リストラされた42歳、確率の向こう側へ。~なぜか俺の選択肢がすべて正解になる件~

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第22章 30億円の朝食と、密室の涙

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六本木のペントハウス。朝の日差しが、ダイニングテーブルの上に置かれた「黒い茶碗」を照らしている。  先日、三十億円で競り落とした『星欠けの椀』だ。  その中には、炊きたての魚沼産コシヒカリと、千葉県産の最高級平飼い卵、そしてミナ特製の出汁醤油が注がれている。

「……いただきます」

 私が箸を入れると、黄金色の黄身が黒い器の中でトロリと崩れ、まるで夜空に銀河が広がるような幻想的な光景が生まれた。  一口食べる。  ……美味い。米の一粒一粒が立ち、卵の濃厚なコクと出汁の香りが鼻に抜ける。そして何より、器の口当たりが信じられないほど滑らかだ。唇に触れた瞬間、器の存在が消え、味だけが直接脳に届くような感覚。

「いかがですか、柏木さん?」  エプロン姿のミナが、心配そうに覗き込む。彼女はこの朝食のためだけに、朝五時に起きて私の家に来てくれたのだ。

「最高だよ。三十億の価値がある味がする」 「よかったぁ……! 器も、すごく嬉しそうです!」

 ミナが花のような笑顔を見せる。  隣では、一ノ瀬玲奈が呆れたようにコーヒーを飲んでいた。

「三十億円の器で卵かけご飯(TKG)……。この写真一枚で、SNSが炎上する自信がありますね。まあ、資産防衛の観点からは、現物資産として保有するのは悪くない選択ですが」

「食事は楽しく食べるのが一番だ。さあ、今日はこれからオリオン社の定例会議だ。行こうか」

 私は最後の一粒まで味わい、席を立った。  最高の朝食でエネルギーをチャージした私は、意気揚々とエレベーターホールへ向かった。  まさか、その数分後に、三十億円の茶碗が霞むほどの「大物」と遭遇するとは知らずに。

          *

 『グラン・アクシス六本木』のエレベーターは、居住者専用のカードキーがなければ動かない特別仕様だ。特に最上階へのアクセスは厳重に管理されている。  私が一ノ瀬と共にエレベーターに乗り込み、ロビー階へのボタンを押した時だった。

 三十五階で、ふいにエレベーターが停止した。  扉が開く。

「……だから、お前には選択権なんてないんだよ!」

 怒号と共に、二人の男女が乗り込んできた。  一人は、脂ぎった中年男。派手なスーツに金のネックレス、いかにも「業界人」といった風貌だ。  そしてもう一人は、大きなサングラスと帽子で顔を隠した若い女性。彼女は俯き、小刻みに震えている。

「あ……」  男は私たちが乗っていることに気づき、一瞬バツが悪そうな顔をしたが、すぐに無視を決め込み、女性への恫喝を続けた。

「いいかカレン。社長命令だ。今夜のパーティーには『あの人』が来る。分かってるな? お前の次のドラマのスポンサー様だ。しっかりと『サービス』するんだよ」

「……嫌です」  女性がか細い、しかし芯のある声で拒絶した。

「私は女優です。そんな……枕営業みたいなこと、したくありません」 「はあ!? 誰のおかげでここまで売れたと思ってんだ! 事務所の意向に逆らうなら、違約金払って引退するか? ああ? 違約金は五億だぞ、五億!」

 男が女性の肩を粗暴に掴み、壁に押し付けた。  エレベーターという密室で、逃げ場のない暴力的な空気が支配する。

 一ノ瀬が眉をひそめ、介入しようと動いた。  だが、私はそれを手で制した。

 女性の帽子が、男の乱暴な手によってズレ落ちた。  現れたその横顔を見て、私は息を呑んだ。

 如月(きさらぎ)カレン。  テレビで見ない日はない、今の日本を代表する国民的女優だ。  スクリーンの中では常に凛とした強さを見せる彼女が、今は涙を堪え、絶望的な表情で唇を噛み締めていた。

「……離してください、郷田(ごうだ)社長」 「うるせえ! お前は俺の商品だ! 傷がつかない程度なら何したって……」

 郷田と呼ばれた男が、さらにカレンに詰め寄ろうとした、その時。

 ガクンッ!

 エレベーターが、唐突に激しく揺れた。  地震か? いや、違う。  郷田が踏み込んだ足の位置――そこは、ちょうど昨日、清掃員がワックスをかけすぎて「滑りやすいので注意」の看板が出ていた場所(今は看板が撤去されていたが)だった。

「うおっ!?」

 郷田の革靴が、見事に滑った。  彼はバランスを崩し、スローモーションのように後ろへ倒れていく。  そして。

 ガンッ!

 彼の後頭部が、エレベーターの手すりの角に、あまりにも綺麗な角度でクリーンヒットした。

「あぐっ……!」

 郷田は白目を剥き、カエルのように床に伸びた。気絶はしていないようだが、あまりの痛みに悶絶して動けない。

 一方、彼に突き飛ばされそうになっていたカレンは、バランスを崩して私の胸元へと倒れ込んできた。

「……っと、危ない」

 私は彼女をふわりと受け止めた。  高級なシャンプーの香りと、彼女の恐怖による震えが伝わってくる。

「け、怪我はありませんか?」 「あ……はい……」

 カレンが顔を上げ、至近距離で私を見た。  その瞳は、スクリーンの何倍も美しく、そして脆かった。

「……いってぇ……! くそっ、なんだこの床は!」

 郷田が涙目で起き上がり、私に八つ当たり気味に怒鳴った。

「おい! お前、見てたなら助けろよ! なんで突っ立ってんだ!」

 私はカレンを支えたまま、冷ややかな視線を彼に向けた。

「……足元がお留守だったようですね。それに、ここはマンションの共有スペースです。これ以上の騒音と暴力行為を続けるなら、コンシェルジュと警察に通報しますが」

「あぁ!? 誰に口きいてんだ! 俺はゴウダ・プロモーションの郷田だぞ! この女が誰か分かってんのか!?」

 郷田が私の胸倉を掴もうと手を伸ばした。

 その瞬間。  エレベーターがロビー階に到着し、扉が開いた。

 そこには、たまたま巡回中だった警備員と、数人の住人(中には弁護士バッジをつけた男性もいた)が待っていた。  開いた扉の向こうに見えたのは、床に這いつくばって怒鳴り散らす柄の悪い男と、怯える国民的女優、そして彼女を守るように立つ私という構図だった。

「……何事ですか?」  警備員が厳しい声で問う。

「ち、違う! 俺は……!」

 郷田が狼狽える。ここで騒ぎになれば、スキャンダルになるのは自分の方だ。  彼は舌打ちをし、私を睨みつけた。

「……チッ。覚えてろよ。カレン、後で事務所に来い。逃げられると思うなよ」

 捨て台詞を残し、郷田は逃げるようにエレベーターを降りていった。

 残されたのは、震えが止まらないカレンと、私と一ノ瀬。  扉が閉まり、再び静寂が戻る。

「……大丈夫ですか?」  私が声をかけると、張り詰めていた糸が切れたのか、カレンはその場に崩れ落ちそうになった。

「……助けて……ください……」

 彼女は私の袖を掴み、消え入りそうな声で言った。

「もう……限界なんです……」

 私は一ノ瀬と顔を見合わせた。  一ノ瀬は眼鏡を押し上げ、小さく頷いた。

「……柏木様。予定変更ですね。オリオン社の会議はリモートに切り替えます」 「ああ、頼む」

 私はカレンに向き直り、優しく言った。

「とりあえず、上に戻りましょう。……美味しいお茶と、まだ温かい卵かけご飯ならありますよ」

 私の「豪運」が、またしてもとんでもないヒロインを拾ってしまったようだ。  だが、彼女の悲痛なSOSを、見捨てる選択肢は私にはなかった。
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