2 / 15
2話
しおりを挟む
上手くいかない恋路に悩んでばかりもいられないのがサラリーマンの哀しき運命。
マリの呼んでくれたタクシーでなんとか小さな単身者用のアパートに辿り着いてベッドに潜り込んだ翌朝。
眠たいけれども今日は大事なクライアントと打ち合わせが入っているから気合いを入れなくてはならない。
いつもより早く家を出て職場に向かうべく身支度を整える。お気に入りのセレクトショップで購入した英国ブランドのスーツはオートクチュールのような高級品というわけではないが、タイトなデザインが千晶の細身の躯にぴったりと似合う。髪はさらさらの感触を生かして自然にセット。昨夜泣いてしまったので目元がほんのり赤いのが色白のため目立ってしまうが、そこを除けば大丈夫だと鏡を覗いて入念にチェックした。営業は身だしなみを整えるのも仕事の一部だ。
それからキッチンに駆け込んで、ミネラルウォーターをグラスに注ぐと、オメガの発情抑制剤の錠剤を飲む。少し考えてから念のためにもう1錠スーツのポケットに落とす。
「よし、これでオッケー、かな」
いつもどおり、帝都証券法人営業部企画課の中原千晶が完成したのを確認して玄関に向かう。
ピカピカに磨きあげた革靴はお気に入りのデザインで、足を入れると気持ちが引き締まる。
最寄りの清澄白河から大手町の帝都証券本社まで。
いつもより早いので通勤客も溢れ返るほどではなかった。
冬の朝は寒いがよく晴れていると青空に街路樹が映えてとびきり爽やかだ。
千晶の職場である帝都証券のビルに入る。帝都銀行の証券部が独立して新しく出来た子会社であるため、帝都銀行本店の重厚さとは違い、 明るくスタイリッシュな印象でカフェも併設しているエントランスを持つ。セキュリティを通過した奥に並ぶエレベーターに乗り、千晶の所属する法人営業部のフロアに向かう。
フロアに着いて、部のガラス張りのドアを開ける。まだ誰も出社している様子がなく静まり返ったオフィス。デスクに向かうと、 部長室のドアが開いた。
「おはよう、千晶」
声をする方に顔を向けると、早朝にも関わらず法人営業部の部長である相馬が出社していた。
相馬はまだ三十代前半にも関わらず、帝都銀行融資部で部長まで務めあげ、現在子会社である帝都証券の業績を伸ばすべく出向させられたのだと噂されている。銀行員と云うと堅苦しいイメージだが、相馬はそのイメージを完全に払拭するほど軽やかだ。
「おはようございます。相馬さん早いっすね」
「おー、実はここだけの話なんだけどさ、本店の融資部金融庁の調査が入るらしくて、今日の午後銀行に呼ばれちゃってさ。だからやれる仕事朝のうちに片付けておこうと思って」
参ったというように、溜め息を吐く相馬。すらりと身長が高く、少し長めで額にかかる前髪が美しい顔に影を落としているのがドキリとするほど色っぽい。 女の子達からは王子様と呼ばれて銀行の本店にも証券にもファンクラブあると真しやかに囁かれる噂も伊達ではない。
「え……じゃあ今日の YNNシステムズのトレジャックス買収について御山社長との打ち合わせには……」
今日の午後相馬と千晶の二人で取引先に行く予定について千晶が尋ねる。相馬は一見銀行員という固い職業に就いているようには見えないが、千晶が知るどの行員よりも幅広い知識と経済界の人脈を持ち合わせているため、上司としてはこれ以上ないほどに頼りにしてしまう。
「悪い。一緒に行けなくなっちゃったんだよね。千晶しっかりやってるから今日の件については一人で任せられるんだけど……終わった後は御山さんと銀座で会食だろ? それまでには間に合うようにする」
相馬の言葉に
「そうですね。相馬さんが来てくれたら助かります」
千晶が答える。
「ビジネスの場ならともかく、酒の席であの人の相手、千晶一人じゃきついよなぁ」
と相馬は若くして成功したベンチャー企業の社長の自信に溢れた顔を二人して思い出して苦笑いをする。
銀行ではなく子会社である帝都証券で採用された千晶のようなプロパーの社員からすれば、本行から出向しているエリートである若き部長といえば雲の上のような存在であるが、相馬は気さくで何でも相談しやすい相手だった。
話しながら千晶はパソコンを起動する。
「すみません、相馬さん。今日のYNNシステムズでの打ち合わせの内容について確認してもらってもいいですか?」
千晶は現在、新進気鋭のIT企業であるYNNシステムズ、通称YNNとアドバイザーとして契約を結んでいる。YNNの業務拡大のためにトレジャックスというファッション通販サイトを運営するベンチャー企業の友好的買収を相馬と共に進めているところであった。
相馬は千晶のパソコンを覗き込むため、空いてるキャスター付きのチェアに座り、するりとチェアをすべらせて、ぴたりと千晶の隣に付けた。
仕事柄、はっきりと分かるものではないが、近づくと淡く相馬の愛用する香水が香る。男らしいウッドベースの香なのだが、奥に優しい花の香も潜んでいるような相馬独特の匂いはくらくらするほど色っぽい。
「うん、事業提携の契約書はこれで進めて大丈夫そうだね。穴なくちゃんと作れてる。法務の部分YNNは要望も多いし特殊だったから他の契約書のフォーマット使えなかったから大変だったでしょ」
この男に認められたくて日々懸命に仕事をしているので、褒められるのは殊更嬉しくて思わず顔が綻ぶ。
「ありがとうございます。法務部の鹿島さんに随分手伝ってもらったんですけどね」
千晶が答えると相馬は笑って言った。
「や、鹿島は殆んど千晶が自分で調べてやったって褒めてたよ。念のための確認しかしてないって。で、今日はこの契約書と最終的な事業計画案確認するところまでだよね、契約日はいつだっけ?」
「月末で調整しているところです。トレジャックスの恩田社長の秘書さんからの連絡待ちです」
「了解、契約のときは何を置いても優先して俺も行くから日にち決まったらすぐ教えて」
「頭取に呼ばれてもですか?」
千晶がいたずらっぽく笑って尋ねると
「うん。頭取に呼ばれてもこの契約最優先する。あの人俺のこと情報屋かなんかだと勘違いしてるんだよなー」
と相馬も笑った。
「相馬さん、頭取の懐刀だって噂ですもんね」
「そんないいもんじゃないけどね。千晶今回トレジャックスのために奔走したもんな。絶対成功させような」
「はい」
千晶が答えると、相馬は椅子のキャスターを使って更にぴたりと千晶のそばに寄った。肩が触れて、思わず躯を引こうとしたが許されなかった。
「それはそうと」
話を変えるべく声のトーンを切り替えた相馬が、ゆるやかに千晶に向かって手を伸ばす。
「またフラれたの? 千晶、目ぇ赤い」
長い人差し指が千晶の目元を柔らかく擽る。 相馬の指先は短く爪が整えられていて、よく手入れが行き届いてる。清潔感があるのに、色気が漂う手。
急に醸し出された甘い空気に背中がびくりと粟立った。
「……黙秘です」
努めて何でもないようにパソコンの画面から目を離さず答える。
「俺にしとけばいいじゃん。俺なら一生千晶のこと幸せにしたげるのに。……色白いから泣くと目立っちゃうね」
そう言って目元に触れた指が頬をすべる。
口説かれている、ということは他人から向けられる想いに鈍い千晶でもわかっている。
それくらいはっきり口説かれている。
多くのオメガから番に、と望まれるであろう相馬。優しくて、仕事も出来て、背も高くて、誰もが見惚れるほどに整った顔。
どんな美しいオメガでも思うが儘なのだから、千晶なんかに手を伸ばすこともないのに。
「…………」
「やっぱアルファはやだ? 怖い?」
「別に怖いってわけじゃ……相馬さんなら何も俺みたいなのじゃなくて、もっといいオメガが……」
オメガといえば男でも女の子のように可憐で可愛い子が多い。千晶は細身だが175センチも身長はあるし、アルファほどは大きくないが世間の持つオメガの雰囲気とは少し違って男らしい。
「千晶よりいい子は俺は知らないな。俺は千晶がいい。何回も言ってるけど千晶のことが本気で好きなんだよ。だから他の人はいらないんだ」
こんな王子様のような男に真っ直ぐな瞳で真摯に口説かれて、堕ちない人間などいるのだろうかと思うけれど。
相馬を魅力的に感じれば感じるほど千晶は怖かった。
こんな人の番になって、蜜月のような時間を味わったら、もう元には戻れなくなるような気がした。
そして、もし別れることにでもなりさえすれば、自分はきっと母のように……
千晶がぐるぐると思案している間に、相馬の腕が腰に回って、吐息が掛かるほどに彼の美しい顔が近づいて、千晶はくらりと目眩がした。
長い指先が千晶の髪の中に潜って髪の感触を味わうようにかきまぜる。
それから指先が悪戯に耳朶に触れ、相馬の腕に収まる千晶の腰がびくり、と震えると、嬉しそうに相馬がくくっと低く笑った。
指先が顎に掛かって横を向かされると、相馬の鼻先が千晶の鼻先に触れた。思っていたよりずっと熱い相馬の体温がわかったとき、彼の意図に気付いてその胸に手を張った。
「や……やめてくださいっ……相馬さんっ……」
「だめ?」
鼻先をすり、と擦り合わせて甘えたような声を出される。
長い指先と吐息がくちびるに触れて、思わず彼の背に腕を回して縋りつきたくなってしまうが。
「だめ、 です……離して下さい……っ」
「キス、したい。させてよ……千晶……」
「や……だめ……」
くちびるまであとほんの少しのところ。甘やかでどこか切ない声に目眩がしそうになったとき。
出勤してくる同僚の足音が聞こえてきた。
「残念。タイムリミット」
そう言って相馬は千晶をそっと離した。
『逃がされている』のだと思う。
こうやって、逃げる余地を相馬はくれるのだ。
恐らく奪おうと思えば相馬ならいつだって千晶を奪うことが出来るのに、相馬はそうしない。
この後は恐らく何事もなかったように、いつもの頼れる上司として仕事を一緒にしてくれる。
彼を受け入れてしまえば、楽になるのかもしれなかったが、自分が跡形も残らないほどに変えられてしまいそうで千晶は相馬を受け入れることが怖くて堪らなかった。
マリの呼んでくれたタクシーでなんとか小さな単身者用のアパートに辿り着いてベッドに潜り込んだ翌朝。
眠たいけれども今日は大事なクライアントと打ち合わせが入っているから気合いを入れなくてはならない。
いつもより早く家を出て職場に向かうべく身支度を整える。お気に入りのセレクトショップで購入した英国ブランドのスーツはオートクチュールのような高級品というわけではないが、タイトなデザインが千晶の細身の躯にぴったりと似合う。髪はさらさらの感触を生かして自然にセット。昨夜泣いてしまったので目元がほんのり赤いのが色白のため目立ってしまうが、そこを除けば大丈夫だと鏡を覗いて入念にチェックした。営業は身だしなみを整えるのも仕事の一部だ。
それからキッチンに駆け込んで、ミネラルウォーターをグラスに注ぐと、オメガの発情抑制剤の錠剤を飲む。少し考えてから念のためにもう1錠スーツのポケットに落とす。
「よし、これでオッケー、かな」
いつもどおり、帝都証券法人営業部企画課の中原千晶が完成したのを確認して玄関に向かう。
ピカピカに磨きあげた革靴はお気に入りのデザインで、足を入れると気持ちが引き締まる。
最寄りの清澄白河から大手町の帝都証券本社まで。
いつもより早いので通勤客も溢れ返るほどではなかった。
冬の朝は寒いがよく晴れていると青空に街路樹が映えてとびきり爽やかだ。
千晶の職場である帝都証券のビルに入る。帝都銀行の証券部が独立して新しく出来た子会社であるため、帝都銀行本店の重厚さとは違い、 明るくスタイリッシュな印象でカフェも併設しているエントランスを持つ。セキュリティを通過した奥に並ぶエレベーターに乗り、千晶の所属する法人営業部のフロアに向かう。
フロアに着いて、部のガラス張りのドアを開ける。まだ誰も出社している様子がなく静まり返ったオフィス。デスクに向かうと、 部長室のドアが開いた。
「おはよう、千晶」
声をする方に顔を向けると、早朝にも関わらず法人営業部の部長である相馬が出社していた。
相馬はまだ三十代前半にも関わらず、帝都銀行融資部で部長まで務めあげ、現在子会社である帝都証券の業績を伸ばすべく出向させられたのだと噂されている。銀行員と云うと堅苦しいイメージだが、相馬はそのイメージを完全に払拭するほど軽やかだ。
「おはようございます。相馬さん早いっすね」
「おー、実はここだけの話なんだけどさ、本店の融資部金融庁の調査が入るらしくて、今日の午後銀行に呼ばれちゃってさ。だからやれる仕事朝のうちに片付けておこうと思って」
参ったというように、溜め息を吐く相馬。すらりと身長が高く、少し長めで額にかかる前髪が美しい顔に影を落としているのがドキリとするほど色っぽい。 女の子達からは王子様と呼ばれて銀行の本店にも証券にもファンクラブあると真しやかに囁かれる噂も伊達ではない。
「え……じゃあ今日の YNNシステムズのトレジャックス買収について御山社長との打ち合わせには……」
今日の午後相馬と千晶の二人で取引先に行く予定について千晶が尋ねる。相馬は一見銀行員という固い職業に就いているようには見えないが、千晶が知るどの行員よりも幅広い知識と経済界の人脈を持ち合わせているため、上司としてはこれ以上ないほどに頼りにしてしまう。
「悪い。一緒に行けなくなっちゃったんだよね。千晶しっかりやってるから今日の件については一人で任せられるんだけど……終わった後は御山さんと銀座で会食だろ? それまでには間に合うようにする」
相馬の言葉に
「そうですね。相馬さんが来てくれたら助かります」
千晶が答える。
「ビジネスの場ならともかく、酒の席であの人の相手、千晶一人じゃきついよなぁ」
と相馬は若くして成功したベンチャー企業の社長の自信に溢れた顔を二人して思い出して苦笑いをする。
銀行ではなく子会社である帝都証券で採用された千晶のようなプロパーの社員からすれば、本行から出向しているエリートである若き部長といえば雲の上のような存在であるが、相馬は気さくで何でも相談しやすい相手だった。
話しながら千晶はパソコンを起動する。
「すみません、相馬さん。今日のYNNシステムズでの打ち合わせの内容について確認してもらってもいいですか?」
千晶は現在、新進気鋭のIT企業であるYNNシステムズ、通称YNNとアドバイザーとして契約を結んでいる。YNNの業務拡大のためにトレジャックスというファッション通販サイトを運営するベンチャー企業の友好的買収を相馬と共に進めているところであった。
相馬は千晶のパソコンを覗き込むため、空いてるキャスター付きのチェアに座り、するりとチェアをすべらせて、ぴたりと千晶の隣に付けた。
仕事柄、はっきりと分かるものではないが、近づくと淡く相馬の愛用する香水が香る。男らしいウッドベースの香なのだが、奥に優しい花の香も潜んでいるような相馬独特の匂いはくらくらするほど色っぽい。
「うん、事業提携の契約書はこれで進めて大丈夫そうだね。穴なくちゃんと作れてる。法務の部分YNNは要望も多いし特殊だったから他の契約書のフォーマット使えなかったから大変だったでしょ」
この男に認められたくて日々懸命に仕事をしているので、褒められるのは殊更嬉しくて思わず顔が綻ぶ。
「ありがとうございます。法務部の鹿島さんに随分手伝ってもらったんですけどね」
千晶が答えると相馬は笑って言った。
「や、鹿島は殆んど千晶が自分で調べてやったって褒めてたよ。念のための確認しかしてないって。で、今日はこの契約書と最終的な事業計画案確認するところまでだよね、契約日はいつだっけ?」
「月末で調整しているところです。トレジャックスの恩田社長の秘書さんからの連絡待ちです」
「了解、契約のときは何を置いても優先して俺も行くから日にち決まったらすぐ教えて」
「頭取に呼ばれてもですか?」
千晶がいたずらっぽく笑って尋ねると
「うん。頭取に呼ばれてもこの契約最優先する。あの人俺のこと情報屋かなんかだと勘違いしてるんだよなー」
と相馬も笑った。
「相馬さん、頭取の懐刀だって噂ですもんね」
「そんないいもんじゃないけどね。千晶今回トレジャックスのために奔走したもんな。絶対成功させような」
「はい」
千晶が答えると、相馬は椅子のキャスターを使って更にぴたりと千晶のそばに寄った。肩が触れて、思わず躯を引こうとしたが許されなかった。
「それはそうと」
話を変えるべく声のトーンを切り替えた相馬が、ゆるやかに千晶に向かって手を伸ばす。
「またフラれたの? 千晶、目ぇ赤い」
長い人差し指が千晶の目元を柔らかく擽る。 相馬の指先は短く爪が整えられていて、よく手入れが行き届いてる。清潔感があるのに、色気が漂う手。
急に醸し出された甘い空気に背中がびくりと粟立った。
「……黙秘です」
努めて何でもないようにパソコンの画面から目を離さず答える。
「俺にしとけばいいじゃん。俺なら一生千晶のこと幸せにしたげるのに。……色白いから泣くと目立っちゃうね」
そう言って目元に触れた指が頬をすべる。
口説かれている、ということは他人から向けられる想いに鈍い千晶でもわかっている。
それくらいはっきり口説かれている。
多くのオメガから番に、と望まれるであろう相馬。優しくて、仕事も出来て、背も高くて、誰もが見惚れるほどに整った顔。
どんな美しいオメガでも思うが儘なのだから、千晶なんかに手を伸ばすこともないのに。
「…………」
「やっぱアルファはやだ? 怖い?」
「別に怖いってわけじゃ……相馬さんなら何も俺みたいなのじゃなくて、もっといいオメガが……」
オメガといえば男でも女の子のように可憐で可愛い子が多い。千晶は細身だが175センチも身長はあるし、アルファほどは大きくないが世間の持つオメガの雰囲気とは少し違って男らしい。
「千晶よりいい子は俺は知らないな。俺は千晶がいい。何回も言ってるけど千晶のことが本気で好きなんだよ。だから他の人はいらないんだ」
こんな王子様のような男に真っ直ぐな瞳で真摯に口説かれて、堕ちない人間などいるのだろうかと思うけれど。
相馬を魅力的に感じれば感じるほど千晶は怖かった。
こんな人の番になって、蜜月のような時間を味わったら、もう元には戻れなくなるような気がした。
そして、もし別れることにでもなりさえすれば、自分はきっと母のように……
千晶がぐるぐると思案している間に、相馬の腕が腰に回って、吐息が掛かるほどに彼の美しい顔が近づいて、千晶はくらりと目眩がした。
長い指先が千晶の髪の中に潜って髪の感触を味わうようにかきまぜる。
それから指先が悪戯に耳朶に触れ、相馬の腕に収まる千晶の腰がびくり、と震えると、嬉しそうに相馬がくくっと低く笑った。
指先が顎に掛かって横を向かされると、相馬の鼻先が千晶の鼻先に触れた。思っていたよりずっと熱い相馬の体温がわかったとき、彼の意図に気付いてその胸に手を張った。
「や……やめてくださいっ……相馬さんっ……」
「だめ?」
鼻先をすり、と擦り合わせて甘えたような声を出される。
長い指先と吐息がくちびるに触れて、思わず彼の背に腕を回して縋りつきたくなってしまうが。
「だめ、 です……離して下さい……っ」
「キス、したい。させてよ……千晶……」
「や……だめ……」
くちびるまであとほんの少しのところ。甘やかでどこか切ない声に目眩がしそうになったとき。
出勤してくる同僚の足音が聞こえてきた。
「残念。タイムリミット」
そう言って相馬は千晶をそっと離した。
『逃がされている』のだと思う。
こうやって、逃げる余地を相馬はくれるのだ。
恐らく奪おうと思えば相馬ならいつだって千晶を奪うことが出来るのに、相馬はそうしない。
この後は恐らく何事もなかったように、いつもの頼れる上司として仕事を一緒にしてくれる。
彼を受け入れてしまえば、楽になるのかもしれなかったが、自分が跡形も残らないほどに変えられてしまいそうで千晶は相馬を受け入れることが怖くて堪らなかった。
100
あなたにおすすめの小説
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
僕と教授の秘密の遊び (終)
325号室の住人
BL
10年前、魔法学園の卒業式でやらかした元第二王子は、父親の魔法で二度と女遊びができない身体にされてしまった。
学生達が校内にいる時間帯には加齢魔法で老人姿の教授に、終業時間から翌朝の始業時間までは本来の容姿で居られるけれど陰茎は短く子種は出せない。
そんな教授の元に通うのは、教授がそんな魔法を掛けられる原因となった《過去のやらかし》である…
婚約破棄→王位継承権剥奪→新しい婚約発表と破局→王立学園(共学)に勤めて生徒の保護者である未亡人と致したのがバレて子種の出せない体にされる→美人局に引っかかって破産→加齢魔法で生徒を相手にしている時間帯のみ老人になり、貴族向けの魔法学院(全寮制男子校)に教授として勤める←今ここ を、全て見てきたと豪語する男爵子息。
卒業後も彼は自分が仕える伯爵家子息に付き添っては教授の元を訪れていた。
そんな彼と教授とのとある午後の話。
Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
運命じゃない人
万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。
理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
アルファのアイツが勃起不全だって言ったの誰だよ!?
モト
BL
中学の頃から一緒のアルファが勃起不全だと噂が流れた。おいおい。それって本当かよ。あんな完璧なアルファが勃起不全とかありえねぇって。
平凡モブのオメガが油断して美味しくいただかれる話。ラブコメ。
ムーンライトノベルズにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる