスを漁り、中から一足のシューズを取り出して、その場を後にし、僕の前まで戻ってきた。


「これ履いたらストレッチして。チョークは常備してるから、それ使って下さいね。寒いから、ストレッチは手伝います」


ストレッチは、一人だけでやれるものと、二人でやっても捗るものとがあるので、その有難い申し出を素直に受ける事にした。シューズを履き替えると、ダウンジャケットを脱がずに行えるストレッチから始めて、徐々に体温が上がってきた所で、ダウンジャケットを脱いだ。そして、二人でやると捗るストレッチをしていると、僕のダウンジャケットの下に着ていた格好を確認した律が、気さくに声を掛けてきた。


「その格好なら、着替えなくても大丈夫そうだね。着替えが必要になったら、俺のを貸しますよ。あ、お風呂なら沸いてるから、後でゆっくり入って下さいね」

「そんな、そこまでして貰うのは、流石に申し訳ないよ……」


こうして大切なクライミングウォールを使わせて貰うだけでなく、着替えやお風呂の準備までして貰うだなんて、あまりに申し訳がない。律なりのおもてなしだとは分かっていても、正直言って、気が引けてしまう。


「俺がしたくてしてるんです。それに、今日は俺以外家の人間はいませんから、緊張しないで、ゆっくりしていって下さいね」

「え?他のご家族は、どうしたの?」

「実は、母がギックリ腰になってしまって、湯治も兼ねて、犬も一緒に行ける温泉旅館に行ってるんです。整骨院も近くにあるので、家にいるよりは良いって。姉は独立してるし、父も心配で着いて行きましたから、こっちでは俺だけで過ごしてるんですよ」

「そうだったんだ……大変だったね」


聞いているだけで大変そうで、心配で堪らない。ただ、聞く所によれば、ある程度時間が経てば回復するという話なので、律のお母さんの体調の早期回復を祈って、お大事にして下さい、とだけ付け加えた……だけど、あれ?犬も一緒に行けるっていうことは、つまり?


「あの、じゃあ、律がいない間、ワンちゃんは?もしかして、温泉に一緒に?」

「……うん。真澄さんには話して無かったんですけど、母が腰を痛めたのは今週の水曜日で。だけど、犬と遊べるのを楽しみにしていた真澄さんには、その事をなかなか言い出せなかったんです……がっかりさせて、すみません」


しょんぼりと肩を落とし、自分ではどうにもならない事を謝ってくる律は、叱られた仔犬の様に僕の目に映って。それだけで、きゅんきゅんと胸が苦しくなった。こんなに恵まれた身長と体躯をしているのに、なんて庇護欲を掻き立てる子なんだろう。あるともしれない母性まで擽られている様な気持ちにもなってくる。本当に凄い子だなぁ……ありがとう、世界。この子を育んでくれて、感謝します。


「だから、せめて、出来るだけのおもてなしがしたくて。クライミングとか、お風呂とか、ご飯は……出前ですけど。それで、楽しんで貰えたらなって」

「そんな、気にしなくていいのに。それよりも、律は?この三日間、きちんと食べてる?体調に変わりない?僕に出来る事があったら、何でも言ってね?」


お母様も事も心配だけど、それ以上に、身体が資本のアスリートである律の体調に変化がないかが、気になって仕方が無くて。僕は、前のめりになって、律に自分の胸に沸いた不安を問い掛けた。けれど、ファン心理と掻き立てられた庇護欲や母性(?)からくる、そのあまりの勢いに気圧されて、きょとん、と目を丸くしている律を見て、僕は、はたり、と我に返って、さぁ、と顔を青褪めた。


「えっと、その、……ごめんなさい。吃驚させたよね」

「あ、いや。確かに吃驚はしましたけど、そんな風に謝るとかじゃ……寧ろ、嬉しいです。こんなに心配して貰えて」


はにかむ様にして、ふふ、と微笑む律の背後に、幻でも何でも無く、きらきらとした後光が差す。あまりの眩しさに目が開けられない。その光は、何かとネガティブな思考に囚われがちな僕の邪念的な何かを、綺麗さっぱりと吹き飛ばして浄化してくれた気持ちになって。僕は、自然とその場で静かに手を合わせていた。


頭の上に『?』を浮かべた様な、あまりにもつぶらな眼をしたキョトン顔をされたので、併せて拝んでおく。よく分かりました、ここが浄土なんですね。お導き下さり、ありがとうございます。


「真澄さん、身体が冷える前に始めませんか?難しい所は、俺がレクチャーしますから。これ以上は無理かもしれないと思ったら、きちんと言って下さいね」

「うん、ありがとう。よろしくお願いします」


そうと決まれば、待たせてばかりはいられない。自分のこれまでの成果を、憧れている律の前で見せるのは、とても緊張するけれど。恥ずかしい気持ち半分、嬉しい気持ち半分と、それも本心としてあるので、僕は、よし、と自分を鼓舞して、最初のストーンに足を掛けた。


まずは、初心者向けの課題に取り組んでいく。子供でも、高学年になれば身長が足りて突破できる難易度だった為、あまり苦労する事なくゴールまで辿り着けた。すると、時折優しく、鼓舞する様な掛け声を上げて、僕を応援してくれていた律から、和やかで暖かい拍手を送られた。初心者向けとはいえ、割とスピード感のある完走をやってのけた僕を見て、純粋な気持ちで褒めてくれた事が分かる。とはいえ、憧れている存在から手放しに褒められてしまったので、なんとも面映い気持ちになった。


「凄い。滅茶苦茶テンポ良いですね。次のストーンの選択をするのも早いし、組み立ても申し分ない。始めてどれくらいでしたっけ?」

「半年くらい、かな……週に三回くらい通ってる」


今はお休み中ですが、というのは蛇足でしかないので、其処には口を噤んだ。


「へぇ、だとしたら……うん。次、隣の課題行きましょうか。中級以上、上級未満程度ですが、多分、貴方なら行ける気がする」


中級から上級未満の難易度、と言われて、どきり、とする。僕はまだスクールにある上級の課題を前にしていま一歩届かない状態にある半端者だからだ。それでいて、色々とあってから二週間くらいスクールに顔を出していないので、少し腕が鈍ってしまっている可能性があった。だから、緊張で胸がドキドキして堪らなかったけれど、こうして世界に名だたるトップアスリートに見守られながら、そのトップアスリートを育んだ聖地とも呼べる場所で課題に取り組めるだなんて機会は、もう無いかもしれないと思って。内心では冷や汗をダラダラと掻きながらも、無理矢理に自分を鼓舞して、チョークを自分の手の中で馴染ませてから、恐る恐る、律の指示した課題の前に立った。


頭の中で、ルートを見極める。自分の実力も考慮して、どうすればゴールに最短で辿り着けるか。最初の一歩目を何処に設定するか。また、ゴールまで自分の体力をどれだけ温存出来るかを、頭の中で計算していった。


僕は、律の様に、スポーツをする上で有利に働きやすい身長も、天から授けられたのかと言わんばかりに恵まれた体躯も、持ち合わせていない。そして、自分自身のあらゆる体質が災いして、律の様に、スポーツをする為に必要な筋肉を身に付ける事が、どれだけ頑張っても、難しい。だけど、そんな僕でも、出来るスポーツがあった。それが、スポーツクライミング。そして、その明るい陽射しが差し込む道に導いてくれたのは、間違いなく、目の前にいるこの人だった。


恩返しがしたい、と言ったら、笑われるだろうか。こうして虚弱体質の僕がスポーツが出来る様になれたのは。スポーツを楽しいと思える様になれたのは。誰かを応援する事で自分自身の力を得られる人間になれたのは。全部全部、貴方のお陰ですと言ったら、不思議に思われるだろうか。


「自信持って、行けるよ!!」


応援される側の人間に、応援される人の気持ちを、貴方は知っているだろうか。知っていたとしたならば、貴方はとても豊かな人生を送ってきた人だから。そんな貴方を、少しだけ羨ましいとも思うけれど。


「大丈夫、信じて、俺を、自分を!!」


それ以上に、僕は。そんな貴方を応援している僕を、純粋な気持ちで、好きだと思えるから。そんな風に自分を好きになれたのは、貴方という存在のお陰だから。


だから、ねぇ、律。




「や、っ………た…っ、……」




僕は、貴方を、誰よりも誇りに思うんだ。


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