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最終話
春の訪れ
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本丸御殿の喧騒から離れた、常御殿の一隅。
竹丸は、庭に面した濡れ縁に座っていた。
外の庭では、春の日差しが、枝を伸ばし始めた木々の間を縫って降り注いでいる。
清潔な寝衣の上にまとった藍色の羽織が、白い肌と静かな佇まいを際立たせていた。
あの評定の後、竹丸は医師によって針を抜かれ、傷の手当てを受け、なんとか一命は取り留めたものの、心身の傷は深く、未だ言葉を発することはできなかった。
庭に目を向けているが、その瞳は景色を捉えず、ただ、ぼんやりと虚空を見つめているかのようだった。
彼の体には、鞭の跡、縄目の跡、そして何よりも、あの針が貫通した傷跡が、生々しい記憶として刻まれている。
彼の忠義が、藩の運命を変えた。
そして、彼自身もまた、永遠に戻ることのない場所へ行ってしまったかのようだった。
澄長は、竹丸を生涯ただ一人の御部屋殿として、この静かな離れを与えた。
藩主としての多忙な政務の合間を縫って、彼は毎日、欠かさずここへ通っている。
小さな離れの庭に、遅咲きの山桜が咲いていた。
この日も澄長は、濡れ縁に腰を下ろし、竹丸の隣に座った。
白い寝衣の上に羽織を掛けた竹丸は、ぼんやりと桜を眺めている。
唇はまだ青白く、小袖の下にある鞭の跡は、薄くなったとはいえ消えることはない。
澄長は、声をかけようとして、いつも通り言葉を失う。
謝ることしかできない自分を、竹丸はもう見たくないだろうと思ったからだ。
沈黙が続いた。
桜の花びらが一枚、風に乗って竹丸の膝の上に落ちた。
竹丸はそれを、ゆっくりと指で摘み上げた。
「はな……」
耳を澄まさねば聞こえないほど小さく、かすれていたが、たしかに竹丸の声だった。
澄長は息を呑んだ。
四十日ぶりに聞いた、竹丸の言葉だった。
「竹丸……?」
震える声で呼びかけると、竹丸は小さくうなずいた。
その目はたしかに澄長を見ている。
「わか、さま……」
竹丸は慎重に言葉を発した。
澄長はもう若様ではなく殿であったが、そんなことはどうでもよかった。
「竹丸」
澄長はもう一度呼ぶと、竹丸の肩をそっと抱き寄せた。
竹丸は一瞬びくりと震えたが、逃げなかった。
「もう終わった……そなたを苦しめるものは、もうここにはいない。一人残らず、だ」
澄長は力強く告げると、抱きしめる腕に力を込める。
「そなたは、ただの小姓じゃない。私の生涯ただ一人の、最初で最後の『御部屋殿』だ。一生、私の傍にいてくれ」
その意味を理解しているのかは不明だが、竹丸は澄長に抱きしめられたまま、おとなしくしている。
風が吹き、桜の花びらが二人の上に降り注いだ。
竹丸の傷は消えない。
声はまだ掠れている。
でも、言葉は戻りつつある。
桜を散らす風はまだ冷たいけれど、澄長は、竹丸さえいれば、前を向いて歩いていけると思った。
~おわり~
竹丸は、庭に面した濡れ縁に座っていた。
外の庭では、春の日差しが、枝を伸ばし始めた木々の間を縫って降り注いでいる。
清潔な寝衣の上にまとった藍色の羽織が、白い肌と静かな佇まいを際立たせていた。
あの評定の後、竹丸は医師によって針を抜かれ、傷の手当てを受け、なんとか一命は取り留めたものの、心身の傷は深く、未だ言葉を発することはできなかった。
庭に目を向けているが、その瞳は景色を捉えず、ただ、ぼんやりと虚空を見つめているかのようだった。
彼の体には、鞭の跡、縄目の跡、そして何よりも、あの針が貫通した傷跡が、生々しい記憶として刻まれている。
彼の忠義が、藩の運命を変えた。
そして、彼自身もまた、永遠に戻ることのない場所へ行ってしまったかのようだった。
澄長は、竹丸を生涯ただ一人の御部屋殿として、この静かな離れを与えた。
藩主としての多忙な政務の合間を縫って、彼は毎日、欠かさずここへ通っている。
小さな離れの庭に、遅咲きの山桜が咲いていた。
この日も澄長は、濡れ縁に腰を下ろし、竹丸の隣に座った。
白い寝衣の上に羽織を掛けた竹丸は、ぼんやりと桜を眺めている。
唇はまだ青白く、小袖の下にある鞭の跡は、薄くなったとはいえ消えることはない。
澄長は、声をかけようとして、いつも通り言葉を失う。
謝ることしかできない自分を、竹丸はもう見たくないだろうと思ったからだ。
沈黙が続いた。
桜の花びらが一枚、風に乗って竹丸の膝の上に落ちた。
竹丸はそれを、ゆっくりと指で摘み上げた。
「はな……」
耳を澄まさねば聞こえないほど小さく、かすれていたが、たしかに竹丸の声だった。
澄長は息を呑んだ。
四十日ぶりに聞いた、竹丸の言葉だった。
「竹丸……?」
震える声で呼びかけると、竹丸は小さくうなずいた。
その目はたしかに澄長を見ている。
「わか、さま……」
竹丸は慎重に言葉を発した。
澄長はもう若様ではなく殿であったが、そんなことはどうでもよかった。
「竹丸」
澄長はもう一度呼ぶと、竹丸の肩をそっと抱き寄せた。
竹丸は一瞬びくりと震えたが、逃げなかった。
「もう終わった……そなたを苦しめるものは、もうここにはいない。一人残らず、だ」
澄長は力強く告げると、抱きしめる腕に力を込める。
「そなたは、ただの小姓じゃない。私の生涯ただ一人の、最初で最後の『御部屋殿』だ。一生、私の傍にいてくれ」
その意味を理解しているのかは不明だが、竹丸は澄長に抱きしめられたまま、おとなしくしている。
風が吹き、桜の花びらが二人の上に降り注いだ。
竹丸の傷は消えない。
声はまだ掠れている。
でも、言葉は戻りつつある。
桜を散らす風はまだ冷たいけれど、澄長は、竹丸さえいれば、前を向いて歩いていけると思った。
~おわり~
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