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4.視える隣人
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狗飼は腰を抜かしたままの伊織の両脇に腕を入れて引っ張り上げて抱え上げると、そのまま隣の部屋のベランダに連れていき、室内に入れた。
彼が後ろ手にぴしゃりと戸を閉めると、あの異様な瘴気は一切なくなり、辺りは静寂に包まれた。
「け、ケーサツ! いや、お坊さん! お坊さん呼ばないと!」
「アレには読経なんて効かないですよ。しばらくこの部屋で大人しくしててください。そうすればアレも大人しくなります」
「な、なんなんだよぉ……あれ」
情けない声を出して額を押さえた伊織をソファの上に座らせると、狗飼はこともなげに言った。
「ただの霊です。今まで時々人前に姿を現すぐらいで無害だったんですけどね。今日はやけに騒いでますけど」
「人前に出てくる時点で無害じゃねーだろーがァ!!」
思わずキレながら突っ込んだ後、しまったと思いながら口を押えた。狗飼はしばらく呆気に取られた顔をしていたがやがてニヤリと笑った。
「やっぱ随分作ってるんだなー、キャラ。まあ、当たり前か」
「………SNSとかでバラしたらぶん殴る」
ギロリと睨みつけながら言うと、狗飼は眉根を寄せて「そんなことして、俺にメリットあります?」と笑った。
「あの霊は視た限り今のところはそこまで危険な霊ではないんですよね。ただ、三笠さんのことはやたらと部屋から追い出したがってるみたいだ。テレビに怒ってるのかもしれませんが」
狗飼は二人分のコーヒーを淹れながら話を続けた。
まるで霊能力者のような口ぶりに、伊織は眉を顰めた。部屋はいかにも意識の高い若者の部屋と言った洒落たモダンな部屋だが、よくよく見てみると、パソコンの横にずらりと『廃トンネル心霊現象検証』だの『全国心霊物件ファイル』だの怪しい本が並んでいる。
「な、なにお前。視える人? オカルトオタク??」
「どっちもです。まーよくある話ですが、子供の時に事故で生死を彷徨ってから視えるようになりまして。必然的にそういうのの存在に興味を持って研究してます」
(幽霊の研究ってなにするんだよ……)
「いずれにしろ番組は企画中止にした方がいいですよ。どうしても続けるなら、撮影の時間以外は友達の家とかに泊めて貰ってください」
「………」
出来るならそうしたいが、友達などいない。それに、そんなことをしたらヤラセになってしまう。
「お前霊能者ならお祓いとかできねーの?」
「アレにそういった物は効きません」
「そんなに強い……その、怨念が残ってるのか?」
「怨念があるタイプの方が危険ですが解決はしやすいんですよ。ああいう風に特に恨みはないけどこの世から離れず残ってるのは、自然と消えるのを待つしかないですね。下手に刺激しない方がいい」
心なしか、霊の話になった途端、饒舌になっている。
椅子に腰かけながら揚々とそう話す彼は、どこぞの若手IT社長のようだった。
「じゃあ、これからもあの部屋で暮らすならあの首吊り霊と同居するしかないってことか?」
「そういうことになります。どっちにしろ三笠さんはあの部屋にはいない方がいい。霊があなたを追い出したがっているから」
「……でも、危険な霊じゃないんだろ?」
部屋にいない方がいいと言われても、他に行き場所はないし、何より撮影は中断出来ない。ならせめて、アレが危険ではないと思いたかった。普段はなるべくリビングにいないようにして、現れてしまったら部屋から出るという方法でやり過ごすしかない。
「危険がないのは、今のところは、ですよ」
「?」
「ああいう風に怨恨や強い未練以外で残ってる霊は、とにかく寂しいんですよね。ろくに弔いもされず孤独のまま死んで、せめて自分が生きていたことを忘れられたくない、消えたくないって思いが強い。そういう霊は扱い方を間違えると危険になります。自分を見てくれる場所や人に強く依存するから」
「………」
伊織は思わず、言葉を失った。
忘れられたくない。消えたくないと、この業界に依存している自分はまるで霊そのもののように思えてならなかった。
身寄りもなく、首を吊ったまま腐り落ちるまで放っておかれた霊。一体どれほどの孤独だろう。
あの霊の気持ちが、不意に、痛いほどわかってしまった。
「だから撮影時以外は友達の家か実家に身を寄せて……三笠さん、友達います?」
「お前、失礼だな。いるに決まってんだろー友達ぐらい」
変な見栄を張ってそう言う。
「いや、あんまり三笠伊織と仲良い芸能人って聞いたことないから」
「……お前、俺のこと知ってるのか?」
「え?」
「世代的に、知らないかと思った」
「世代って。俺20歳だから5歳差だし。同世代で三笠さんを知らない奴の方が少ないと思いますけどね。青の季節の再放送とかよく観てましたよ。祖母が好きで」
幼い頃出ていたドラマを挙げられ、伊織は少し頬を赤くした。
「そ、そうか。青の季節観てたのか」
「可愛かったですよね。あのドラマの三笠さん」
「ふん。今は劣化したとでも言いたげだな」
「いや……」
狗飼は何が言いかけたあと顔を逸らした。
伊織はそれを肯定と捉えて、ムッとしながら差し出されたコーヒーに口をつけた。
「あ、すみません。砂糖いります?」
「いや、要らない」
「あー、六時以降は糖分取らないんでしたっけ。ストイックですね」
なんでそんなこと知ってるんだと首を傾げながら頷いた。
「……まー、俺潔癖症だし人と暮らすのとか本来マジで無理なんですけど、もし三笠さんが友達いないなら俺の……」
狗飼が目を逸らしながら何か言いかけたその時、不意に伊織のスマホが鳴った。番組のプロデューサーからだった。
サーッと顔が青ざめていく。
そうだ、放送。放送はどうなったのだろう。もう放送時間はとっくに過ぎていた。生中継でプロとしてあるまじき放送事故を起こしてしまった。
震えるてで通話ボタンを押すと、怒号ではなく興奮した声が耳をつんざいた。
「いおりん!! 無事!?」
「す、すみません、俺……」
蒼白になりながらしどろもどろに言うと、彼はいつになく弾んだ声で言った。
「つぶったー見て! トレンドすごいよ!」
「え!?」
驚いて通話したままスマホを立ち上げると、番組名のハッシュタグと共に「三笠伊織」「いおりん」「事故物件」「放送事故」「ガチ」「ヤラセ」と言ったワードが並んでいる。
番組の動画もあげられており、伊織の背後に首吊り死体が現れ、ベランダへ逃げるところまでが映っていた。
ヤラセなのかガチなのかと騒然としていた。
あの時、咄嗟に自撮りカメラを握りしめて必死に逃げたため、かなり臨場感あるホラー映像になっていた。
自分の名前をタップしてみると、数えきれないほどのツブートが並んでいた。
その上、「劣化した」という感想ばかりだったらと恐る恐る薄目で中身を読んでみて、伊織は息を呑み、瞳を揺らした。
『三笠伊織久しぶりに見たら体張ってて偉すぎ。あれヤラセだとしたら演技うますぎ』
『いおりん久しぶりに見たら今でも可愛くてびっくりしたーもう25歳かー。子役の頃を知ってるから今でも頑張っててくれて嬉しい』
肯定的な意見ばかりがずらりと並んでいる。もちろん、ヤラセを疑う声もあるが、ヤラセなら逆に演技がすごいと肯定的な意見ばかりだ。
こんなことはいつぶりだろうか。
思わず瞼が熱くなり、無意識に口を押さえた。
「いやー、こんなネット番組がトレンドに乗ること自体初だし、伊織くんのあの後を心配する声が番組に来まくってて反響がすごいよ! あの幽霊役の人は伊織くんが仕込んだの?? 特殊メイクすごいよね。スタッフに聞いてもやってないって言うんだよねー」
プロデューサーはあくまで幽霊の仕業ではなく、人為的なモノだと思っているようだ。
「急だけど、明日部屋にカメラ入ってもいいかな? せっかくバズったし、企画についてもこっちで打ち合わせして練り直すから」
「は、はい、分かりました!」
スマホを切ると、伊織は夢心地のような顔でフー……っと息をついた。
すごい。一晩にしてこんなことになるなんて。
「バズってますねー」
狗飼はこちらのやり取りを聞いて何があったのか察したのだろう。自分のスマホを覗きこみ、つぶったーのトレンドを眺めながらどこか冷めた顔で言った。
「やばい、すごい、〝いおりん〟がトレンド3位になってる! この企画、もっと盛り上げるぞ! 俺、この先事故物件タレントとして生きてく!!」
自分がこの業界で生き残っていくにはこの路線しかない。もう、怖いなんて子供みたいなこと言っていられない。
興奮し、浮かれきった様子の伊織に、狗飼は再度警告した。
「……幽霊は、人から認識されない限り存在し得ないんです。裏を返せば、人間に認識されることで存在を強める。人は、普段目にしない物の存在をどんどん忘れていくでしょう。完全に人目に触れられなくなって、忘れられれば、あの霊も自然と風化するように消えていくんです。三笠さんの危険を考えると、あまり番組でも大きく取り上げない方がいいと思いますが」
そう、みんな忘れていく。
これだけ話題になっていても、すぐにまた別のスクープやお気に入りのアイドル、日常のことで頭がいっぱいになり、伊織のことなんてすぐに忘れてしまう。
「お前の言いたいことはよくわかる。でもこのチャンスは絶対モノにしたい。ずっと待ってたんだ。何年も、何年もこの時を……」
少しずつ自分の存在が世間から忘れられていくのを、狂いそうになりながら見て来た。このまま黙って存在を忘れられたくなんてなかった。
あの目が眩むような強烈なスポットライトを思い出して強烈な飢餓状態を感じていた。
こんなところで終わってたまるか。
もう一度もう一度もう一度。
尋常ではない業界への執着に、狗飼は深い溜息を吐いて言った。
「……とりあえず、今晩だけはここ泊まっていったらどうですか。来客用の布団があるので」
「え、いいのか?」
エゴサしきれないほどSNSにずらりと並んだ自分の名前に、あの幽霊が幸運の神様のようにすら思えたが、だからと言って、今夜あの部屋で眠ると考えると、恐ろしくて鳥肌が立つ。
売名のために恐怖すら完全に捨て去れるほど、まだ自分は狂えていない。
友達も身寄りもいないし、朝までファミレスにでも行って時間を潰そうかとも考えていたので、狗飼の申し出はとてもありがたかった。
「また深夜にアレが出て、絶叫とかされたら迷惑なんで」
「………」
嫌味な言い方に、ムスッとしながらも、確かに迷惑をかけたことは事実で何も言い返すことなど出来ない。
バスルームを借りて、パジャマに着替えて念入りなスキンケアを済ませて出てくると、リビングに布団が一組置かれていた。
「え゛っ」
「なんですかその声」
「やだ! ここベランダからアレが夜中に覗いてくるかもしれないだろ!」
「アレは三笠さんの部屋に憑いてるんで、こっちには来ませんよ」
「お前の寝室で一緒に寝かせて貰うんじゃだめなのか。俺の部屋と同じ間取りなら、寝室結構広いだろ」
すると狗飼は、珍しく動揺したように目線を逸らした。
「……いや、いいですけど、寝室はもっとやばい霊が出ますよ」
伊織はその言葉にヒクッと頬を引き攣らせた。
「まさかこの部屋も事故物件なのか??」
「そんなわけないでしょう。寝室に出るのは部屋ではなく俺自身に憑いてる霊のストーカー女です」
「霊のストーカー?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、狗飼は苦笑を浮かべたまま言った。
「霊は寂しがり屋って言ったじゃないですか。それをよく知らなかった中学生の頃の俺は一度構ってしまったんですよ。以来どこに引っ越しても付いてきます。長い髪の毛の血まみれの女が夜中に出てもいいなら、寝室で一緒に寝ましょうか」
「な、なんだよそれ!!」
究極の選択を突き付けられて、悩んだあげくに伊織は寝室で寝ることにした。
どうしても今夜だけは、誰かの側で寝たいという気持ちがあった。
狗飼は夜中に目を覚ましても絶対に自分のベッドを見ないようにと言って、アイマスクを貸してくれた。
「あとベッド下は絶対に見ないでくださいね」
「……そこに潜んでるのか」
想像すると怖すぎて身震いすると、狗飼は「そっちはもっと怖いものがいるんで」とにこやかに言い放った。
事故物件のはずの自分の部屋よりも恐ろしい部屋に来てしまった伊織は、バズッた興奮も相まってとても眠れそうにないと思っていたが、布団に入ると、あまりの肌触りの良さにすぐに眠くなってきた。ここ最近の疲れもあったのかもしれない。
狗飼はまだ眠る気はないようで、ベッドサイドの明かりを頼りに怪しげな本を読んでいた。
「……この布団、高級布団だな。学生のくせに生意気」
「バイト代で買ったんですよ」
「……もしかして、彼女用の布団とかじゃねーよな?」
「彼女だったら一緒のベッドで寝ますよね」
「ま、まー、そうだな」
伊織はこれまでスキャンダルはご法度な生活を送っていたので、そういったことには疎く、密かに頬を赤くした。
「……狗飼は俺の部屋の前の住人の生前を知ってるのか?」
「いや、俺が越してくる前からすでに事故物件でずっと空き部屋だったんで。何人かたまに越してきましたがみんな一週間と経たずに首つり死体の霊を見て退去してます。本来、物件で自殺があったとしてもその後に誰か住めば告知義務は無くなりますが、あの部屋はどうしても出るので、心理的瑕疵物件のままなんです」
「そうか……。よっぽど、消えたくないんだなアイツ。死んだあともずっと、腐るまで忘れられちゃってたなんてかわいそうだ……」
本格的に眠くなってきた。
眠りに落ちる前に少しだけアイマスクをずらしてスマホで日課のエゴサをしてみると、そこにはいくら見ても見切れない程のツブートがあって、そのことに無性に安堵した。
(良かった……これでしばらく、俺は消えずに済む)
スマホを抱きしめるようにしながら、伊織は眠りに落ちた。
彼が後ろ手にぴしゃりと戸を閉めると、あの異様な瘴気は一切なくなり、辺りは静寂に包まれた。
「け、ケーサツ! いや、お坊さん! お坊さん呼ばないと!」
「アレには読経なんて効かないですよ。しばらくこの部屋で大人しくしててください。そうすればアレも大人しくなります」
「な、なんなんだよぉ……あれ」
情けない声を出して額を押さえた伊織をソファの上に座らせると、狗飼はこともなげに言った。
「ただの霊です。今まで時々人前に姿を現すぐらいで無害だったんですけどね。今日はやけに騒いでますけど」
「人前に出てくる時点で無害じゃねーだろーがァ!!」
思わずキレながら突っ込んだ後、しまったと思いながら口を押えた。狗飼はしばらく呆気に取られた顔をしていたがやがてニヤリと笑った。
「やっぱ随分作ってるんだなー、キャラ。まあ、当たり前か」
「………SNSとかでバラしたらぶん殴る」
ギロリと睨みつけながら言うと、狗飼は眉根を寄せて「そんなことして、俺にメリットあります?」と笑った。
「あの霊は視た限り今のところはそこまで危険な霊ではないんですよね。ただ、三笠さんのことはやたらと部屋から追い出したがってるみたいだ。テレビに怒ってるのかもしれませんが」
狗飼は二人分のコーヒーを淹れながら話を続けた。
まるで霊能力者のような口ぶりに、伊織は眉を顰めた。部屋はいかにも意識の高い若者の部屋と言った洒落たモダンな部屋だが、よくよく見てみると、パソコンの横にずらりと『廃トンネル心霊現象検証』だの『全国心霊物件ファイル』だの怪しい本が並んでいる。
「な、なにお前。視える人? オカルトオタク??」
「どっちもです。まーよくある話ですが、子供の時に事故で生死を彷徨ってから視えるようになりまして。必然的にそういうのの存在に興味を持って研究してます」
(幽霊の研究ってなにするんだよ……)
「いずれにしろ番組は企画中止にした方がいいですよ。どうしても続けるなら、撮影の時間以外は友達の家とかに泊めて貰ってください」
「………」
出来るならそうしたいが、友達などいない。それに、そんなことをしたらヤラセになってしまう。
「お前霊能者ならお祓いとかできねーの?」
「アレにそういった物は効きません」
「そんなに強い……その、怨念が残ってるのか?」
「怨念があるタイプの方が危険ですが解決はしやすいんですよ。ああいう風に特に恨みはないけどこの世から離れず残ってるのは、自然と消えるのを待つしかないですね。下手に刺激しない方がいい」
心なしか、霊の話になった途端、饒舌になっている。
椅子に腰かけながら揚々とそう話す彼は、どこぞの若手IT社長のようだった。
「じゃあ、これからもあの部屋で暮らすならあの首吊り霊と同居するしかないってことか?」
「そういうことになります。どっちにしろ三笠さんはあの部屋にはいない方がいい。霊があなたを追い出したがっているから」
「……でも、危険な霊じゃないんだろ?」
部屋にいない方がいいと言われても、他に行き場所はないし、何より撮影は中断出来ない。ならせめて、アレが危険ではないと思いたかった。普段はなるべくリビングにいないようにして、現れてしまったら部屋から出るという方法でやり過ごすしかない。
「危険がないのは、今のところは、ですよ」
「?」
「ああいう風に怨恨や強い未練以外で残ってる霊は、とにかく寂しいんですよね。ろくに弔いもされず孤独のまま死んで、せめて自分が生きていたことを忘れられたくない、消えたくないって思いが強い。そういう霊は扱い方を間違えると危険になります。自分を見てくれる場所や人に強く依存するから」
「………」
伊織は思わず、言葉を失った。
忘れられたくない。消えたくないと、この業界に依存している自分はまるで霊そのもののように思えてならなかった。
身寄りもなく、首を吊ったまま腐り落ちるまで放っておかれた霊。一体どれほどの孤独だろう。
あの霊の気持ちが、不意に、痛いほどわかってしまった。
「だから撮影時以外は友達の家か実家に身を寄せて……三笠さん、友達います?」
「お前、失礼だな。いるに決まってんだろー友達ぐらい」
変な見栄を張ってそう言う。
「いや、あんまり三笠伊織と仲良い芸能人って聞いたことないから」
「……お前、俺のこと知ってるのか?」
「え?」
「世代的に、知らないかと思った」
「世代って。俺20歳だから5歳差だし。同世代で三笠さんを知らない奴の方が少ないと思いますけどね。青の季節の再放送とかよく観てましたよ。祖母が好きで」
幼い頃出ていたドラマを挙げられ、伊織は少し頬を赤くした。
「そ、そうか。青の季節観てたのか」
「可愛かったですよね。あのドラマの三笠さん」
「ふん。今は劣化したとでも言いたげだな」
「いや……」
狗飼は何が言いかけたあと顔を逸らした。
伊織はそれを肯定と捉えて、ムッとしながら差し出されたコーヒーに口をつけた。
「あ、すみません。砂糖いります?」
「いや、要らない」
「あー、六時以降は糖分取らないんでしたっけ。ストイックですね」
なんでそんなこと知ってるんだと首を傾げながら頷いた。
「……まー、俺潔癖症だし人と暮らすのとか本来マジで無理なんですけど、もし三笠さんが友達いないなら俺の……」
狗飼が目を逸らしながら何か言いかけたその時、不意に伊織のスマホが鳴った。番組のプロデューサーからだった。
サーッと顔が青ざめていく。
そうだ、放送。放送はどうなったのだろう。もう放送時間はとっくに過ぎていた。生中継でプロとしてあるまじき放送事故を起こしてしまった。
震えるてで通話ボタンを押すと、怒号ではなく興奮した声が耳をつんざいた。
「いおりん!! 無事!?」
「す、すみません、俺……」
蒼白になりながらしどろもどろに言うと、彼はいつになく弾んだ声で言った。
「つぶったー見て! トレンドすごいよ!」
「え!?」
驚いて通話したままスマホを立ち上げると、番組名のハッシュタグと共に「三笠伊織」「いおりん」「事故物件」「放送事故」「ガチ」「ヤラセ」と言ったワードが並んでいる。
番組の動画もあげられており、伊織の背後に首吊り死体が現れ、ベランダへ逃げるところまでが映っていた。
ヤラセなのかガチなのかと騒然としていた。
あの時、咄嗟に自撮りカメラを握りしめて必死に逃げたため、かなり臨場感あるホラー映像になっていた。
自分の名前をタップしてみると、数えきれないほどのツブートが並んでいた。
その上、「劣化した」という感想ばかりだったらと恐る恐る薄目で中身を読んでみて、伊織は息を呑み、瞳を揺らした。
『三笠伊織久しぶりに見たら体張ってて偉すぎ。あれヤラセだとしたら演技うますぎ』
『いおりん久しぶりに見たら今でも可愛くてびっくりしたーもう25歳かー。子役の頃を知ってるから今でも頑張っててくれて嬉しい』
肯定的な意見ばかりがずらりと並んでいる。もちろん、ヤラセを疑う声もあるが、ヤラセなら逆に演技がすごいと肯定的な意見ばかりだ。
こんなことはいつぶりだろうか。
思わず瞼が熱くなり、無意識に口を押さえた。
「いやー、こんなネット番組がトレンドに乗ること自体初だし、伊織くんのあの後を心配する声が番組に来まくってて反響がすごいよ! あの幽霊役の人は伊織くんが仕込んだの?? 特殊メイクすごいよね。スタッフに聞いてもやってないって言うんだよねー」
プロデューサーはあくまで幽霊の仕業ではなく、人為的なモノだと思っているようだ。
「急だけど、明日部屋にカメラ入ってもいいかな? せっかくバズったし、企画についてもこっちで打ち合わせして練り直すから」
「は、はい、分かりました!」
スマホを切ると、伊織は夢心地のような顔でフー……っと息をついた。
すごい。一晩にしてこんなことになるなんて。
「バズってますねー」
狗飼はこちらのやり取りを聞いて何があったのか察したのだろう。自分のスマホを覗きこみ、つぶったーのトレンドを眺めながらどこか冷めた顔で言った。
「やばい、すごい、〝いおりん〟がトレンド3位になってる! この企画、もっと盛り上げるぞ! 俺、この先事故物件タレントとして生きてく!!」
自分がこの業界で生き残っていくにはこの路線しかない。もう、怖いなんて子供みたいなこと言っていられない。
興奮し、浮かれきった様子の伊織に、狗飼は再度警告した。
「……幽霊は、人から認識されない限り存在し得ないんです。裏を返せば、人間に認識されることで存在を強める。人は、普段目にしない物の存在をどんどん忘れていくでしょう。完全に人目に触れられなくなって、忘れられれば、あの霊も自然と風化するように消えていくんです。三笠さんの危険を考えると、あまり番組でも大きく取り上げない方がいいと思いますが」
そう、みんな忘れていく。
これだけ話題になっていても、すぐにまた別のスクープやお気に入りのアイドル、日常のことで頭がいっぱいになり、伊織のことなんてすぐに忘れてしまう。
「お前の言いたいことはよくわかる。でもこのチャンスは絶対モノにしたい。ずっと待ってたんだ。何年も、何年もこの時を……」
少しずつ自分の存在が世間から忘れられていくのを、狂いそうになりながら見て来た。このまま黙って存在を忘れられたくなんてなかった。
あの目が眩むような強烈なスポットライトを思い出して強烈な飢餓状態を感じていた。
こんなところで終わってたまるか。
もう一度もう一度もう一度。
尋常ではない業界への執着に、狗飼は深い溜息を吐いて言った。
「……とりあえず、今晩だけはここ泊まっていったらどうですか。来客用の布団があるので」
「え、いいのか?」
エゴサしきれないほどSNSにずらりと並んだ自分の名前に、あの幽霊が幸運の神様のようにすら思えたが、だからと言って、今夜あの部屋で眠ると考えると、恐ろしくて鳥肌が立つ。
売名のために恐怖すら完全に捨て去れるほど、まだ自分は狂えていない。
友達も身寄りもいないし、朝までファミレスにでも行って時間を潰そうかとも考えていたので、狗飼の申し出はとてもありがたかった。
「また深夜にアレが出て、絶叫とかされたら迷惑なんで」
「………」
嫌味な言い方に、ムスッとしながらも、確かに迷惑をかけたことは事実で何も言い返すことなど出来ない。
バスルームを借りて、パジャマに着替えて念入りなスキンケアを済ませて出てくると、リビングに布団が一組置かれていた。
「え゛っ」
「なんですかその声」
「やだ! ここベランダからアレが夜中に覗いてくるかもしれないだろ!」
「アレは三笠さんの部屋に憑いてるんで、こっちには来ませんよ」
「お前の寝室で一緒に寝かせて貰うんじゃだめなのか。俺の部屋と同じ間取りなら、寝室結構広いだろ」
すると狗飼は、珍しく動揺したように目線を逸らした。
「……いや、いいですけど、寝室はもっとやばい霊が出ますよ」
伊織はその言葉にヒクッと頬を引き攣らせた。
「まさかこの部屋も事故物件なのか??」
「そんなわけないでしょう。寝室に出るのは部屋ではなく俺自身に憑いてる霊のストーカー女です」
「霊のストーカー?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、狗飼は苦笑を浮かべたまま言った。
「霊は寂しがり屋って言ったじゃないですか。それをよく知らなかった中学生の頃の俺は一度構ってしまったんですよ。以来どこに引っ越しても付いてきます。長い髪の毛の血まみれの女が夜中に出てもいいなら、寝室で一緒に寝ましょうか」
「な、なんだよそれ!!」
究極の選択を突き付けられて、悩んだあげくに伊織は寝室で寝ることにした。
どうしても今夜だけは、誰かの側で寝たいという気持ちがあった。
狗飼は夜中に目を覚ましても絶対に自分のベッドを見ないようにと言って、アイマスクを貸してくれた。
「あとベッド下は絶対に見ないでくださいね」
「……そこに潜んでるのか」
想像すると怖すぎて身震いすると、狗飼は「そっちはもっと怖いものがいるんで」とにこやかに言い放った。
事故物件のはずの自分の部屋よりも恐ろしい部屋に来てしまった伊織は、バズッた興奮も相まってとても眠れそうにないと思っていたが、布団に入ると、あまりの肌触りの良さにすぐに眠くなってきた。ここ最近の疲れもあったのかもしれない。
狗飼はまだ眠る気はないようで、ベッドサイドの明かりを頼りに怪しげな本を読んでいた。
「……この布団、高級布団だな。学生のくせに生意気」
「バイト代で買ったんですよ」
「……もしかして、彼女用の布団とかじゃねーよな?」
「彼女だったら一緒のベッドで寝ますよね」
「ま、まー、そうだな」
伊織はこれまでスキャンダルはご法度な生活を送っていたので、そういったことには疎く、密かに頬を赤くした。
「……狗飼は俺の部屋の前の住人の生前を知ってるのか?」
「いや、俺が越してくる前からすでに事故物件でずっと空き部屋だったんで。何人かたまに越してきましたがみんな一週間と経たずに首つり死体の霊を見て退去してます。本来、物件で自殺があったとしてもその後に誰か住めば告知義務は無くなりますが、あの部屋はどうしても出るので、心理的瑕疵物件のままなんです」
「そうか……。よっぽど、消えたくないんだなアイツ。死んだあともずっと、腐るまで忘れられちゃってたなんてかわいそうだ……」
本格的に眠くなってきた。
眠りに落ちる前に少しだけアイマスクをずらしてスマホで日課のエゴサをしてみると、そこにはいくら見ても見切れない程のツブートがあって、そのことに無性に安堵した。
(良かった……これでしばらく、俺は消えずに済む)
スマホを抱きしめるようにしながら、伊織は眠りに落ちた。
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