それはとても、甘い罠

ゆなな

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番外編

a few years later1

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 ※本編から数年後の話。モブ視点です。大人になった悠を楽しんでもらえたら。


 一際賑やかな通りにあるビルの地下に続く階段を降りると、美しい海の中にいるような蒼いライトに照らされた入り口。
 『Deep Blue』とだけシルバーの小さなプレートに刻まれていた。およそ店のドアとは思えないシンプルなそれをそっと開ける。
 開いた途端ずしり、と躯の奥深くに響く低音のミュージックが漏れ出す。
 店内の海の底にいるような蒼い雰囲気のとおり、其処の空気も涼やかだ。
 多くの人が犇めくフロアの奥。
 俺が目指すのはドリンクカウンター。
 バーのカウンターのようになっている造り。その前には幾つか脚の長いスツールが置かれている。
 そのドリンクカウンターの中に目当てとする人物を見つけて、俺は思わず駆け出しそうに逸る気持ちを抑える。
 此処でみっともなくがっつくような姿を見られては、この1ヶ月の努力が水の泡と帰してしまう。
 口にしただけて女が寄ってくるような大学を出て、某大手広告代理店に勤める俺は、モテまくってきた。 自分で言うのは如何なものかとは思うが、正直言って顔やスタイルにも自信がある。落としたいと思って落ちないヤツなんて一人もいなかった。
 それが、カウンターの奥でシェーカーを振る彼に出会って以来、初めて恋に落ちた少年のようになってしまった。
 だが、それも今日までだ。今日こそ、決める。
 俺はそう、心に決めて彼のいるカウンターに一歩ずつ近付いた。
「いらっしゃいませ、上島様」
 バーカウンターに近付いた俺に目敏く気付いた彼の声が、クラブミュージックの狭間をなめらかに通り抜けた。
「こんばんは、悠君」
 微笑む彼の息を飲むほどの美しさに固まりそうになってはっとする。
 だめだ、だめだ。こんな調子ではまた誘いの 一つも出来ないまま、帰ることになってしまう。
 俺は自身を落ち着かせるために、こほんと咳払いを一つしてから、会心の微笑みを浮かべて
「いつものを」
と、言う。
「かしこまりました」
 そう言って幾つかのボトルを手早く選んでシェーカーを振る指先の美しさや揺れるふわふわと茶色い髪に目を奪われる。 
 シェーカーを振るリズムに合わせて髪が揺れると優しいあまい彼の香りが鼻腔を擽る。
 そのとき、ちらりとちらりと覗く深い蒼のピアスが清純な彼をたまらなく艶かしく魅せる。まさに匂い立つほどに。
「悠君って、肌真っ白だよね。もしかして、ずっとこの店に居て、昼間は外に出たりしないの?」
 俺が尋ねると、シェーカーからキラキラ綺麗なブルーの液体をカクテルグラスに注ぎながら悠君は俺を見た。
 そして、色素の薄い茶色の瞳が驚いたように少し大きく見開かれたあと、またゆっくりと細められて笑った顔になる。長いまつげが揺れるのが美しい彼に何とも言えず艶めいた雰囲気を作り出す。
「そんなわけないじゃないですか。普通に昼間の外も、歩きますよ」
 くすくすと笑いながら彼は言った。凛とした声なのに、どこかほんの少しあまさがあるのが堪らない。
「きめ細かくてさ、太陽に当たったことがないんじゃないかと思うくらい綺麗だよね。この店は海をモチーフしてるけど、海とかは行ったりしないの?」
然り気無く問う。
「肌が弱いんで、 海で泳いだりはできないんですけど、海辺を散歩したり海のそばにある水族館に行ったりするのは好きですよ」
思いがけない答えに俺は俄に色めき立った。
 水族館に行くのが好きと打ち明けてくれるなんて、これは誘ってくれと言わんばかりではないか。
 逸る気持ちに落ち着けと心の中で繰り返し、お待たせしました、と差し出された蒼いカクテルを一口に含む。悠君に惚れている欲目を抜いたとしても彼のカクテルは旨いと思うが、初めてデートに誘う中学生のように緊張して折角の味がわからないほどだった。
 ごくり、と緊張を誤魔化すように飲み込んでから口を開いた。
「水族館、よかったら悠君が休みの日にでも……」
 俺が誘いを口にしたそのとき。
「悠」
 涼やかな海の底に流れる空気を震わせるようなバリトンが聞こえた。
カウンターの奥のスタッフルームの扉が開いた。
「リョウさん、来てたんですか」
悠が振り返った。
 悠のただでさえも甘い声がより一段と甘く、とろりと蕩け出しそうな蜜のような声に聞こえて、こんな甘い声も出すのかと俺は驚いた。そして悠が声をかけた相手の男を見て固まった。
 扉に腕をかけて立っている男はそれだけで絵になるような男だったが、ナイフでぐさりと刺されたかのような鋭利な視線が俺に向けられた。蒼い瞳が美しく、酷く冷たい。
 これは酷く危険なものだ。 頭の中で警鐘が鳴り響き、俺の背中に冷たい汗が伝った。
 次の瞬間。俺のことなどどうでもいいというように視線を外され、  男は悠君に視線を戻した。
「ここのところ悠にすっかり任せっきりだったからね。たまには様子を見に」
「家に帰ったら毎日ちゃんと報告してるからしっかり把握してるじゃないですか。忙しいんだから、わざわざ来なくても大丈夫ですよ。でもまぁリョウさん来てくれたら喜ぶお客様沢山いるから嬉しいですけど」
 そう言いながら、 この男が来たのが嬉しくて仕方がないという様子が悠君の背中から感じられた。振り返って後ろを向いてくれて丁度良かったのかもしれない。悠君がこの男を見る顔を見てしまったら嫉妬でおかしくなってしまうかもしれない。
 そう俺が思ったとき。
「悠、シャツの襟が曲がってる」
 男らしく骨張っている長い指先が悠君のシャツの襟にかかった。
 するりと首の後ろの襟の部分を整える振りをした指先は項の辺りの襟をぐっ、と引いた。すると悠君の項が下の方まで露になった。
 俺はその白く美しい項に幾つも散る紅い痕に、はっと息を飲んだ。
 朱を散らした者の執着の深さが伺えるほど、病的までに付けられた痕。
 リョウ、と悠君に呼ばれたその男は、項に多数散る紅い痕の一つに、俺に冷たく射るような視線を向けたまま、 そっと触れた。まるで見せ付けるかのように。
 指先が紅い痕に触れた瞬間びくり、と躯を震わせた悠君に
「ごめん。くすぐったかったね」
 なんて、まるで他意などないように、男は問う。
「や……びっくりしただけです……」
 耳まで紅くなった悠君の声を聞いて、今まで自分に向けられていたものは単なる営業用のそれに過ぎなかったのだと痛感させられた。
「ハヤト、悠は今日打ち合わせあるからお前がカウンター内の担当入ってくれ」
 男は有無を言わせぬ口調で、フロアで接客していた他の従業員に声を掛けた。
「上島さん。今夜は失礼しますが、ゆっくり楽しんでいって下さいね」
 みとれるほど美しく微笑んだ青年は、次の瞬間蒼い瞳の男に拐われるように、スタッフルームの扉の奥に消えていった。


「やけ酒、します?」
 代わりにカウンターに入ったバーテンダーが、深い海の底に文字どおり沈んだ俺に声を掛けた。
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