リストラされた42歳、確率の向こう側へ。~なぜか俺の選択肢がすべて正解になる件~

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第21章 30億円の卵かけご飯と、器の選択

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「じゅ……十億だと……!?」

 西園寺の声が裏返った。仮面の奥の目が、信じられないものを見るように見開かれている。  会場中がどよめいた。たった一つの茶碗に、都内の一等地のビルが買えるほどの金額がついたのだ。

「ふざけるな! 貴様、オークションを愚弄する気か! たかが料理人の、しかも卵かけご飯のために、国宝級の芸術品を使うだと!?」

 西園寺が唾を飛ばして怒鳴る。彼のプライドは、金額以上にその「用途」に傷つけられたようだった。

「愚弄? とんでもない」

 私はパドルを下ろし、ゆったりと足を組んだ。

「俺は本気だ。最高の料理には、最高の器が必要だ。それがたとえ、コンビニのおにぎりだろうが、高級フレンチだろうが関係ない。使う人間が『それだ』と思えば、それが正解なんだよ」

「黙れ、成金が……! 芸術の重みも分からぬ下郎に、この至宝は渡さん!」

 西園寺が震える手でパドルを掲げた。

「十二億!」

 会場が沸く。評論家の意地だ。

「十五億」

 私は即答した。一秒も迷わない。

「ぬぐっ……! 十七億!」 「二十億」

 まるで子供の喧嘩だ。だが、単位が狂っている。  西園寺の額から、滝のような脂汗が流れ落ちるのが見えた。彼の背後の秘書らしき男が、「せ、先生! これ以上は予算が!」と青ざめて止めている。

「ええい、うるさい! 私のコレクションに穴をあけるわけにはいかんのだ! 銀行に電話しろ! 担保ならいくらでもある!」

 西園寺は理性を失っていた。  一方、私の隣では、一ノ瀬玲奈が涼しい顔でタブレットを操作している。

「……柏木様。現在、西園寺氏の推定資産と流動性を分析しました。彼の限界ラインは二十五億前後。それ以上出すと、彼の評論家としての活動基盤そのものが崩壊します」

「なるほど。じゃあ、引導を渡してやろう」

 私は西園寺の方を向いた。  彼は今、電話片手に必死の形相で「二十二億!」と叫ぼうとしていた。

 私は静かに、しかし会場の隅々まで響く声で告げた。

「――三十億」

 シーン……。  完全なる静寂。呼吸の音さえ聞こえない。  西園寺が、口を半開きにしたまま固まった。電話を持った手が力なく垂れ下がり、スマホが床に落ちて鈍い音を立てた。

「さ、三十……億……?」

 西園寺がガクリと膝をついた。  戦意喪失。これ以上の勝負は、自己破産を意味する。

「……そ、そこまでして……たかが器を……」 「たかが、じゃないと言ったはずだ」

 私は立ち上がり、ミナの手を引いて立たせた。

「これは、未来の巨匠への先行投資だ。三十億なんて、安すぎるくらいだよ」

 木槌の音が鳴り響く。  落札決定。

          *

 手続きを済ませ、ステージ上で『星欠けの椀』の引き渡しが行われた。  白手袋をしたスタッフが、恭しく桐箱を開ける。  中から現れた黒い茶碗は、照明を浴びて妖しく輝いていた。

「……おめでとうございます」

 司会者が私に手渡そうとしたが、私はそれを制し、隣のミナを促した。

「ミナちゃん。君が受け取ってくれ」 「えっ、で、でも……三十億円もするのに……もし落としたら……」 「構わない。割れたらまた買えばいい。……持ってみな。君を呼んでる」

 ミナは恐る恐る手を伸ばした。  その瞬間。

「やめろぉぉぉ!」

 西園寺が這うようにしてステージ下まで来て叫んだ。

「その汚い手で触れるな! その器は、温度管理されたガラスケースの中で、息を潜めて眠るべきものなんだ! 料理人の脂ぎった手で触れば、星の輝きが曇る!」

 その罵声に、ミナの手が一瞬止まる。  だが、彼女は私を見て、私の頷きに勇気を得たように、しっかりと器を両手で包み込んだ。

 フワッ。

 その場にいた全員が、確かに見た。  ミナが器に触れた瞬間、黒い茶碗の底に散りばめられた銀色の粒子が、まるで呼吸をするように一斉に瞬いたのを。  それは、冷たい美術品としての輝きではなく、温かい、生命の灯火のような光だった。

「……あ」  ミナが声を漏らす。「温かい……。この器、喜んでる……」

 器が、持ち主を選んだのだ。  ガラスケースの囚人ではなく、料理を盛られるための道具として生きることを。

「な……馬鹿な……」  西園寺が呆然と呟く。「星が……笑っている、だと……?」

 彼は味の絶対王者だ。性格は最悪だが、審美眼だけは本物だったのだろう。だからこそ、分かってしまった。自分がどれだけ金を積んでも引き出せなかった「器の真の輝き」を、この小娘が引き出したという事実を。

「……私の、負けだ」

 西園寺は床に突っ伏した。金で負けたのではない。美への愛し方で敗北したのだ。

「行きましょう、ミナちゃん。早く店に帰って、その器を使ってみたいだろう?」 「はい! ……柏木さん、私、最高のご飯を炊きます!」

 ミナは満面の笑みで、三十億円の茶碗を、まるで愛しい我が子のように抱きしめた。

          *

 会場を出ようとする私たちを、一人の男が見送っていた。  主催者である、白い仮面の男だ。  彼はすれ違いざま、私にだけ聞こえる声で囁いた。

「……見事な買いっぷりでした、柏木誠様。貴方の『豪運』、実に興味深い」

 私は足を止めずに答えた。

「ただの散財ですよ」

「ふふ。次は『命』を賭けたオークションでお待ちしていますよ」

 意味深な言葉を残し、男は闇に消えた。  背筋に冷たいものが走ったが、私は振り返らなかった。

 外に出ると、夜風が心地よかった。  堂島さんが仮面を外し、豪快に笑った。

「ガハハ! 痛快だったな! あの西園寺が地べたを這う姿、動画に撮っておけばよかったぜ!」 「全くです。……ですが、柏木様」

 一ノ瀬が呆れたようにため息をついた。

「三十億円の卵かけご飯ですか。……原価率の計算が、いよいよ不能になりました」 「いいじゃないか。世界一高い朝食だ。明日の朝、みんなで食おう」

 私たちは笑い合いながら、ハイヤーに乗り込んだ。  ミナの膝の上で、星欠けの椀が、満足げに微かな光を放っていた。

 こうして私は、また一つ、常識外れの伝説を作ってしまった。  だが、私の直感が告げている。  この器は、単なる食器ではない。これから訪れるであろう、さらなる激動の日々において、私たちを繋ぐ「要(かなめ)」になるだろうと。
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