恋人はいつもご機嫌ナナメ

篠原怜

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1巻

1-1

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   1


 春の女神の祝福を受けた、海辺の田舎町。
 満開の桜と風に揺れる緑の木々。田植えを目前にしたのどかな水田と広い畑。海沿いに広がるテニスコートからは、潮風に乗って若者たちの声と、テニスボールの弾む音が聞こえてくる。
 東京駅から特急で約一時間。房総半島の九十九くじゅうく平野に位置する白岬町しろさきまちの丘の上には、白亜はくあのオーベルジュがたたずんでいた。


「遅い!」

 朝日の差し込むフロアの隅々まで、その声は響き渡った。ピカピカにみがき上げられた大理石の床に反響し、今朝敷地内の温室でみ取られ、ロビーに飾られた春の花々を小さく震わせた。
 普段はつややかでクールな彼の声を、耳に心地よいという女性は多い。滅多に笑わない男だが、そこがたまらなく素敵なのだと、頬をゆるませる女性ファンもいるくらいだ。
 けれど、今の一喝いっかつには明らかな苛立ちがこめられていて、居合わせた者たちを震え上がらせた。

「二分の遅刻だ、吉岡よしおか

 椎谷雅臣しいやまさおみは冷ややかに言い放ち、たった今駆け込んで来た部下の女性をにらんだ。早朝の『オーベルジュ・白岬』のロビーでは、レセプションや物販コーナーのスタッフが集まり、開店前の朝礼が始まろうとしていた。
 オーベルジュというのは、主に郊外や地方にある、宿泊施設を備えたレストランを指す。その土地の食材を使ったこだわりの料理を泊まりがけで味わうという、フランス発祥の食のスタイルだ。白岬町にあるこのオーベルジュは、四万坪の敷地の中に二つのフレンチレストランと、全室露天風呂付きの豪華な八つの客室を備えている。

「遅れて申し訳ありません……。く、車が……車が途中でエンストして……」

 息を切らせて吉岡奈津子なつこは弁明しようとしたが、雅臣の視線を感じてすぐに声を詰まらせた。

「車がどうかしたのか」

 冷たい視線、冷たい口調。言い訳なんか聞きたくねえぞと、顔に書いてある。

「いえ……、こっちのことです。遅れて申し訳ありませんでした!」

 一気に言って、奈津子はがばっと頭を下げた。続けて朝礼の開始を待つ同僚たちにも、ぺこぺこと順番に頭を下げて回る。
 朝からついてないなあ……
 急いで朝礼の輪に加わった彼女は、結いあげた髪の乱れを整えながら、出勤途中に起きたアクシデントを思い返した。
 このオーベルジュでレセプション業務を受け持つ奈津子は、いつもの早番の日と同じ時刻に家を出た。彼女が母親と二人で暮らす家は、ここから車で十分ほどの距離にある。けれど今日に限って、愛車が信号待ちの最中にエンストして動かなくなった。走行距離三万キロを超えた中古車だからか、半年前に買って以来、時々調子が悪くなるのだ。
 ただ運よく友人の家のそばだったので、奈津子のピンチに気付いた友人が車を預かり自転車を貸してくれた。遅刻でもしようものなら、どれだけ上司である雅臣に文句を言われるか。半年前に親会社から出向して来た三十二歳のこの男は、無駄と怠惰たいだが大嫌い。仕事に向かう姿勢はストイックで、部下にも色々と厳しい要求を突き付けるのだ。
 咄嗟とっさに雅臣の怒った顔を思い浮かべた奈津子は、借りた自転車で猛ダッシュしてきた。けれど、朝礼の開始時刻に間に合わず、同僚たちが見ている前で、大魔神みたいなこわーい視線でにらみ続ける上司にキツイ言葉を浴びせられた……というわけだ。
 たった一度遅刻したくらいで、なにもあんなに怒らなくたってと、つい、口にしてしまいたくなる。
 父親が亡くなったことを機に、奈津子が生まれ育った白岬に戻ったのは去年の秋。それまでは東京で外資系のホテルに勤務していたが、ホテルの仕事を辞めてこのオーベルジュに再就職した。それが雅臣の赴任する一週間ほど前のこと。
 あれから約半年が過ぎたが、その間、遅刻したのはこれが初めてだ。ホテル時代もオーベルジュに来てからも、万事において時間厳守を徹底してきた。単に今朝は運が悪かっただけ。
 しかしこのイヤミ上司に、言い訳など通用するはずもない。どう説明しても、雅臣には「日頃から車のメンテくらい、きちんとやれ」と一蹴いっしゅうされるだろう。
 だから男性スタッフの制服であるダークスーツにしゃれたネクタイ――これは彼の自前らしい――を結んで、脳みそを貫通しそうなほどの冷ややかな視線を向けて来る彼に、奈津子はひたすら低姿勢を取った。普段なら言い返すこともあるが、残念ながら今日は彼女のミスだ。

「では朝礼を始めます。古川ふるかわさん、今日の予定をお願いします」

 雅臣にうながされ、古川と呼ばれた五十代の女性スタッフが、レストランや客室の予約状況と、団体客の予定などを読み上げ始めた。
 古川は雅臣の母親くらいの年齢だ。だから、部下ではあっても名字に「さん付け」で呼ばれている。他のスタッフも同様に「さん付け」で呼ばれている。けれど奈津子だけは年下だからか、常に吉岡と呼び捨てだ。
 なによ、威張っちゃって。
 自分だけ「さん付け」されないことが、急に悔しくなった。レセプションのスタッフは奈津子を除いて、全員が雅臣より年上だ。愛想のないカタブツ男であっても、自分より年長者には気を使うらしい。
 その代わり、唯一ゆいいつの「年下の部下」である二十八歳の奈津子に対してだけ、ストレス発散とばかりに横柄おうへいな態度を取る。毎日毎日、「吉岡、ロビーにゴミが落ちている」とか「吉岡、トイレットペーパーを補充してこい」とか、細々とした雑用を言い渡すのだ。
 自分でやってよ……! とムカつくこともしばしば。いや、しょっちゅうと言っていいだろう。
 雅臣に愛想がないことは、オーベルジュのスタッフには周知のことだが、奈津子への態度は少々厳し過ぎる気がした。
 ことにこの数週間の彼はいっそう不機嫌というか、ご機嫌ナナメに感じられた。

「文句があるのか、吉岡」
「い、いいえ……!」

 まるで頭の中を読まれたかのように、雅臣に突っ込まれる。何が気に入らなくて、こうも不機嫌なのかは知らないが、せめてもっとソフトに叱ってくれたら、素直になれるかもしれないのに。
 そう、この男。口調は厳しいが、見かけは名前のとおりどこか優雅で、品のある顔立ちをしている。背がすらりと高く、男性スタッフが着ているありきたりなスーツも、彼が着るとゴージャスなタキシードのように見えてしまうから不思議だ。
 その外見のせいで、同僚の女性にも、オーベルジュを訪れる女性客にも絶大な人気だった。
 性格には難があるが、なまじイイ男なだけに、見つめられると妙な気分にならなくもない。
 待ってよ、そんなことない。絶対にありえないって!
 てきぱきと朝礼を進める雅臣の横顔を見つめながら、奈津子は必死で気の迷いを打ち消し続ける。
 奈津子より四歳年上の彼は、いまだ独身。単に独身主義なのか、それとも縁がないのか、または彼の理想が高すぎて結婚相手が見つからないのかは知らない。けれど上司と部下として同じ業務にたずさわってきたこの半年間は、いびられしごかれる日々の連続だった。
 仕事で成果をあげて、いつか昇進したい。そして彼と肩を並べ、やがては彼より偉くなる。それが奈津子の目下もっかの目標だったりする。
 そのためなら、多少の意地悪だって耐えてやるわよ。
 雅臣の端整な横顔をちらちらと盗み見しながら、奈津子は心の中で固く誓った。


 朝礼が終わり、各自が持ち場についた午前七時。オーベルジュ白岬の本館がオープンする。
 それに伴い、二階にあるメインダイニング『ラ・メール』では、朝食のサービスが始まる。ラ・メールは地元の食材を使った創作フレンチのレストランで、朝と夜の営業だ。夜は本格フレンチのディナーを堪能できるが、朝は和食を提供している。
 例えば敷地内のキッチンガーデンで採れた有機野菜のサラダやえ物に、自家製味噌を使った具だくさんの味噌汁。しぼりたての野菜や果物のジュースなどもある。白岬は海辺の町だから、近隣の漁港に水揚げされたばかりの魚介を使ったメニューも豊富だ。
 そして一番の人気が、地元産の米とこだわり卵を使った、熱々の卵かけご飯だ。これがオーベルジュの朝の名物料理。宿泊客以外もレストランを利用できるので、毎朝本館が開く前から卵かけご飯を目当てに人が集まり始める。

「いらっしゃいませ、おはようございます」

 玄関を入ってすぐの場所で、お客様をお迎えする。奈津子が丁寧にお辞儀しながら朝の挨拶あいさつをしていると、すぐに雅臣が隣に立った。にこりともせず、奈津子と同じように客を迎えている。
 少しは笑えないのかしら。お客様が怖がるじゃない。
 つい、心の中で突っ込んでしまう。すると心持ち雅臣の口角が上がったように見えた。
 あら、やればできるじゃない。
 今度は、心の中で思いっきり拍手する。すると、雅臣が動いたはずみで互いの腕が触れ合った。思わず身をすくめてしまう。ちらりとにらんでやったが、気付かないのか、彼は涼しい顔で奈津子に寄り添いながら、出迎えの挨拶を続けている。
 普段から立ち位置を決めているわけではないが、何故だか雅臣が隣に来ることが多い。そういえば休憩時間が重なることもよくあった。
 まるで、できそこないの部下をそばで監視してるみたいだ。そう考えたらうんざりしそうになったが、顔見知りの年配の夫婦が近づいてきたので、笑顔で迎える。

「おはよう、なっちゃん」
「おはようございます、田中様。ごゆっくりどうぞ」 

 宿泊客を除けば、朝ごはんを食べに来るのはほとんどが地元の人間だ。この地で高校卒業まで過ごした奈津子に、同級生やその家族、あるいはご近所さんなどは気さくに声をかけてくれていた。
 一方、雅臣の前には次々と女性客が歩み寄り、朝の挨拶をしていった。
 悔しいことに雅臣を目当てに訪れる女性客が、日々増加している。そのきっかけとなったのが、去年の秋のテレビ出演だ。
 彼が赴任して十日も経たない頃、朝の人気情報番組でこのオーベルジュが紹介された。初めは副支配人が生放送の番組内でインタビューに応じる予定だったが、急病で休んだため、雅臣が代役を務めたのだ。
 相変わらず愛想のない顔だったが、雅臣はテレビカメラの前で堂々と、オーベルジュの秋のメニューやイベントを紹介した。結果、放送が終わらぬうちから、問い合わせの電話が殺到する。
 以後、テレビや旅行雑誌の取材にも何度か応じ、いつしかこのオーベルジュは「イケメンに会えるレストラン」という評判が立った。訪れた女性客の多くは雅臣を取り囲み、握手をねだったり、一緒に記念撮影をしたがった。
 しかし当の雅臣は愛想笑いが苦手なのか、彼目当てに訪れる女性客に対して、いく分ひきつった顔で対応していた。今も地元の奥様方の熱烈な視線に、戸惑うような表情を浮かべている。それがおかしくて、奈津子は思わずにやりとしてしまう。すると、雅臣にじろりとにらまれた。

「今日は気温が上がりそうだから、館内の空調に気を配れ」

 出迎える客が途絶えたのを見計らって、雅臣は奈津子に言った。

「わかりました」

 奈津子は上着のポケットからメモを取り出し、『空調』と書きとめる。

「あと、昼の団体客はすぐ大騒ぎをするから、備品を壊されないように注意しろ」

 ロビーの奥には昼食時のみ営業するレストラン『ソレイユ』がある。ここはバスツアーで訪れる団体客が利用するので、昼時のオーベルジュは、高速道路のサービスエリアみたいににぎやかになるのだ。

「わかりました」
「ソフトクリームの行列が長すぎると、他のゲストの邪魔になる。定期的に整理するようにラウンジの責任者に伝えておけ」
「了解しました。ボス」

『団体客』『行列』『ボス』と、続けて三つ書きとめていると、ロビーに戻る雅臣の足が止まり、また冷たい視線を奈津子に向ける。

「なんか言ったか?」
「い、いいえー。他には何かございますか?」

 とってつけたような愛想笑いでごまかす。雅臣はしばらく無言で奈津子を見ていたが、視線に耐えられなくなった彼女が頬をひきつらせる寸前、ようやく口を開いた。

「いや。今日も忙しくなる。てきぱき動けよ」

 そう言うと、彼女の返事を待たずにその場を離れた。残された奈津子は舌打ちしそうになるのを我慢して、ガラスの玄関ドアの向こうに広がる春の庭園を眺めた。
 東京から遠く離れた白岬は、海と青空、さわやかな潮風とテニスコート、そしてのんびりと気さくな地元の人が多い。みんなの笑顔を見ていると、雅臣の嫌味など忘れてしまう。
 ここはアウェーではない。自分のホームだ。帰って来て良かったのだと、奈津子はしみじみ思うのだった。


 早番が終わった午後の三時過ぎ。奈津子は海岸通りにあるペンション『シーサイドイン・ミソノ』を訪れていた。ミソノは中学と高校の同級生だった、御園みその浩輔こうすけ一美かずみ夫婦が切り盛りしている小さなペンションだ。一階には小さな喫茶コーナーがあって、奈津子はたびたび愚痴を聞いてもらうためそこに立ち寄っていた。

「今朝は、間に合わなかったみたいね」

 カウンター席でだるそうに頬杖をつく奈津子に、一美が声をかけた。今朝、困り果てた奈津子に自転車を貸し、エンストした車を御園家が経営する修理工場に運ぶ手はずを整えてくれたのは彼女だった。

「『二分の遅刻だ、吉岡』……ですって。遅れたのは事実だから、きちんと謝ったわ。ええ、謝りましたとも」

 雅臣の口調を真似て言う。一美が遠慮のない笑い声をあげた。

「あはは! あの顔でそんなキツイこと言うんだ、椎谷さん。見てみたいなあ」

 同じ二十八歳だが、すでに三歳の女の子のママでもある一美は、仕事と子育てに忙しいはずなのに、そんな気配はみじんも感じさせない。明るいブラウンの髪にゆるふわパーマをかけて、笑うとピアスがきらりと揺れた。

「キツイし愛想ないし、ほんと嫌な奴よ。でも、もう慣れたから平気。それより今朝はごめんね、一美だって忙しいのに」
「気にしないで。お義母さんがひとみを保育所に送ってくれたから。車はもうじき浩輔が持って来るって。それまでケーキでも食べていなよ」

 そう言うと、一美は奈津子が大好きな抹茶ロールケーキとコーヒーをカウンターに置いてくれた。 ひとみというのは友人夫婦の一人娘で、親が共働きのため、日中は保育所に預けられている。
 御園家は不動産業を筆頭に、自動車修理工場や工務店にペンションと、幅広く事業を展開している。社長を務める浩輔の父は、いわゆる地元の名士というやつで、息子夫婦の同級生ということもあり、何かと奈津子を助けてくれていた。

「御園家の皆さんにはお世話になりっぱなしで、本当に感謝してます」

 お礼を言ってケーキを食べ始めながら、奈津子はため息まじりに語り出す。

「あのポンコツが調子悪くなるたび、お父さんは修理工場に持って来いって言ってくれるし、トイレのドアが外れたら大工さんを寄越してくれるし。一美はこうやってケーキをゴチしてくれるし。けど今回は修理代がどれくらいになるんだか……。給料日までまだあるし、頭が痛いなぁ」

 精密機器メーカーの研究所員だった父が死んだのが、一昨年の暮れ。母はショックで倒れ、二度ほど入院している。奈津子が東京での生活をやめて白岬に帰って来たのは、そんな母をひとりにしておけなかったからだ。
 母娘二人の生活は、初めのうちこそ奈津子の給料だけでやり繰りできていたが、最近になって、古い車や築三十年を超えた自宅のメンテナンス費用がたびたび発生し、頭を悩ますこととなった。
 心優しい浩輔の父は、修理代金をうんと安くしてくれたり、時にはタダにしてくれる。涙が出るほど嬉しいが、いつまでも甘えてばかりはいられないと思うようになった。

「そんなことで悩んでたの? たいした修理じゃなかったみたいだし、お金なんて要らないわよ」
「だめよ。いくら同級生でも、お金のことはきっちりしておかないと」

 一美の気持ちはありがたいが、けじめが必要だ。

「そう……。じゃあ、お義父とうさんに相談するといいよ。けど、相変わらずあんたは大変だねえ」
「大変だと思うと、どんどん気が滅入めいるから、そう思わないことにしてるの。あたしは世帯主で母親を扶養してる。ちゃんと自立してるんだからね」
「えらい!」

 カウンターの向こうで、一美が大きく頷く。

「でも、早く稼ぎのいい旦那を見つけなよ。頼りになる人をね」
「ひとりっ子っていう時点で、婚活は不利かなって、最近思ったりするんだけどね」
「そんなことないって。奈津子は盆踊りのミスコンで優勝したこともあるくらい綺麗じゃない。もっと自分に自信持ったら?」
「あれは中学の時だし、そもそもたった五人しか参加してなかったミスコンなんか……」

 いまだに一美が口にするのは、中学三年生の夏に参加した、町内の盆踊りでのミス浴衣コンテストのことだ。優勝者に贈られる景品欲しさに参加してみたのだが、参加者は奈津子を含めてわずか五人。あっさりと、グランプリを獲得し、まんまと景品を手にしてしまった。

「参加者が少なくたって、奈津子が『ミス浴衣』に選ばれたことに変わりないよ。だから自信を持って、笑顔、笑顔。眉間にシワを寄せてちゃ、男が寄って来ないよ」
「そ、そうかな……」

 無邪気だった中学時代を思い出し、つい、にへらーと笑ってしまう。その拍子に何故だか雅臣の仏頂面が思い浮かんだ。

「椎谷さんさえ、もう少し優しくなってくれたら、もっと笑顔になれるんだけど」

 奈津子がいまいましそうにその名を口にすると、一美がぷっと噴き出した。

「また椎谷さんか。そんなに気になる? あの人のことが。確かにイイ男だもんね」
「勘違いしないで。そんな意味じゃないから。誰があんなヤツ……」

 怒りに任せて、ロールケーキにぶすりとフォークを刺した。

「あいつ、子会社に出向させられたうっぷんを、あたしをいじめることで晴らしてるのよ」
「そんな子どもっぽいことしそうに見えないけどなあ。椎谷さんって」
「だめよ、あの無駄に整った顔にだまされちゃ」

 一美が雅臣の肩を持つので、奈津子は悔しくて、つい意地になる。

「いったいどんなヘマをして、こんな田舎に飛ばされたんだか知らないけど、当たり散らされるこっちの身にもなって欲しいわ」
「奈津子がいつも怖い顔で椎谷さんを見てるから、あっちにも伝わるんじゃない?」
「そりゃあ、怖い顔にもなるわよ。だって、あいつが来たせいで、あたしは課長になりそびれたんだから」

 あれは去年の夏、このオーベルジュの運営会社である、飯倉リゾートサービスの求人に応募した時のこと。当時の奈津子はホテルの料飲部門で営業職についていたが、その勤務経験を買われ、採用担当者から、

『是非とも当社のオーベルジュに、課長としてお迎えしたいです』

 と言われたのだ。まだ三十歳にもならない自分には、破格の待遇。けれど喜んだのもつかの間、採用の直前になって、課長の件は白紙になってしまった。

『申し訳ありません、吉岡さん。急きょ親会社からオーベルジュに出向する者が決まりまして……』

 その人物が奈津子の代わりに課長になるのだと、当時の採用担当者が申し訳なさそうに告げたのを今でも覚えている。
 親会社というのは、私鉄大手の飯倉電鉄いいくらでんてつだ。飯倉電鉄といえば、バスや鉄道の運行だけでなく不動産やレジャー産業、デパートやリゾートホテルの経営まで手掛ける大企業。そんな親会社からの出向者であれば、子会社としては受け入れざるを得ないのだろう。 
 結局奈津子は、ただの一般社員として採用された。月々の給与にそれほど差はなかったが、ボーナスは課長職の半分で、ホテル時代よりも若干年収が下がった。それでも実家から通えるし、正社員での採用なので、贅沢を言っている場合ではないという結論に達したのだ。

「今さら言ってもしょうがないって。あんたはあんたらしく頑張るんでしょ?」

 親友に穏やかにさとされ、奈津子は自分が言い過ぎたことに気付いた。
 親会社から飛ばされてくるのだから、どうせ使えないリストラ要員だろうと思ったのだが、やって来たのはまだ若く独身のイイ男。しかも頭が切れて仕事もできる。
 こんな経緯があったから、余計雅臣に反発してしまうのだ。でも、早く気持ちを切り替えなくてはと、近頃思うようになっている。

「そうだよね。過ぎたことだし、あたしはあたしのやり方で頑張る。あれ、浩輔かな?」

 外で車のドアが閉まる音がした。修理を終えた車が戻ってきたのだろう。奈津子は残りのロールケーキをひと口で頬張った。


 幸い車の修理代金は、予想していたより安く上がったのでほっとした。 
 エンジンの調子がよくなった愛車を運転し、ミソノから五分ほどの自宅に帰ってくる。
 薄い青の屋根に、門の脇には大きなコニファー。ふくらみ始めたつぼみがたくさんついた、つるバラのアーチと緑の芝生。
 母の桃子ももこはガーデニングにっているので、どれも手入れは行き届いている。
 車庫に車を停めて降り立つと、奈津子は夕方の風に吹かれながら我が家を見上げた。
 この家は、結婚と同時に白岬に移り住んだ両親が、新居として買ったものだ。母にとっては想い出の家だが、外観はすっかりくたびれ果てていた。屋根は十年以上も塗り替えをしていないので色あせているし、雨樋あまどいも何箇所か破損している。内部も建てつけの悪い箇所が増えているので、浩輔の父からはそろそろ建て替えてはどうか? と勧められている。
 リフォームという手もあるが、どっちにしても大金が必要なのだ。
 雅臣のせいで課長になりそびれたが、飯倉リゾートサービスの採用担当者は奈津子に、

『あなたが日々の業務にはげめば、何年か後には必ず昇進できますよ。吉岡さん』

 と言ってくれた。だから残業も早出もいとわない。頑張って昇進して、給料を上げてやる。

「ただいま」
「お帰りなさい!」

 奈津子が靴を脱ぐより早く、エプロンをひるがえして、桃子が玄関に飛んで来た。

「お腹がいたでしょ。今日はおやつにアップルパイを焼いたの。夕飯の前に食べる?」
「ありがと、お母さん。夕飯のあとにするわ。とりあえず着替えて来るから」

 まるで小学生の娘の帰宅を待ちわびていたかのようだ。毎日こんな感じで、朝は気持ちよく奈津子を送り出し、帰りは疲れも吹っ飛ぶような笑顔で迎えてくれる。とっくに五十を過ぎたのに、まだまだ乙女みたいな雰囲気をただよわせる桃子は、ちょっと変わっているけれど、奈津子が頑張れるみなもとなのだ。
 ふと、桃子のエプロンが目にとまる。フリルの多い、大胆な赤い花柄のエプロン。胸元には、フランスの高級ブランドのロゴが刺繍ししゅうされている。正規品なら一万円以上しそうな代物しろものなのだが、こんなエプロンを持っていただろうか。

「素敵でしょ? 一昨日、ネット通販で注文したのがもう届いたの。ポイント十倍デーだったのよ」

 似合う? とばかりに、桃子はその場でくるりと回ってみせた。

「ポイント十倍って……お母さん! またカードで買い物したの?」
「うん。だってすごく綺麗なんだもの。いけなかった?」
「いけないに決まってるわ。無駄遣いはしないって、約束したじゃない。エプロンなんて何枚も持ってるんだから。どうしてわざわざ、そんな高そうなものを……」

 ガミガミ叱りそうになったが、桃子が唇を噛みしめたのに気付いて、奈津子は慌てて口をつぐむ。

「いや、あの……買っちゃったんなら仕方ないわ。でも次からは、注文する前に相談してくれるかな」

 慌てて言い直したが、桃子は娘の剣幕に驚いたのか、しゅんとなったままだ。

「うん。わかったわ」

 今にも泣きそうな顔で桃子は頷く。

「必要なものは買っていいのよ。でも、中にはそうでないものもあるでしょ?」
「そうよね。お母さん、バカだから。……ごめんね、奈津子」
「バカだなんて言ってないわ。ただ、その、次からは気をつけて欲しいな……って」

 そのエプロン、よく似合ってるわよとフォローしてはみたが、桃子はこくりと頷いただけで、すごすごとキッチンに戻った。どっと疲れを感じながら、奈津子は二階の自室に向かう。
 またか。
 ベッドの上にバッグを放り、崩れるように座り込む。桃子には毎月決まった額の生活費を現金で渡しているが、何かあった時のために奈津子のクレジットカードの家族カードを発行し、桃子に預けてある。それを使って、たまにどうしようもない買い物をしてしまう。これが桃子の困ったところ――ようするに経済観念がないのだ。
 生前の父の話では、桃子は資産家の生まれで、典型的なお嬢様育ちだったらしい。一方、父は早くに両親を亡くし、奨学金で大学に通った苦学生だった。桃子の両親はそんな二人の結婚に大反対したが、それを押し切って夫婦になった。父はありのままの彼女を愛していたから、お金にはうるさく言わなかったようだ。
 父の死後、わずかに残された父の預金から葬儀の支払いを済ませると、残高はゼロになった。奈津子は数ヶ月考えた末、自分が白岬に戻り、母の面倒をみようと決心したのだ。しかも家の建て替え資金も貯めなくてはならないから、無駄遣いは厳禁。しかし……

『お母さんに、ストレスは厳禁です』

 父の死後、極度の心労で桃子が倒れると、医師は奈津子にそう告げた。となると、うちはお金に困ってるだなんて口が裂けても言えない。今度こそショックで、どうなってしまうかわからないのだ。
 大丈夫。なんとかなるって。
 桃子には余計な心配をかけられないが、前向きに考えなくてはと思う。
 仕事、昇進、昇給、家の新築――
 自分には目標がある。椎谷課長の嫌味のひとつやふたつ、どうってことない。
 そう気合を入れ直し、立ち上がった奈津子は、着替えるために上着を脱いだ。髪をまとめたピンを引き抜き、長い髪を肩に下ろす。ふと、ドレッサーの鏡に映る自分と目が合った。
 色白の顔に大きな目、まずまず形の良い唇が印象的だが、残念ながら、かつて地元の盆踊りでミス浴衣に選ばれた面影は見当たらない。化粧は必要最低限。着替えるのが面倒で、毎日家から職場の制服である紺のスーツを着たまま出勤するような、ずぼらな女になった。男が近寄りたがらないオーラをびしばし飛ばしてるわねと、一美にからかわれたりする始末。
 今は仕事と生活に追われているから、それも仕方ないとは思う。だけど恋はしたいし、彼氏も欲しい。もちろん結婚願望だって捨ててない。
 そのためには自分も変わらなきゃねと、奈津子は鏡の中の自分に向かって呟いた。

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