〜espoir〜五つ星オーベルジュのオーナーだなんて、こんな僕には向いてません!

鱗。

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第一章 『それぞれの願い』

オーベルジュ『espoir』の洗礼

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発祥のフランスにおけるオーベルジュの歴史は中世まで遡るとも言われるが、1900年に創刊された、世界16,000軒以上のレストランを紹介する信頼できるレストラン&ホテルのキュレーションプラットフォームが、星によるレストランの格付けを1926年から始め、自動車が普及するようになると、地方にあるオーベルジュも注目されるようになった。

オーベルジュとは直訳すると『旅籠はたご』で、『郷土料理を提供するレストラン付きのホテル』を意味するフランス語である。シェフが土地土地の食材を新鮮なうちに仕入れたいがために郊外でレストランをオープンさせ、客はシェフの味を求めて車で遠路遥々えんろはるばるレストランへやってくる。食事とともにワインなどのアルコールもたしなむため、その日に車で帰宅することが困難となる客が多い。その際、レストランのオーナーやシェフが、遠くから食事に来てくれた客に休んでもらうためレストランの2階やスタッフの居住スペースを提供しもてなした、というのがオーベルジュの始まりともされている。

そういった成り立ちからか、フランスの多くのオーベルジュの客室は20室程度とこぢんまりとしており、大都市から離れた田舎にある家族経営の施設がほとんどで、きめ細かで家族的なもてなし、その土地の旬の素材をいかした本格的な料理が最大の魅力である。

…という、おおまかな仕組みは事前の下調べで分かりました。つまり、いま僕が取り立てほやほやの運転免許証を携えて、えっちらおっちら、スノータイヤを履いた軽自動車のレンタカーで向かっている場所は、フランスから遠く離れた自国において、舌も懐も肥えた人間達が集まる、知る人ぞ知る名店であるというわけです。

あからさまに一見さんお断り感を出してはいないものの、成人未満お断りという前提とドレスコード、店自体を広く周知される事に重きを置かないスタイルは、必然的に店側の敷居を高く感じさせる。少なくとも僕は、自分の薄く寒々しい懐を叩いて、お客様でありながら最初から品定めされる側に立たされ、着慣れないスーツに身を包んで、よく知りもしない高級なワインをちびちびと飲みながら、ずらずらと並べられた使い勝手の分からない食器を前にして、右往左往する姿を他人様にくすくすと笑われる環境に身を置くほどの趣味はない。

つまり、カーナビが示す目的地に、こうして足取り重く向かっている僕の胸中と行動は、実の所、はなはだしく乖離かいりしている、というわけ。

「……寒いし」

寒い。お腹空いた。むしろ眠い。帰りたい。サッとシャワー浴びて、カップ麺でも何でもいいからガッとお腹に入れて、コンビニで買った缶チューハイをパッと煽って、バタンと布団に横になって眠りたい。

お金がなくてもいい。困難でもいい。ただ、明確で確固とした当たり障りのない自由が欲しい。そうして選んできた人生の道程。だけど、結局僕はまだ、こうして過去に囚われている。


父の遺言。
"色褪いろあせぬ希望を、お前に託す"


……まぁ、まだあの人、亡くなって無いけどね。


辺り一面銀世界となった、 瀟洒しょうしゃな別荘が立ち並ぶリゾート地を抜け、並木道の奥へと進む。進む。進む……すると、人智の及ばぬ自然を、ぽっかりと其処だけくり抜いたかの様にして、その『』は佇んでいた。

下手をしたら、城といっても差し支えないその頑強な邸宅は、ヴィクトリア朝時代に建立されたマナーハウス……荘園制・封建制が取られていたヨーロッパ中世に、荘園の領主によって建設された邸宅そのものを、遠路遥々と移築してみたかの様な作りをしていた。

建物のほぼ全体が朽葉色くちばいろの蔦に覆われており、宿まで続く煉瓦敷れんがじきの道々には、春には色とりどりの花々がこぞって咲き乱れるだろう、中央にガゼボを設られてあるイングリッシュガーデンがあって、ひっそりと春の訪れを待っている。人工物でありながら自然との調和とを成立させているその邸宅の玄関のドアは、上部のパネルがガラス製になっており、ゴシック・スタイルのアーチ型を施したものとなっていた。

おごそかな雰囲気を纏う玄関ポーチに進むと、そこには既に、仕立ての良い燕尾服をかっちりと身に纏った、紳士然とした男性が佇んでいて。彼は、はたりと僕と目を合わせると、待ち人来たる、という柔和な表情を浮かべて、僕に向けて綺麗で、それでいて深い最敬礼をしてきた。

「足元の悪い中、お越し下さり有難う御座います。お手数では御座いますが、念の為ご確認を……お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

「……御園みその 春翔はるとです」

「ご確認ありがとうございます、御園様。私は、このオーベルジュ『espoirエスポワール』の支配人を任せられております、溝口みぞぐち けんと申します。以後、お見知りおき下さい」

初手の段階から、まず真っ先に面会をしなければいけない最重要人物の一人と出会してしまい、元から緊張していた全身が強張る。こうして対面した時に備えて、何か気の利いた挨拶をと、自分なりに苦心して用意して来たのに、それすらも頭の中からすっかりと消し飛んでしまっていた。最初からこんな風に情け無いを絵に描いたような状態でいて、僕は本当に大丈夫なんだろうか……

「はい、その……宜しくお願いします」

「こちらこそ、これから宜しくお願いします。ここは寒いですから、どうぞ中にお進み下さい」

間違いなく年上だけれど、僕と年齢がそこまで離れている印象はない。満天の星空の様に銀色に染め上げた髪を、かっちりとオールバックにしてまとめているけれど、軽薄な印象は一切なく、寧ろ、落ち着いた佇まいにマッチしていて、実年齢がまるで分からないミステリアスな雰囲気に拍車を掛けている。クラシカルな鼈甲縁べっこうぶちの眼鏡に、品のある金細工の眼鏡チェーン。一分いちぶの隙を見せないそのサービスマンとしての品格たるや、正に支配人に相応しい人物として、僕の目に映った。

何層にも渡って丁寧にニスを塗られた貴重なイングリッシュオーク材から作られたドアは、厚みもあり、木目も力強く、重厚感たっぷりで、良い意味で年月の経過を感じさせる。その扉を溝口支配人に開けて貰い中に進むと、広々とした玄関ホールが目の前に広がった。

「……ぅわ」

欄干らんかんにマホガニー材を使用した胡桃くるみの木の螺旋階段が客人である僕を出迎え、いっそ重苦しい程に豪奢ごうしゃな天井装飾は見る者を圧倒する。松材の壁板には、花、果物などの彫刻が施されていて、まるで、ホストが迎える会場へと、客人を手厚く歓迎しているかの様だった。

「階段を上がりますと、目の前に広間サルーンが御座います。この邸宅がイギリスからこの場所に移されるまでは、主に多くの客人を招いて宴会や舞踏会の間として使用されていましたが、今ではお客様をおもてなしするお食事の場として開かれております」

多分、紹介されなくても分かる。玄関の時点でコレなんだから、それはそれは見るに鮮やかで華やかで、言葉には尽くせない豪華絢爛ごうかけんらんな場所なんでしょうね……という感想というか、確信に近い感覚が僕の身に宿っていた。とはいえ、その確信を事実として颯爽と上書きする前に、広間の紹介は後回しにされてしまった。

先を行く溝口支配人は、まず会わせたい人物がいると言って、関係者以外立ち入り禁止と思われる場所へと僕を案内した。建物の年代に合わせて改築した、クラシカルで丁寧な作りの廊下を歩いて行くと、そこにはステンレス製の両開き扉があり、中から和やかに談笑する人の声が聞こえてきた。

「この先に、まず御園様に御面会して頂きたい人物がおります。声を掛けて参りますので、私が扉を開けて合図したら、中へお入り下さい」

「分かりました」

このオーベルジュの支配人が、まず会わせたい人物がいるとなれば、大体の当たりはつく。その人が、もし自分の知る人と同一人物だとしたら……と考えて、僕の背筋は自然、ぴん、と張り詰めた。

この場所の、もう一人の顔。オーベルジュ『espoir』の総料理長にして、このオーベルジュを、の評価で、5年連続三つ星獲得へと導いた張本人。

「やぁ、初めまして。総料理長シェフ・ド・キュイジーヌを務める、竹之内たけのうち あらたです」

雑誌の取材にも、このオーベルジュのホームページにも、彼の詳細は経歴でしか紹介されていない。輝かしい数々の賞を受賞しても、彼は、そのインタビューですら黙秘を貫いてきた。料理とサービスのみを見て判断して欲しい、昔ながらの職人気質なタイプなのかと、深く理由までは考えて来なかったけれど。その理由が、この歳になってみて、何処となく分かる気がした。

この人の、写真も、言葉も、肉声も、世に放たなくていい、その理由が。

「……うん。その表情、気に入ったよ。この業界において、感受性は一番大切にしなくてはね」

透き通る様に白い肌。艶やかな黒羽色の髪。繊細かつ豪胆という、相反する印象を、違和感なく見る者に与えるその眼差し。類稀たぐいまれなる等身。一度聞いたら忘れられない、最高級のビロードの様な、たおやかなこえ

(歩く国宝だ…)

後光すら背負って見える。これは危ない。大変な人だ。これまでこの類稀なる面立ちと等身と、滲み出るカリスマ性を持ってして大変な気苦労をしてきたことだろうに。このオーベルジュのレストランの評価や、彼個人の賞における評価を、料理の腕だけで判断した、と言われても、これではまず間違いなく四方八方からいなが飛んできてしまう。だからこそ、表舞台には出来るだけ立たずにやってきたのかもしれない。下手をしたら、無垢むくから謀反者どころか犯罪者すら輩出してしまう可能性があるのだから。

「初めまして、御園 春翔です。なんていうか、その……これから、宜しくお願いします」

深いお辞儀……最敬礼をすると、僕は目の前に差し出された大きな手を慌てて掴み、握手をした。見た目から受ける柔らかな印象とはまるで違う、ごつごつとした包丁だこだらけの手の平。銃の代わりに包丁を持ち戦場を駆けてきたおとこの手に、成人男性としてはやや小振りな部類に入る僕の手がぐわりと覆われ、瞬間、どきりとした。

「はは、確かに俺自身の見解をして、君を気に入ったとは言ったけれどね。少なくとも、半年から一年は様子を見なくては、俺達を君自身が気に入ってくれるかは分からないだろうからな……まぁ、気長に考えて馴染んでくれていったなら、それでいいさ」

『簡単には身内として認めない』

それを遠回しに口にした竹之内総料理長は、にっこりと人の良い笑みを浮かべてから、僕の手を離した。条件反射的に作っていた僕の口元の笑みは、ひくり、と引き攣ってしまい、そしてそれは、隣に立つ溝口支配人の目に止まって、彼の苦笑を呼んでいた。

……柔和な物腰で接してくれていたとしても、溝口支配人の内心も同様ということなのでしょうね。

僕だって、すぐにすぐ認められるとは思っていないですよ。だから、不貞腐れもしないし、ショックだとも当然思わないし。寧ろ、そんな風にして軽く突き放されてしまう方が、理由なく僕という存在を受け入れて貰えるよりも遥かに現実的に思えた。

自由に生きた父親の為に、壊れてしまった母親を献身的に支えてきた。それなのに、その母親の葬儀を終えてから三年後の、母親の後を追う様にして父親が病床についた今になって、こんな風にして、父親の自由の象徴だった場所と関わりを持つ事になるなんて、思ってもみなかった。

28歳。フリーター。つまり無職。職歴無し。そんな僕が、レストランとして三つ星、ホテルとしては五つ星を5年連続で獲得してきた老舗オーベルジュ『espoir』のオーナーになるだなんて。僕自身、今だに信じられないんだから。

気不味い空気が流れ、その場を沈黙が支配してしまうのではないか、という寸前になって、僕の目の前に、僕と同じくらいの背格好をした男性が、音も無くスッと現れた。物腰がとても静かなその人は、白磁はくじの様に真っ白な肌をしている。切れ長な目をした、見る者にあっさりとした印象を与える彼は、溝口支配人とも、竹之内総料理長とも違う、男性的かつ無味無臭の独特な色気を纏っていた。

眞田さなだ 崇人たかひとだ。ここでは副料理長スー・シェフを務めている。宜しく頼む」

特別、張りという物がある訳ではないのに、耳にしっかりと確かな余韻を残す彼、眞田副料理長の声に、はたりと意識を取り戻す。目の前に静かに差し出された右手を、最敬礼をして慌てて握り返すと、眞田副料理長は、フッと口元だけを上げた微かな笑みを浮かべてから、すぐにその手を離した。そして、再びアンティークブラウンを基調とした厨房の中を音もなく歩んでいくと、作業途中だったらしい自分のテリトリーへと、何事も無かったかの様に戻っていった。

あっという間にその場の空気を清浄にしてしまった、眞田副料理長の鮮やかさな手際に呆気に取られていると、僕の隣に静かに佇んでいた溝口支配人が、ひっそりと僕に耳打ちした。

副料理長スー・シェフは、ピアニストとしても秀でた才をお持ちです。学生時代は作曲家としても活躍されていたのですよ。不定期ではありますが、広間にあるグランドピアノで演奏される事もありますから、ご機会があれば是非ご鑑賞下さい」

それを聞いて、成る程、とその場で手を打ちたい気持ちになる。演奏家だからこそ、人の奏でる不快な音にも敏感なのかも知れない。気遣いというよりも、肌感覚でこなしているそれは、一朝一夕いっちょういっせきに身につくものではないだろうと思えた。

世の中には凄い人がいるんだなぁ……と感心していたのも束の間、そんな眞田副料理長を含めた海千山千うみせんやませんの人々を束ねていかなければならない自分自身の境遇を目の当たりにして。思わず溜息を吐きそうになるのを、口元に手をやって咳払いする事で、グッと堪えた。
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