餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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026.今朝会った隣人

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 今朝、俺は奇妙な体験をした。  

 アパートの廊下で、隣の部屋の住人とすれ違ったのだが、その時に妙な違和感を覚えた。

 彼女は若い女性で、名前は知らないが、よく顔を合わせる程度の間柄だった。  
 
「おはようございます」  
 
 俺が声をかけると、彼女も軽く会釈を返してきた。だが、返事はなかった。

 いつもなら「おはようございます」とか「行ってらっしゃい」とか、何かしら言葉を交わすはずだ。

 それに、彼女の顔がどこか暗い……というか、まるで仮面でもつけたように無表情だったのが気にかかった。  

 その時は「機嫌が悪いのかな」くらいに思ったのだが、その日の昼過ぎに大家さんが訪ねてきたことで、状況は一変した。  

「お隣の部屋の方が……昨夜亡くなったんです」  

「亡くなった……?」  
 
 俺は言葉を飲み込んだ。  

「ええ、昨日の夜遅くに救急車が来て……残念ながら間に合わなかったんです。警察の話では事故だろうとのことですが……」  
 
 大家さんはそう言って眉をひそめた。  

 俺は混乱した。だって、今朝、彼女に会ったはずだ。廊下ですれ違ったあの瞬間を、鮮明に覚えている。

 それを大家さんに伝えるべきか迷った。死んだ人間に会ったなんて話をしたら、気味悪がられるのがオチだ。

「……そうなんですか。お気の毒です」  
 
 そう答えるのが精一杯だった。


 その夜、俺は妙な夢を見た。

 暗い廊下をひとりで歩いていると、隣の部屋のドアがゆっくりと開き、中から彼女が出てくる。

 彼女は俺に向かって何かを言おうとしているようだが、声が聞こえない。

 その代わりに、背後から低いうめき声のような音が響いてきた。  

 振り返ると、真っ黒な影のようなものが廊下を這うように近づいてくる。

 その影が俺の足元に達した瞬間、体が動かなくなり、全身が冷たい何かに包まれる感覚に襲われた。  

「助けて……」  

 そう呟いた彼女の声が耳元で聞こえた瞬間、俺は目を覚ました。
 

 翌朝、目覚めた時には冷や汗で全身がびっしょりだった。

 寝不足の頭でコーヒーを飲みながら、昨夜の夢を思い出す。まるで現実のように生々しかった。

 俺は廊下に出て隣の部屋をちらりと見た。もちろん、何も変わった様子はない。

 ただ、ドアの前に小さな花束が置かれていた。  

 仕事に出るためにエレベーターを待っていると、またあの違和感が戻ってきた。背後に視線を感じたのだ。

 振り返ると、誰もいない。だが、廊下の奥の方から何かが動く音がした気がした。  

 エレベーターのドアが開いた音でハッとし、俺は急いで乗り込んだ。

 だが、乗った瞬間に気づいた。鏡に映る自分の後ろに、明らかに“何か”が立っている。  

 振り返ると、そこには誰もいなかった。


 会社での一日は地獄のようだった。何をしていても背後に誰かの視線を感じ、仕事にも集中できなかった。

 周囲の同僚には「顔色が悪い」と心配されたが、何と答えていいかわからなかった。  

 定時になると、一刻も早く帰りたくなった。

 だが、アパートに戻る道すがら、心のどこかで恐れている自分がいた。

 部屋に戻ったら、また何かがおかしなことになっているのではないかと。

 エレベーターに乗り、部屋のドアを開ける。何も異常はない……と思った瞬間、背後から声がした。

「……助けて」  


 俺は振り返った。だが、そこには誰もいない。

 音の方向を探っていると、隣の部屋の方から何かが動く気配を感じた。花束が置かれたままのドアがかすかに揺れている。  

「気のせいだ……」  
 
 自分に言い聞かせるようにそう呟き、部屋に入ろうとした時だった。突然、俺の部屋のドアがバンッと閉まった。

「誰かいるのか?」  

 声を上げても返事はない。恐る恐るドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。

 照明のスイッチを押しても、電気は点かない。

 部屋の奥から低いうめき声のような音が響いてきた。

 俺は全身が凍りつくような感覚に襲われた。

「今朝……会った……でしょ」  

 その声が聞こえた瞬間、俺は走り出していた。アパートの廊下を無我夢中で駆け抜け、階段を駆け下りる。

 外に出た時には、すでに夜の闇が広がっていた。  

 俺は振り返ることもせず、そのまま走り続けた。


 翌朝、俺は交番に向かった。昨夜の出来事を誰かに話さなければ、正気を保てる自信がなかった。

 警察官に事情を説明すると、最初は怪訝そうな顔をされた。

 だが、隣人の名前を告げた瞬間、相手の顔色が変わった。

「君が言ってる隣人……確かに先日亡くなったけど、君が会ったという“今朝”は、彼女が搬送された翌日のはずだ」  

 俺は言葉を失った。その後も警察官に質問されたが、答えようとしても言葉が詰まり、何も言えなかった。

 交番を出た後、ふと振り返ると、向かいの歩道に立つ女性の姿が目に入った。

 それは……間違いなく、あの隣人だった。

 俺の視線に気づくと、彼女は無表情のままこちらをじっと見つめた。

 その唇がわずかに動き、こう言ったように見えた。

「……助けて」

 俺はその場から逃げ出し、全速力で家に戻った。

 そしてアパートに着くと、すぐに荷物をまとめ、部屋を出た。それ以来、あの部屋には戻っていない。


 この話には後日談がある。新しいアパートでの生活が始まり、ようやく平穏を取り戻した頃、郵便ポストに一通の手紙が届いた。

 差出人の名前は書かれていない。ただ、封を切ると、中には短い文章が記されていた。

「朝、会ったよね?」

 手紙を手にした瞬間、背後に冷たい気配を感じた。振り返る勇気はなかった。
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