恋人はいつもご機嫌ナナメ

篠原怜

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1巻

1-2

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   2


 翌日も朝から晴れて、オーベルジュの敷地内では見事な桜並木にカメラを向ける人々を、何人も見かけた。ソメイヨシノは散り始めたが、代わりに今は八重やえざくらが開花を迎えている。
 くそ、あの女め――
 椎谷雅臣は、ロビーですれ違いざま、自分にガンを飛ばしていった奈津子に腹を立てていた。上辺うわべは礼義正しく従順だが、時折、親のかたきでもあるかのように敵意むき出しの視線を向けて来る。
 彼自身、奈津子にやや厳しいと思う態度で接してしまうことがあるので、それを根に持っているのかもしれない。しかし、それにしたって度を超えている気がする。
 去年の夏、雅臣はみずから願い出て、このオーベルジュに出向した。
 あの頃は、しばらく家族から離れることしか頭になかった。だから鎌倉の実家からは遠く、若い女性のいない職場に行きたい――こんな希望を人事に出した。
 ほどなくして、房総半島の白岬町にある子会社への出向を命ぜられた。広大な敷地の中に、全室露天風呂付きのラグジュアリーな客室と二つのレストラン、手入れの行き届いた庭園が自慢のオーベルジュだ。
 新しい勤務地にまずまず満足したのもつかの間。アルバイトを除けばたいてい雅臣より年上のスタッフばかりの中に、ひとりだけ二十代の、しかも美人の部下がいた。
 吉岡奈津子。中途採用で、雅臣より一週間ほど早く着任した女性だ。以前は都内の外資系ホテルに勤務していたらしい。何故こんな田舎に転職したかといえば、実家が白岬なのだと、おしゃべりな女性スタッフに教えられた。父親を亡くし、体の弱い母親を抱えて働く、なかなか健気けなげな女性だということも。
 そういった事情には感心すべき点もあったが、雅臣は奈津子が苦手だった。正確には、どう接したらいいかわからないのだ。
 初めて会った日に、挑戦的な目でにらまれて驚いた。雅臣が上司になったことが気に入らないみたいだ。同時に、奈津子の女性的な魅力に心が引きつけられた。
 彼女のふっくらとした唇にキスしたら、どんな味がするのだろう。髪をアップにしているせいで、嫌でも目にとまる細いうなじに口づけたら、彼女はどんな反応を示すのか。許されるなら後ろからそっと近づき、ほっそりとしたウエストと、女性らしい曲線を描く腰を抱き寄せたい――
 気が付けばそんな願望――いや、妄想に心が支配されていた。
 こんな色っぽい女性のいる職場へ出向する辞令を出した人事に、文句を言いたくなった。今や奈津子の後ろ姿を見るだけで胸がざわつく始末だ。
 彼女は部下だぞ。部下に欲情してどうする。
 この半年の間、雅臣は様々な葛藤かっとうや衝動と戦って来た。奈津子を無視することも考えたが、仕事上それは不可能だったので、わざと厳しく接した。嫌味な男だと印象づければ、向こうも不用意に近づいて来ないだろう。
 狙い通りにいったものの、やがて雅臣はこの状況が苦しくなってきた。口では厳しい事を言いながら、目は絶えず彼女を追い求めていた。当分の間、女は遠ざけておく。そのつもりで白岬に来たというのに。
 これから奈津子に対して、どう振る舞えばいいのか。雅臣はひそかに頭を抱えていた。


 敷地内の建物はレストランのある本館と、そこから回廊で繋がる宿泊棟に分かれている。宿泊棟では、のんびりと露天風呂につかったり、心行くまで朝寝坊することもできる。希望すれば、朝夕の食事を部屋でとることも可能だ。
 一方本館には、レストランの他にカフェやギフトショップも併設している。ここでは自家製のパンやクッキー、敷地内の農園で採れた有機野菜などを販売している。この野菜は団体客にお土産として配っているのだが、口コミで美味しいと広まり、野菜を買うためだけにここを訪れる人が増えた。

「よかったらお写真を一緒に撮っていただけませんか?」

 レセプションカウンターの奥にいた雅臣に、団体客らしき中年の女性グループが声をかけて来た。先頭の女性が小型のデジカメをかざしてみせる。

「かしこまりました。少々お待ちいただけますか?」

 去年の秋にテレビに出て以来、こんな依頼が毎日のように来ている。
 テレビ出演の件は、もともと副支配人の牧野まきのの仕事だった。牧野は五十代半ばの気の弱そうな男で、持病である糖尿病のせいで欠勤が多い。あの日も体調不良で突発的に休んだため、仕方なく支配人は雅臣に代役を命じてきた。
 ぶっつけ本番での出演だったが、無事にこなし、評判が良かったせいでそのあともいくつか取材を受けた。それがきっかけで、同じ飯倉系列である飯倉観光主催のバスツアーや、他の旅行代理店との企画商品にも積極的に関わった。
 女性客との写真撮影も、仕事だと割り切り可能な限り応じることにしている。

「吉岡、シャッターを頼む」

 そばには他のスタッフがいたが、雅臣は迷わず奈津子にカメラマン役を言い渡した。色々と思うところはあるが、彼女は唯一ゆいいつの年下の部下だし、言いつけた仕事はたいていきちんとやり遂げるので、つい重宝してしまう。
 カウンターの奥で館内電話を使用していた奈津子は、ちょうど電話を置いたところだった。はいと返事して、にこやかな顔でこちらに歩いて来る。雑用を押し付けられ、内心はムカついているのだろうが、顔に出さないところはさすがだ。雅臣は自分でも気付かぬうちに微笑んでいた。
 そうそう、これも仕事だ。割り切れよ、スイートハート。



 まるで、王様とメイドね。
 奈津子は見え透いた笑みを浮かべて、雅臣が差し出したカメラを受け取った。撮影場所はいつも決まっている。ロビーの中ほどにある、大きな花のディスプレイの前だ。以前は花だけを飾っていたが、雅臣と写真を撮りたがる客が増えたので、花の足もとに「飯倉リゾートサービス オーベルジュ・白岬」と書いたプレートと、日付を記したオブジェを置いてみた。すると、ここでの記念撮影がぐっと増えた。
 雅臣は女性グループを並ばせて、自分は一番端に立った。奈津子はカメラを構えたが、仏頂面の雅臣を見て、ちょっとだけ意地悪してみたくなった。

「それではお撮りいたします。皆さま、笑顔でお願いたしますね。椎谷課長、笑ってくださーい」

 奈津子の言葉に雅臣ではなく、女性客たちのほうがどっと笑った。困ったような顔の雅臣がおかしくて、内心、ざまーみろと思ってしまう。すぐに雅臣は気を取り直し、奈津子のほうを見ながら女性客たちに言った。

「失礼いたしました。彼女は写真を撮ることにこだわりがありまして、つい、ポーズへの注文が多くなるようです」

 次は大丈夫ですと頷いてから、雅臣は奈津子にしか見えない角度でにらんでくる。
 おぼえてろよと、怒りのあまり目からレーザービームを発射しそうな彼の様子に、奈津子はたじろいだ。

「で、では、皆さま。今度こそ気を取り直して、ハイ、チーズ!」

 もっといじめてやりたかったが、後でどんな仕返しをされるかわからないのでシャッターを押した。撮影が済んでも女性客たちはなかなか雅臣から離れなかったが、他にも記念撮影を希望するグループが現れたので、しぶしぶ離れていった。
 たいした人気だと、奈津子は改めて雅臣の集客効果を思い知る。そのあと二度ほどカメラマンを引き受け、さすがにもう終わりにしたいと思った時だった。

「こんにちは。椎谷様」

 あざやかなレモンイエローのワンピースに、ブランド物のバッグを提げた大柄な女性が、しずしずと進み出て来た。彼女の後ろには、黒いサングラスの男性が控えている。

「ワタクシも、お写真をお願いいたしますわ。――わたり

 気取った声でお供を呼びつけた彼女の名は、片岡かたおかモエ。奈津子より二歳下で、町外れの豪邸に住み、家事手伝いをしながら婚活にはげむ日々を送っている女性だ。父親はこの一帯の大地主で、実業家としても成功している。
 このところ彼女は、よくオーベルジュにやって来る。そして今みたいに雅臣にすり寄って、一緒に写真を撮ってくれないかとねだるのだ。その他大勢の女性客同様、モエも雅臣のファンらしい。

「よろしければ私がお撮りいたしますが。いいですよね、課長」
「あ、ああ……」

 奈津子がカメラマン役を申し出ると一瞬、雅臣がひるんだように見えた。モエは、身長百六十七センチの奈津子よりさらに背の高い、百七十五センチ。エレガントなよそおいとは対照的に、がっちりした肩にたくましい手足が自慢だ。雅臣はこういうガタイのいい女が苦手なのだろうか。
 モエはそんなことはお構いなしに、満面の笑みを浮かべて雅臣の隣に寄り添った。あんな春らしいワンピースが欲しい――。そんな思いが奈津子の頭をチラついたが、モエは奈津子を無視して、きらきらにデコしたスマートフォンを渡に手渡した。
 渡はモエの運転手兼ボディガードで、スポーツ刈りにモミあげ、黒いサングラスに黒いスーツと赤いネクタイという威圧感ばっちりの風貌だ。彼は意外にもうやうやしい動作でスマートフォンを受け取ると、「参ります、お嬢様」の声とともに、素早くシャッターを押した。
 撮影が済むと、モエは雅臣に何度も礼を言い、奈津子のほうはちらりとも見ずに立ち去った。

「吉岡」
「なんですか?」

 奈津子がモエを見送っていると、小声で雅臣に呼ばれた。

「なるべく彼女と一緒に写真を撮りたくない」
「はあ?」

 意味がわからず、つい大きな声で問い返す。すると雅臣はいきなり奈津子の腕を掴んで、彼の方に引き寄せてきた。

「個人的に苦手な感がある。君のほうから、わざわざ向こうに声をかけたりするな」

 奈津子だけに聞こえる囁き。すぐそばに雅臣の顔があって、鳥肌が立ちそうになる。あまりの近さに、奈津子は彼の目を見ることができなかった。

「課長はり好みなさるんですか? モエちゃんだって、オーベルジュのお客様なのに」
「一度や二度ならいい。でも最近は一日おきに来る。彼女のスマートフォンの中に、俺の写真が日々増えるのを想像してみろ」
「なにも、勝手に披露宴の写真に合成したりはしないと思いますよ?」
「くだらない冗談はいい。問題は彼女の父親が――」
「父親……片岡社長がどうかしたんですか?」

 モエの父親である片岡義正よしまさは、片岡建設という会社を経営している実業家だ。それだけでなく、隣町に『落花らっか』という多彩な露天風呂が自慢の和風旅館も経営している。これがなかなかの人気で、週末はたくさんの家族連れでにぎわっていた。白岬では御園浩輔の父と並ぶ、地元の名士の一人に数えられている。

「もしかして、片岡社長がモエちゃんを使ってうちを偵察してると思ってるんですか? 考え過ぎですよ。落花の湯とうちとじゃ、コンセプトもターゲットにしてる客層も違いま――」
「声が大きい」

 もう一度、雅臣は奈津子の腕をぐいっと掴んだ。奈津子はびくりと肩を震わせ、こわごわと彼を見上げる。決して痛かったわけではなく、よそ見した彼女の注意を自分に引き戻す仕草が、親密なものに感じられて驚いたのだ。

「すまない」

 雅臣はすぐに奈津子の腕を離したが、背中を押すようにしてロビーの隅に連れて行き、客の視線が奈津子に向かうのをさえぎるように立ちはだかる。

「とにかく片岡モエに過剰なサービスは禁物だ。これは命令だ」

 いつものクールな顔が目の前に迫り、すっと離れて行った。
 もしかしたら、片岡社長と何かトラブっているのだろうか。そんな憶測がちらっと頭に浮かんだが、自分の心臓がばくばくと高鳴っているので、奈津子は深呼吸してそれをしずめた。
 雅臣はただ、生意気な自分を注意しただけなのだ。反抗的な部下を籠絡ろうらくしたいわけじゃない。でも。
 彼が身につけている香りは嫌いじゃないし、耳元で囁かれて思わずうっとりしそうになった。彼の胸の位置とか肩の高さとか、くじけそうになった時にもたれかかるのにちょうどいいじゃない。
 違う、そうじゃない。しっかりして、あたし――
 奈津子は両手で頬を包んだ。頬が熱い。たぶん陽気のせいだ。今日は初夏並みの気温になると天気予報が言ってたし、そのせいで頭がどうかしたのだろう。

『これは命令だ』

 目を閉じると雅臣の声がよみがえる。あんな気取ったナルシストに自分がときめくはずがない。何度も何度も胸に言い聞かせ、仕事に戻った。


 思えばあんなふうに男性に触れられたのは久しぶりだ。ホテル時代に付き合っていた恋人と別れたのは去年の夏だが、最後のセックスはその少し前のはず。
 まさか、久しぶりに男を感じた相手が苦手な上司になるとは思いもよらなかった。
 今日は夕方に本社とのテレビ会議が入っているから、雅臣は残業になるはずだ。彼はたいてい、早番のスタッフよりうんと早く出勤し、時には夜遅くまで残っていることもある。副支配人が休みがちなので、その仕事がそっくりそのまま雅臣にシフトしているらしい。
 定時になったので、奈津子は雅臣に「お先に失礼します」と声をかけ、そそくさと退社した。今朝出がけに母の桃子が熱っぽいと言っていて、心配だったからだ。季節の変わり目で風邪をひいたのだろう。早く帰って、たまには夕飯の支度でもしよう。
 と思ったのだが――
 帰宅してみると、家の中はからっぽだった。玄関には鍵がかかり、キッチンのカウンターの上には桃子の手書きで「元気になったので買い物に行ってきます。はあと!」のメモ。何だか拍子抜けしてしまった。しかし、一時間経っても桃子は帰って来なかった。
 五時半を過ぎて、奈津子はさすがに心配になり表に出てみた。風が冷たくなった道路を、部活帰りの中学生が数人、自転車で走り去っていく。桃子の姿は見当たらない。スーパーは歩いて十分ほどの距離だ。こんなに時間がかかるはずがない。まさか、事故に?
 捜しに行かなくては。そう思った時だ。カーブの向こうから見覚えのある黒い車が現れ、奈津子の目の前で停まった。いつもオーベルジュの従業員駐車場で見かける、雅臣の黒いドイツ車だ。たいていピカピカにみがかれているし、地元のナンバーではないから間違えようがない。

「椎谷さん……? やだ、お母さんも!」

 運転席には雅臣がいて、あろうことかその隣には母の桃子が座っていた。

「その先のスーパーの前で具合が悪そうにしゃがみこんでた。声をかけたら、君のお母さんだとわかったので送って来たんだ」

 車から降りた雅臣が、説明しながらこっちに回り込んで来た。どうやら行き倒れになりかかった桃子を彼が助けて、車で送って来てくれたらしい。そんないきな計らいのできる人間だったとは。
 しかし、細身のブルージーンズの上にシルキーな薄紫うすむらさきのシャツを着た彼は、なんて素敵なのだろう。甘くはないがクールすぎるわけでもないその姿に、奈津子は思わず目を奪われた。

「そうだったんですか。母は今朝から熱があって、今日は寝てるはずだったんです。だから家にいなくて心配していて。すみません、ご迷惑をおかけして……」
「謝らなくていいよ。まさか君のお母さんとは思わなかったがな。早く寝かせてやれ、荷物は俺が運ぶから」
「はい、じゃあ……」

 珍しく優しい口調。雅臣が車のドアを開けてくれたので、奈津子は桃子に手を貸して車から降ろしてやる。言われてみれば体が少し熱い。

「ごめんね、奈津子。もう大丈夫と思って、買い物に行ったんだけど途中で――」
「とりあえず家に入ろう。それから聞くわ」

 奈津子はだるそうに歩く桃子を支え、玄関まで付き添って歩いた。後ろに桃子のバッグとスーパーの買い物袋を提げた雅臣が続く。ひとまず桃子をリビングのソファに寝かせてから玄関に引き返す。すると、雅臣は、荷物を玄関先に置いて帰ろうとしていた。

「母がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。でも助かりました。ありがとうございます」

 奈津子は両手を膝の前で重ね、丁寧にお辞儀する。もし雅臣が通りかかって車に乗せてくれなかったら、桃子は行き倒れて、またしても病院行きになったかもしれない。それを思えば、いくらお礼を言っても足りないくらいだ。

「もういいって」

 そう言うと雅臣は玄関の外に出た。奈津子もその後を追う。

「車の調子はどうだ?」

 のんびりと庭を眺めるように歩きながら、雅臣は車庫にある奈津子の白い車を見て言った。

「すぐに修理に出したんですが、今のところ問題ないです」
「前から思ってたけど、何年乗ってるんだ、これ? タイヤがすり減って山がないように見えるが」

 バカにしたような言葉にカチンときたが、一応桃子を助けてくれた恩人なので、ここは大人しく答えておく。

「この車は去年、二年落ちの中古だったものを買いました。新車がほしかったんですが、予算が足りないので仕方なく中古車にしました。タイヤはそのうち……いえ、次のボーナスで替える予定です」

 まだタイヤを交換すると決めたわけではないが、見栄だけは張っておく。雅臣は鼻で笑ったが、それ以上車について突っ込んだことは言わなかった。

「君はお母さん似なんだな」

 自分の車の前まで来ると、雅臣はそんなふうに切り出した。

「はい。子どもの頃から、よく言われます」
「お父さんはいつ亡くなられたんだ?」

 今度は、部下の素行を調べるための個人情報の取得だろうか。でもさっきと同様、素直に答えておく。

「一昨年の暮れです。釣りに行った帰りに、雨で車がスリップして」
「そうか。だから東京での仕事を辞めて、お母さんの面倒を見るために帰ってきたのか」
「え、まあ……」

 雅臣はそこで言葉を切り、車のキーを手にしたまま奈津子をじっと見つめた。

「お母さんは体が弱いと聞いたけど」
「父の死が相当ショックだったみたいで、二度ほど倒れました。不整脈が出てるって医者に言われたんです。疲労やストレスはもってのほかだそうで……」

 雅臣の視線がやわらいだ気がした。父を亡くした哀れな母娘と思ったのだろう。同情されるなんて耐えられない。けれど、雅臣の答えは予想とは違った。

「髪を下ろしてると、雰囲気が違うな」
「あ……」

 奈津子は肩より少し長い髪を下ろして、白いチュニックにオレンジのパンツというラフな服装だ。足にはミュールをつっかけている。
 お互い、仕事とは違う姿を見て、似たようなことを感じていたようだ。

「おしゃべりが過ぎたな。じゃあ、俺はこれで。お母さん、お大事に」

 最後はぶっきらぼうな口調に戻った雅臣は、車に乗り込むと軽く手を上げて走り去った。
 一応、めてくれたのかな。
 奈津子が家に入ると、桃子は自力で自分の部屋のベッドにもぐっていた。熱を測ると、三十八度五分もある。これでよく出歩けたものだ。呆れた目を向けると、桃子は花柄の布団をとっぷりとかぶったまま、雅臣との出会いについて話してくれた。

「スーパーから帰る途中、寒気がして動けなくなっちゃったの。ついしゃがみ込んじゃったら目の前で車が停まって、降りて来た人が声をかけてきたの……。びっくりしたわぁ」

 桃子は熱でうるんだ目を輝かせた。

「その人、病院に行きますかって言ってくれたから、大丈夫ですって答えたんだけど、遠慮しないでくださいって言ってくれて。吉岡ですって名乗ったら、もしかして奈津子さんの? って言われて」
「で、家まで送ってもらったというわけね」
「そうよ。あの人、オーベルジュで人気なんでしょ? わかるわあ……。素敵なだけじゃなく優しいんだものねえ」
「みんなそう言うのよ。あいつの本性を知らないから」
「本性?」
「そ。一見好青年。その実態は、自分の容姿に酔った超ナルシストで、超イヤミったらしくて、超横暴で傲慢ごうまんな暴君よ」
「言い過ぎよ、なっちゃん」

 ぷっと、母が笑った。釣られて奈津子も笑う。この様子ならひと晩休めば桃子は元気になるだろう。
 これも雅臣のおかげかもしれない。
 意外に親切な雅臣の一面を見せられて、奈津子の心は晴れやかになった。


 翌朝奈津子が起きた時にはもう、桃子の熱は下がっていた。朝食を用意しようとする母を押しとどめ、絶対に出歩くなと言い聞かせて出勤した。そしてオフィスでパソコンに向かう雅臣を見つけると、改めて礼を言う。

「昨日はありがとうございました」
「もういいって。それよりお母さんの具合は?」
「熱は下がりました。大人しく寝ているように言いましたから、問題ないと思います」
「そうか。良かったな」

 珍しいことに、雅臣が奈津子に向かって笑いかけてきた。ふわりと。またしても胸が、どきっとなる。
 こいつ、色仕掛けであたしを懐柔かいじゅうする気では……と勘繰りたくなるほどだ。けれど気のせいだろうか、今朝の彼は元気がない。しきりに目頭めがしらを揉んでいる。

「寝不足ですか? それとも何か心配ごとでも?」

 パソコンでの作業を終えてオフィスを出た雅臣を追い、奈津子は並んで館内の通路を歩く。

「別に。今夜の食事会を考えたら憂鬱ゆううつになったんだ」
「ああ、片岡社長の招待ですね」

 モエの父である片岡義正よしまさは、月に一度、地元の有力者を集めて食事会を開いている。建前上は白岬の経済を活性化させるために――だそうだが、実際は義正が自分の権威をひけらかしたいだけの自己満足な宴会だという噂だ。
 浩輔も父親と一緒に毎月呼ばれているし、オーベルジュからは支配人と副支配人が出席している。ただし先月は副支配人が休んだので、代わりに雅臣が出席した。
 実はオーベルジュは、片岡建設所有の土地の一部を借りて、販売用の有機野菜を栽培している。敷地内の農園だけでは足りなくなってしまったからだ。そんな義理があるから、無下むげに招待を断れないのだ。副支配人は体調に不安があることだし、今後雅臣が食事会に出る機会は、いっそう増えるだろうと奈津子は思っている。

「もしかして、モエちゃんに素っ気ないのはそれも原因なんですか? 課長は彼女のお父さんが苦手なんでしょう」

 答える代わりに雅臣が冷ややかな目を向けてきた。どうやら図星らしい。

「あのお父さん、悪い人じゃないけど強引なところがありますから。土地を貸りてる人は、それと引き換えに無理な要求を押し付けられたりするらしいですね。課長にもそんなことが?」
「ない。もしあったとしても、君には関係ないことだ」
「そんな言い方しなくたって……。課長のほうから言い出したくせに」

 つい、雅臣に食ってかかりそうになったところで支配人室のドアが開き、支配人の望月もちづきが顔を出した。普段はもっと遅い出勤なのに、こんな朝早くから来ているとは珍しい。

「椎谷、困ったことになった」

 ロマンスグレーの髪にダンディーなスーツを来た望月は、雅臣を見るなりそう言った。

「今夜の食事会は君と牧野に頼んであったが、牧野がまた休むそうだ。私は午後から支配人の集まりがあって、泊まりで那須なすだから出席できない。代わりに行ってくれる人間を見つけてくれないか?」
「代わり……ですか」

 雅臣は顔を曇らせた。

「土曜日はいつもより客が多いので、レストランのスタッフは無理でしょう。早番で上がるレセプションのスタッフに聞いてみますが、急ですから見つかるかどうか……」

 雅臣がそう言うと、望月はふと気付いたように、奈津子に目を向けた。

「吉岡君はダメかな? 昔から顔見知りの片岡社長のお嬢さんもおみえになるし、話し相手には不自由しないと思うが」
「私がですか?」
「彼女は無理です。お母さんが病気ですから、長く家を空けられないんですよ」

 意外にも、雅臣がかばってくれた。モエは中学の後輩で、昔から折り合いが悪く露骨に奈津子を無視してくるが、これも仕事と思えば我慢できる。ただ、お金持ちの彼女が高そうなドレスや宝石類で着飾って来たら、うらやましくて、よだれを垂らしてしまうかもしれない。
 奈津子がそんなことを考えていると、雅臣がため息をつく。

「最悪の場合、私一人でも平気でしょう」

 そう呟いた雅臣の横顔が暗く見えて、奈津子はうっかり言ってしまった。

「私で良ければ出席しますが」
「吉岡」
「うちの母なら大丈夫です。子どもじゃありませんから。それにただの食事会でしょう? 裸踊りしろとか、怪しい余興はないですよね」
「もちろんだよ、安心してくれ。いやあ助かるよ。吉岡君」
「しかし、支配人――」

 本来ならこんなイヤミ上司を助ける義理はないが、昨日桃子が世話になったし、さっきのような暗い顔をされては放っておけない。
 なおも不服そうな雅臣に奈津子は言った。

「昨日、母がご迷惑をおかけしたお詫びです。私が運転しますから、課長は帰りを気にせずにお酒を飲んでください」
「勝手に段取りを決めるな。俺一人で問題ないし、自分の車で行く」
「さっき憂鬱ゆううつだっておっしゃったくせに。片岡社長に絡まれたらしつこいですよ」
「それが余計なお世話だと、さっきも言っただろう。まったく――」
「まあまあ、君たち」

 笑いを噛み殺しながら望月が割って入る。

「彼女と一緒に行くといいよ、椎谷。きっと君の助けになるだろう」

 二人の顔を交互に眺めて、望月が意味深に笑った。



   3


 何が助けになるだ――
 雅臣はイライラしていた。その原因は主に、自分の隣で美味そうにアワビのステーキを食べている奈津子だ。彼女の向かいには同級生だという御園浩輔が座り、二人にしか通じない話題で盛り上がっている。まるで、隣にいる雅臣のことなど忘れ去っているかのように。
 片岡社長主催の食事会は、午後七時から隣町にある落花の湯の大広間で始まった。ざっと五十人ほどの招待客が、二列にならべた縦長のテーブルに着席している。上座には片岡社長夫妻と娘のモエが座り、乾杯のあとは片岡の長々とした挨拶あいさつが続く。多少真面目な話題も出たが、新鮮な海のさちと酒が運ばれると、ただの宴会になってしまった。
 最終的には雅臣の運転で行くことを奈津子に承知させ、六時過ぎに彼女を自宅に迎えに行った。奈津子は薄手のピンクの花模様のワンピースの上に、ベージュのコートを羽織って待っていた。
 髪をくるんとカールさせ、片方の耳元でまとめている。春の夕暮れ時の庭にたたずむ彼女の笑顔が、雅臣の心を優しく包み込んだ。まるで駆け出しの社会人同士のカップルが、土曜の夜に映画かディナーに出かけていくシーンみたいだ。

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